『祈りをもって』

今年の初め、 NHKで 「男はつらいよ」 全48作放送のCMがあった。 その中で 『それを言っちゃーおしまいよ』 と言うおなじみのフレーズがあった。
職場や公の場に限らず、 家族や夫婦の間でも 『それを言ってしまったら元も子もない』 ということがある。
人はみな感情を持って生きているが、 その感情にすべてを任せてはいない。 理性や知恵、 あるいは責任などをもってどうにかコントロールしている (つもりでいる)。 この4月から 「旧軽井沢ホテル音羽ノ森、 旧軽井沢礼拝堂」 でチャプレンとして結婚式をおこなっている。 それまで同じ長野県にある新生病院のチャプレンであったので、 よく 『これまでと違って大変ですねー』 と言われるが、 自分の中ではそうでもない。
確かにこれまでと勝手も違うが、 結婚式を教会で望むカップルのまじめな態度にはこちらのほうが毎回、 彼らからその謙虚さを教えてもらっている。
ホテルの従業員の態度も自分たちのホテルやその仕事に誇りと愛着を持っている仕事振りをみていると、 教会が一般社会の人々と作る接点の、 その一つを自分はどれだけ 「キリストに仕える熱心」 を持ってやってきただろうかと反省させられる。
この時勢だから病院もホテルも生き残りの時代の中で、 目の前にいる人々への対応や配慮への姿勢は、 どのような場であっても大切なことだろう。 そう言えば新潟のあるホテルマンが 「私たちがおこなっている 『サービス』 ってお祈りのことですよね」 と言われたことがあった。
祈ることがキリストに仕えることであるはずなのに、 私たちは神様への手段や方法のように思ってしまっていないだろうか。
確かに神様に向けて私たちは祈るのであるが、 仕える心を持って祈っているだろうか。 あるいはその祈りがいつも自分と神様だけの間のものになってしまっていないだろうか。 結婚式の中で、 二人のために祈る場面では必ず参列者に向かって、 お祈りにある 「アーメン」 を一緒に唱えてもらうようにその意味を伝えてお願いしている。
それはその祈りが私一人や結婚した二人だけがおこなうものではないからである。
そこでみんなで共に祈るということは、 人と人をつなぐことである。 その場にいる人々が共に祈るということはその人々が神と共につながり、 お互いも共につながっているということであって、 人々が祈ることを通して喜びも悲しみも共有し、 神に生かされていることを覚えることなのである。 それによって再び、 それぞれの場に帰ることができるのである。 そしてキリストに仕えるように、 神に仕えるように祈りをもって互いに仕え合うのである。 目に見ることのできない神へ祈ることはしんどく、 むつかしい時もある。 しかし 『それを言っちゃーおしまい』 なのである。 私たちはいつも、 祈る私たちの傍らに共に祈る主の姿があることを願いながら祈るのである。 結婚式の参列者の中に主の姿をいつも求めていきたいと願っている。

司祭 マタイ 箭野 直路
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森・旧軽井沢礼拝堂チャプレン、 軽井沢ショー記念礼拝堂協働師)

『聖霊の風になって』

ちょうど2年前の4月9日に長男を亡くした直後、 長野県に住んでおられる敬愛する婦人信徒の方から、 弔文に添えて、 新井満の【千の風になって】の写真詩集とCDが送られてきました。 最近ではテノール歌手秋川雅史が歌うこの歌がブレイクしているようですが……。
「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています 秋には光になって
畑にふりそそぐ 冬はダイヤ
のように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって
あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています」 (原詩/作者不明日本語詩 新井満/講談社 『千の風になって』)
この詩を読み、 CDを聴いたとき、 ご復活され、 今も私たちのうちにおられ、 共に働いておられるイエスさまを、 より身近に感じることができました。 それと共にヨハネによる福音書20章11節以下の記事がふっと浮かび上がってきました。
イエスさまのご復活された週の初めの日の朝、 マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。 墓の中には白い衣を着た二人の天使が座っていて 「婦人よ、 なぜ泣いているのか?」 と尋ねました。 マリアは答えます。 「主が取り去られ、 どこに置かれているか分かりません」 と。 こう言いながら後ろを振り向くとイエスさまが立っておられ、 それに気付かないマリアにイエスさまは 「婦人よ、 なぜ泣いているのか?だれを探しているのか?」 とお尋ねになりました。 それが園丁だと思ったマリアは、 亡き骸を引き取り、 葬りたいのでその場所を教えてほしいと頼みました。 イエスさまが 「マリア」 とお呼びになりました。 マリアは初めてイエスさまに気付き、 「ラボニ (先生)」 と答えたのです。 そしてイエスさまはマリアにご自分が父である神のもとへ上ると言われました。
墓にとらわれ、 墓の中にイエスさまを探そうとするマリアに、 イエスさまは 「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 私はよみがえったのです」 とお語りになられました。
その日の夕方、 イエスさまは弟子たちが集まっている家に復活のお姿を現わされ、 彼らに息を吹きかけて言われました。 「聖霊を受けなさい」 と。
聖霊は神の息、 息吹きです。 聖霊は風です。 ご復活されたイエスさまは聖霊の風になって、 私たちの中に、 私たちと共に、 いつも一緒にいてくださるのです。
「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 私はよみがえったのです 聖霊の風に、 聖霊の風になって あなたたちの中を 吹きわたっています。 そしてあなたたちといつも繋がっているのです」 と。
復活されたイエスさまが、 私たちにそのように呼びかけていらっしゃるのではないでしょうか。 ハレルヤ!

司祭 サムエル 大 西 修
(名古屋聖マタイ教会牧師)

『さあ、立て。ここから出かけよう。』 

『パッション』 という映画があります。 ご覧になった方も多いでしょう。 冒頭のシーンは、 ヨハネ福音書のイエスが逮捕される場面です。 『パッション』 については賛否両論あるようですが、 私がこの映画で気づかされたのは、 弟子たちの恐怖の表情でした。 シモン・ペトロが 「おまえもあの者の弟子の一人ではないか」 と詰問され、 そして 「違う」 と言う時のペトロの表情はまさに 「おびえ」 そのものでした。 その時、 ペトロは主が捕らえられる直前に自分たちに語ってくださった言葉を思い出したはずです。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、 あなたがたにすべてのことを教え、 わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 わたしは、 平和をあなたがたに残し、 わたしの平和を与える。」 (ヨハ14・26~27)
そもそも、 「平和」 とはヘブライ語でシャーロームと言いますが、 その本来の意味は 「欠けることのない状態」 というものです。 すなわち、 『主の平和』 とは、 どんなに恐れや悲しみの極限にあったとしても、 決して主は欠けることがない、 必ず共にいてくださることを意味します。 そのことをイエスさまは身をもって示してくださった。 映画 『パッション』 で描かれたような言葉に絶するようなまさに 「パッション」、 痛みを受け、 死という暗闇の中に置かれても、 しかし、 真っ暗闇の中に光るろうそくのともし火のように、 パスカル・キャンドルのともし火のように、 主の光がよみがえる。 主イエスがその死と復活をもって示してくだったのが、 私たちに与えられた 『主の平和』 に他なりません。
イエスさまが弟子たちに 『主の平和』 の意味を告げられた時に、 最後に語られたのはこの言葉です。

「さあ、 立て。 ここから出かけよう。」 (ヨハ14・31)

私たち一人ひとりにも、 さまざまな暗闇の苦しみ、 悲しみがあります。 しかし、 どんな暗闇の中にあっても、 どれほどの痛みや苦しみの中にあっても、 主は必ず、 私たちと共にいてくださる。 主の平和が与えられる。 だから、 私たちは、 心を騒がせることはない。 おびえる必要はない。 「さあ、 立て。 ここから出かけよう。」 このイエスさまの促しに、 私たちは応えて、 一歩を前に向かって、 希望に向かって、 光に向かって踏み出すことができる。
私たちは毎週、 聖餐式の中で、 「主の平和」 と挨拶を交わします。 それは朝の挨拶ではありません。 そうではなく、 手をつなぐ相手に、 「あなたと共に必ず主はおられます。 あなたは決して独りではない。 さあ、 立ってここから出かけましょう」 という励ましを互いに与え合う祈りに他なりません。 手を結ぶあなたと私の間に、 主はおられる。 言は肉となって私たちの間に宿られる。
そのような思いをもって、 私たちは主イエス・キリストが命じられたように、 互いに 『主の平和』 を交し合いたい、 と願うのです。

司祭 アシジのフランシス 西原 廉太
(立教大学教員・岡谷聖バルナバ教会管理牧師)

『世界のためにある教会』

この言葉は1960年代ころからことあるごとに言われてきた言葉です。 そのことが表している一つのことは、 世界全体が神の深い愛の対象であったということです。 神は神の子イエス・キリストを世界に遣わし、 人とし、 その地上の生涯、 十字架の死、 復活によって人間とすべてのものを救われました。 「神の子」 とは神とイエスの関わり方を、 有限である人間の言葉で最大限表現してみたものです。けれどもこれは「神」と「子」とは、まったく別であるような感じを与えます。しかし神と神の子とは一体です。イエスを表現するのに「神の子」と言う表現しか語りうる言葉がない。神の子の世界への登場とは実は神の大きな犠牲それも「世界」への大きな犠牲でした。つまり、イエスの生涯は、特に十字架の死は、神が別に関係ない人にそれを負わせ、なされた事柄ではなく、何と神がご自身を傷つけたことであり、痛みを負って、人間を始めとする全被造物を、すなわちこの世界を罪より救われたことなのです。イエスにその使命を与え、ご自身は離れて見ていたのではなく、神はご自分を傷つけてまで、私たち世界を愛されたのです。
教会は「キリストのからだ」であり、愛する世界に正義と平和が打ち立てられるまで、弱くされた人々のために働きます。このことの中にすべての人がいることは間違いがない。しかしそこには「弱い人々の優先」という考え方があることも長く言われてきたところです。世界が、実際は神の慈しみ深い「支配」(「神の国」の「国」を表す)の下にあるとするなら、また世界は広い意味で「教会」であるという洞察を受け入れるなら、現在の戦争、テロ、争い、人権侵害、いじめ、病気、貧困、ホームレス、環境破壊、政府の危ない政策その他否定的なことは、みな教会の中での出来事であることになり、私たちは黙視することはできません。私たち信徒に行動を促します。
教会は世界のためにあることのもう一つは、すべてが神によって「造られた」ことにあります。神は世界をその愛のゆえに、「良いもの」として創造されました。造られたものつまり被造物は造った方つまり神に賛美、感謝をつねにささげるようになっています。「主を賛美するために民は創造された」(詩編102:19)とあるとおりです。被造物が造物主なる神を賛美し感謝することは被造物の喜びの務めです。この世界全体は常に神に感謝をささげねばなりません。1世紀頃から「感謝」という名前の礼拝が教会によってささげられてきました。それはエウカリスティア(「感謝」の意。聖餐式のこと)と呼ばれました。つまり被造物の務めに気づいている教会は絶えずエウカリスティア、その他の感謝をささげてきたのです。教会は、「被造物の感謝」の務めに気づいていないこの世界のために、とりなしをし、世界を代表して、世界をその中に取り込んで、感謝をささげているのです。つまり、教会はこの世界のために存在するのです。教会のこの務めをすべての被造物が気づき、万物が「感謝」をささげる日を、神と教会とは待ち望んでいます。「み子が再び来られるまで」(日本聖公会祈祷書175ページ)。

主教 フランシス 森 紀旦

『御降誕の出来事』

御降誕の出来事を通し、神様のお働きが、人間の思いと想像を超えた所に及んでいるということを思わざるを得ません。
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」(マタ・2・1~2)
エルサレムから数十キロ離れた寒村での救い主誕生の知らせは、ダビデによって約束され、ソロモンによって建てられた神殿のある宗教的、政治的中心地であったエルサレムに最初に告げ知らされるべきでありました。しかし、エルサレムの人々には告げ知らされず、遠く離れた東方の地にいた学者達が、その誕生の知らせの星を見ました。ところで聖書では「東」は良い意味が与えられていません。例えば、アダムとエバそして、カインは、エデンの東に追放されました。「東」は、人生に躓き、神様から追いやられた寂しく暗い所でした。しかし、きらびやかな社会の中心である宮殿、神殿ではなく、社会の周辺、異邦の地である「東」でこの星を見たということの中に、御降誕の深い意味があると思います。
次いで、その誕生を知らせる星は、ヘロデの世に輝いていたと記されています。イエス様がお生まれになったのは、ヘロデ王の時代であり、当時、ユダヤはローマの属国であり、人々は、圧制に苦しみ、暗黒の時代でした。その時、この星は、博士達をエルサレムに導き、ヘロデの宮殿を通り過ぎ、小さな幼子の家に導きました。ここに、御降誕の星のもう一つの大切な意味があると思います。
真の権威は、強力な軍隊や兵器によって示されるのではなく、幼子によって、生まれたばかりの命そのもの、何も持たない幼子こそが、真の権威であることを星は告げていると思います。この世の頼みとする物を身につけることによって人生の意味、確かさを得ようとするのではなく、何も持たないで、命として、神様によって造られ、神様の前に生きること、そのことの意味を星は告げていると思います。
そして、その星を、ユダヤ人からは差別され、人間扱いされなかった異邦人である博士達が発見し、彼らはその星を見て出発しました。星を眺めていただけでは救いは確かなものとなりません。彼らは、星の招きに答えてその道程の幾多の困難に遭遇しながらも、主イエス様に巡り会いました。闘い、生き抜き、主イエス様の御旨であると信じて従う時、そこに真の救いがありました。
2006年のクリスマス、私たち自身の人生の身近な所で、さまざまな問題に直面しています。しかし、もう一度イエス様によって与えられた命そのものとして生きることを、主イエス様の御降誕とともに決意しようではありませんか。

司祭 テモテ 島田 公博
(飯山復活教会勤務)

『ウォーラー司祭のこと』

上田に赴任し、長野の管理も命ぜられたことにより、J・ウォーラー司祭のことをより身近に感じるようになりました。特に、昨年、長野聖救主教会から「ウォーラー司祭その生涯と家庭」という立派な本が出され、それを読ませていただいていたので余計そんな思いが強くしています。ウォーラー司祭に始まる長野聖救主教会の司牧者の末席にわたしも連ならせていただいたのかと思うと恐れ多い気がします。
ウォーラー司祭といえば長野というイメージがありましたが、あらためて前掲書を読んでみますと、実は長い間上田の牧師でもあったことがわかります。1908年(明治41年)から1931年(昭和6年)までの23年間、子息のW.ウォーラー司祭がその後を継がれるまで、最初は上田に住み、1915年からは長野に定住し、上田の牧師、長野の管理をされたのです。

先日、長野伝道区の合同礼拝が上田で行われましたが、その折、ある司祭が「ウォーラー先生はこの辺の教会を全部建てたのですね」と言われました。そう思って見てみますと、確かに、東北信の教会・施設はすべてウォーラー司祭によって建てられているのです。長野の聖堂はもちろん、飯山、小布施、稲荷山、上田のそれぞれの聖堂、そして新生療養所と、軒並みウォーラー司祭が直接関わっています。ウォーラー司祭は長野に来てからカナダに帰るまでの半世紀、長野県の、特に東北信の実質的な責任者でありましたので聖堂や施設建設がウォーラー司祭の責任の下で行われても不思議ではないのですが、それにしても、1898年に長野の聖堂を建ててから30年以上を経て、堰を切ったように建築を進めていることに驚かされます。

落成、聖別順に記しますと、新生療養所1932年9月9日、上田32年9月29日、飯山復活教会32年10月18日、稲荷山諸聖徒教会33年11月23日、新生礼拝堂34年6月25日となります。「中部教区センター」ひとつで悩んでいるのがいやになってしまうくらいです。ハミルトン主教はウォーラー司祭を「ビジネスと建築の才能を有する実務肌の人であった」(前掲書)と追想していますが、確かにその通りだったのでしょう。

そして、それらの建築を終え1935年には現職を辞し自費宣教師となられました。ハミルトン主教もその年退職されました。時代もだんだんと宣教師には厳しい時代になってきていました。そんなことを見越しての、半世紀にわたるご自分の働きの仕上げという意味での教会建築だったのでしょうか。戦争のための無念の帰国後、1945年に死去され、カナダに眠っておられますが、その魂は生涯の半分以上を過ごし、愛する妻や息子の眠るこの日本にあるに違いありません。

司祭 パウロ 渋澤一郎
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師)

『人間回復』

心身が癒されるような早朝の空気の爽やかさ、澄み渡った青く高い空に、夏の疲れや記憶も薄れて行くようです。この夏は温暖化の影響が一層現れ、長雨、雷雨、豪雨の次は、連日のじりじりと焼かれるような日差しと暑さが際立ちました。被災された皆様にはまだまだ心労が絶えないことと思います。心よりお見舞い申し上げます。
季節が移ろうにつれ、爽やかで、すがすがしいと、食べものが美味しい。美味しいものを食べると幸せな気持ちになる。幸せな気持ちになると穏やかで優しく、なります。
人の気持ちといった心や身体の状態も気候に左右される、いやむしろ自然の一部なのだとあらためてつくづく思うのです。人がいかに気候に、精神的にも肉体的にも影響され易い弱い存在か、を著わしたものがあります。モーパッサンの短編『雨』(※題やあらすじに間違いがあるかも知れません。記憶だけのため、その際にはご容赦下さい)
希望と夢に満ち溢れた一人の青年宣教師の話であります。
南海の島にキリスト教宣教師がやってきた。人々は大らかで、陽気で、親切で、生きていることを心から楽しんでいるような生活を送っている。しかし、彼には倫理観が欠如し、神を知らしめ、救うべき人々としか見えなかった。自分の務めがこの島においてはいかに重要であるかを確信し、この島に来たこと、その導きに感謝し、毎朝、伝道の成功を祈り、今日も一人の女性に、彼女がしていることは姦淫の罪を犯していること、神の罰を受けなければならないことなど、無知な相手に根気強く語り聞かせ、神を知らしめることができたことを喜び、気力も一層充実し、満足感と自信に満ちていた。季節は雨期となり、連日雨が降り続き、外を出歩く人もいない。蒸し暑い日が続く。毎日降り続く雨は、次第に彼の気力を萎えさせていく。アルコールの力を借りて気持ちを奮い立たせようとするが、体力も衰え、憂鬱さも日増しにつのり、ついに自分がかつて断罪した女性と同じことをしてしまう。自信も誇りも失い、自らを裁き、ピストル自殺をして生涯を終えてしまう。外は相変わらず、今日も雨が降り続いている。
人間の歴史は知性や理性と粘り強い意志によって環境や状況を克服してきた歴史だと言えなくもないでしょう。しかしその歴史や、思い上がり思い違いの影には多くの悲劇、不幸、悲惨、貧困をも生み出した歴史でもあります。
人間の意志の強さと言っても、我々自身の利便性の追求であり、欲望追求の強さです。競争社会の中で傷ついた者、倒れた者、教育の選別化、差別化で落ちこぼれた者を生むのでなく、着たい食べたいという尽きない欲望から、分けあい、仕えあう生き方へと変える強さでありたいと思います。人が本来持っている思いやりと愛との回復、たとえ自然の中での存在は弱くとも、自然のリズムに逆らわず調和した生活に戻ろうとする意志の強さと選択によって、歪められた人間性を回復することが何よりも求められていると思えるのです。

司祭 エリエゼル 中尾志朗
(松本聖十字教会牧師)

『「私は夢見る人です」 と堂々と言いたいのですが…。』 

私は新潟に来てから、夏のキャンプのシーズンがやってくると同じ夢を見る人になります。この2年間はキャンプから帰ってきたらいつも、子ども日曜学校を作ろうと思いました。夢見るだけの人でとどまっているのかも知れませんが……。
さて、今年も子どもたちに大きなことを学んだキャンプでした。チャレンジキャンプの日程は8月の10日からでした。新潟からは3人の子どもたちが参加しました。柏崎あたりを通っていたところ、急に、雷を伴う滝のような激しい雨が降り始め、前方が何も見えない状況の車の中でこういう話をしました。
「去年もキャンプファイアが出来なかったのに、今日も無理かな~? 残念だね」
そのとき、小学2年生の風間剛くんにこう言われました。
「先生、でもね、僕は雨がずっと続いて降って欲しいな」
「なぜ?」と聞いたら、
「雨が止んだら、虹がすごく綺麗に見えるでしょう」と答えました。
なるほど。夢とは今すぐ自分がやりたいキャンプファイアを求めるようなことではなく、思わぬところで現れる小さな感動を期待するようなことではなかろうかと気づかされました。結局、雨は止み、初日の夜はキャンプファイアが楽しめました。
キャンプの最後の日のことです。小学5年生の佐藤菫ちゃんが入っていたグループから、キャンプの中でいろんなことを教えてくれたり、手伝ってくれたりした大人の方々にお礼の歌をプレゼントしたいので、集まってもらいたいという話がありました。
初めて聞いた歌でしたが、最後の歌詞が「アイ ビリービン フューチャー 信じてる」で、メロディーも綺麗でした。何より感動したのは、子どもたちの心が感じられたことです。その感動を忘れたくなかったので、そのときの心をそのまま短い曲として残してみました(写真)。
夢とは心を動かせることで、動けば動くほどその動きが大きくなるようなことだと感じさせられました。
キャンプの間、プログラムディレクターとしてキャンプ全日程を活発にサポートしてくれた漆原隆二さんという人がいました。帰りの車の中で、小学4年生の風間光くんにその人の話をしながら、
「チョン先生はね、その人の明るい性格がうらやましいんだ」と言ったら、光くんはこう言ってくれました。
「先生もきっとそうなれるよ」って。
ただ、うらやましいと言うだけの夢、そして日曜学校を作りたいと思うだけの夢などは、何の力もなく無意味のように見えるかも知れません。しかし、いますぐでなくてもいつかは綺麗な虹が現れるだろうと、そして私と同じ夢を見る人が一人二人現れるだろうという期待をもって、激しい雨の中、ハンドルを握っていたときをもう一度思い浮かべてみました。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(新潟聖パウロ教会牧師)

『語り続けること』 

夏休みに子どもを誘って釣りに行こうと思ったが、あいにく台風が来てしまい行けずに終わった。「逃がした魚は大きい」と言うように次なる期待ばかりが大きくなる。
その題名も「ビック・フィッシュ」と言う映画がある。いつもホラばかり話している父親を嫌っている息子は、親子関係が疎遠になっている。しかし父親の死に接した時、父親がいつも語っていたホラ話の中に出てくる人々は、出会ったいろいろな人間模様、人生の姿であったことを知るのである。その喜びや悲しみを、布に織り上げるように自分の中でつむいで、父親なりの人生の真理を物語として語っていたのである。
8月上旬チャレンジキャンプ14をおこなった。今回は「ものがたり」がテーマである。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」(使18・9b~10a)をテーマの聖句とした。世界の様々な物語には多くの知恵や人間の豊かさが満ちている。物語ることの中に、人を癒したり和解させる力があって、私たちはそんな物語を語ることのできる一人一人であることを子どもたちと学んだ。神様が語り、私たちは聞く。使徒言行録では主イエスの弟子たちが聖霊に満たされ、主イエスの言葉や出来事を物語っていった。彼ら自身語りだすことによって立ち上がり、歩き始めるのである。彼らと彼らの話を聞く人々の思いや願い、そこには主イエスによって新しく生かされる人々の物語がある。私たちも深い悲しみや絶え間ない心の痛みがありつつも神に生かされ、うながされて神の福音を語るのである。
この9月、中部教区宣教130周年記念礼拝がおこなわれる。中部教区に、み言葉の種はまかれ、私たちはその実を頂いている。聖書をとおして神は私たちに救いのメッセージを語りかけている。そのメッセージは聖書の最後のページで終わったのではなく、私たちもまた救いの物語を語っていく一人とするのである。神によって救われ、養われる者は、み言葉の種をまいていくのである。主イエスの救いを私たちの物語として。

司祭 マタイ 箭野 直路
(新生病院チャプレン)

『牧師の子ども』 

自分が牧師の子どもであることに気付き、そのことを意識し始めたのはいつ頃だったのだろうか、定かではない。気付こうが気付くまいが、生まれた時から確かに牧師の子どもであった。両親の主イエス・キリストを信じる信仰のもとに幼児洗礼を受けた。
聖公会に連なる幼稚園で、多くの主イエス・キリストを信じる先生方に可愛がられ、楽しい日々を過ごした。大学に入り、家を出るまでの大半の時期は教会に隣接する牧師館に住んだ。教会に来る多くの信徒の皆さんは、いつもわたしたち牧師の子どもに優しく暖かいまなざしをもって接してくださり、心を寄せてくださった。そんな恵まれた環境の中に育ち、自分が牧師の子どもであること、一人のキリスト者であることを、何のためらいもなく素直に受け入れることのできた時期がしばらく続いた。日曜日には日曜学校に出席し、やがて堅信式を受け、高校生の頃からは日曜学校の先生もした。休まず聖餐式に出席して陪餐することは、わたしにとって至極当然のことであった。
しかし、そのことを初めて意識的に捉え、立ち止まって考えたのは、思春期を迎えた頃の日常生活、教会の外での学校生活の中においてであった。牧師の子どもが特異な存在であり、キリスト者であることが特異な存在であるとは、それまで考えてもみなかった。牧師の子どもは、多くのノンクリスチャンの友人たちにとっては特異な存在であったに違いない。日曜日には礼拝を守る、食前にお祈りをする、真面目、礼儀正しい、お人好し、反面、どことなく堅い感じ、融通がきかない、そんな印象を与えていたのかもしれない。もし、自分がそのように見られていたとしたらそれは心外だそんな思いも持って過ごしていた。
「牧師の子どものくせに、あんなことをして!」などと言われたりすると、いつの間にか、「牧師の子どもはかくあるべきだ、かくあらねばならない」、そんな呪縛に捕らわれて、いわゆる「良い子」になるために偽善的な言動をしてしまったこともしばしばであった。その呪縛から解かれるためには、かなりの年月が必要であり、いまだ完全に解かれてはいない。それは、ありのままの自分を受け入れることなのだが、それがなかなか難しいからに他ならない。
この4月、33歳になる長男を不慮の死で失った。
牧師の子どもとして生まれ、育ち、自分と同じような轍の上を歩いて来た息子の死は、わたしに厳しい問いを突き付けた。あなたはどこかで無意識のうちに、あるいは意識的に息子に対して、「牧師の子ども(キリスト者)はかくあるべきだ、かくあらねばならない」という枷をかけていたのではないかと……。
同じように、牧師として信徒に対しても信徒(キリスト者)はかくあるべきだ、かくあらねばならないという枷をかけてきたのではないかと。
そんな気負ったわたしの魂の深みに、主イエス・キリストのみ言が熱く優しく呼びかけます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と。(マタ11・28、29)

司祭 サムエル 大西 修
(名古屋聖マタイ教会牧師)