『楽園を生きた男』

以前、 岡谷聖バルナバ教会の深澤小よ志さんから 「教会は、 昔は楽園だった」 というお話を聞きました。 小よ志さんは、 1920年代、 12才の時から岡谷の製糸工場で働かれました。 当時、 1日12時間、 ロクに休憩もとれないような労働をしていた工女たちにとっては、 教会で行われるすべてが新鮮で、 楽しく、 まさに楽園のようでした。
その頃、 教会の現状に様々な疑問を感じていた私にとって、 小よ志さんのこの言葉は、 実に印象的で、 深く心に残りました。 以来、 楽園のような教会というのは、 私にとって、 教会の姿を考える際のキーワードのひとつになりました。
しかし、 現実の教会は、 そんな楽しいことばかりではないし、 不自由なことも多く、
トラブルも多いし、 とてもじゃないけど楽園と呼べるような場所ではないように感じてきました。 今の時代、 楽園のような教会というのは幻想だと諦めていました。
ところが、 そんな現実の教会を楽園のように生きた人がいました。 名古屋聖ステパノ教会の神原榮さんです。
彼は、 福岡県の田川で生まれ、 若い頃は炭鉱労働者として働きました。 しかし、 炭鉱の閉山によって失業を余儀なくされます。 そして、 多くの炭鉱労働者と同様、 職を求めて都会に出ていきますが、 なかなか安定した職業はなく、 結果的に大阪の釜ケ崎にて日雇労働に従事します。
その後、 名古屋に移り、 日雇労働を続けていましたが、 糖尿病を患い、 仕事を続けることが困難になりました。 その頃、 日雇労働者への支援活動を通して、 聖ステパノ教会の松本普さんたちと出会い、 生活保護を得てアパート生活を始め、 教会にも通うようになりました。
そして2001年秋、 彼は念願の洗礼・堅信を受け、 聖公会の信徒になりました。 その後の神原さんの生活は、 文字通り教会と共にありました。
毎主日の礼拝はもちろん、 週日に各教会で行われる様々な行事、 集会にも参加しました。 まるで参加することに意義があるかのように、 いろいろな集まりに参加し、 そこにいる誰とでも 「主の平和」 のあいさつを交わしました。 彼は、 聖ステパノ教会の信徒ですが、 徐々にその行動範囲を広げ、 今週は聖マルコ教会、 来週は聖マタイ教会、 更には主教さんと一緒に岐阜の教会へなどと、 主教巡回のお供までするようになりました。
神原さんは教会に行くことは大好きでしたが、 聖書や祈祷書を読んだり、 説教を聞いたりすることは得意ではありませんでした。 でも、 お祈りの最後には大きな声で 「アーメン」 と唱えました。 所属教会のことよりも、 聖書やお祈りの内容よりも、 人が集まって、 お互いが笑顔で 「主の平和、 アーメン」 とあいさつができることが心からうれしかったのだと思います。 その意味で、 教会は神原さんにとってまさに楽園そのものでした。
その神原さんが、 去る9月8日、 入院先の病院で本当の楽園に旅立たれました。 葬儀には、 愛岐伝道区の各教会からも多くの方々がお別れに参列され、 神原さんが過ごした短い教会生活の間に、 いかに多くの仲間を得ていたかということを感じました。
教会を楽園のように感じられる人がいる間は、 まだまだ教会には希望があるのかも知れません。 神原さんの死に際して、 再び 「楽園のような教会」 というテーマを与えられたような気がしました。

司祭 テモテ 野村 潔