祈り合う恵み

長引くコロナ禍で自粛生活に疲れ果て、途方に暮れている方々も多いことでしょう。昨年来COVID-19という未知のウイルスに翻弄され、中部教区の各教会では国や自治体から発令される緊急事態宣言などを判断基準に、公開の礼拝や集会の休止と再開を繰り返しています。それが本当に正しい判断なのだろうかという思いと痛みを常に心に抱えつつも、それでも感染予防対策を徹底しながら、人数制限をしたり、聖歌はオルガンの音を聴くにとどめたり、オンライン配信を行うなど、何とか礼拝生活、信仰生活を保ってきました。残念ながらそのような不安定な状態が今後も年単位で続くことが予想され、意気消沈しそうになりますが、そこにも人知を超えた神さまのご意思と恵みがあることを信じて、希望を失わずに歩み続けたいと願っています。
 先日、同僚の司祭が聴覚に障がいのある方のために「礼拝のライブ配信に簡単な字幕だけでも入れることはできないものか…」と思い悩んでいる姿を見て、ハッとさせられました。社会同様、教会においてもインターネット環境の整備が必至となる中、その利便性と普及の必要性ばかりに気を取られ、様々な事情で対応困難な方々への配慮という最も大切にすべき姿勢が不十分であったことを痛感したからです。ライブ配信に参加したくても叶わずに諦めたり、礼拝が再開しても年齢や基礎疾患などを理由に自粛せざるを得ない方々が多くおられます。アフターコロナの宣教のためにもネット環境の充実は必要不可欠ですが、急激な変化に困惑している方々への丁寧な対応はより大切にしたいと改めて感じています。
 マルコによる福音書によると、主イエスはガリラヤでの宣教活動を終え、弟子たちを伴ってエルサレムへ向かわれましたが、日を重ねるうちに多くの群衆がその一行に加わりました。その旅の最終局、いよいよエルサレムを目前にしてエリコの町から力強く歩み出そうとされたとき、目の不自由なバルティマイの「わたしを憐れんでください」との心からの叫びに、人々の彼に対する厳しい叱責の中、主イエスはただ一人立ち止まり、癒しの業を行われたことが記されています(10章46節以下)。このように、主イエスは目的達成よりも一人の人間の存在を優先される方です。個の存在を大切にされ、とりわけ社会の中で小さく弱くされ、苦しみ嘆いている人々とともに歩もうとされました。
 最近色々な会議などに出席して思うのですが、未だ先行きが見通せないためにどうしてもネガティブな意見が支配的になりがちです。「フィジカル(ソーシャル)ディスタンス」の掛け声で人と人との距離が広がり、分断や格差が助長されているとの指摘もあります。しかし何もかもが不安なときだからこそ、私たちは互いに祈り合うという大きな恵みと力を神さまから与えられていることを忘れてはならないでしょう。しばらく直接会うことができていない一人ひとりの存在を想い合い、今まで以上に祈り合うことを通して、より深く豊かな共同体の形成へと促されます。そのために教会は、私たちは具体的に何ができるのかを問い続けていきたいと、自戒を込めて思うのです。

この十字架は重いけど…

福音書にはイエスに出会った多くの人々の事が記されています。その中で、イエスとの「ゆきずりの出会い」がキレネ人シモンに起こりました。イエスは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)と教えていました。キレネ人シモンはこの十字架を背負ってイエスに従った文字通り一番最初の人となってしまいました。しかし彼は自らすすんで負ったのでは決してなかったのです。
 シモンにとってイエスは何の関係もない人で、他の人と同様イエスという囚人を見物しに来ていただけにすぎないのに、丁度偶然にも自分の目の前でイエスがつまづき、倒れただけ。ローマ兵の怒声がこのシモンに向けられ、「おい、お前、この十字架を背負っていけ。」「おれは何と運の悪い男だろう。こともあろうに処刑される男の十字架を負わされるとは…」(想像)
 愛知県にも先日、三度目の「緊急事態宣言」が発出されました。私たちの日々の生活、人生は全てが順調に都合よく展開していくこともあれば、地球規模にまん延させたこの新型コロナウイルス感染症、そして感染力がより強く、重症化を引き起こす変異株はまさしく想像もしていなかった未曾有の事態を引き起こしています。年頭から宣言が解除されずに耐え続けている都市や人々もおられます。辛く苦しく、悔しく、我慢しなければならない毎日の生活です。苦しいことのその意味を考える余裕すら無いような不安と恐怖の内にあって、治療を受ける方々、治療も受けられずにいる方々、亡くなられた方々、悲しみと悔しい思いの家族や友人の方々、懸命に治療や介護にたずさわっている方々、感染の故に差別や偏見にさらされている方々、一刻も早く事態が終息し、克服への希望や喜びを見出すことができるよう祈る次第です。
 伝説によれば、後にシモンはイエスの70人の弟子のひとりに数えられ、自らすすんでイエスのために殉教したといわれています。彼にとってはいやいや負わされた十字架ではありますが、それ故にゴルゴタの丘のイエスの死の場面にふれ、そして復活のイエスとの出会いへと導かれ、知らずして負わされた十字架を今度は自らすすんで負う十字架へと、まさしく苦難を経て栄光への道を歩むことになりました。
 パウロも福音伝道の途上、迫害、投獄等の苦難に見舞われながらも、自分が願ったり望んだわけでもない事態、むしろ自分が望んだこととは全く正反対な事態に遭遇する度に、ますます神への感謝と讃美が彼に力をあたえていくことになりました。
 私たちはパウロが伝えたこの信仰を受け継いでいる者であるばかりか伝える者、証しする者とされました。パウロの抱いた確信が、私たちの確信でもあります。この難局の時こそ、克服と終息のため、世界中の全ての人々と国籍や信仰の違いを超えて、思いと力と祈りを合わせて参りましょう。
 私達ひとりひとりが神さまの恵みの内に生かされ、恵みの内に生きる者として強められますように、アーメン。
(一宮聖光教会 牧師)

2021年イースター・メッセージ

2021年4月4日
主教 アシジのフランシス 西原廉太

[以下動画の内容をテキストで掲載]

 主なる神さま、私たちがしばらくの間、主のご復活の意味について思いめぐらすことができますように強め導いてください。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン

 復活日、イースターは、古代の教会においてはクリスマスよりも重要な祝日でした。洗礼も、復活日の早朝もしくは前日深夜に行われる伝統がありました。洗礼とはその人が新たに主と出会うことによって、新たに生まれることを意味していましたので、洗礼が行われるのは復活日が最も相応しかったのであります。

 イエスさまが十字架につけられ息を引き取られた。死んでしまった。弟子たちにとってこれほどの衝撃はありませんでした。それは、究極の断絶であり、絶望でありました。弟子たちは、混乱の中、散り散りに逃げてしまいました。しかし、マグダラのマリア、サロメたち女性たちは、絶望の中にあっても、ずっとイエスさまのみもとに居続けたのであります。そして、女性たちは、イエスさまに香料を塗るために、イエスが葬られた墓に向かいます。十字架からおろされた時は、安息日が差し迫って香料を塗ることができないまま、大急ぎで埋葬されてしまったのです。油を塗ることは、女性たちにとってイエスさまのためにできる最後の奉仕、精一杯の業でありました。すると、驚くべきことに、墓の石は転がされ、墓は空であった。そこにはある若者がいて、こう告げます。

 「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」

 マルコによる福音書はここで終わります。マルコによる福音書は、4つある福音書の中でも最も古いものです。マタイによる福音書もルカによる福音書も、マルコをもとにしています。そのようなことから、マルコによる福音書は、「原福音」とも呼ばれています。この最古の福音には、実際に主がよみがえられてイエスとマリアや弟子たちが出会う記述はありません。この2000年の教会の歴史の中でも、「復活」そのものへの疑問がたびたび出されますがその根拠の一つが、原福音であるマルコには復活の記録がないことがあげられてきました。

 ここで、原始キリスト教会の最古の伝承について見てみたいと思います。それは、実はパウロの手紙であります、コリントの信徒への手紙一、15:3-5に隠されています。

最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの「罪」のために「死んだ」こと、「葬られた」こと、また、聖書に書いてあるとおり「三日目」に「復活した」こと、ケファに現れ、それから十二人に「現れた」ことです。

(聖書協会共同訳)

 「最も大切なこととして、パウロ自身も受けた」伝承です。それをパウロがコリントの人びとに伝えている記録です。これは「ケリュグマ」(「教え」という意味)と呼ばれるもので、イエスさまの復活についての教えです。このケリュグマが後に発展して、使徒信経やニケヤ信経になりました。このケリュグマが書かれたのは、紀元55年頃と言われていますので、その時点ですでに伝承されていたものですから、イエスの死後相当早い段階でこのケリュグマは形成され、伝承されていました。ギリシャ語原文を直訳しますと、これがはっきりとした韻文で書かれていることがわかります。

 このケリュグマは、「聖書に書いてあるとおり」で始まる2つの文章で構成されています。そして、「、」でそれぞれの文章は分かれます。それぞれの前半の「罪」と「三日目」が対応し、「死んだこと」と「復活したこと」が対応しています。この前半部は、神学的な表現であり、信仰告白の部分です。それに対して、後半で対応する「葬られたこと」「現われたこと」は、純粋に歴史的な出来事、事実起こったことの記録、伝承だと考えられるのです。すなわち、「葬られたこと」「現われたこと」を神学的に、信仰的に理解した結果が、前半部なのです。

 つまり、イエスさまは確かに「葬られた」。それは本日のマルコによる福音書も証言しているところです。そしてさらには、「現われた」と記録せざるを得ないような出来事が起こったのであろうと思うのであります。「現われた」というのは、歴史的な核を持つ歴史的事実なのだろうと言うことができます。確かにそうでなければ、キリスト教はこのように2000年も続き、また世界中に広まることはなかったのでしょう。間違いなく、イエスさまは、マリアたちに、弟子たちに何らかの形で「現われられた」のです。

 私は、以前、東京教区のある教会の主日礼拝をお手伝いしていたことがありました。その教会でNさんという女性の信徒さんと親しくさせていただいておりました。その後、Nさんはお病気のため86歳で主のもとに召されました。Nさんは熱心で、礼拝を欠かしたことがないような方でした。Nさんのお連れ合い、ご主人は40年前に亡くなられ、Nさんは独り身で、老人ホームで暮らされていました。

 私がその教会に伺いはじめてから2年ばかりが経った頃のことですが、Nさんは次第に認知症が進むようになり、教会にもお越しになれなくなりました。それから3年経った年の秋に、私は、Nさんが入っておられる老人ホームを訪問しました。Nさんは椅子にこしかけておられ、その姿は以前のままでしたが、私が声をかけても、表情はまったく動くことがなく、あの優しい笑顔はありませんでした。職員の方のお話によれば、Nさんはここ1年ほど、ほとんど声も出なくなってしまい、誰が訪ねてきても分からず、反応もなくなっているとのことでした。

 私は、Nさんの手をとって、お祈りをしました。すると、最初はまるで力のなかったNさんの手がぎゅっと私の手を握り返してこられたのです。

 そして、Nさんは、小さな声で、しかしはっきりとこう繰り返されたのです。

 「イエスさま、ケンジをお願いします。イエスさま、ケンジをお願いします。」

 そう繰り返されるのです。その時、Nさんはぼろぼろと涙を流されて、その涙がほほを伝っていきました。その場におられた職員の方々も非常に驚いておられました。

 それはほんの一瞬の出来事でした。私が、帰る時には、Nさんはもういつものように固い表情に戻り、一言も言葉を出されることはありませんでした。

 あの時、Nさんが声に出された「ケンジ」とはどなたなのかは謎のままでした。Nさんのご主人の名前ではありませんでしたし、職員の方も心当たりがないということでした。きっと、混濁されていたのだろうと思ったのです。

 Nさんのお葬式に参列した時に、Nさんを良く知る方から大切な話を伺うことができました。実は、Nさんには、一人息子さんがおられたのだけれども、Nさんが26歳の頃、その息子さんがまだ3歳の時に、原因不明の熱病にかかり天に召されてしまった、のだということ。そして、その息子さんのお名前は、「健二」君であったのでした。

 私は、今、きっとあの一瞬、Nさんは60年前に戻られていたのだと思うのです。60年前に、Nさんが本当に経験されたことをあの時に繰り返されたのだと思うのであります。60年前に、きっとNさんは、本当にイエスさまの手を握り締めながら、健二君のことを祈られていたに違いありません。2000年前のマリアや弟子たちが経験したように、イエスさまは、事実、Nさんの前に「現われられ」たのだと思うのであります。

 私たちも、私たちの前にイエスさまが事実現れられる時があるのでありましょう。その時が、いつなのかは分かりませんし、そしてまた、もうすでに現われておられるのかも知れません。エマオの途上でのクレオパたちのように、後から、それが主であったことに気づくのかも知れません。

 空の墓の前で、若者は、マリアたちにこう告げました。

 「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」 私たちにとって、主と出会う場所である「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか。みなさんにとって「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか。そんなことを、今日、この復活日に黙想できればと思います。

 一言お祈りします。

 主なる神さま。主イエス・キリストは弟子たちに現われられ、そして私たちにも現われてくださいます。どうか、私たち一人ひとりが、そのご復活の主と出会うガリラヤへと辿り着くことができますように、どうぞ強め、導いてください。

 この祈りを尊き主イエス・キリストのみ名を通してみ前におささげいたします。

 アーメン

また、来るね!

 教会の働きと共に保育園での働きがある。「おはよう!」「お父さん久し振りだね」「お母さんお迎えご苦労様」と子どもたちの登降園時の風景である。ご家族の方とこの他愛のない会話をするのが楽しみであり、時間を許す限り門に立つようにしている。そのなかで、降園時に少し遅れてお迎えに来るご家庭がある。大体10分くらいの時間ではあるが、その子は「園長先生とのお話タイム!」と言って、園庭のベンチに2人で座ってお喋りをするのがお決まりとなっている。何が好きなのか?というシリーズで、今日は動物、今日は食べ物、今日はテレビや漫画というように好きなものを挙げて、そこから話を広げていくのである。
 その子がある時、「何だかドキドキするよ」と言ったのである。それも、何日か続けて言うのである。そこで、「何でドキドキするの?」と聞いてみたら、「だって、お母さんがもうじき来るから」と答えてくれたのである。その時、あぁこう思うということはこの子は、どんなに遅くなってもお母さんは迎えに来てくれることを信じているんだな。一人でこうやって待っていても、迎えに来ることを信じているから笑って待っていられるのだろうな、って思うのである。携帯やスマートフォンを持っているのが当たり前のような世の中になった。待ち合わせとはいっても、時間も場所も何となく決めておけば会える時代となった。昔はそうはいかなかった。場所も時間も予め確かめ、それでも上手く待ち合わせが出来なかった場合には諦めるか、駅には備え付けの掲示板があった。掲示板の文章の内容も微笑ましいのが多かった。時間が経過すると消される旨も書いてあった。このように、待ち合わせ一つ取っても時代が大きく変わった。しかし、それは、待ち合わせのやり方が変わっただけで、会いたいという思いはいつの時代においても変わりはないだろう。
 教会の暦でも待つ季節がある。クリスマスはもちろんのこと、イースターもある意味イエス様が来られるのを待っている。そして、再びイエス様がこの世に来られるのを待ち続けている。私たちはどんな思いで待ち続けているだろうか。この子のように、ドキドキしながら待ち続けているだろうか、何となく待っていることはないかと省みる自分がいる。小学生のころ、家で留守番をしていたとき、親の帰りが遅いと何となく不安になり落ち着かなかった記憶がよみがえる。年齢を重ねると留守番で待つことがあっても、そのうちに帰ってくるから先に寝ていよう、朝にはいるだろうと思って、先に寝てしまったこともある。寝てしまうのは、不安から逃れるためでもあった。改めて、待つことの楽しさをこの子から教わった気がする。そして、会えることを信じるということも教わった。
 そして、この子は帰るときに、いつも「また、来るね」と言って手を振って、嬉しそうにお母さんと車へ乗り込む。明日の朝には、また保育園で会えることを信じて、「また、来てね」と言って手を振り返す。こちらも自然と笑顔である。イエス様に「また、来てね」という思いにいたる自分があり、ドキドキしながら待ち続ける自分でありたい。

司祭 フランシス 江夏一彰

(上田聖ミカエル及諸天使教会 牧師)

取り壊された礼拝堂

2019年の春、岐阜の教会で働き始めて事務所を整理していると、一つの茶封筒の中からジョン・マキム主教による岐阜聖公会の聖堂聖別の証(1908年10月18日付)と岐阜県知事によるB4版1枚の譲渡令書(1945年4月25日付)が出てきました。
 譲渡令書は、1945年5月5日までに、つまり10日以内に、教会の建物4棟を岐阜県に譲渡することを、防空法に基づいて命令する、というものでありました。これは貴重な文書ではないかと思案していたところ、大変偶然なことに、岐阜市主催で行われる平和資料展の企画を担当している市民団体「岐阜空襲を記録する会」から、空襲時の資料を探しているとの電話がありました。
 岐阜空襲は1945年7月9日午後11時過ぎのこと。米軍によって岐阜市中心部に1
万発以上の爆弾が投下され、およそ900人が犠牲になりました。毎年7月のこの時期、岐阜市では空襲に関する資料展を開催しています。そして同年の特別企画として、空襲時の神社、お寺、教会の状況について取り上げることになったとのことでした。
 譲渡令書の話をすると、すぐに教会に現物を見に来られ、早速資料展での複写の展示が決まり、また各方面にこの情報が流されました。令書の法的根拠となっている防空法に詳しい大学研究者からも連絡があり、この文書が全国的にも類を見ない貴重なものであることが分かりました。岐阜新聞の記者も取材に来られ、岐阜新聞の1面トップ及び社会面で大きく取り上げられました。
 この令書は、空襲による市街地での延焼を食い止めるべく防火帯を造ることを目的に、建物を取り壊すために立ち退きを命じるものでした。これにより、当時司牧しておられた小笠原重二司祭(後の教区主教)は岐阜県の美濃太田に疎開し、礼拝は、岐阜市内の信徒宅で行われることになりました。
 実際の岐阜空襲は防火帯で延焼を防ぐレベルではなく、岐阜市中心部の全域が焼け野原になりました。現在の岐阜聖パウロ教会の礼拝堂は、戦前からあった大垣聖ペテロ教会の礼拝堂を戦後になって移築したものです。
 人々の祈りと奉仕によって建てられ、マキム主教によって聖別されたかつての礼拝堂。多くの人々がみ言葉を聞き、教会附属の岐阜明道幼稚園の園児たちが元気に聖歌を歌い、同じく教会の事業であった岐阜聖公会訓盲院の生徒たちが祈った、その礼拝堂には、そこに集う一人ひとりの固有の物語と共に、大切な想いが刻み込まれていたはずです。しかし、1枚の令書はそのようにして建物に刻まれていた想いを、上から塗りつぶすように壊してしまいました。
 主イエスは、羊飼いが自分の羊の名を呼んで連れ出すように、私たち一人ひとりの名前を呼ばれ、それぞれの固有の物語を聞いてくださいます。このような主イエスの働きは、譲渡令書によってなされた上からの一方的な剥奪とはまったく反対の事柄です。
 ともすると私たちの宣教も空の上から人の動きを見るように語ることがあるかもしれません。しかしながら、私たちは、むしろ地に立って一人ひとりの物語を聞いていきたいと思うのです。

                             執事 ヨハネ 相原太郎
                          (岐阜聖パウロ教会 牧師補)

中部教区のみなさまへ

 去る10月24日の主教按手式・就任式に際しましては、みなさまのお祈り、ご協力を賜り、誠にありがとうございました。新型コロナウイルス感染症蔓延のため2度も延期されましたが、管区、教区のみなさまの大変なご準備により、無事に行うことができました。当日は、日本の主要教派の大司教、議長先生方にもご臨席賜り、また、世界各地からも多数、祝福のメッセージをいただきました。私たち中部教区が、日本聖公会のみならず、世界の聖公会(アングリカン・コミュニオン)や、教派を超えたエキュメニカルなつながりの中に生かされていることを、あらためて実感することができました。
 10年の長きに亘り教区をお導きくださった渋澤一郎主教さま、この7カ月、不安の中にある私たちの中部教区を管理くださいました入江修主教さまに、心からの感謝を申し上げます。また、私は、当面の間、立教大学等の働きも継続しますが、土井宏純司祭には主教補佐職をお願いするのをはじめ、中部教区教役者、信徒のみなさまのお支えをいただきながら、精一杯に主教職を担っていきたいと考えています。どうぞ、よろしくお願いいたします。
 さて、私ごとになりますが、私の末の息子は、岡谷の病院で生まれました。帝王切開でしたが、生まれた際に息をしておらず、重度の仮死状態でした。すぐにICUで治療が行われましたが、お医者さんから見せられたMRIの脳の写真は真っ白で、先生からは、一次的な治療はできず、二次的な治療しかできないことを告げられました。
 そのすぐ後の主日の福音書は、漁をしていたペテロたちが、イエスさまから弟子として招かれる場面でありました。その福音を黙想していた時に、ひとつの気づきが与えられたのです。「人をとる漁師が持つ網とは、どんな網なのだろうか」と。「人をとる漁師が持つ網」は、神さまの愛の糸で紡がれていて、その網からは、誰ひとり決してこぼれ落ちることのない網なんだと。たとえ私の息子が、これからさまざまな重荷を背負うことになったとしても、その愛の網の中で、しっかりと支えられて、決してこぼれ落ちることはないのだと。
 イエスさまは、そんな「網」を持つ漁師になれと、弟子たちに、そして私たちに命じられたのではないか。そして、ご復活なさったイエスさまが、
ペテロたちに漁をしてこいと言われたのは、弟子たちが、しっかりと、その「網」を持つ者となっているかどうか、確かめられたのではないか。事実、網は153匹もの大きな魚でいっぱいでした。しかし、それほど多くとれたのに、網は破れていなかったのです。主イエスは、弟子たちが確かに誰ひとりこぼれ落ちることのない愛の網を持つ者となったことを確かめられて、天へと昇られた。そんな気づきを与えられたのでした。
 私たちが、主に従い生きること、すなわち神を愛し、人を愛する者となる、ということは、このような意味で、「人をとる漁師となること」なのだと思います。「そこから誰一人としてこぼれ落ちることのない網を持つ者となれ」。それが主の教えです。この網を精一杯に張ることこそが、主イエス・キリストの弟子たることのしるしに他なりません。
 みなさんもまた、主から召された「人をとる漁師」です。神さまの愛と信頼の糸で紡がれた網を持つ漁師です。そこからは誰一人としてこぼれ落ちることがないように、しっかりと紡がれた網を持つ者です。みなさんお一人おひとりが持つ網と網が結ばれて、そしてついには「中部教区」という一つの豊かな神さまの愛の交わり、〈ネットワーク〉となることができますように、ご一緒に祈り、働いてまいりましょう。

悪しき祭司

「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」
(ルカ10:31「善いサマリア人」より)

 7月、車で大きな交差点に差し掛かろうとした際、ある光景が目の前に飛び込んできました。進行方向に向かって右側、その交差点の真ん中で、こちら側にフロントガラスと屋根を向けて一台の車が横転していたのです。事故直後で、交差点で信号待ちをしている多くの人々が携帯で撮影し、まだ、警察も来ておらず、交通整理も行われていませんでしたが、事故車に人影はなく、事故に遭った人は既にどこかへ退避している様子でした。沢山の車が徐行で通り過ぎ、私の車のすぐ前の車が事故車の隣を通り過ぎようとした時、その車が突然、おかしな行動をしました。その車は事故車の真横で一瞬急ブレーキをかけ、徐行のスピードを更に減速させ、ハザードランプを点滅させながら事故車の隣を通り過ぎました。その直後、車を一瞬、路肩に寄せたかと思うと、再び道路中央に戻り、走り去っていったのです。

 すぐ前の車の不可解な行動に私は肝を冷やし、眉間にしわを寄せつつも、そのまま車を徐行させ、次は私自身が事故車の真横を通り過ぎました。ハンドルを握りつつ、事故車を横目に見た瞬間、すぐ前を走っていた車の不可解な行動全ての意図に、ハッとしました。横転していた車の車内は大きく膨らんだ2つのエアバッグしか見えませんでしたが、そのエアバッグがうごめいていたのです。「まだ車内に人がいる!!」。その瞬間、私は「助けなきゃ!」と思い、咄嗟にブレーキを踏みました。そして、車を路肩に寄せるため数メートル徐行しました。しかし、その数秒のうちに、私の思いは変わりました。「交差点の中で車を停めたら大渋滞だ」、「自分一人ではどうにもできない」、「すぐに警察が来て、安全に助け出してくれるだろう」と。そして、私は運転していた車を道路中央に戻し、そのまま車を走らせました。そして、自分に言い聞かせました。「今から納骨式がある。そこに私が遅れる訳にはいかない」と。

 「善いサマリア人」の譬え話では、私たちひとり一人に「行って、あなたも(*あの善いサマリア人と)同じようにしなさい」(ルカ10:37 *は筆者加筆)と語ります。しかし、善いサマリア人のようになることを求められている私たちの現実は、なかなかその通りにはいきません。むしろ、私たちの現実は、追いはぎにあった人の向こう側を通り過ぎた祭司やレビ人と同じことの繰り返しではないでしょうか。「道の向こう側を通って行った」祭司と全く同じである司祭…、私自身。その自分自身を見つめながら、「道の向こう側を通って行った祭司もレビ人も、あれから私と同じように後悔したのだろうか?言い訳を自分自身に言い聞かせたのだろうか?」と思いつつ、こう思いました。

 「大切なのはゼロから善いサマリア人になることではない。祭司、レビ人としてマイナスから後悔し、懺悔し、そして、変えられて善いサマリア人になることである。それが私たちの現実に根ざしたみ言葉の受肉である」と。後悔から生まれ変わること。道の向こう側を通って行った祭司もレビ人も、その後、変われたのでしょうか?その変化を信じることこそが、罪人である私たちの大いなる希望なのではないでしょうか。

司祭 ヨセフ 下原太介(主教座聖堂 名古屋聖マタイ教会牧師)

北信五岳のもとで

長野県に赴任して2年が過ぎました。新生病院のある小布施町は、山あいの、花に囲まれた里といった感じのところです。病院からは、地元の人から「北信五岳」と呼ばれる山々を眺めることができます。飯綱山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山。それぞれが美しく、個性的な姿かたちをもっています。

堂々と佇んでいる、山の姿。季節ごとに変わりゆく緑に彩られつつ、変わることのない、その安定に魅かれます。山々はまるで、イエスの弟子達のように、私には感じられます。復活のイエスに出会って人生を変えられ、生きることの確かな拠り所を得て、信仰の旅路を歩き通した、諸先輩の姿のようにみえてくるのです。

私はこの山々のもとで、病院のチャプレンとして働いています。「病気と向き合っている患者さんやご家族と過ごす」という役割をいただいたことを、私は嬉しく思っています。その一方で、慌ただしい毎日の中、ふと自分が、足元ばかり見つめて歩いていることに気付きます。

夕の祈りを終えて職場を出るとき、「今日の働きを終えることができた」という安堵感と共に、今日病棟で出会った人や、見送った人のことを思います。交わされた言葉や、共に過ごした時間を思い起こし、「あれで良かったのだろうか」「こんな挨拶をしてみよう」「明日はどうしようか」などとあれこれ考え、頭がいっぱいになったまま家路につくことも少なくありません。

しかし、私の思いを越えて、目の前には、広々とした夕暮れの山脈の景色が広がっています。鳥の鳴く声が聞こえて、
顔を上げると、山々が雲をまとって、遥か向こうから見下ろしています。何も言わず、穏やかに、その場所にそれぞれに在り続ける山々の姿が、私の気持ちを解きほぐしてくれるのです。

かつて新生療養所(新生病院の前身)で看護師長を務めていたカナダミッションの宣教師、ミス・パウルは、「目を上げて、私は山々を仰ぐ」(詩編第121編1節)から始まる詩編を好んでおられたそうです。同じ景色を、ミス・パウルも眺められたのかと思うと、この場所で患者さんの看護のために人生を捧げた彼女に、時を越えた親しみをおぼえます。

6月より礼拝が再開し、信徒の皆様との祈りの時間が再び持てるようになったことは、心からの喜びです。夕の祈りに参加してくださる方々にも、力をいただいています。北信五岳のような確かさに憧れつつ、決してそうはなれない私ですが、本当はいつも、確かな存在に、そして信仰の家族である兄弟姉妹や、職員、ボランティア、患者さんやご家族など、沢山の人達に手を引かれて歩いているのです。

今日も私のことを、笑顔や嬉しそうな顔、苦しみに満ちた顔、悲しい顔、怒った顔、寂しげな顔など、様々な表情で迎えて下さる方々が、待っています。生きることの確かさは、やはりそれらの方々と一緒に、一日を精一杯過ごすことから生まれてくるのでしょう。

感染症の流行や大規模な自然災害が、今世界中の人々を恐れと不安の中に巻き込んでいます。しかし、目を上げて、「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」(詩編第121編2節)という願いを持ち続け、皆様と手を取り合い、歩んでいきたいと思います。

執事 洗礼者ヨハネ 大和孝明
(新生礼拝堂牧師補、新生病院チャプレン)

管理を委嘱されて

 中部教区の皆さま、この度、10月までの半年余りの間、中部教区の管理を仰せつかった入江です。どうぞよろしくお願いいたします。
 昨年11月の中部教区定期教区会での主教選挙で西原廉太司祭が選ばれ、中部教区の皆さま共々、3月の按手・就任式を喜びのうちに待っておりました。
 ところが、思いも寄らず、新型コロナウイルスの感染が広まり、按手・就任式は5月2日に延期となりました。そして、それに伴い、首座主教より管理を委嘱されました。
 当初は4月から5月2日迄の1か月ということで、委嘱をお受けしました。
 ところが、その後、感染はますます拡大し、主教按手・就任式は10月24日まで再度の延期ということになり、正直、少々戸惑いましたが、既にお受けしたことでもあり、引き続き10月までご一緒させていただくことにいたしました。
 さて、私の出身地は横浜なのですが、実際に生まれたのは長野県の小布施です。母方の実家が小布施にあり、母は里帰りをしてそこで私は生まれました。
 小学生の頃、夏休みに帰省ラッシュの中、上野駅で何時間も列車を待って小布施を訪れたことを覚えています。
 戦後は、伯母が当時の新生療養所で看護師をしていたこと、カナダから来られていた医師のことなどを母から繰り返し聞いています。
 久保田純一司祭は叔父に当たり、飯山復活教会に赴任していた頃、毎年、夏休みに1週間ほど従妹とそこで過ごしたもので、その頃、司祭館の縁側にはたくさんのクルミの実がありました。
 そのような懐かしい中部教区の管理を仰せつかり、教会をお訪ねする機会を楽しみにしていたのですが、ウイルスの感染は未だ収束に至らず、中部教区でも皆さまがいっしょに集まって礼拝をささげることができない状況が、なおしばらくは続くようです。
 そうした中で、皆さまがそれぞれの場所で心を合わせて祈りをささげ、み言葉に聞くことは、改めて私たちの信仰生活にとって大切なものとなっています。
 教役者はそれぞれ遣わされている教会で、主日を含めて日々の定時に礼拝をささげていますが、信徒の皆さまも、離れていても祈祷書と聖書を開き、一緒に祈りの時を持つことによって主にある豊かな交わりを保つことができると思います。
 その時はぜひ声に出して祈りをささげ、また聖書のみ言葉を読んでみてください。静かに黙読されてももちろんよいのですが、目で読み、それを声に出してその声を耳で聞くことで、一つ一つの祈りやみ言葉がよりいっそう確かなものとなって心に留まっていくことでしょう。
 困難な時ほど人間の本当の姿が現れます。このような時こそ、私たちが常に祈り、そして聞いたみ言葉に忠実に歩み、互いの痛みに心を砕き、他の人びとと共に助け合い支え合って、このような困難をご一緒に乗り越えて参りましょう。
 新主教の誕生までの間、どうぞご一緒ください。
 皆さまの上に、主の慰めと励まし、そして導きと御守りが豊かにありますようお祈りいたします。

管理主教 イグナシオ 入江 修
(横浜教区主教)

聖霊降臨日・特別メッセージ

2020年5月31日
主教被選者 司祭 アシジのフランシス 西原廉太

 

[以下動画の内容をテキストで掲載]

 おはようございます。私たちはペンテコステ、聖霊降臨日を迎えました。本日は、聖霊降臨日についてご一緒に黙想の時を過ごしたいと思います。

 聖霊降臨日の礼拝の起源は大変古いものです。4世紀頃、エテリヤ(エゲリヤ)と呼ばれる女性が、聖地、エジプト、小アジア、コンスタチノープル一帯の巡礼の旅をしました。その記録、紀行文のようなものが現在でも残されております。それは、『エテリヤ(エゲリヤ)の巡礼記』と呼ばれていますが、11世紀以降、所在が分からなくなっていたのですが、1884年に、スペインのガムリーニという人によって再発見されました。その『エテリヤの巡礼記』には、4世紀当時のエルサレムでは、どのような礼拝が守られていたかが書かれています。それによりますと、聖地では、エピファニー(顕現日)、イースターと共に三大祝日として、今日のこのペンテコステ(聖霊降臨日)が守られていたようです。

 西方教会でのペンテコステの礼拝は、当初は立ったまま行われていました。そして、礼拝の中ではアレルヤ唱が何度も唱えられ、また、少なくとも13世紀位までには、“Veni Sancte Spiritus”(「聖霊よ、おいでください」)という短い歌(セクエンティアと言いますが)が繰り返し歌われるようになりました。“Veni Sancte Spiritus”(「聖霊よ、おいでください」)と繰り返し歌いながら、人々は本当にキリストの息、神の息をその身に感じながら、ペンテコステの祭りを祝っていたのです。

 本日の聖霊降臨日の福音書である、ヨハネによる福音書第20章19節以下には、イエスさまの弟子たちが最初にこの聖霊を受けた出来事が描かれています。イエスさまが十字架に架けられ、息を引き取られ、そして墓に葬られてからまだ三日しか経っていない時のことです。弟子たちは、一つの隠れ家に集まり息をひそめていました。彼らもまたイエスの「一味」として追われる身であったのです。彼らは身の危険を感じ、ぶるぶると震えていました。福音書にもこのように記されています。

 「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」

 彼らは、本当に恐ろしかったのです。不安と絶望に打ちのめされていたのです。ところがその時、驚くべきことが起こりました。イエスさまが、弟子たちの真ん中に立っておられるのです。そして、こう弟子たちに語られました。

「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」

 そのように語られてから、イエスさまは、「聖霊を受けなさい」と、弟子たちに息を吹きかけられた、と記されています。

 「聖霊」とは、主イエスの「息」なのでありました。確かに、聖霊とは「息」であります。ヘブライ語で「聖霊」は、「ルアッハ」と言います。これは「息」あるいは「風」を意味します。聖霊とは神の息であり、神の風であります。何か体に受ける力、エネルギーのようなものです。
 主イエスの息、聖霊を受けた弟子たちは、この瞬間から、生きる力を回復します。希望を取り戻します。あれほどまでにも、不安と絶望の内に震えていた彼らが、死んだようになっていた彼らが、命を回復したのです。そして、弟子たちは、大胆に主イエスをキリストとして証ししていきます。この力こそが聖霊です。キリストの息、神の息なのです。
 イエスの十字架上での死によって絶えたはずの主イエスの福音は、こうしてよみがえりました。神の息を受け、聖霊を体に満たしたこの弟子たちは、再び福音を宣べ伝えていく勇気を取り戻しました。

 聖霊は、打ちのめされた者、絶望の淵にある者、痛み、苦しみにある者、疲れた者に与えられる生きる力です。私たちが”Veni Sancte Spiritus”(「聖霊よ、おいでください」)と唱える時、私たちは、神の息に満たされ、苦しみや疲れは癒され、明日への希望と勇気が備えられるのです。
 預言者エゼキエルがイスラエルの罪に満ちた現実に直面し、腰から砕け落ちた時、神はエゼキエルにこう言われました。「人の子よ、自分の足で立て。」すると、聖霊がエゼキエルの中に入り、エゼキエルを自分の足で立たせた、と書かれています。神の聖霊が息のように彼らの体に入り、自分の足で立たせた、のであります。

 さて、実は本日の福音書には、もう一つ非常に大切なことが記されています。それは、20節にあります。イエスは、「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」という箇所です。イエスさまは手とわき腹を見せられた。すなわち、十字架上で釘を打ち抜かれた手とわき腹の傷跡をお見せになったのです。
 本日の福音書は23節までが読まれましたが、すぐあとの24節以降には、トマスがこのイエスのわき腹の傷に直接手を当てて、主を信じる物語が置かれています。イエスさまは、トマスにこう言われます。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」

 そして、トマスはうめくように、振り絞るように言葉を発します。

「わたしの主、わたしの神よ。」

 トマスに声をかけられたイエスは、栄光のイエスではありませんでした。復活されたイエスとは、光輝く天の衣をまとい、金の王冠をかぶったイエスではなかったのであります。トマスと弟子たちの前によみがえられた主とは、手に傷を負い、わき腹から血を流し、荊の冠をかぶらされたままの姿であった、のであります。おそらくトマスは実際に、その主の傷に、自らの手で触れたのだと思います。

 主イエス・キリストは、傷を負われたまま、よみがえられました。その傷とはいったい何であったのでしょうか。イエスさまは、その短い公生涯の間、虐げられた人々、病める人々、体の不自由な人々、捨て置かれた人々の痛みと傷を自ら負われ、ついには十字架に架かられました。そして、その無数の痛みと傷を担われたまま、主イエスはよみがえられました。まさに、この事実に、トマスはただ、「わたしの主、わたしの神よ」という、この世で、最も短く、同時に最も完全な信仰告白の言葉を発することができたのでありました。

 また、イエスさまの手とわき腹の傷は、他ならない、私たちの傷でもあります。イザヤ書第53章には有名な「苦難の僕」の記述があり、よく、イエスの十字架はこの「苦難の僕」とのつながりの中で考えられます。このような記述です。

「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」「彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに」。

 イエスさまは、私たちの苦しみ、悲しみをこそ担われ、それゆえに十字架の上で「荊の冠」をかぶせられ、そして、私たちの痛みと傷を負われたまま、よみがえられます。私たちは、それゆえに生きていくことができるのです。

 弟子たちは、主の息をその身に感じ、そして主の傷にその手で触れることによって、「わたしの主、わたしの神よ」と証しすることができました。主イエス・キリストの息と傷についての弟子たちの記憶が、その後弟子から弟子へと伝えられ、それがやがてキリストの体としての教会となっていきました。そういう意味では、「教会」とは「イエスの息と傷を記憶し続ける共同体」であると言うことができると思います。その記憶は、今や全世界に伝えられました。2000年の後の今、私たちが聖霊降臨を祝っているのも、主の息と傷についての、弟子たちの具体的な記憶が絶えることなく受け継がれてきたからに他なりません。

 今、私たちは、新型コロナウィルス感染症の蔓延のために、今日の聖霊降臨日も、共に礼拝堂に集まることができません。私たちは、教会で、お互いの息も感じることもできず、「主の平和」を互いに手を触れ合いながら交わすこともできません。それは教会としては大変寂しいことです。
 けれども、私たちは、そのような状況であるからこそ、2000年前の主の弟子たちを思い起したいのです。彼らも、イエスさまの息を感じ、その傷を手に触れることはできなくなりました。しかし、彼らは、そのあと、主イエス・キリストの息と傷を、「記憶」として、その後の者たちに受け継いでいったのでした。いつかまた、イエス・キリストが、私たちのもとに来られるその時まで、イエスさまの息と傷を記憶しながら、ひたすらに「待つ」ことに生きたのでした。私たちも、このような時であるからこそ、主イエス・キリストの息と傷についての弟子たちの「記憶」を、深いところで黙想したいのであります。

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 さて、ここに、私が大切にしている一冊の写真集があります。『家族の日記』と題された、小倉英三郎さんという方が撮られたものです。小倉さんのおつれあいである亮子さんが、27歳の若さでガンを宣告され、そして亡くなるまで、小倉さんは最愛の妻と二人の幼い子どもたちにカメラを向け、シャッターを切り続けられました。それが一冊にまとめられたのが、この写真集です(小倉英三郎『家族の日記』未来社、1995年)。
 池袋の文芸座という名画座のアルバイトを通して出会われたお二人は、結ばれて鉄平くんという男の子を授かり、幸せな生活を送っておられました。ところが、二人目の子どもがお腹の中にいて、もう直に出産という時に、亮子さんは、第3期の乳ガンであることを宣告されます。出産が済むまでは抗ガン剤などの治療を受けられずに、病状は進行してしまいました。

 小倉さんが写真集を作ろうとされた理由が後書きに書かれています。

「彼女が出産を控えた微妙な時期に、深刻な病気を宣告された、ということもあって、私たちには選択の余地も時間的な余裕もありませんでした。私たちは、お互い心の整理もつかぬまま、先行していく運命に追いつこうと必死でした。今まであったはずの日常生活はもうありませんでした。だから行き先のわからない運命にとまどいながらも懸命に生きている、亮子や子どもたちの日々を記録することで、家族の存在を確認したかったのだと思います。亮子にしてみれば、生まれてくる赤ちゃんのこと、1年と10ヶ月、片時も離れずに暮らしてきた鉄平のこと、自分の乳房を失うこと、そしてそんな代償をはらっても油断できない病気のことに、どれだけ心を痛めていたかわかりません。母として、妻として、そして女としてあった自分の居場所を見失って心細くしていたと思います。」

 写真集は長男の鉄平くんと、生まれたばかりの青佳(はるか)ちゃんを抱きながら病気と闘う亮子さんの姿が残されています。結局、1994年10月4日のことですが、28歳の誕生日を10日後に控えたその日、早朝、亮子さんは亡くなられました。

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 たくさんの写真の中でも、私が最も心を揺り動かされるのが、この写真です。病院から一時帰宅を許された亮子さんが、電車の中で、鉄平くんをぐっと抱きしめて離さない写真です。今日、この写真集をご紹介しようと思いましたのは、私はこの1枚の写真からいろいろな黙想を促されたからです。

 イエスさまが弟子たちに息を吹きかけられた時、きっとイエスさまはこんな風に弟子たちの一人一人をぐっと抱きしめられていたのではないか、と思うのです。息は、遠くからでは決して届かない。こんな風に、抱きしめられながら、鉄平くんが体の温もりの中、亮子さんの息遣いをその頬に受けたように、弟子たちもまた主イエスの息づかいを感じていたのではないか、と思うのです。

 小倉さんは、あるエッセーの中でこう書かれています。

「妻の手術の傷を直接この手に触れ、そして直面する運命にひきずられるように写真を撮り続けた。そして今、私の手は妻の傷をはっきりと覚えている。一枚一枚の写真は、確かに亮子が生きていたことの大切な証しである。いや今そうやって、亮子は私たち家族の中に生きているのだ。」

 写真評論家の飯沢耕太郎さんは、この写真集を、『終わらない家族』と評されました。

 弟子たちも、もはやイエスさまとじかに触れあうことが許されなくなったけれども、しかしながら、主イエスの傷をその手にはっきりと覚え続けたはずです。そうやって、主は弟子たちの中に生き続けたのです。確かに、私たちの教会とは、主イエスの息と傷を記憶し続ける、『終わらない家族』であるのかも知れません。私たちも、主の息を頬に感じ、この手に主の傷を覚えて生きていきたい、と思うのです。♰