『アーメン』

今、 私は宣教部長として中部教区にとって非常に重要な役割を担わせていただいています。 その働きの一つとして、 ここ1年間程、 「中部教区宣教方針」 (仮) の作成に向けての協議を様々な場で繰り返しています。 その協議の場の一つで、 ある聖職の方が私に、 このようなアドバイスをくださいました。 「下原司祭の考えておられる宣教方針も良いものですが、 教会による癒しの業 の重要性について触れられている部分が少ないので、 是非、 その辺りを補強してください」 と。 私は、 その方の一言で、 これまでの自らの聖職としての働きで、 いつの間にか後回しにしてきてしまった大切な事柄に気付かされました。 それは病床訪問であり、 信徒訪問です。 私を含め、 多くの聖職の方々が様々な働きの中で、 いつの間にか後回しにしてしまいがちであり、 しかし、 信徒の方々が最も聖職に求める働きの一つ。 それが病床訪問であり、 信徒訪問ではないでしょうか。
聖体と聖血、 そして、 聖油を携え、 病室に向かいます。 病室に入る瞬間が一番、 緊張します。 「病状が深刻だったら、 大変だ」、 「回復の兆しがなかったら、 どうしよう」 などと考えると病室のドアノブを握るのを少し躊躇してしまう程です。 その緊張を何とか隠しながら、 病室に入ると実に様々な表情を持った方々と出逢います。 苦しみに耐え、 不安と向き合い、 必死にこの時を過ごしている方、 快方に向かい、 一安心し、 静かな時を過ごしている方、 そして、 何にも反応できない程の状況に陥っている方など。
私は、 そのような人々の前で 「平安がこの病室にありますように」 と祈り始めます。 すると、 病室に入った時には実に様々な表情を持っていた方々が、 必ずと言っていい程、 同じ表情を見せてくれます。 それは、 目を閉じ、 聖堂の中で唱えているかのような、 静かで、 真剣な、 心から 「アーメン」 と祈る姿です。 苦しみの中でも、 不安に呑み込まれそうでも、 昏迷状態とも思える中でも、 私の耳には、 心には、 その方の 「アーメン」 という祈りが鮮明に聴こえるのです。 私は、 この時、 「アーメン」 という最も短い祈りが持つ癒しの力、 信仰の力、 神への愛を、 直接、 肌で感じ、 身が震えます。 私は、 この時、 「アーメン」 (そのようになりますように) という祈りの本質に触れることができます。
そして、 帰り道で、 いつも実感します、 「僕は聖職として、 このような働きをしたかったのだ」 と。 その満ち足りた気持ちの中で、 同時に、 こうも思います、 「その働きを後回しにしてしまっている自分自身が情けない」 と。
聖職とは、 人々の 「アーメン」 という祈りをひとつ一つ集め、 神に届ける使命を持っていると思います。 聖職は、 人々が聖堂で唱える 「アーメン」 という祈りだけを集めるのではなく、 それぞれの家で、 病室で、 職場で、 施設で唱えられる 「アーメン」 という祈り、 ひとつ一つに立会い、 また、 その祈りが絶えないように導かなければならないのです。 人々が心の底から 「アーメン」 と祈る時、 聖職は、 共にいて、 その 「アーメン」 を見過ごしてはならないのです。

司祭 ヨセフ 下原 太介
(岐阜聖パウロ教会牧師)

『歩きましょう 毎日を 人生を』 

二人の弟子がエマオに向かって歩いています。 エルサレムから60スタディオンといいますから11キロぐらいのようです。 歩いて2時間半ぐらいでしょう。 今、 私は直江津と高田の2つの教会、 幼稚園を毎日往復していますが、 丁度10キロです。 残念ながら車でです。
私たちが交通手段として歩くということは、 極めて少なくなっています。 日本において車と交通網の発達が、 社会に及ぼした影響は、 大きなものがあります。 私自身もかつて子どもの頃は、 今よりは歩いていました。 昔、 豊橋にいた時に教会学校に通うのに途中から市電を利用していたのですが、 だんだん慣れてくると、 帰りは弟と二人で歩いて帰り、 電車賃でお菓子を買ったものです。 1時間は歩いたでしょう。
人は歩いている時は、 他のことは何もできません。 頭の中で、 あれやこれやと考えるだけです。 二人連れであれば、 ひたすら話し続けて、 話の種がなくなれば、 後は黙々と歩くだけです。 しかし、 この肉体的行為と考える営みが、 人間に及ぼす影響には大きなものがあると思います。 洋の東西を問わず巡礼が行われる理由は、 そこにあるのでしょう。
私たちは、 常にこれからの教会の歩みについて考えています。 教会が社会に対して何が出来るのか、 多くの人に対してどのようにしたら関われるのか? その考えは、 なかなか発展せず、 いつも同じ所に留まっているような感じがあります。 それは、 二人の弟子が、 イエスを失って途方にくれているということと、 これから先の見通しが見えないということでは、 共通している部分があるかもしれません。
なすべきことの明確な答えはなかなか見出せませんが一つヒントと思えることは、 「歩き続ける」 ことです。 歩き続けるということをどのようなことの比喩として考えるのかは、 はっきりとは分かりません。 ただ、 私たちが信仰のゴールに向かって歩き続けることははっきりしています。 そして、 そこにいつの間にかイエス様が一緒に歩いてくださることも。
私たちは、 何かをしようとしたときに、 実行した先のことや、 その効果について考えます。 無駄なこと、 失敗することをついつい避ける習慣があります。 それは、 必要なことではありますが、 そのことが現実的な行動を生み出せず、 いつも同じ所に留まっているということにつながっているとも言えます。
4月は新学期、 幼稚園にも新しい子どもたちが入って来ます。 子どもたちは、 新しい世界に入って興味を感じたことに飽きることなく何度でも挑戦していきます。 そして、 一つ一つ出来ることが増えていきます。 そんな姿を見ながら、 そこから力を得ていきたいと思います。
雪国の4月は、 一斉にたくさんの花が咲きます。 水仙も、 梅も桜もパンジーも、 色とりどりです。 こうした自然の恵みも私たちの気持ちに新たなものを与えてくれます。 たまには車を降りて歩いてみましょう。 信仰の道を歩き続けることによって後になって、
「道で話しておられるとき、 また聖書を説明してくださったとき、 わたしたちの心は燃えていたではないか」 と思える時が来ると思うのです。

司祭 ペテロ  田中  誠
(高田降臨教会・直江津聖上智教会牧師)

『こいぬのうんち』

「こいぬのうんち」 という絵本のお話を紹介します。 文はクォン・ジョンセン、 絵はチョン・スンガクで二人は韓国、 日本語訳は在日朝鮮人二世のピョン・キジャです。

こいぬが石垣のすみっこにうんちをしました。
すずめが一羽飛んで来て、 うんちをちょんちょんとつついて言いました。
「うんち、 うんち、 アイゴーきったねえ」
「なんだって! ぼくはうんちだって? ぼくはきたないんだって?」
こいぬのうんちは腹立たしく悲しくなって泣き出しました。
近くに転がっていた土くれが、 話しかけてきました。
「もともとおいらは、 向こうの山の段々畑で野菜を育ててたのさ」
「去年の夏は、 雨がちっとも降らなくて、 ひどい日照り続きで、 おいら、 その時、 とうがらしの赤ん坊を枯らしてしまったんだよ」
「そのばちが当たったんだ。 きのう、 ここでおいらだけ荷車からこぼれ落ちたのさ。
ああ、 おいら、 もう畑と仲間のところには帰れない」
土くれは悲しそうにつぶやきました。
その時、 牛に引かせた荷車がガタゴトやって来て、
「ありゃりゃ!これは、 うちの畑の土のようじゃが?」 と荷車のおじさんが土くれをいとおしそうに両手で拾い上げて、 荷車に乗せて行ってしまいました。
「ぼくはきたないうんち。 何の役にも立たないんだ。 ぼくはこれからどうすればいいんだろう?」
春になって、 こいぬのうんちの前に、 緑色の芽が、 ぽつんと顔を出しました。
「きみ、 だあれ?」
「わたしは、 きれいな花を咲かせるたんぽぽよ」
「どうしてきれいな花を咲かせられるの?」
「それは雨と太陽の光のおかげよ」
「それとね、 もう一つ絶対必要なものがあるの」
たんぽぽはそう言って、 こいぬのうんちを見つめました。
「それはね、 うんちくんがこやしになってくれることなの」
「ぼくがこやしになるって?」
「うんちくんがぜーんぶとけて、 わたしの力になってくれることなの。
そうしたら、 わたしはお星さまのようにきれいな花を咲かせることができるの」
「えっ、 ほんとにそうなの?」
こいぬのうんちはうれしくて、 たんぽぽの芽を両手でぎゅっと抱きしめました。
雨が降り、 こいぬのうんちは、 雨に打たれてどろどろにとけて、 土の中に沁み込み、 たんぽぽの根っこから茎を登り、 つぼみをつけました。
そして、 暖かい春のある日、 きれいなたんぽぽの花が一つ、 咲きました。
やさしく微笑むたんぽぽの花には、 こいぬのうんちの愛がいっぱい詰まっていました。

これはあらすじです。 実際の絵本は文も絵も訳もすばらしいものです。
老人である私には、 こいぬのうんちが小さなたんぽぽのこやしになる、 というこのお話は、 老人の残された生と死にも、 「主の栄光を現わす」 務めが恵みとして、 なお備えられていることを教えてくれていると思えるのです。

執事 ヨハネ 大和田 康司
(名古屋聖マルコ教会牧師補)

『励まされて』

「こういうわけで、 わたしたちもまた、 このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、 すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、 自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」 (ヘブ12・1~2)
主イエス命名の日を迎え、 新しい1年が始まりました。 お正月恒例の行事はいくつかありますが、 はずせないのが箱根駅伝ではないでしょうか。 今年は初めて聖公会関連学校の立教が関東学連選抜のメンバーの一人に加えられ、 見事学連選抜が4位に入ったということです。 興味を引くのはそれだけでなく3チームの途中棄権が出たということで、 大会史上初めてのことでした。 誰もが予期せぬ出来事で、 まさかそんなことが自分の身に起こるとは思ってもみなかったことでしょう。 あるチームはレースの最初のほうで、 あるチームはレースの後半で、 あるチームはあと一人にタスキを渡す所でした。 立ち上がることも出来ない状態になってしまい、 どんなに屈辱を感じたことでしょう。 これでもう選手生活は終わりだと感じたほどではないかと思います。 でも倒れて終わりにはなりませんでした。 監督の 「もう充分力を尽くしたから後は任せろ」 との言葉でまた新たな思いに立ち上がることが出来るようになっていくのでしょう。
先日、 信仰の先輩が逝去されました。 6年半にわたる長い闘病生活の後でした。 脳梗塞で倒れられたとき、 教会にも行けない、 祈りや賛美を唱えることも出来なくなってしまい、 もうこれで信仰生活も終わりだとお感じになってしまっていたのではないかと思います。 でも、 神様は決して証人としての信仰生活を終わりにはなさいませんでした。 信徒の方とご家族の家に病床聖餐で行くと、 お祈りや聖歌のところでわずかですがうめき声を出され、 ご一緒に唱和されているようでした。 そして車椅子で陪餐に与り、 わたし達が帰るときに涙を浮かべておられるのを見たとき、 ああこうして一緒に陪餐に与り神様の恵みを頂くことの喜びと、 そして信仰の友との交わりを大切にされている涙であることを実感しました。 私たちこそあらためて主日ごとに、 陪餐の恵みに与る喜びを大切にし、 信仰の交わりが与えられていることを大切に、 多くの信仰の諸先輩の証人たちに囲まれつつ励まされている自分がここに居ることに気が付きましょう。 ここに教会の原点があるように思いました。 そしてチームの監督が 「後は任せろ」 と言われたように、 出来ないことの悔しさなどすべてのことを主イエス様にお任せし、 信仰生活のゴールで待っていてくださる主イエス様にひたすら目を向けてこの1年の信仰の歩みの上に神様の祝福と導きを祈りましょう。

司祭 マルコ 箭野 眞理
(豊橋昇天教会 牧師)

『「クリスマスキャロル」 の響く小布施町』 

私は、 新生病院に赴任してまだ1年経過していませんので、 ここ小布施の12月・クリスマスに何が起きるのか知りません。
しかし、 毎年のクリスマスイブの夜、 当新生礼拝堂を拠点に、 教会のメンバーや病院関係者また小布施・近隣の住民らが集い、 自然に聖歌隊が結成され、 手に手にペンライトを持ち、 肌を切るような風に頬を赤く染めながら町の通りを歩み、 所々立ち止まっては聖歌を歌うというキャロリングは、 小布施町の年末の恒例行事なのだそうです。
『闇を行く明りの列と聖歌の響きは、 町を幻想的な空気で包み、 人々はその独特の風情に胸を熱くする。 年によっては、 舞う粉雪が粋な演出をしてくれる』 と中島敏子著 「新生病院物語」 という本に記されていますが、 きっとそうだろうと想像し、 心が踊ります。
単にクリスマスが一つの教会の狭い行事でなく、 町・地域の人々と共に幼な子イエスの誕生をお祝いし、 「静かな夜・聖しこの夜」 を体験し、 町・地域全体が 「文化としてのクリスマス」 を喜びあうのは何と凄い事でありましょう。
私達は、 キャロルといえば、 すぐ 「クリスマスキャロル」 を思うのですが、 キャロルは、 元々は自国語の歌詞で歌われる喜ばしい感じの、 各季節の宗教的民謡といっていい歌です。 従ってクリスマスキャロルは、 当初、 必ずしもキリスト教会と結びついたものではなく、 一般民衆が祝歌・讃歌として歌っていた 「世俗音楽」 だったのです。 しかしこれを 「教会音楽」 にしたのは、 あの宗教改革推進者のマルティン・ルターであるという歴史があります。
また 「キャロリング」 というのは、 クリスマスイブの夜、 教会に集まった子供達が街の家々を訪ねて、 クリスマスキャロルを歌う慣習が欧米にあり、 これを英語で 「キャロリング」 と言っておりました。
そもそも民衆の歌であったキャロルがキリスト教会の賛美歌となり、 特にクリスチャン人口の少ない我が国に於いては、 キリスト教会でのみ歌われていたのを、 小布施ではあらためて教会の枠を取り外し開放し、 本来の姿に回復した形で具現化したキャロリングが実施されるのです。 偉大な生ける神の恵みだと思わざるにはいられません。
小布施町年末恒例行事でもあるキャロリング、 これはもう小布施町の文化です。
以前、 司祭で教育者のケネス・ハイムという方が 「文化としてのクリスマス」 という文を書かれ、 その中に次の様な言葉が綴られています。
『最初の降誕物語から遠くかけ離れ、 初めの意味が見失われてしまったような催しでさえ、 文化の力を持っているように思えます。 その動機が営利追求でしかないデパートの飾りでさえ、 降誕物語のもつ力を証しする文化的遺産であるといえるでしょう。 いずれにしろ、 メサイヤを聴いたり、 ジングルベルを歌う未信者たちも、 降誕物語の中心から光が輝き出る光景の中に包み込まれてしまうのです』 と。
正に小布施の町も、 キャロリングをする時に、 幼な子イエスの誕生、 この誕生した幼な子はすべての生命を照らす光としての意義をもつとのメッセージの中に包み込まれてしまうのです。 ハレルヤ!

司祭 パウロ 松本 正俊
(新生礼拝堂副牧師・新生病院チャプレン)

『楽園を生きた男』

以前、 岡谷聖バルナバ教会の深澤小よ志さんから 「教会は、 昔は楽園だった」 というお話を聞きました。 小よ志さんは、 1920年代、 12才の時から岡谷の製糸工場で働かれました。 当時、 1日12時間、 ロクに休憩もとれないような労働をしていた工女たちにとっては、 教会で行われるすべてが新鮮で、 楽しく、 まさに楽園のようでした。
その頃、 教会の現状に様々な疑問を感じていた私にとって、 小よ志さんのこの言葉は、 実に印象的で、 深く心に残りました。 以来、 楽園のような教会というのは、 私にとって、 教会の姿を考える際のキーワードのひとつになりました。
しかし、 現実の教会は、 そんな楽しいことばかりではないし、 不自由なことも多く、
トラブルも多いし、 とてもじゃないけど楽園と呼べるような場所ではないように感じてきました。 今の時代、 楽園のような教会というのは幻想だと諦めていました。
ところが、 そんな現実の教会を楽園のように生きた人がいました。 名古屋聖ステパノ教会の神原榮さんです。
彼は、 福岡県の田川で生まれ、 若い頃は炭鉱労働者として働きました。 しかし、 炭鉱の閉山によって失業を余儀なくされます。 そして、 多くの炭鉱労働者と同様、 職を求めて都会に出ていきますが、 なかなか安定した職業はなく、 結果的に大阪の釜ケ崎にて日雇労働に従事します。
その後、 名古屋に移り、 日雇労働を続けていましたが、 糖尿病を患い、 仕事を続けることが困難になりました。 その頃、 日雇労働者への支援活動を通して、 聖ステパノ教会の松本普さんたちと出会い、 生活保護を得てアパート生活を始め、 教会にも通うようになりました。
そして2001年秋、 彼は念願の洗礼・堅信を受け、 聖公会の信徒になりました。 その後の神原さんの生活は、 文字通り教会と共にありました。
毎主日の礼拝はもちろん、 週日に各教会で行われる様々な行事、 集会にも参加しました。 まるで参加することに意義があるかのように、 いろいろな集まりに参加し、 そこにいる誰とでも 「主の平和」 のあいさつを交わしました。 彼は、 聖ステパノ教会の信徒ですが、 徐々にその行動範囲を広げ、 今週は聖マルコ教会、 来週は聖マタイ教会、 更には主教さんと一緒に岐阜の教会へなどと、 主教巡回のお供までするようになりました。
神原さんは教会に行くことは大好きでしたが、 聖書や祈祷書を読んだり、 説教を聞いたりすることは得意ではありませんでした。 でも、 お祈りの最後には大きな声で 「アーメン」 と唱えました。 所属教会のことよりも、 聖書やお祈りの内容よりも、 人が集まって、 お互いが笑顔で 「主の平和、 アーメン」 とあいさつができることが心からうれしかったのだと思います。 その意味で、 教会は神原さんにとってまさに楽園そのものでした。
その神原さんが、 去る9月8日、 入院先の病院で本当の楽園に旅立たれました。 葬儀には、 愛岐伝道区の各教会からも多くの方々がお別れに参列され、 神原さんが過ごした短い教会生活の間に、 いかに多くの仲間を得ていたかということを感じました。
教会を楽園のように感じられる人がいる間は、 まだまだ教会には希望があるのかも知れません。 神原さんの死に際して、 再び 「楽園のような教会」 というテーマを与えられたような気がしました。

司祭 テモテ 野村 潔

『観光客の祈り』

「こんなに活気のある教会になっているとは驚いた。 以前来た時はこのまま朽ち果てていくのかと残念に感じたものだ」 と、 25年ぶりにショー記念礼拝堂に来られたという方から言われました。 私は 「いや~、 夏の間だけですよ」 と遠慮がちに答えながらも、 内心はとても嬉しく思いました。
今春から同礼拝堂の定住牧師として過ごしていますが、 避暑地軽井沢の発祥地とは言えここまで観光客が多いとは正直想像していませんでした。 おそらく全国に約300ある日本聖公会の教会の中でも群を抜いているでしょう。 特にゴールデンウィークと夏期 (7月下旬~9月中旬) は、 連日数百人の観光客が見学に訪れます (というよりは押し寄せてきます)。 国籍も様々で、 日本語や英語以外の言語もあちこちで飛び交うこともあり、 その情景は聖霊降臨の出来事を彷彿とさせる感があります。 「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、 ほかの国々の言葉で話しだした」 (使徒言行録2:4)。 このように書くと 「何と羨ましい!」 と思われる方も多いでしょうが、 実際は心無い観光客の言動に困惑させられることも度々です。 あまりの非礼な行為に怒鳴りつけてしまうこともあります (神様ゴメンナサイ)。 しかし、 殆どの良識的な観光客は静かに礼拝堂に入り、 黙想し祈りをささげます。 その自然な姿にこちらの方が感動を覚えることも少なくありません。
先日もこんなことがありました。 迷彩服を着た一人の男性がキョロキョロしながら礼拝堂の前を行き来しています。 見るからに怪しげな様子に、 私は庭を掃除している振りをしながら注意を払っていると、 礼拝堂に誰も居なくなったことを確認した彼は中に入ると迷うことなく一番前まで進み、 椅子にも座らず祭壇の前に跪きました。 そして突然外まで聞こえるような大声で何かを唱え始めたのです。 未だにそれが何語であったのか分かりませんが、 とにかくその祈りと思われる言葉は15分ほど続きました。 勿論その間は、 私も含め誰もその光景に圧倒されて礼拝堂に入ることは出来ませんでした。 しかし、 その後礼拝堂から出てきた彼は目に涙を浮かべながら去っていったのです。 言葉の問題もあり、 司祭として声一つ掛けられなかったことを後悔していますが、 おそらく異国の地で何か苦しいことに直面しているのでしょう。 あるいは母国で何か辛い出来事が起こったのかもしれません。 ただ確信をもって言えることは、 神様は彼のその切実な祈りを間違いなく受け止められたということです。 彼だけではありません。 本当に多くの人々が毎日この礼拝堂で神様と向かい合い、 慰めを受け、 勇気を得て帰っていきます。 礼拝堂に備えられている来訪者ノートがそのことをよく物語っています。
礼拝堂を出て3分も歩けば、 そこは華やかで賑やかな旧軽銀座と呼ばれるショッピング街。 今日も休暇を楽しむ人々で溢れています。 しかし、 一人一人はそれぞれに悩みと苦しみを抱えているのも事実です。 私たちクリスチャンだけでなく、 多くの人々にとって、 自分の思いのすべてを素直に神様に表現できる場として今後もこの礼拝堂が用いられていくことを願って止みません。

司祭 テモテ 土井 宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)

『青年は荒野をめざして…』 

好きな曲だけを集めて作ったMDを10年程前のある日、 職場で昼食のときにかけたらみんなシーンとなってしまった。 別れとか旅立ちに関する曲が多かったせいだろうか。 それから半年後にその職場を去ることになるとは、 そのときの私は夢にも思わなかったのだが。 この、 MDの曲目は以下の通りである。 ①時代、 ②贈る言葉、 ③雲よ風よ空よ、 ④青年は荒野をめざす、 ⑤若者たち、 ⑥翼をください、 ⑦遠い世界に、 ⑧思い出の赤いヤッケ、 ⑨神田川、 ⑩精霊流し、 ⑪悲しくてやりきれない、 ⑫昴、 ⑬君といつまでも、 ⑭いちご白書をもう一度、 ⑮名残雪、 ⑯花嫁…
悲しみと希望が交錯する青春、 別れ、 旅立ち…こういう曲を好んで聞いていた私がそれまでの場所から去り、 47 歳にして新しい人生へと踏み出していった。 青年ではなく中年の私が荒野をめざす、 定年を待たず荒野へと旅立った。
この夏休み、 ケネス・リーチという人の書いた 『牧者の務めとスピリチュアリティ』 (聖公会出版) という本を読んだ。 この本を読もうと思ったきっかけは 『神学院だより第50号』 に我が中部教区の神学生金善姫さんが書いていた報告である。 『第13回短期集中講座』 ~スピリチュアリティのこれまで・いま・これから~と題された文章を読みはじめてすぐにおや?と思った。 「最も印象に残ったのは、 牧会者がその多忙さの中でどのように霊的生活を維持するかという質問に対して…」 ケネス・リーチの答えである。 「愛、 祈り等のあたたかい領域を養わないと、 相手に大きな傷を与えることになる」 「相手を傷つけないために牧会者自身が休息を取る必要がある」。 この人の本をさっそくネットで注文したところ、 私の夏休みに間に合ったのであった。 猛暑の中で読み始めたところ私の心も熱くなってきた。 やたらと感情移入しながらの読書で本の中は鉛筆の線だらけになってしまった。 例えば 「神が貧しい者の側に立っているという事実は世間と妥協した教会から真っ先に追放された事実の一つである。」 「今日流行っている霊性は、 受肉した御言葉における、 また、 それを通した私たちの生命の変容よりも、 むしろ慰めと安心と内面の平安を提供する事に大きな関心を抱いているように思われる」。 私にとって印象的だったのは次の箇所である。 黙想的祈りに関して、 「荒野」 「暗黒の夜」 という二つのシンボルがキリスト教の伝統において繰り返し現れる。 この二つの象徴が示している行路は人に根源的な浄化と暗黒の出会いを求めているとリーチは述べている。 かつてイスラエル民族が、 旧約時代の預言者たちが、 そしてイエスが、 4世紀エジプトやシリアの修道士たちが荒野において、 葛藤し自分を浄化し神と出会ったのである。 そして暗黒の夜の中で人は神を叫び求める。 暗黒の体験をとおして私たちは自己崩壊の危機に瀕し、 はっきりと見えるようになる。 激しく愛するようになる。 真の自己統合へと向かう。 『「荒野」、 つまり、 自身の根源的で独自の孤独を見つけることが必要である。 そうすることによって、 私たちは他者の中にある 「荒野」 に出会うようになる。』
今日は倒れても再び起きあがり歩き出す。 荒野へと向かう。 自分自身の中の沈黙と孤独、 葛藤と苦しみにおいて神が語りかけてくださる。 東の空から希望の太陽が昇り、 再びまちへ、 人々の中へ帰っていく。 聖霊に突き動かされて…

司祭 イサク 伊藤 幸雄
(一宮聖光教会牧師)

『彼らは戦いに備える』 

「わたしが平和を求めて語るとき∥ 彼らは戦いに備える」 (祈祷書 詩編第120編7節)
今年も8月がめぐってきました。 8月には広島、 長崎への原子爆弾投下や日本敗戦のことがあり、 より具体的に平和について考え、 祈らざるを得ません。
第二次世界大戦後、 1948年の国連総会で採択された 「世界人権宣言」 では、 「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、 世界における自由、 正義及び平和の基礎である」 と述べられています。 一人ひとりの人間を尊重せずに、 少数者や弱者を否定し、 偏見を押しつけ憎悪の対象とすることで、 様々な問題の解決を図ったことが戦争の一因であるとの反省からです。
昨年12月15日に教育基本法が参院本会議において、 与党の賛成多数で可決・成立しました。 この 「改正」 は、 開かれた議論が全くといってよいほどなく、 憂慮せざるを得ません。 そして、 この教育基本法の 「改正」 は、 国が国民に、 国家権力にとって都合の良い 「あるべき国民の姿」 を押し付けようとしていることの現れでもあります。 誰もがありのままに生きていくことを保障するのが、 国の責任で、 世界人権宣言で謳われているように、 それが正義と平和への道筋です。
しかし時代の流れは、 憲法 「改正」 が声高に叫ばれ、 平和への道ではなく、 戦争へと行く先を変えられようとしているのではないでしょうか。
安倍晋三首相は著書 「美しい国へ」 の中でこんな風に言っています。
「同棲、 離婚家庭、 再婚家庭、 シングルマザー、 同性愛のカップル、 そして犬と暮らす人…どれも家族だ、 と教科書は教える。 そこでは、 父と母がいて子どもがいる、 ごくふつうの家族は、 いろいろあるパターンのなかのひとつにすぎないのだ。 たしかに家族にはさまざまなかたちがあるのが現実だし、 あっていい。 しかし、 子どもたちにしっかりした家族のモデルを示すのは、 教育の使命ではないだろうか。」 (「美しい国へ」p.216―217)
「美しい国へ」 を読むと、 安倍首相が目指す 「美しい国」 への道は、 正義と平和への道である人間の多様性を認めることと、 対極にあるということが分かります。 「男は男らしく」 「女は女らしく」 という考え方は、 男女共学さえも否定し、 「典型的な家族のモデル」 こそが 「あるべき国民の姿」 であることを強調します。
男は妻と子どもを守るため、 「男らしく」 戦う美しい国。 多様性が認められる社会とは対極のこの考え方の下では、 「男は男らしく」 「女は女らしく」 なければいけません。 このような社会の中で、 「男らしく」 なければならない男たちは、 日常生活でも 「男らしさ」 を短絡的に力、 支配、 威圧、 攻撃、 権力と重ね合わせ、 その矛先を身近な女性へと向けてしまう不幸な状況は、 今ますます拡がっています。
教会の福音宣教の目的は、 誰もが神さまからいただいた命を光り輝かせて生きる世界の実現を目指すことです。 その神さまの業に参与してゆくことです。 一人ひとりの生き方や家族のあり方に国が口出しする現状は、 戦争への道へと続いていることを忘れずに、 正義と平和を否定する力に抗いながら、 福音を宣べ伝える働きに参与することを、 この8月に改めて心したいと思います。

司祭 アンブロージア 後藤 香織
(名古屋聖ヨハネ教会管理牧師 )

『「だから、 やめよう」 と言わず「だけど、 やってみよう」』 

皆さんはきっと、 「求道者が与えられて欲しい」 「若者、 子どもたちが加わって活気溢れて欲しい」 等という言葉を言ったり聞いたりしたことがあるでしょう。
もちろん、 信仰を通して夢を語り、 幻を見ることはすごく大事なことですが、 若者がほとんどいない状況で、 何の動きもせず、 ただ、 若者が入ってくることを待つだけでは限界があると思います。 本当に若者、 子どもに加わって欲しいなら、 彼らを迎え入れる準備が必要であるのは当然のことです。 彼らをただ礼拝、 またはプログラムに誘うのではなく、 彼らが関与して作り上げる集会でなければならないと思います。 つまり、 彼らの意見・考えが受け入れてもらえる雰囲気が必要であり、 そのためには、 どういう意見でも遠慮なく、 互いに話し合うことの出来る、 気軽に入れる輪作りが大切だと思います。
私は教会の中に、 新しい信徒 (求道者含) を担当する奉仕の役割があったら良いとずっと思っていました。 それは礼拝の案内をするだけではなく、 興味を引く魅力ある何か (温かい心・証を交えて) を一緒に分かち合える、 救いについての話 (ある意味、 教理) を柔らかく紹介する役割を言います。 これは、 信徒教育システムのことです。
このような話を聞くとすぐ、 「そういうのを我々にさせても、 それは無理だ」 とか 「信徒が、 教えることまですると教役者は何するんだ」 等の反論が出るかも知れません。 しかし、 これは今日の教会のトレンドである 「小グループ運動」 に当たるものです。 小グループの勉強会を通して、 信徒同士が励まし、 慰め、 祈り、 分かち合うことによって、 関係を密にし、 教会のリーダーを育てるという大きな意味を持ちます。
それのためには、 教会内で 「教理教育クラス」 が随時運営されることが必要です。 できれば毎日のように、 毎週のように勉強会があって、 最初は信徒さんが気軽に参加し、 その教育を繰り返して受けているうちに自然に自信を持って福音を語ることができるようになります。 適切な段階に入ったら、 リーダークラスを別に結成し訓練を深めることによって、 準備は整えられます。
その後、 例えば全体10回日程の教育なら、 その中の科目の講義を一人一つずつお願いします。 信徒数が少ない教会では大変な企画になる可能性はありますが、 できるだけ多くの方が参加できるように、 牧師を含め教会委員の積極的なお勧め・お誘いが必要です。
10人の信徒が、 それぞれ自信がある科目を通して新しい人と交わり (勉強より、 人が大切) を持ったとしたら、 その新しい人が洗礼・堅信を受ける頃には、 もう既にその10人のリーダーと新しい信徒の間では人格的な良い関係ができているので、 一石二鳥以上の効果があると私は確信します。 しかし、 皆さんのご心配の分、 確かに相当の努力が必要となるでしょう。
イエス様が十字架に掛けられる前に、 「だから、 やめよう」 となされたとしたら、 私たちの大切な救いへの約束も希望・夢なども何の意味もないこととなってしまうでしょう。
十字架に掛けられる前のイエス様の知られてなかった言葉はきっと、 「だけど、 やってみよう」 ではなかっただろうかと思います。
司祭 イグナシオ 丁胤植
(新潟聖パウロ教会牧師)