『観光客の祈り』

「こんなに活気のある教会になっているとは驚いた。 以前来た時はこのまま朽ち果てていくのかと残念に感じたものだ」 と、 25年ぶりにショー記念礼拝堂に来られたという方から言われました。 私は 「いや~、 夏の間だけですよ」 と遠慮がちに答えながらも、 内心はとても嬉しく思いました。
今春から同礼拝堂の定住牧師として過ごしていますが、 避暑地軽井沢の発祥地とは言えここまで観光客が多いとは正直想像していませんでした。 おそらく全国に約300ある日本聖公会の教会の中でも群を抜いているでしょう。 特にゴールデンウィークと夏期 (7月下旬~9月中旬) は、 連日数百人の観光客が見学に訪れます (というよりは押し寄せてきます)。 国籍も様々で、 日本語や英語以外の言語もあちこちで飛び交うこともあり、 その情景は聖霊降臨の出来事を彷彿とさせる感があります。 「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、 ほかの国々の言葉で話しだした」 (使徒言行録2:4)。 このように書くと 「何と羨ましい!」 と思われる方も多いでしょうが、 実際は心無い観光客の言動に困惑させられることも度々です。 あまりの非礼な行為に怒鳴りつけてしまうこともあります (神様ゴメンナサイ)。 しかし、 殆どの良識的な観光客は静かに礼拝堂に入り、 黙想し祈りをささげます。 その自然な姿にこちらの方が感動を覚えることも少なくありません。
先日もこんなことがありました。 迷彩服を着た一人の男性がキョロキョロしながら礼拝堂の前を行き来しています。 見るからに怪しげな様子に、 私は庭を掃除している振りをしながら注意を払っていると、 礼拝堂に誰も居なくなったことを確認した彼は中に入ると迷うことなく一番前まで進み、 椅子にも座らず祭壇の前に跪きました。 そして突然外まで聞こえるような大声で何かを唱え始めたのです。 未だにそれが何語であったのか分かりませんが、 とにかくその祈りと思われる言葉は15分ほど続きました。 勿論その間は、 私も含め誰もその光景に圧倒されて礼拝堂に入ることは出来ませんでした。 しかし、 その後礼拝堂から出てきた彼は目に涙を浮かべながら去っていったのです。 言葉の問題もあり、 司祭として声一つ掛けられなかったことを後悔していますが、 おそらく異国の地で何か苦しいことに直面しているのでしょう。 あるいは母国で何か辛い出来事が起こったのかもしれません。 ただ確信をもって言えることは、 神様は彼のその切実な祈りを間違いなく受け止められたということです。 彼だけではありません。 本当に多くの人々が毎日この礼拝堂で神様と向かい合い、 慰めを受け、 勇気を得て帰っていきます。 礼拝堂に備えられている来訪者ノートがそのことをよく物語っています。
礼拝堂を出て3分も歩けば、 そこは華やかで賑やかな旧軽銀座と呼ばれるショッピング街。 今日も休暇を楽しむ人々で溢れています。 しかし、 一人一人はそれぞれに悩みと苦しみを抱えているのも事実です。 私たちクリスチャンだけでなく、 多くの人々にとって、 自分の思いのすべてを素直に神様に表現できる場として今後もこの礼拝堂が用いられていくことを願って止みません。

司祭 テモテ 土井 宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)