見えない光を求めて

今日、降誕劇は教会でもなかなか見られなくなってしまいましたが、クリスマスになると教会の幼稚園では、今でも降誕劇を行うところが多いと思います。年長児のクラスを中心にして主な役を振り分けて演じています。日頃の練習の成果により、見ごたえのある劇となっています。
それを見ていると色々なことを考えさせられます。この1年、社会で起こった様々な出来事、地震や豪雨のため引き起こされた、自然災害により困っている人々、地域紛争や内戦により避難せざるを得ない人、交通事故やその他人々によって起こされる様々な事故や事件による被害者など、世の中には不条理な出来事によって苦しむ人々が多くいることを考えさせられます。
そして原発の事故を考えると動物や植物といった自然そのものについても考えさせられます。そうした出来事は人間の努力で解決できそうなこともあれば、できないこともあります。お互いがもうちょっと協力して、譲り合えば何とかなりそうなこともあります。結局は一つ一つのことを当事者が丁寧に対応していくことになるのでしょうか。
日々伝えられる様々な情報の中で立ち止まってみて改めて考えてみると、「私たちの社会は一体何を目指しているのでしょうか」。目の前の出来事に何かと右往左往しているだけのような思いもします。右往左往する中でいつの間にか何を大事にしているかが見えなくなってしまっていないでしょうか。政治の世界では、好印象を与えるような方向に人が流れ肝心の政策がきちんとしないで人々に不安を与えるようなことになったり、産業社会では、日本を代表するといわれるような大きな会社で基準を満たしていないというようなことが起こったり、社会の基軸そのものが揺らいでいる印象があります。多くの人に、常と変わらないもの、灯台の光のようにあることが安心につながる、そうしたものを求める思いもあります。
私たちは何を目印にして生きようとしているのでしょうか。神様は、人々を救うために御子をこの世に遣わされました。そのことをヨハネは次のように書いています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハ1・4)しかし、「暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ1・5)とあります。私たちの混迷する現代社会は「暗闇」の例えそのものの様子とならないでしょうか。物質文明はどんどん発達していく中で、精神性がなおざりにされていて大切にされるべきことが共有されていないと思われます。そうした中で私たちは改めてヨハネがその先に書いた言葉と出会います。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ1・12)
降誕劇を演じる子どもたちの真剣さは、見る人々を引き付けます。そこには世の救い主の降誕を真剣に待ち望み祝う姿があります。改めて私たちも心を澄まして、常に変わらずある光を見つめつつ新しい年の歩みを踏み出したいと思います。

弱い人たちに寄り添うということ

思いがけないことに、この春から社会福祉法人名古屋キリスト教社会館の理事を引き受けることになりました。これまでは野村潔司祭がされていたので、これも野村司祭が残された数多くの役職の一つで「置き土産」ということになるのでしょうか。しかし、実は生前、まだ病気になる前に一度本人からも訊かれたことがありました。その時は軽い感じの話だったので、そのままで済んでいたのです。

しかし、今回後任を引き受けるについては、実はもっと身近な理由があったのでした。

名古屋キリスト教社会館は今から55年前伊勢湾台風の後、全国から集まったキリスト者の協力(当時まだボランティアという言葉はなかった)と地元の人たちによって設立されたもので、私の母は、当時の理事の木島徳治司祭の紹介で保育所の最初の保育士の一人だったのでした。ですから近所に住んでいた私の家族は、その後の台風の時に、何度か社会館に避難したことがあり、大風によって向かいの中学校の屋根が波を打っているのを見ていたものでした。

私自身は、その後大学進学を機に名古屋を離れてしまい、また家も市内の別の地域に移ってしまったので自然に縁遠くなっていました。しかし、今回野村司祭の後任の話があった時は、これはまあ運命の導きというか神様の御心だと思いました。

その後実際に会議に出て思わされたことですが、この社会館の働きはキリスト者にとって、聖公会にとって大切な働きだということでした。社会館は今も日本基督教団、ルター派、聖公会から理事が出ています。その働きは保育、障がい者支援、放課後保育などの児童生徒支援、医療支援、老人介護、地域老人支援など、社会館という一つの法人の中に名古屋市内の広い地域に16の施設活動があり、そこで働く人たちは今や4百人を超えています。それは55年の間に「社会的に弱い立場にある人たち」に寄り添っている間に、このように増えて大きくなっていったのです。ですから、おそらくは全ての弱い立場の人たちに寄り添う活動を担っていると思われます。災害を機にこのように成長していった福祉活動はきっと全国でも珍しいと思います。

「もっとも小さい者にする」ということを文字通り具体的に実行するということは日常的にはなかなかできないことです。しかし、ここでは名古屋の教会全体の協力のもと「いのちといのちが響きあう」を合言葉に活動が行われています。改めてそうしたことをきちんと認識し活動を支えていきたいと思います。

多くの社会福祉活動は行政の補助を受けて活動しています。しかし、こうした現場にも行政は効率化を求めてきます。障がい者支援の働きに対して通ってくる子供の出席率が82パーセント以上を要求してそれに合わせた補助金政策を取ろうとしている行政があります。

しかし、障がい者だからこそ毎日出席することには困難が伴います。福祉施設を新たに作ろうとすると今は周辺住民の了解を得るのになかなか大変です。一つの教会、一つの教派でできることは限られています。改めてこうした活動を支えていくことが大切だと思いました。

司祭 ペテロ 田中誠
(名古屋聖マタイ教会牧師、名古屋聖ヨハネ教会管理牧師)

『雪の下に春を待つ』

2月初めのこの時期、新潟、長野の地域は雪に覆われる日が多くあると思います。前夜からの雪が降り積もった早朝、除雪の道具を手にまっすぐ雪と向かい合うとき、全ての音が雪に吸収されてシーンという音が聞こえそうな感じがする中でひたすら作業にいそしみます。少しずつ明るさが増してくる周囲の中で雪の塊は薄く青い色を見せています。作業をする中で頭の中も雑念のない、澄んだすっきりした感じになっていきます。全てのものが白一色になっていますが、その雪の下には、確かに春が力強く準備を始めています。
教会の暦では、被献日から大斎に向かっていくこの時期、自然の暦もやがて来る節分から立春を待つことになります。雪に閉ざされた自然の摂理の中で全てのものはじっと力を蓄えているのかもしれません。
イエス・キリストは、洗礼を受けられた後、最初の弟子たちに声をかけられます。そして安息日に会堂で力強く教えを述べ始められます。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マコ・1・22)と書かれています。イエス様が洗礼を受けられる前にどのように過ごされていたのかは知る由もありませんが、一旦、福音宣教の道を歩み始められると、ちゅうちょなくまっすぐに進んでおられます。おそらくは、力をためるのにじっと準備をされる時を過ごされたことでしょう。
今の日本は社会全体も冬の時代なのかもしれません。慢性的な経済不況、東日本大震災の被災地の復興、原子力発電所の事故による被災者のこと、沖縄の辺野古問題に代表される基地問題、周辺国との歴史認識問題、こういった社会問題が背景にあって生じる人間関係のゆがみなど、抱えている問題が多くあります。それぞれの問題に、直接向かい合っている人々は、日々努力していますが、全体としての解決にはなかなか向かっていきません。「面倒なことは後回しにする」といった考えに社会全体が陥ってしまうと何ともなりません。先ごろの選挙においても目先の経済問題に終始して、こうした社会的・根本的問題をどのように解決していこうとするのかは問題になりませんでした。一方で問題は長引くほど面倒になってくるわけで「後回しにする」といったことでいいわけがありません。先ごろの原子力発電問題講演会で、講師の岩城聰司祭は「神によって造られたいのち。神によって創造された自然。神によって与えられた平和なくらし」を守る、という2012年の日本聖公会の総会の声明についても触れられましたが、問題を自分の都合の良いように範囲を狭めて考えていいわけではありません。原発問題でいえば、問題が起こっても避難できない動物や植物、自然全体のことを考えていかなければいけません。
一つ一つのことについてきちんと考えていくこと、たとえいくらかの自己犠牲を伴うとしても根本的に解決しなければなりません。社会の問題は、私たちがすぐに解決できるということではありませんが、それに対応するための根本的考えと姿勢は、雪の下の芽のように、やがて来る春を信じて常に変わらないものを持ち続けたいと思います。

司祭 ペテロ 田中 誠
(名古屋聖マタイ教会牧師 飯田聖アンデレ教会管理牧師)

『わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。 』 

5月の子どもの日。はいはいしていた子どもがつかまり立ちをする。一生懸命歌をうたう。子どもがすくすくと育つのを見るのはいかにもうれしい光景です。また、自然の全てが生き生きと成長していく姿が見える野山の景色も美しく心洗われます。花が咲き、青々とした若葉が咲き競う木々。自然界が与えてくれる壮大な広がりは、青く澄んだ大空を含めて、私たちにゆったりとした豊かな気持ちと癒しの感覚を与えてくれます。そこでは様々な思いを抱き、様々な想像をめぐらすことができ、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩19)という聖書の言葉がしみじみと感じられます。一年の中で一番美しい季節が5月のこの時かもしれません。

しかし一方で自然は時に思いがけない災害を人にもたらします。今回の震災だけでなく、この冬の雪国の豪雪。思いがけない豪雨による水害など様々です。そして、そうした災害の後に「ノアの洪水」の後のように空いっぱいにかかった虹を見て救いを感じたり、再び廻って来た春を花々の開花に感じて生きる力をもらったり、そうした全てを含めて神様の恵みだと思います。

ところが、今回の震災で、そうしたこととは異質で、考えなければいけないと思われることはやはり原子力発電所の事故でしょう。先頃東京で行われた全国の代表者による原子力発電所の再開に関する会議で、多くの県の代表者が経済効率や電力不足を考えての発言をすることに違和感を覚えた福島の代表の方は早々に退席したそうです。その理由は、原発事故による避難の後、汚染地域に入った時に多くの牧畜農家の小屋にたくさんの家畜が死んだままになっていたり、放置された家畜やペットが野生化した姿を見た時、この世のものとは思われなかったという経験をして、「これはあってはならないことだ」と思ったからだということが新聞に書いてありました。人は神から離れて,その能力を伸ばし、社会的発展を遂げてきました。しかし、その一方でしてはならないことをしているかもしれません。私たちには、そうした全てのことを見通していく目が必要です。

「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。」

わたしの言葉というのは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)というものです。互いに愛し合うということは、身近な人々とのかかわりということは、もちろんのこと、今日の社会では、一人の人の日常生活が様々な面で広い範囲の人々と結びついていて多くの人が隣人になっています。そうなると社会全体の中で、便利で快適な生活を維持するために、別な所で悲惨な虐げられた生活をする人が出てきたり、住めない地域が出てきたりしても良いわけではありません。むしろ一時的には不便な生活を強いられることがあっても、すべての人が共に安心して暮らせる生活をすべきではないでしょうか。実際に社会全体が望ましい方向に進んでいけるようにするのは簡単ではありません。しかし、諦めてしまったら元も子もありません。

これからの社会をどのように作っていくのか、これからの社会はどうなっていくのか世界全体が問われていると思います。人間だけでなくすべての被造物が共に安心して暮らせる世界を実現していくことは人間の責任です。なぜならば、現在の状況を作りだしたのは人間であり、それを変えていくことができるのも人間だからです。

私たちには、目の前の穏やかな光景の向こうにある見えない所に広がっている大きな世界をも見通していく想像力の目が必要です。

司祭 ペテロ 田中 誠
(名古屋聖マタイ教会牧師)

『わたしのもとに来なさい』 

今年の冬は、ことのほか寒さが厳しい冬となりました。2月初めには名古屋でも積雪があり、雪深い飯山、上越、長岡では連日の大雪で除雪が追い付かない日々となり、昨年の震災とはまた別な意味で自然の力を思い知らされました。

そんな厳しい冬のさなか2月22日に今年の大斎は始まりました。復活日までの40日間、それぞれの思いを持って過ごされることでしょう。人は誰しも周囲の環境を抜きにして生きることはできません。厳しい自然環境に、あるいは仕事や家庭、様々な人間関係に向き合って過ごす毎日です。いくら努力しても、頑張ってもなかなか明るい日差しが見えてこない、というのが今日の日本に暮らす多くの人たちの実感なのではないでしょうか。

しかし、そうした中でも私たちは何かしら自らを力づけるものを見つけ出し明日への一歩を踏み出そうとします。それは、時には雪の間にのぞく晴れ間の青空であったり、幼児の元気な姿であったり、食事の時の季節ならではの魚や野菜であったりの、ちょっとしたことです。そして私たち信仰者にとって何より大事なのは、日々の中の祈りの時間です。夜寝る前に一日を振り返り感謝をし、暗い夜の間、主のみ翼の陰に休ませていただき、心身の新たな力の養いとし新たな朝を気持ちよく迎えられることをお願いする。朝起きた時には、新たな一日を主の見守りのうちに過ごし、よき日となることをお願いする。精神的にあるいは肉体的に自分の限界を感じるような日々の内では、自分の力では何ともできないことを祈りによって神様にお任せすることができます。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マコ8・34)この言葉は、必ずしも意識的に自分の特別な十字架を探すことではないと思われます。多くの人にとっては、日々の生活の中における様々な苦難を意味するといえましょう。それは自分とは切り離すことができないものでもあります。しかし、そうした苦難の日々と向き合いながら祈りを支えに過ごすことが「わたしに従う」ということではないでしょうか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタ11・28)主は、共に重荷を背負ってくださる、主は、耐えられないほどの苦難はお与えにならない、という言葉もあります。震災の被災地において、雪に閉ざされた多くの地において、あるいは逆に都会の中の人間関係の中において、また病気の人と共に過ごす家族において、それぞれの方が、それぞれの日々と向き合っています。そうした一人一人の方を覚えて祈り、また自分のために祈りましょう。

今年は雪国では雪解けの早春にイースターを迎えることになります。春の来ない冬はありません。雪が消えた大地からわずかにのぞく新たな芽、そうした光景に先の希望を置いて大斎節の日々を大切に過ごしていきたいと思います。

司祭 ペテロ 田中 誠
(名古屋聖マタイ教会牧師)

『歩きましょう 毎日を 人生を』 

二人の弟子がエマオに向かって歩いています。 エルサレムから60スタディオンといいますから11キロぐらいのようです。 歩いて2時間半ぐらいでしょう。 今、 私は直江津と高田の2つの教会、 幼稚園を毎日往復していますが、 丁度10キロです。 残念ながら車でです。
私たちが交通手段として歩くということは、 極めて少なくなっています。 日本において車と交通網の発達が、 社会に及ぼした影響は、 大きなものがあります。 私自身もかつて子どもの頃は、 今よりは歩いていました。 昔、 豊橋にいた時に教会学校に通うのに途中から市電を利用していたのですが、 だんだん慣れてくると、 帰りは弟と二人で歩いて帰り、 電車賃でお菓子を買ったものです。 1時間は歩いたでしょう。
人は歩いている時は、 他のことは何もできません。 頭の中で、 あれやこれやと考えるだけです。 二人連れであれば、 ひたすら話し続けて、 話の種がなくなれば、 後は黙々と歩くだけです。 しかし、 この肉体的行為と考える営みが、 人間に及ぼす影響には大きなものがあると思います。 洋の東西を問わず巡礼が行われる理由は、 そこにあるのでしょう。
私たちは、 常にこれからの教会の歩みについて考えています。 教会が社会に対して何が出来るのか、 多くの人に対してどのようにしたら関われるのか? その考えは、 なかなか発展せず、 いつも同じ所に留まっているような感じがあります。 それは、 二人の弟子が、 イエスを失って途方にくれているということと、 これから先の見通しが見えないということでは、 共通している部分があるかもしれません。
なすべきことの明確な答えはなかなか見出せませんが一つヒントと思えることは、 「歩き続ける」 ことです。 歩き続けるということをどのようなことの比喩として考えるのかは、 はっきりとは分かりません。 ただ、 私たちが信仰のゴールに向かって歩き続けることははっきりしています。 そして、 そこにいつの間にかイエス様が一緒に歩いてくださることも。
私たちは、 何かをしようとしたときに、 実行した先のことや、 その効果について考えます。 無駄なこと、 失敗することをついつい避ける習慣があります。 それは、 必要なことではありますが、 そのことが現実的な行動を生み出せず、 いつも同じ所に留まっているということにつながっているとも言えます。
4月は新学期、 幼稚園にも新しい子どもたちが入って来ます。 子どもたちは、 新しい世界に入って興味を感じたことに飽きることなく何度でも挑戦していきます。 そして、 一つ一つ出来ることが増えていきます。 そんな姿を見ながら、 そこから力を得ていきたいと思います。
雪国の4月は、 一斉にたくさんの花が咲きます。 水仙も、 梅も桜もパンジーも、 色とりどりです。 こうした自然の恵みも私たちの気持ちに新たなものを与えてくれます。 たまには車を降りて歩いてみましょう。 信仰の道を歩き続けることによって後になって、
「道で話しておられるとき、 また聖書を説明してくださったとき、 わたしたちの心は燃えていたではないか」 と思える時が来ると思うのです。

司祭 ペテロ  田中  誠
(高田降臨教会・直江津聖上智教会牧師)

『行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす』

幼稚園の子どものお迎えで、毎朝バスに乗っていると、途中で一面に水田が広がる真ん中の一本道を走ります。水田のはるか向こうにはこんもりと木が生い茂り、その向こうには山々が重なって見えます。5月中旬に田植えがされた水田には青々とした稲が風に揺れています。
幼稚園では4月に入園した子どもたちも、いつの間にか園になじんで友達を作り、体も成長しています。子どもたちの暗唱聖句「成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリ3・6)という言葉が実感される日々を過ごしています。
しかし、この景色の少し向こう、車で行けば1時間もかからない所に柏崎があります。幼稚園から海までは車で5分です。海の向こうには佐渡があります。ちょっと想像力を働かせると、そこには原子力発電所があり、蓮池さんと曽我さんがいます。新潟には横田さんがいます。決して穏やかな平和な光景に落ち着いてはいられないのです。こちらの新聞「新潟日報」を読んでいると、様々な問題が決して他人事ではないことを感じさせてくれます。
そして、ここ直江津に来てから知ったことで何より驚いたのは、新潟県は93年・94年と続いて自殺率日本一だったということです。最近は少し減って5位ぐらいです。しかし代わって1位になったのは秋田県です。50代と80代に多く、都市部よりも山間部が多いそうです。自然に恵まれた美しい光景は、その背景に様々な問題を隠しているのです。
政治や経済、あるいは様々な社会問題を抱える今日のような社会では、多くの人が何とかして自分が精神的安らぎを感じていたいという思いから、周囲に起こる問題と無関係でいようとして、関係性をどんどん切り捨ててしまいがちです。しかし、主は言われています。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタ22・39)私たちに求められていることは内向きに心の平安を求めることではなく、想像力を外向きに働かせて困難に直面している人たちを思いやり、共に悩み、共に苦しむことです。
もちろん私たち一人一人は決して強い人間ではありません。多くの人はそれぞれに悩みを抱えています。家族の問題、仕事の悩み等様々です。人はわずかなことでも多く悩むものです。しかし、そこで立ち止まっていても何も解決しません。問題を抱えつつ共に歩き続けて行くことが、人を成長させ問題の解決に向かわせてくれます。イエス様は弟子たちと歩まれ、弟子たちを派遣されました。そして、その歩みは今も続いているのです。そこに連なる私たちも歩き続けて行きましょう。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(ルカ10・27)という言葉は私たちを力づけ、自分にはまだまだ出来ることがあるという気持ちを抱かせてくれます。
体は一つ、私たち一人一人が出来ることは小さなことです。しかし、共に重荷を負い合い、共に歩むことは出来ます。主はそれを求めておられます。
私たちがすべてを尽くして日々歩いて行くとき、主は共にいてくださいます。
水田を渡ってくるさわやかな風に心を和ませながら、そんなことを考え、バスに揺られています。
執事 ペテロ 田中 誠
(直江津聖上智教会牧師補)