私たち聖公会が行う聖餐式がローマ・カトリック教会による第二バチカン公会議の影響を受けつつ、東面礼拝から対面礼拝へと変遷し、今60年近くが経とうとしています。
全ての礼拝者が愛と信仰を合わせ、一つの共同体として〝日出ずるところから来られる神〟(エゼ43章1節~2節)と対峙し、同時に自らの「心も体も生きた供え物」として献げることを象徴する東面礼拝の伝統的礼拝理解に、最後の晩餐で使徒たちが主イエスを中心として共に同じ食卓を囲み、神の家族としてみ言葉と祈り、そして聖餐を分かち合った真理を祈念し、今その聖卓に私たち自身も招かれ続けていることを感謝する対面礼拝の聖書的礼拝理解が織り重なり合う神秘の祭壇の中で、私たちは毎週祈りを捧げることができています。これほどまでに深淵で、美しく、整えられた祈りの歴史の積み重ねを私は心から誇りに思います。そしてその誇りと喜びを胸に目を輝かせ、私は毎回皆さんと共に聖卓を囲み、皆さんを見つめ、皆さんと私が見つめ合う、その只中に主イエスを探します。
しかし、皆さんを見つめる私の目に映るのは、いつも皆さんのつむじばかりです。私が求める皆さんの眼差しは、いつも祈祷書に注がれ、私は皆さんの瞳から信仰の喜びも希望も、生きる苦しみや悲しみも、そして祈祷文の思いを遥かに超えて捧げられる祈魂の叫びも見出すことが難しく、自らのただ一つの視線が聖堂を彷徨う寂しさを感じます。そして心の中で〝対面礼拝ではなく書面礼拝では?〟という思いが過ります。
ある早朝、私はそのような思いを心の片隅に押し込みながら聖餐式を司式し、式は陪餐へと移り、信徒の方々が私の前に一列に並びました。私はその列の前を聖体を分餐しながら進み、ある求道者の方へ祝福を行いました。すると祝福を受けたご本人が「アーメン」と唱えるのと同時に、その方の隣にいた信徒の方も小さく「アーメン」と唱えている声に耳を奪われました。そして平静を装いつつも、心の中では本当に大きな感動を覚えていました。〝凄い!あの方の「アーメン」という祈りには、自分と神との縦の関係だけではなく、自分と隣人との横の関係がはっきりと存在しており、自分が神からの祝福と恵みを受けるためだけに祈るのではなく、隣人が神からの祝福と恵みに与ることができるようにと、その隣人の祈りに自らの「アーメン」(私も、あなたが神からの祝福と恵みを得られるよう切に願っている。あなたのために「アーメン」)を寄り添わせている。これほどまでに生き生きとした共同体としての祈りを耳にしたことがない〟と。
私たちが東面であろうと対面であろうと、そして書面であろうと、礼拝において何よりも大切にしていることは、私たちが共にいるということを肌身と存在の底から実感し、祈りと心と信仰を通わせ合い、繋がり合い、自分自身と隣人の存在の息吹と祈りの息遣いを活き活きと色鮮やかに、そして時に生々しく感じ合うことなのではないでしょうか?このことが大切にされ、神と自分、そして隣人の繋がりが鼓動のように強く脈打ち振動する時、縦と横、十字に広がる「アーメン」の響きが私たちを包むのです。
だからこそやはり、こう思います。〝時には祈祷書から目を離し、顔を上げ、天を仰ぎ、祭壇を見つめ、隣人の祈遣い、生き様に自らの「アーメン」を寄り添わせてみては?〟と。
司祭 ヨセフ 下原太介
(立教学院出向)
