その道を歩む者はだれも平和を知らない(イザヤ書59章8節)

 8月は、6日の「広島原爆の日」、9日の「長崎原爆の日」、そして15日の敗戦記念日がありますので、平和について考えざるを得ない月です。
 「平和」と聞くときに、わたしたちはまず戦争をしていない状態を、思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、たとえ戦争をしていなくても、
餓えや貧困に人々が苦しみ、環境が破壊され人権侵害が起こるなど、「いのち」が蔑ろにされている状態にあるのなら、それは平和な状態であるとは言えません。
 奇妙なことに、わたしたち人間は「正義と平和」のためという、お題目のもとに戦争を始めます。この正戦論の立場からは、武力で「悪である敵」を、うち伏せること無しには「平和」は実現せず、「戦争」は「平和」への大切なプロセスですらあります。
 旧約聖書の戦いの考え方には、確かに〝万軍の主が戦う〟のだから、わたしたち人間も武器を持って戦うという考え方の流れを見ることが出来ます。しかし、その考え方はあくまでも支流にしか過ぎません。旧約聖書の戦いの考え方の本流は、〝万軍の主が戦う〟のだから、わたしたち人間は武器を手にして戦う必要が無いのだというものです。神さまが戦ってくださるのだから、その神さまに信頼するときに、わたしたち人間は武器を手に戦う必要がないというのが、わたしたちの信仰に他なりません。
 やはり「平和」の実現には、「戦争」は必要ありませんし、武力を用いて実現される「平和」は、「キリストの平和」には程遠いものだとしか思えません。なぜならば「正義と平和」とは、すべての人、ひとりひとりが大切にされる状態の実現だからです。
 世界経済フォーラム(WEF)が発表した、2023年のジェンダーギャップ指数は125位で、過去最低でした。驚くべきことにWEFの報告書では、世界の男女平等の達成は「2154年」になると予測されており、わたしたちが生きている間には、男女平等は実現しないことが指摘されています。また、難民・移民の人々をより困難な状況へ追い込む、入管法の改悪が6月の参議院本会議でなされました。LGBTQ+への理解を増進し、差別を解消することを目的としていた「性的指向及び性同一性の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」(LGBT法)も同じ参議院本会議で成立しました。このLGBT法も当事者からは「無い方がマシ」と評価されているように、むしろ差別することを容認する方向に働く可能性を持った法律が成立しています。このように、わたしたちの社会は、多様性を許容することが出来ない残念な状況に未だあります。
 多様性を、人と違うことを認められないのは、わたしたちの社会がひとりひとりを大切にしていないことの証拠です。互いの違いを認められず、受け入れ合うことが出来ない社会は、争いを生み、いのちを奪い合う生き方に、わたしたちを追いやって来たのです。
 改めてこの8月に、わたしたちの歩みが平和に向かう歩みになるように、ひとりひとりの人を大切にするには、どう変われば良いのかを考え始めたいと思います。

司祭 アンブロージア 後藤香織
(名古屋聖マタイ教会牧師)

性別の問い合わせは人権侵害です

 今年(2021年)4月18日、厚生労働省が履歴書の性別欄に男女の選択肢を設けないこと、またその記載を任意とする「様式例」を発表しました。
 これは性別などによる就職差別につながっていて、以前から問題視されていたことですが、やっと任意の記入であるというレベルにたどり着いたことの現れです。
 世界的には性別はもちろん、民族や年齢、容姿等での差別を防止するために、問い合わせること自体が人権侵害であり、違法行為であることが一般的な認識です。
 任意であると断れば性別欄を残しても問題がないというのは、今年3月に発表された「The Global Gender Gap Report 2021」でも、男女格差を測るジェンダーギャップ指数が、先進国中最低レベルの120位であった、いかにも日本らしい認識です。しかし、問い合わせをすること自体が人権侵害ですから、性別欄自体を無くすべきであったことはいうまでもありません。任意であると断りがあっても、性別欄自体が残っていては差別問題は解決しないことは明らかです。
 すでに従来の性別欄に「男・女」と書かれていて、いずれかに丸をする形の「JIS規格の様式例」は、2020年7月に削除されています。このように「男・女」の形での性別の問い合わせ自体が問題であるという認識は、少しずつですが拡がってきているのですが、問い合わせ自体が問題であるという認識を一般化させるためにも、今回の「様式例」で性別欄自体を無くすべきでした。残された「任意の性別欄」が引き続き、人権侵害を正当化するために使われないことを祈るばかりです。
 このように日本では、「差別しているという認識がなければ、差別ではない」というのが、一般的な認識なのかも知れません。しかし、そのような思いにわたしたちの人権意識の低さがよく現れています。
 以前から、聖公会の様々な申請書のフォームに、性別欄が設けられており、しかも「男・女」という性別二分法に基づいた問い合わせが圧倒的に多いことが、包括的な教会形成にそぐわないことを指摘して、選別欄について考えましょうと呼びかけてきました。しかし、統計報告でも男女別の記載などが無くなり、性別を問い合わせる必要自体が無くなっているにもかかわらず、いまだに礼拝出席簿は、男女別であったり、新しく来会された方への問い合わせフォームにまで性別欄があり、「男・女」いずれかにチェックをするような状態が一般的であることが、わたしたちの教会が「開かれた教会」でないことをよく表しています。
 何らかの行事の申請書のフォームで、性別を問い合わせるのは、宿泊を伴う場合の部屋割りや何らかの保険をかけるためのものでしょう。日本では、生命保険、疾病保険などの保険契約では、保険料や保障が女性と男性で異なっているのがいまだ現状ですが、レクリエーション保険などでは、性別の問い合わせは不要になっています。
 誰もが安心して居ることの出来る、開かれた、包括的な教会を目指す第一歩として、もうそろそろ性別の問い合わせをやめることを検討しては如何でしょうか?


司祭 アンブロージア 後藤香織

(名古屋聖マルコ教会・愛知聖ルカ教会 牧師)

教会の政治的発言は、「政教分離」に反するの?

2月21日(木)、主教会と正義と平和委員会は、『天皇の退位と即位に関する声明「大嘗祭への国の関与は政教分離の原則に反します」』 を出して、大嘗祭を公的な行事とし国費を支出することが日本国憲法第二十条の「信教の自由の保障・政教分離」に反していることを指摘しました。また大嘗祭を公的な行事として位置づけることで、天皇が特別な存在であること、さらに神格化のイメージを植え付けることを危惧し、強く抗議をしています。

教会が政治的な発言をすると、マタイ福音書22章21節「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という聖書の言葉を引用して、「政教分離の原則に反する」という批判を目にすることがあります。しかし、政教分離の原則は、わたしたちの日本では信教の自由と分かちがたく結びついていて、思想、信条自由や言論の自由とも深く関係するものです。憲法第二十条は次のように規定されています。

憲法 第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

この憲法第二十条第三項にあるように、政教分離の原則とは国家が宗教と分離していることを意味します。言わんとしていることは「国家と宗教」の分離であって、国家が特定の宗教に関わりを持つことを否定する原則で、基本的人権の信教の自由を保障するものです。「政」という漢字が使われてはいますが、政教分離の「政」は「政治」でも「政党」でもなく、「政治と宗教」の分離を言っているのではありません。

日本国憲法第二十条第一項の後段「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」を引き合いに出して、宗教団体が政治活動をすると政教分離に反するという誤解もあるようです。この規定は、国から特権を受ける宗教を禁止し、国家の宗教的中立性を明示したものです。

日本国憲法の精神が求める政教分離の原則は、戦前に国家と国家神道が一体となってアジアの多くの人々と日本の国民の命と基本的人権を侵害したことへの反省から規定されているものです。このことを抜きにして、この政教分離の原則と信教の自由を考えることは出来ません。繰り返しになりますが、国家の宗教的中立性を要求しているのであって、宗教者の政治的中立を要求しているのではありません。

むしろ、日本国憲法は「結社の自由」を保障しており、宗教団体にも結社の自由があります。神を信じるものが集まって宗教団体を組織することはもちろん自由で、その宗教団体が、自らの信仰に基づいて政治活動をすることも禁じられてなどいないのです。

むしろ教会は政治体制に拘束されることなく、福音宣教によって神さまの言葉を宣べ伝え、イエスさまの言葉と行いに基づいた、キリストの価値観をこの世に示していくことが、わたしたち教会の大切な責任ですらあります。

ですから、今回の「天皇の退位と即位に関する声明」は、過去にキリスト教会が「社会的儀礼」であるとして、信徒の神社参拝を許してしまい、日本国家と国家神道が一体となって、戦争に邁進することに協力をしてしまったこと、預言者的使命を果たすことが出来なかったことへの反省としても、教会の意思を表明せざるを得ないものなのです。

基本的人権は神さまによって与えられたものです。国が政教分離の原則をないがしろにし、基本的人権を侵害しようとするときには、教会は、聖書の言葉に従ってそれを正して行く預言者としての役割を果たさなければならないのです。

司祭 アンブロージア 後藤香織
(名古屋聖マルコ教会・愛知聖ルカ教会牧師)

父権制を再生産する共同体

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラ3・28)」
 「父権制を再生産するような共同体には所属したくありません。教会は外の差別に取り組むより先に、自分たちの中の差別にしっかりと向き合うべきです」

この言葉は、ある洗礼堅信準備会の中で、女性差別などが教会の中に根深く横たわっていることを認識していながら、しっかりと向き合わず、「なかなか変わることが難しいんですよ」と、なあなあで済まそうとしたわたしの発言に対して投げかけられたものです。

全くその通りです。「イエスさまの語られた福音は、人々を解放するのです」と語りながら、父権制を始めとする様々なしがらみに絡め取られ、解放されずに再生産する共同体がわたしたちの教会のようです。そこから解放されている人が、わざわざ不自由な共同体に加わりたくないと感じるのは、当たり前のことです。

最初に引用したガラテヤの信徒への手紙3章28節は、初期の教会で使われていた「洗礼定式」です。初期の教会共同体がイエスさまが告げ知らせた福音を信じて生きることで、民族、身分、性別といった、人々を分け隔てる主な境界線を乗り越え、平等で包括的な信仰共同体を実現する決意がここに表現されています。

新共同訳聖書ではその違いが訳出されていないのですが、この洗礼定式の民族、身分、性別の組み合わせで、最初の2つは、「AもBもありません」という形ですが、3つめの性別は「男と女もありません」となっていて、性別に関しては単純な並列ではないことが分かります。
「男と女も」の箇所で使われているのは、「雄」「雌」というギリシャ語で、「男と女もありません」は「男・雄と女・雌」で「一対」という概念をも乗り越える姿勢を表しているのです。この洗礼定式は、様々な境界線を越えて平等な関係で共に生きようとする決意を表明し、特に性別による境界線だけでなく、「男と女で一対」という思い込みを放棄し、父権的な家庭形成から解放されることを目指していたのです。当時の父権社会の中で弱者だった女性たちにとって、結婚し、子どもを産まなければ価値がないという圧力からの解放が宣言されていたのです。

ところが、ガラテヤ書ではこの「洗礼定式」が引用されたにもかかわらず、コリントの信徒の手紙Ⅰ12章13節の引用では、「男と女も」の組み合わせは除かれてしまっています。さらに、1世紀末の擬似パウロ書簡である「テモテへの手紙一」2章15節では、
「しかし婦人は…子を産むことによって救われます」という父権制的な教えが記され、最初期の教会では解放されていた歩みが、後戻りをして再生産されて現在に至ってしまったのでしょう。

そろそろ、しがらみの再生産から抜け出し、イエスさまの宣べ伝えられた、平等で包括的な福音によって解放されないと、教会は誰も寄りつかない、中の人間は身動きのとれない不自由な共同体として閉じられてしまうのではないでしょうか。洗礼堅信の準備をしながらそんなことを考えさせられています。

後藤香織(名古屋聖マルコ教会牧師・愛知聖ルカ教会牧師・可児聖三一教会管理牧師)

この地は神の前に堕落し、 不法に満ちていた

 教区センターで行っている「聖書に親しむ会」は、渋澤一郎主教さまと田中誠司祭、わたしの3人が毎月順番で担当しています。わたしの担当の回では、創世記を読んでいますが、その中で感じることの一つが、旧約聖書編纂の一つの視点が王権批判であり、一極に権力が集中することが、いかに危ういものかが述べられていることです。

 2016年になって、安倍晋三首相と自民党は、おしなべて憲法改正への意欲をより明らかにしています。その議論の中で特に目を留めなければならないのが、緊急事態条項であるように思います。

 国家緊急権は、自民党が2011年の東日本大震災以降、その導入に力を入れてきているものです。2012年に自民党が発表した憲法改正草案、第98条(緊急事態の宣言)、第99条(緊急事態の宣言の効果)には、内閣総理大臣は、外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律が定める緊急事態に際して、閣議決定を経て「緊急事態」を宣言できること。宣言は事前・事後の国会承認が必要で、不承認なら、首相が緊急事態宣言を解除しなければならないこと。そして、この緊急事態宣言が出た場合、内閣が政令を制定できるようになるほか、内閣総理大臣の判断で財政支出・処分、自治体の長に指示ができること。また、すべての人は、国・公的機関の指示に従わなければならなくなること。ただし、憲法の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならないという内容が規定されています。

 問題なのは緊急事態の定義が法律に委ねられているため、緊急事態宣言の発動要件が極めて曖昧なことです。その上、緊急事態宣言の国会承認は事後でも良く、歯止めはかなり緩いのです。ですから、内閣が必要だと考えれば、恣意的に緊急事態宣言を出せてしまいますので、この条文がとても危険なことは誰の目にも明らかです。

 この国家緊急権の導入のために憲法改正が必要なのですが、東日本大震災後の対応が不十分であったこと、あるいは国会議員の任期満了時に災害が生じた場合、立法府が機能しないなど、おもに自然災害への対応をその理由としていることも問題です。

 自然災害がいつ起こるかを予測することは困難ですが、災害が起きた時に何をしなければならないのかは想定できます。そして災害時に何をどのような手続きで、誰が進めて行くのかを予測し事前に定めることは、安全対策として重要です。しかし、そのために必要な、様々な決まりを定めるのは、憲法ではなく、個別の法律の役割であることは言うまでもありません。ですから、海外諸国でも、大きな災害や戦争などの緊急事態には、事前に準備された法令に基づき対応するのが一般的なのです。

 多くの人が指摘するように、国家緊急権の創設の本当の目的は、自然災害への対応ではなく、戦争をするために内閣の独裁を実現するものだというのは、的を射ており、立憲主義を破壊し、基本的人権の憲法上の保障をも危うくするものです。

 旧約聖書が批判する、権力の一極集中の危うさを心に留めながら、わたしたち教会がどう対応して行くのかを考え平和のために行動を起こして行きたいと思います。

司祭 アンブロージア 後藤香織
(名古屋聖マルコ教会牧師、愛知聖ルカ教会牧師)

『命をひかり輝かせるように…』

昨年の11月4日~7日の日程で、九州教区主催の「ベテル・フェローシップ」説教セミナーが、九州教区センターと福岡ベテル教会を会場に行われました。福岡ベテル教会の古賀ミツ資金を用いて行われたこのセミナーは、各教区より1名の教役者が参加して行われ、中部教区からは、わたくしが参加させて頂きました。
セミナーは最初に、西南学院大学の片山寛先生の講義から始まりました。そこでは、起承転結のある分かりやすい、聞きやすい説教をするようにと教えて頂き、初心に帰って説教準備をする恵みを頂きました。グループで一つの説教の準備をするという、初めての経験に戸惑いながら、また、自分とは違う説教準備の方法に感心しながら、聖書のみ言葉に耳を傾けました。情熱を持って神さまのみ言葉に向き合う同労の教役者達の姿は、とても頼もしいものであり、わたしたちの日本聖公会が、神さまの愛の眼差しの中にあることを感じることが出来たセミナーでした。
このセミナーでの、み言葉から励まされる経験とは反対に、わたしの身近なところでは、み言葉によって傷つけられ、うちひしがれた人々の呻きに、呆然とさせられることがしばしば起こります。もちろん、神のみ言葉、聖書の言葉そのものが人を傷つけるものではないことは、言うまでもありません。み言葉を凶器に変えて、人に向けて振り下ろす。そんな説教が、教会の名の下になされているのです。
「聖書にこう書いてある、だから、お前は罪人だ」。「悔い改めなければ、地獄に落ちる」。そんな耳を疑うような断罪が、神のみ心に適わないけれども、神のみ名をかたって行われているのです。
わたしの説教は、そんな説教になっていないでしょうか。み言葉を使って、人を断罪し、その人の命の灯心をへし折るような仕業を、行ってはいないでしょうか。
今一度、聖書のみ言葉が、神さまの愛によって、人々の命をひかり輝かせるようにと記されていることを心に刻みたいと思います。そして、傷つき、うちひしがれている人々を、励まし、力づけられるように、み言葉にしっかりと耳を傾け、自分自身がみ言葉に励まされて、情熱を持って神さまの愛と恵みを語って行けるように、祈り求めて行きたいと思います。
「ベテル・フェローシップ」の会場になった福岡ベテル教会の敷地は、自然が溢れる2千坪近い癒やしの場所でした。九州教区センターで、ルカ武藤謙一主教、パウロ濱生正直司祭や参加の教役者と囲んだ水炊きは、格別なものでした。今年も引き続き行われる、「ベテル・フェローシップ」の説教セミナーに、また今年も参加したい気持ちでいっぱいですが、今年は、他の中部教区の教役者に譲らなければならないでしょうね。
どうぞわたしたち教役者が、情熱を持って説教の準備にあたることが出来るように、祈って頂ければ幸いです。
「わたしの岩、わたしの贖い主 わたしの言葉と思いがみ心にかないますように」祈祷書・詩編19・14

司祭 アンブロージア 後藤香織
(名古屋聖ヨハネ教会牧師 愛知聖ルカ教会管理牧師)

『10月11日は、何の日?』 

10月11日は、カミングアウト・デーという日でもありますが、今回は別のお話です。

皆さまは、ご存じでしょうか。昨年2012年、新たな国際デーとして国連は10月11日を「国際ガールズ・デー」という日に制定しました。

この「国際ガールズ・デー」は、現代の日本ではあまり考えられないかもしれませんが、「女の子」だからという理由で、男の兄弟たちは学校に行けても、女の子は学校に行くことが出来ず、働かなければならないこと、男の兄弟たちは良い食事を食べられるが、女の子は十分な栄養を取ることが出来ないこと、暴力や性的嫌がらせの被害に遭う確率が高いことや児童婚など、とても厳しい状況に置かれている女の子たちが、世界中には多く存在することを広く知ってもらい、女の子の人権が尊重されることを目指し、制定されました。

日本では、6歳から始まる小学校での6年間と、12歳から始まる中学校での3年間が義務教育であり、女の子と男の子の区別なくその保護者は、子どもに教育を受けさせなければなりませんので、基礎教育に男女格差があり、それがとても大きいものであることなど、想像が出来ないかもしれません。しかし、この基礎教育の男女格差は、当然のことながら成人の識字率にも反映され、女性の経済的な自立の妨げにもつながっているのです。

他にも、児童虐待、家庭内暴力や性的虐待などの被害者には多くの女の子が含まれ、国によっては、出生未登録や未就学のまま、恒常的な児童労働に従事させられている女の子も多く、人身取引が多発している国、地域も少なくありません。

女の子の教育の機会を確保し、女性の自立支援を促進すること。また様々な暴力から、特に女の子を守る試みがなされ、人身取引被害者が無くなるように、対策を講じて、世界中の一人でも多くの女の子が、明るい未来に向かって歩みを進めることが出来るように、関心をもって行くことが求められています。

しかし、これは何も国外の出来事への関心で終わるものではありません。日本には、基礎教育の男女格差や、児童労働、児童婚、人身取引などは目に付くことはないかもしれません。しかし、昨年の宣教協議会の「日本聖公会〈宣教・牧会の十年〉提言」の5つ目の項目、「主にある交わり、共同体となること〈コイノニア〉」で、教会・教区・管区の意思決定機関での、女性比率が30%になるように促されています。このようにわたしたちの周りでも、残念ながらまだまだ男女平等は実現されているとは言えないのが、現状です。だからこそ、わたしたちは、身近な女の子に関心を向けるよう促されています。

わたしたちの身近な、女の子たちが、自分たちの未来に希望がもてるように、わたしたち教会が、女性と男性がともに、神の似姿として造られていることを、目に見える形で示して行くことが、求められているのです。教会委員はもちろん、教区会代議員、総会代議員、教役者にもっと女性が増えるように、祈りながら働いて参りたいと思います。

司祭 アンブロージア 後藤香織
(名古屋聖ヨハネ教会 牧師・愛知聖ルカ教会 管理牧師)

『虹にまつわるエト・ケテラ』 

7月になりました。今年も折り返し地点を過ぎ、残すところ半年です。梅雨明けはもう少し先のようで、すっきりしない天候が続いています。そんな梅雨の時期ですが、雨上がりに虹を見るチャンスも多いときです。聖書の中で虹は、ノアの洪水物語で最初に登場します。

人を創造したことを後悔した神さまは、この洪水物語で、地上に雨を降らせ、洪水をもたらします。すべての形あるものを洗い流すほどの激しい雨を「雨濯」と言うそうですが、ノアの洪水の時はそんな雨が降り続けたのでしょうか。ノアの箱舟に入った以外の生き物は、洪水によって大地からぬぐい去られます。水が地上からひいた後、神さまはノアと契約を結び、幾ら人間が悪い思いを抱く存在であっても、二度と滅ぼすことはないと言われました。その平和のしるしとして神さまが雲の中に置かれたのが虹なのです。虹はヘブライ語で、ケシェトですが、弓という意味もあります。神さまは、人間を滅ぼすために使った弓を、もう二度と使わないと、雲の中に置かれたのです。空を染める美しい虹に、この神さまの決意が表されているのです。

わたしたちは、一般的に虹は七色だと思っていますが、これは日本を始め、アジア諸国での概念です。厳密には虹はスペクトル色ですから、含まれる色は七色に限らず無限です。蛇足ですが、「虹」という漢字が「虫」偏なのは、昔、中国では虹を見て蛇を連想したからだと言われています。中国では蛇や龍は縁起の良い動物です。

性的少数者・セクシュアルマイノリティも、6色の虹色を自分たちの象徴として用います。それは様々な色が共存する虹は、同性愛者、異性愛者、トランス・ジェンダーに、シス・ジェンダー等、様々なセクシュアリティの人たちが、この地球上で共存していること、「性の多様性」を表し、それら多様な人々の調和を意味しているからです。

また1960年代にイタリアで考案された平和の旗(la bandiera della pace)は、7色の虹の旗で、2003年のイラク戦争開始に前後して世界各地で使われ始め、戦争に反対し、平和を求める意思を表しています。

そのように誰もが、自分らしい色を表現し、自分らしく生きて行くことを互いに認め合うことが出来るのなら、それはいろどりに富んだ素晴らしい、平和な世界が実現するという希望が、虹色には込められているのです。神さまが「良い」と認める世界は、この虹に示される平和な世界です。あらゆるいのちが共存する世界であり、あらゆる人が共存できる社会なのです。

1939年のミュージカル映画「オズの魔法使い」の中で、主人公のドロシー役のジュディ・ガーランドが歌った「虹の彼方に」という歌があります。2001年に全米レコード協会が発表した「20世紀の歌」365曲のうち、堂々の1位を獲得した名曲中の名曲ですが、性的少数者のテーマソング的曲としても、愛され続けています。それは、性的少数者に対して理解が深く、自身もバイセクシュアルであったジュディが、同性愛者のアイコンとして多くの性的少数者から愛されているからなのですが、この「虹の彼方に」の歌詞が、未来への希望を歌っているからでもあります。

今は、多様性を受け入れることが出来ずに、共存できずにいるわたしたちが、いつか互いに認め合うことのできる、平和な虹の向こう側の世界にたどり着くことが出来るように、祈り合って歩んで行きたいと、神さまの約束の虹を仰ぎ見ながら思いました。

司祭 アンブロージア 後藤香織
(名古屋聖ヨハネ教会牧師)

『お行儀が悪い弟子たち?』

「なぜ、 あなたの弟子たちは、 昔の人の言い伝えを破るのですか。 彼らは食事の前に手を洗いません (マタイ 15:2)」
最後の晩餐の場面は、 どんな様子だったのだろうかと、 ふと思うことがあります。 ユダヤ人は、 儀式的に手を洗い、 そのとき祝祷を唱え、 感謝の祈りを捧げるなど、 沢山の作法にしたがって食事をしたそうですが、 弟子たちは、 食事のときにお行儀が悪かったのでしょうか。 マタイ福音書によるとファリサイ派と律法学者たちから、 手を洗っていないことを批難されています。
「日本」 では食事のとき、 右利きの人の場合は、 右手で箸を持ち、 左手でご飯茶碗や汁茶碗を持ちますね。 幼いときから食事のときに、 茶碗を持つことを躾けられてきましたが、 どうして、 左手で茶碗を持つのかという理由について、 わたしは韓国で生活をするまで考えたこともありませんでした。
「日本」 では、 7世紀初めに食事で箸が使われ始めます。 奈良時代にちょっと匙が使われますが、 14世紀頃には箸だけで食事をするようになります。 韓国の食事では、 箸と匙の両方を使います。 匙はスッカラ、 箸はチョッカラとそれぞれ呼びますが、 スヂョ (匙と箸) と両方をあわせて呼んだりもします。 匙ですくって、 ご飯も、 スープも食べますので、 お茶碗は持ち上げません。 箸はおかずを取るときに使うぐらいなのです。
生活をする前から、 何度か韓国を訪問していましたので、 お茶碗は持ち上げないことは知っていました。 ですが生活をしていると、 食事のとき韓国の人がお茶碗を持たないことが、 気になり始めました。 その他にも、 一つの汁鍋から自分のスッカラで直接スープを飲むことや、 立ち膝で食事をすること、 箸と箸で食べ物のやりとりをしたりする光景を目にする度に、 お隣の国なのにずいぶんと違うものだと驚き、 何でそうなのだろうかという疑問がわいてきました。 調べてみて驚いたのは、 茶碗を持たないのはお行儀が悪くなく、 茶碗を持って食べる方が、 世界的には特異で、 韓国でもそうですが、 お行儀が悪い場合が多いというのです。
匙、 スプーンを使い、 食べ物を口まで運ぶ場合、 食器を持つ必要がありません。 しかし、 「日本」 では匙を使いませんので、 食べ物をこぼさずに口元まで運ぶには、 器自体を口元に近づける必要があるのです。 なかでも汁物は、 お椀に口を着けなければ飲むことが出来ません。 匙を使わないことが、 茶碗を持ち上げる作法を生み出していたのです。 そして茶碗を持つ行為は、 反対に茶碗自体が匙なのだという、 日本独特の考え方を生み出してきたのです。 匙、 スプーンは手に持たないと、 食べ物を口に運べませんよね。 日本では茶碗自体が匙ですので、 どうしても持たないではいられないのです。
弟子たちがしなかった食事の手洗いは、 衛生的な理由ではなく、 宗教的な穢れを清めるために行われていました。 イエスさまは、 行いや出来事を表面的に、 規則からだけ判断するファリサイ派や律法学者たちを、 偽善者と呼びます。 イエスさまの時代には、 寝そべって左手で頬杖をつき、 右手で食べ物を口に運んだということですが、 わたしたちから見るとなんともお行儀が悪く、 注意したくなりますよね。
わたしたちは、 自分と違うものと出会うときに、 違和感をおぼえます。 その違和感をそのままにしていたのでは、 その出会いを深めてゆくことはできません。 どうしてなのかということを、 丁寧に見てゆくこと、 知ってゆくことが、 「違い」 がひしめき合う今の教会の状況に必要なのではないでしょうか。 違う相手を、 深く知ることが、 自分自身を豊かに知ることにつながってくる、 そんな歩みをともにして行きたいと思います。

司祭 アンブロージア 後藤 香織
(名古屋聖マタイ教会副牧師)

『彼らは戦いに備える』 

「わたしが平和を求めて語るとき∥ 彼らは戦いに備える」 (祈祷書 詩編第120編7節)
今年も8月がめぐってきました。 8月には広島、 長崎への原子爆弾投下や日本敗戦のことがあり、 より具体的に平和について考え、 祈らざるを得ません。
第二次世界大戦後、 1948年の国連総会で採択された 「世界人権宣言」 では、 「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、 世界における自由、 正義及び平和の基礎である」 と述べられています。 一人ひとりの人間を尊重せずに、 少数者や弱者を否定し、 偏見を押しつけ憎悪の対象とすることで、 様々な問題の解決を図ったことが戦争の一因であるとの反省からです。
昨年12月15日に教育基本法が参院本会議において、 与党の賛成多数で可決・成立しました。 この 「改正」 は、 開かれた議論が全くといってよいほどなく、 憂慮せざるを得ません。 そして、 この教育基本法の 「改正」 は、 国が国民に、 国家権力にとって都合の良い 「あるべき国民の姿」 を押し付けようとしていることの現れでもあります。 誰もがありのままに生きていくことを保障するのが、 国の責任で、 世界人権宣言で謳われているように、 それが正義と平和への道筋です。
しかし時代の流れは、 憲法 「改正」 が声高に叫ばれ、 平和への道ではなく、 戦争へと行く先を変えられようとしているのではないでしょうか。
安倍晋三首相は著書 「美しい国へ」 の中でこんな風に言っています。
「同棲、 離婚家庭、 再婚家庭、 シングルマザー、 同性愛のカップル、 そして犬と暮らす人…どれも家族だ、 と教科書は教える。 そこでは、 父と母がいて子どもがいる、 ごくふつうの家族は、 いろいろあるパターンのなかのひとつにすぎないのだ。 たしかに家族にはさまざまなかたちがあるのが現実だし、 あっていい。 しかし、 子どもたちにしっかりした家族のモデルを示すのは、 教育の使命ではないだろうか。」 (「美しい国へ」p.216―217)
「美しい国へ」 を読むと、 安倍首相が目指す 「美しい国」 への道は、 正義と平和への道である人間の多様性を認めることと、 対極にあるということが分かります。 「男は男らしく」 「女は女らしく」 という考え方は、 男女共学さえも否定し、 「典型的な家族のモデル」 こそが 「あるべき国民の姿」 であることを強調します。
男は妻と子どもを守るため、 「男らしく」 戦う美しい国。 多様性が認められる社会とは対極のこの考え方の下では、 「男は男らしく」 「女は女らしく」 なければいけません。 このような社会の中で、 「男らしく」 なければならない男たちは、 日常生活でも 「男らしさ」 を短絡的に力、 支配、 威圧、 攻撃、 権力と重ね合わせ、 その矛先を身近な女性へと向けてしまう不幸な状況は、 今ますます拡がっています。
教会の福音宣教の目的は、 誰もが神さまからいただいた命を光り輝かせて生きる世界の実現を目指すことです。 その神さまの業に参与してゆくことです。 一人ひとりの生き方や家族のあり方に国が口出しする現状は、 戦争への道へと続いていることを忘れずに、 正義と平和を否定する力に抗いながら、 福音を宣べ伝える働きに参与することを、 この8月に改めて心したいと思います。

司祭 アンブロージア 後藤 香織
(名古屋聖ヨハネ教会管理牧師 )