『セロ・パウルス司祭を偲んで ~バンクーバー日系人教会の出来事から~』

昨年7月、戦後の中部教区の発展に多大な貢献をなされ、個人的にも親しくお交わりをいただきましたカナダ聖公会のセロ・パウルス司祭が、バンクーバーにて天国に召されました。お元気なうちにもう一度お目にかかりたいと念願していましたが、叶いませんでした。昨年8月に行われた葬送式にも、私の体調がすぐれず、うかがうことができませんでした。しかし、今年100才になられたお連れ合いのマージョリーさんにお会いしたいと思い、この夏にバンクーバーを訪問し、日系人教会の聖十字教会にて再会し、葬送一周年の記念の祈りを共にお捧げいたしました。
バンクーバー滞在中に、現在、聖十字教会の管理牧師をされている任大彬司祭をはじめ教会の方々から興味深いお話をうかがいました。  戦前、バンクーバーには二つの聖公会の日系人教会があり、信徒も1500人ほどおりました。しかし、太平洋戦争の勃発によって人々は、カナダ全国の収容所に移され、その間、その土地財産を、所属するニューウエストミンスター教区(以下『NW教区』)が管理していました。しかし、NW教区は終戦直前と戦後に三つあった不動産を売却し、加えて教区委員会で「日系人伝道の必要はない」と決議しました。日系人教会の土地建物は、日系人の方々が苦労して購入した不動産でした。しかし教区は、その売却したお金は主教寄贈基金に繰り入れてしまいました。実は、この決議をした1949年5月には、各地の収容所から日系人がバンクーバーに戻り始めていた時期でした。ですから、明らかに日系人に対する排除の意図があったのです。
戦後、中山眞司祭が当時の教区主教に「あの教会はどうしたのか」と問いかけたところ、「処分した」という返答だけで、事実は明らかにされませんでした。
戦後60年を経た2008年に調査チームがつくられ、その結果、そのような事実が判明しました。この調査結果について、カナダ聖公会及びNW教区は、日系人に対する人種差別があったことを認め、2010年のNW教区会にてマイケル・インガム主教が公式に謝罪し、また2013年のカナダ聖公会総会にてその謝罪が公認されました。この調査については、当時の状況を知るパウルス先生が大きな貢献をされたとのことでした。
日本にキリストの心を伝えようとしたカナダ聖公会において、このように日系人を切り捨てるという『悪質な人種差別』があったという事実を知ったパウルス先生の心の痛みは想像に難くありません。
日本で生まれ育ち、日本人とカナダ人を愛し、両国の懸け橋として両教会の成長と交流を願ってこられたパウルス先生にとって、日本とカナダの教会の名誉を回復するという最後の仕事だったのかもしれません。
他方、遅きに失したとはいえ、過去の誤りを真摯に受けとめたカナダ聖公会とNW教区にも敬意を表します。
カナダ聖公会によって育てられた中部教区ですが、日系人教会との交流など新たな宣教協働の道が示されつつあるように感じます。パウルス先生をはじめ、中部教区において福音宣教に尽力された多くのカナダ人宣教師の働きを覚えつつ、両国聖公会の交流が深まることを願っています。

*昨年来の私の病気療養につきまして、多くの方々からお祈りとご心配をいただきました。お蔭で4月から職務に復帰いたしました。この紙面をお借りして心から感謝申し上げます。

司祭 テモテ 野村 潔
(名古屋聖マルコ教会牧師)

『いっしょに歩こう!』

「津波ごっこしようか、それとも、お葬式ごっこしようか?」子どもたちの声を聞いて、傍にいた私たちは、一瞬、言葉を失いました。

2011年3月11日、東日本大震災が宮城県亘理町にあったふじ幼稚園を襲いました。大きな地震の後、先生たちは子どもたちを園庭に避難させましたが、雪も降り始めたので、園児たちを幼稚園バスに分乗させました。その時、大きな津波が襲いました。黒く濁った海水は、あっという間に園バスの中に流れ込み、次々に園児たちをのみ込み始めました。先生たちも背丈を超える水に浸かりながら、園児たちをバスの屋根まで引き上げようとしましたが、残念ながら全員を救出することができず、8名の尊い生命が失われました。また、この時、教師として子どもたちの命を守るため、懸命に働いた磯山聖ヨハネ教会の信徒中曽順子さんは、その夜、力尽き、天国に召されていきました。

9月のはじめ、聖公会の「いっしょに歩こう!プロジェクト」の活動にボランティアとして参加した名古屋柳城短期大学の学生及びスタッフの方々と、8月にようやく再開したふじ幼稚園の仮園舎を訪問しました。一見、明るく元気で、どんな幼稚園でも見られる子どもたちの姿でしたが、言葉や行動の端々に、地震と津波に襲われた時の恐怖、友だちや先生を失った心の痛み、また、その後の避難生活の影響などが、子どもたちの心の中に深く入り込んでいる様子が感じられました。

先生にくっついたまま離れようとしない子。彼は、波に襲われた園バスの水の中から引き上げられた子でした。中には、先生がたまたま水の中に伸ばした手の先に引っかかった子どももいたそうです。真っ黒な水の中でもがきながら、どんなに怖い思いをしたことでしょうか。また、給食の間、ひっきりなしに隣の子にちょっかいを出している子。彼は、今、仮設住宅で家族と共に住んでいますが、隣の家との壁が薄いので、いつも母親に「走るな、騒ぐな」と叱られているそうです。

冒頭の子どもたちの言葉に彼らの複雑な思いが込められているように感じます。たくさんの友だちを一度に失った悲しみを、子どもたちはどのように小さな心に受けとめているのでしょうか。いつになったら、子どもたちの心に伸び伸びとした本当の明るさが戻るのでしょうか。

その苦しみは大人も同じです。園長先生は、その日、たまたま出張中で留守でした。園長先生は、8名の子どもたちの生命を守れなかったことの責任を感じ、自分も天国に行って、その子たちの母親になろうかと思ったそうです。でも、生き残った子どもたちも、様々な心の傷を負っていることを思った時、彼らの心を癒し、明るく育てることが自分の仕事ではないのかと、思い直したと話されました。

大人も子どもも深く傷ついています。被災から半年が過ぎ、徐々に現実に引き戻されるにつれて、より孤独と絶望感を深めている人々も少なくないと聞きます。その意味で、被災者への支援活動はこれからが本番なのかもしれません。

「いっしょに歩こう!プロジェクト」が作成したDVDの最後で、東北教区の加藤博道主教が「忘れ去られていくことが、一番、恐ろしい」と語っています。被災した人々にそのような思いをさせてはならないと、あらためて感じています。神様が、被災した一人一人に時には寄り添い、時には彼らを背負いながら、いっしょに歩いていることを信じて、私たちもその歩みに加わっていきたいと思います。いつの日か人々の目から涙が拭い去られ、心の底から笑いあえる時が来ることを祈りながら。

司祭 テモテ 野村 潔
(名古屋聖マルコ教会牧師)

『伊勢湾台風50周年に想う』

1959年9月26日、 伊勢湾岸を襲った台風15号は、 死者・行方不明者5000人を超える被害を与えました。 伊勢湾台風と名づけられたこの台風による被害は、 阪神・淡路大震災が起こるまで、 戦後最悪と言われていました。 記録によれば、 最大風速60m、 名古屋港では5mを超える高波があり、 愛知県から三重県にかけて名古屋市の3倍の面積が水没するというすさまじい暴風雨でした。

被害が拡大したひとつの原因は木材によるものでした。 当時、 名古屋港周辺の貯木場には、 ラワン材など直径2m、 長さ10m、 重さ5トンを超える丸太が、 大量に浮かべられていました。 巨大な高波は堤防を決壊させ、 数十万トンに及ぶ丸太が、 一挙に住宅地に流出しました。 目撃した人は、 巨大な丸太がタテに転がっていたと証言しています。 高潮に乗った大量の丸太は、 住宅、 建物を破壊し、 人々を巻き込んでいきました。 名古屋市南区では、 丁度、 集団で避難していた子どもたちの群れを飲み込み、 多くの幼子たちが命を失いました。

台風が去り、 丸太の下には、 たくさんの遺体と共に、 無数の小さな靴が残されていました。 人々は、 その小さな靴を集め、 そこに花を飾り、 犠牲となった人々の冥福を祈りました。 誰ともなく、 その場を 「靴塚」 と呼び、 慰霊碑が建てられ、 台風の犠牲者を覚える小さな公園になりました。

被災者の救援活動のため、 名古屋のキリスト教会各派が集められ、 名古屋YMCAを拠点に 「伊勢湾台風基督教救援本部」 が設置されました。 救援活動は、 全国各地から多くのボランティアが集まり、 約4ヶ月間、 続けられました。

ある日、 被災した女性が、 子どもを背中にくくりつけて、 ヘドロを家の外にかき出している写真が新聞で報道されました。 それを見た人々が、 大人たちが復興作業に集中できるようにと、 子どもたちを預かる託児所を設置しました。

復興に目途がつき、 「救援本部」 が解散された後も、 託児所の継続を望む声が強く、 その働きはボランティアによって続けられました。 託児所には、 毎日、 120名もの乳幼児が預けられました。

辛うじて生き残った人々も、 家や財産を失い、 生きる希望を失いかけていました。 救援活動に携わった人々は、 人々に生きる希望を与えるための働きが必要と考え、 翌年、 この託児所の働きを母体に名古屋キリスト教社会館 (以下 『社会館』) を設立することになりました。 以来、 社会館は、 様々な運営上の困難を乗り越え、 多くの人々に支えられながら、 働きを続けてきました。 今では、 保育園、 障がい者の通園施設、 お年寄りのデイサービスなど様々な働きが広がり、 200名以上の職員を抱える社会福祉施設に成長しました。

社会館の創立記念日は、 9月26日です。 それは、 伊勢湾台風がこの地に上陸した日です。 被災した人々の悲しみや苦しみを忘れず、 人々に生きる希望を与えるための働きであることを、 いつも心に刻むためにこの日を記念日にしているのです。

今年、 伊勢湾台風から50回目の9月26日を迎えます。 大きな災害が生み出した小さな働きが、 人々の生きる希望として、 地域になくてはならない存在になりました。 人々の悲しみ、 苦しみに寄り添いながら働く神様の力が、 これからもこの社会館の働きを通して示されることを願っています。

司祭 テモテ 野村  潔

『楽園を生きた男』

以前、 岡谷聖バルナバ教会の深澤小よ志さんから 「教会は、 昔は楽園だった」 というお話を聞きました。 小よ志さんは、 1920年代、 12才の時から岡谷の製糸工場で働かれました。 当時、 1日12時間、 ロクに休憩もとれないような労働をしていた工女たちにとっては、 教会で行われるすべてが新鮮で、 楽しく、 まさに楽園のようでした。
その頃、 教会の現状に様々な疑問を感じていた私にとって、 小よ志さんのこの言葉は、 実に印象的で、 深く心に残りました。 以来、 楽園のような教会というのは、 私にとって、 教会の姿を考える際のキーワードのひとつになりました。
しかし、 現実の教会は、 そんな楽しいことばかりではないし、 不自由なことも多く、
トラブルも多いし、 とてもじゃないけど楽園と呼べるような場所ではないように感じてきました。 今の時代、 楽園のような教会というのは幻想だと諦めていました。
ところが、 そんな現実の教会を楽園のように生きた人がいました。 名古屋聖ステパノ教会の神原榮さんです。
彼は、 福岡県の田川で生まれ、 若い頃は炭鉱労働者として働きました。 しかし、 炭鉱の閉山によって失業を余儀なくされます。 そして、 多くの炭鉱労働者と同様、 職を求めて都会に出ていきますが、 なかなか安定した職業はなく、 結果的に大阪の釜ケ崎にて日雇労働に従事します。
その後、 名古屋に移り、 日雇労働を続けていましたが、 糖尿病を患い、 仕事を続けることが困難になりました。 その頃、 日雇労働者への支援活動を通して、 聖ステパノ教会の松本普さんたちと出会い、 生活保護を得てアパート生活を始め、 教会にも通うようになりました。
そして2001年秋、 彼は念願の洗礼・堅信を受け、 聖公会の信徒になりました。 その後の神原さんの生活は、 文字通り教会と共にありました。
毎主日の礼拝はもちろん、 週日に各教会で行われる様々な行事、 集会にも参加しました。 まるで参加することに意義があるかのように、 いろいろな集まりに参加し、 そこにいる誰とでも 「主の平和」 のあいさつを交わしました。 彼は、 聖ステパノ教会の信徒ですが、 徐々にその行動範囲を広げ、 今週は聖マルコ教会、 来週は聖マタイ教会、 更には主教さんと一緒に岐阜の教会へなどと、 主教巡回のお供までするようになりました。
神原さんは教会に行くことは大好きでしたが、 聖書や祈祷書を読んだり、 説教を聞いたりすることは得意ではありませんでした。 でも、 お祈りの最後には大きな声で 「アーメン」 と唱えました。 所属教会のことよりも、 聖書やお祈りの内容よりも、 人が集まって、 お互いが笑顔で 「主の平和、 アーメン」 とあいさつができることが心からうれしかったのだと思います。 その意味で、 教会は神原さんにとってまさに楽園そのものでした。
その神原さんが、 去る9月8日、 入院先の病院で本当の楽園に旅立たれました。 葬儀には、 愛岐伝道区の各教会からも多くの方々がお別れに参列され、 神原さんが過ごした短い教会生活の間に、 いかに多くの仲間を得ていたかということを感じました。
教会を楽園のように感じられる人がいる間は、 まだまだ教会には希望があるのかも知れません。 神原さんの死に際して、 再び 「楽園のような教会」 というテーマを与えられたような気がしました。

司祭 テモテ 野村 潔

『平和の器として』

『ナチスが共産主義者を弾圧した時、私は不安に駆られたが、自分は共産主義者ではなかったので、何の行動も起こさなかった。その次、ナチスは社会主義者を弾圧した。私は更に不安を感じたが、自分は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった。それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、そのたびに私の不安は増大した。が、それでも私は行動に出なかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして、私は牧師だったので、行動に立ち上がった。しかし、その時はすべてがあまりに遅すぎた。』 (マルチン・ニーメラー)
1999年、「日の丸」、「君が代」をそれぞれ「国旗」、「国歌」とする「国旗・国歌法」が成立しました。以来、殊に教育現場における「日の丸」、「君が代」の押しつけが、急速に強まりました。最近、聞いた話ですが、東京都では、各学校の公式行事の際に、教育委員会が「日の丸」を掲げる場所を含めた会場のレイアウトに介入したり、或いは「君が代」を歌う際には、誰が立たなかったか、誰が歌わなかったか等のチェックが公然となされているとのことです。こうした圧力によって、今では全国の公立学校における「日の丸」、「君が代」の実施率はほぼ100%となっています。つまり公立学校の教職員及びそこで学ぶ生徒たちは、知らず知らずに公権力が一方的に決めつけた「愛国心」の強制というある種の思想統制を受けていると言えるのです。更に最近では、私立学校にも「日の丸」、「君が代」を義務づけようという論議が生じているようです。聖公会に連なる諸教育機関は大丈夫かと言いたくなります。
他方、日米安保条約の下、アメリカの軍事戦略を支援協力することによって、日本は 軍事力を強化してきました。1999年には「周辺事態法」が成立し、周辺地域の有事であっても米軍の後方支援という形で軍事行動ができる道を開きました。2001年9月11日の「同時多発テロ事件」の後には、「テロ対策特別措置法」や「改訂PKO協力法」などを成立させ、自衛隊派兵に向けての環境整備を行ってきました。そして、昨年は「武力攻撃事態法」を含むいわゆる有事法制関連三法が成立しました。それによって、有事の際には国民及び病院や銀行などの諸施設の動員が可能となり、国民の人権や自由が著しく制限される恐れが生じてきました。
こうした一連の軍事化の歩みが、結果的に自衛隊のイラク派兵に道を開いていったのです。戦後初めて戦地に自衛隊を送ることによって、日本は新たな戦時体制に突入したと言えます。日の丸の小旗に送られて出兵する自衛隊員の姿を見て、皆さんは、どのように思われたでしょうか。
1996年、日本聖公会第49(定期)総会は「日本聖公会の戦争責任に関する宣言文」を決議しました。この「宣言文」では、聖公会が日本国家による戦争を支持、或いは黙認したことの罪を告白すると共に、平和の器として歩むことを祈り求めています。
私たちは、再び同じ過ちを犯してはならないのです。冒頭のマルチン・ニーメラー牧師の詩をあらためて心に刻みながら、共に平和への願いを深めて参りたいと思います。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ2・4)
司祭 テモテ 野村  潔
(教区教務局長)