『「せっぱつまって・・・!」』

『しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。』  (詩編51:19)
ある日、ナタンがダビデ王を訪ね、謎めいた話を語り始め、王としてこの話をどうお思いになるかと訊ねると、王は「そんなことをした男は死罪だ」と激怒します。ナタンは静かに王に向かい「その男はあなただ」と告げるのです。
部下をアンモン人との戦いに出陣させ、自分ひとりエルサレムに残り、情欲のために部下の妻を召し入れ、女が身ごもるやその悪事を糊こ塗とするためにその夫である部下のご機嫌をあれこれ取るものの、それが上手くいかずと知るや故意にその部下を戦死させ、夫の死の悲しみにくれる女を召し入れて妻とする。読むたびに何とひどいことを・・・。憤りを覚えるところです。
ダビデは誰にも知られぬようにひた隠しにしていた罪を暴かれてしまいます。当時は王の故に居直ってもおかしくない時代であるにもかかわらず、彼は懺悔の祈りをせずにはおられませんでした。やはりダビデのダビデたるところでありましょう。王であることも、人目をはばかることも忘れ、神の前にただ一個の罪人として泣き崩れた彼の砕けた心を歌ったのがこの詩編なのです。
同じくヘロデ王も姦淫の罪を犯します。彼は自分に向かって意見したバプテスマのヨハネを投獄し、悩みながらも処刑してしまいます。ヘロデはその後、神の前にその罪を悔いることなしに生涯を終えることになります。
『人間というものは知らず知らずの内に、変わっていってしまうものなの・・・。
せっぱつまった状態に置かれると、そうすることが正しいかどうかを見極めずに、取り敢えず問題を解決しようと飛びついてしまう・・・。そのうち、それが正しいという錯覚に陥り、そういう生き方をするうちにそれに慣れて道理を見失い、目先の事しか見えなくなってしまう・・・。』 (韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」より)
罪を犯してもなかなかそれを認めようとせず、これくらいは誰でもしているではないかと思ってしまい、素直な砕けた心を持つことができなくなっていきます。自分はヘロデとは違うと誰が胸を張って言えるでしょう。それは個人のレベルにおいても然り、国や、国と国とのレベルにおいても、権力や武力、はたまた正義をかさに押さえつけ、自らの非や罪悪を認めるどころか、自らを正当化することに専心します。
しかしダビデはヘロデと違って自分の罪を悔いたのです。神の前にいかに自分が罪深く、自分ではどうすることもできない罪を悔い、ひたすら神に救いを求めます。それ故神に選ばれた王としての歩みを続けることを許されたのです。罪に泣いたダビデに与えられた救いの約束、それは将まさに、イエスの十字架によって今の私達にももたらされている救いの約束でもあることを今一度心に留め、赦され、生かされていること、そして、なにゆえ生かされているのか、と考えずにはおられないところではないでしょうか。
司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(松本聖十字教会牧師)

『インマヌエル』

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
イエス・キリストの誕生物語は、マタイ福音書とルカ福音書の二つにあるが、この聖句はマタイ1章23節で、「インマヌエル」という言葉でよく知られている。
インマヌエルは旧約聖書のイザヤ書7、8章に出てくる言葉で、冒頭の聖句中のインマヌエルは7章14節のものである。ギリシャ語で「神はメトゥ(と共に)・ヘーモーン(我々)」となる―マタイ福音書の誕生物語を読む場合、この言葉を覚えておこう。そしてマタイ福音書の特徴を見てみよう。
ルカ福音書には無くマタイ福音書特有のこの聖句について考えてみたい。インマヌエルはヘブライ語で、意味は「神は我々と共におられる」である。「我々と共に」であり、「われと共に」ではない。
マタイ福音書の誕生物語では、イエスは「王」として生まれる。占星術の学者たちのヘロデ王への言葉は、「ユダヤ人の『王』としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とある。このことによってヘロデは自分の「王位」が危ないと不安を感じ、急いで祭司長たちや律法学者たちに調べさせ、誕生の地は「ベツレヘム」であると教えられる。ヘロデ王は「見つかったら知らせてくれ」と言って送り出し、「私も行って拝もう」などと心にも無いことを口にする。
イエスが王として述べられる記事はさらに続く。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、贈り物をささげた」と。そこには、身ごもっているマリアとヨセフの、人口調査のための旅も馬小屋も出てこないし、羊飼いという社会の底辺を生きる人たちも登場しない。
しかし、マタイ福音書のイエスは単なる権勢を誇る「王」ではなく無力な王なのである。それは以下の物語と地上の生涯でわかる。占星術の学者たちがヘロデ王に知らせないで帰国の途に着くと彼は大いに怒り「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、ひとり残さず」殺すのである。幼子はマリア、ヨセフと、その危難の直前に天使の言葉に従いエジプトに逃れた。ようやくヘロデ後の時代になったので帰還しようとするが、大王の子供たちが支配していて危険なので、ナザレの町へひきこもる。王になる人物らしくない。
続く物語は他の福音書と同じくイエスの地上の生涯の叙述であり、神の国についての教え、病人のいやしが述べられる。そして十字架の死、復活が詳述される。
最終章28章に至り、イエスは11人の弟子たちに全世界への宣教命令を与える。その最後の文章に注目したい。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」であるが、最後の最後でまたインマヌエルとよく似た言葉が出てくる。メトゥ(と共に)・ヒューモーン(あなたがた)。
「神は我々と共におられる」「わたしはあなたがたと共にいる」。この「わたし」とはイエス・キリストのことである。マタイ福音書は、神があるいはイエスが我々教会と共にいるという、初めと終わりの宣言で、何と囲まれている福音書なのである。
主教 フランシス 森 紀旦

『11月に思うこと』

北信濃にある飯山は、今、晩秋を迎えようとしています。春霞にけむる千曲川のほとり一帯に咲く黄色い花の大群落、高野辰之作詞、文部省唱歌、「おぼろ月夜」のモチーフとなった鮮やかな菜の花畑。蝉の声と共に深い緑につつまれた夏。そして今、突き抜けるような青空に、鮮やかな赤や黄色に染まりゆく秋を迎えようとしています。
上杉謙信が、川中島合戦の拠点として築城し、12年間の合戦の間にも、武田信玄の攻めに落城しなかった「堅固な城」。名利を求めず、ひたすら修業に打ち込み、多くの民衆の信望を得た名僧が修業した20余の古刹がたたずむ雪国の城下町、寺の町は、知識を蓄えた長い歴史に裏付けされた静けさを与えてくれます。

さて、11月は、教会暦一年の最後の月であり、降臨節が迫り来る月であり、そして、また、逝去者記念の月でもあります。

「(永遠の)命を得るために、(中略)神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明し」(テモテへの手紙一6・12b)神に望みを置き、一生懸命に生き抜き、信仰の戦いを立派に戦い抜いた人々の魂を大切に考え、記念・・し、主にある交わりを共にし、祈ります。この記念・・(アナムネーシス)とは、単なる過去の追憶ではなく、より積極的な意味であり、時間と空間を越えて再び現実のものとなり、死者と生者が、主イエス・キリストにある交わりにあずかることであり、やがて私達も、主と一つになる霊的な交わりに入れられることであり、ここに、私達の勇気と希望が与えられます。全ての亡くなられた方々の魂の平安を祈りたいと思います。

2004年も、まもなく過ぎ去ろうとしています。世界各国で続く、戦火、テロ、暴力の連鎖、長引く経済の低迷、漠然とした閉塞感。暗い時代が続いているように思います。脱亜入欧、富国強兵、明治以降の日本は、西欧文明を追い求めてきました。それは、積極性、能動性、生産性、効率性といった力の論理を重視、絶対化した弱肉強食といった力と強さの思想です。戦後、特に米国の文化が日本に影響を与えたように思います。アメリカンドリームに代表されるアメリカ的文化は、明るさ、健康に価値を置き、人間の弱さや悲しみのような影の部分をマイナスの価値として切り捨ててきたように思います。本当は、弱さも悲しみも大切であるのに、生産や効率の役にたたないからと言って切り捨ててきました。その結果、一面的にしか社会、世界をとらえられなくなり、相手の屈折や影の部分を想像できず、自分達の価値観で押し切ろうとする社会です。それがもたらしたのは、生命、生活の基礎となる生態系の破壊であり、環境汚染です。人間にとって、重要なことは、自分とは違う価値観をもつ他者の存在であり、異質な他者によって初めて見えなかった自分の姿が見えてくるように思います。他者を見失った同質な集団や均質な社会は危ういように思います。

さて、今月28日からは、教会暦の新しい年が始まります。柴の色が用いられるこの期節、イエス様の誕生を迎える準備の期節としての降臨節を慎み深く過ごし、意義深いクリスマスを迎える心の準備の時として過ごしたいものです。

司祭 テモテ 島田 公博
(飯山復活教会勤務)

『教会の「祈り」』

2004年10月のメッセージ

4月から慣れない短大勤めをするようになり、今までとは違った生活の中で戸惑うことも多くなりました。その一つは、「祈る」ということについてです。これまでは、教会に定住していたこともあり、朝と夕の祈りの時間を曲がりなりにもとることができていたのですが、サラリーマン時代と変わらないような生活になって以来、その習慣を守ることがとたんに難しくなってしまいました。このことについては自分でも危機感を持っているのですが、同時に「祈る」ということの意味を改めて考える機会を与えられているような気もしています。
わたしが修士論文のテーマにしたのは「信徒が司式する主日の礼拝」でした。この中で、信徒の奉仕職の基礎は教会「外」での生活にあり、その生活と主日の礼拝とをつなげていくことが信徒の奉仕職にとって、そして教会にとって大切なことなのだと主張しました。わたし自身は、聖公会の聖職という立場で短大に勤めているわけですが、しかしそれでもなお、わたし自身が直面している祈りの課題とはこのことに尽きるのではないかとも思っているのです。

最近、柳城の学生たちが頻繁に隣のマタイ教会におじゃまするようになりました。マタイ教会は柳城のチャペルでもありますので、彼らが気楽に出入りしてくれていることをチャプレンとして喜んでいます。これは、同世代の下原先生目当てだったり、静かにお昼を食べる場所を求めてであったり、ピアノや劇の練習のためであったり…と、いろんな目的でやってきています。彼らがやってくるのは平日の、学校がある日が主ですので、その存在に気づいておられない方々も多くおられると思いますが、平日に学生たちが教会を訪れていることと、その同じ建物で教会の礼拝が捧げられていることとは決して別々の二つのことではなく、一つの出来事であることをわたしは確信しています。

まだ半年弱の教員生活ですが、その短い時間の中でもいろいろな形で学生の「祈り」に触れる機会がありました。ほとんどの場合、彼らはキリスト教的な言葉を使って「祈って」いるわけではありませんが、でも確かに「祈って」いるのです。紙面では抽象的にしか申し上げられませんが、そう言わざるを得ない状況の中で一生懸命生きようとしている、その彼らの傍らでわたしもまた、共に祈っていたのです。この彼らの「祈り」をどう受けとめていくことができるのか、日々問われ続ける中でわたしは毎日を送っています。そして同時に、これは教会全体の課題でもあって欲しいと思うのです。

神の光に照らされて生きるわたしたち一人一人の毎日は、そのままわたしたちの祈りであり、朝と夕の「時の祈り」は、その日々の時間に特別な意味を与えます。そして、教会にわたしたちが集まって祈ることは、この毎日の祈りを持ち寄ることだと思います。これらが一つになったとき、わたしたちは、そして教会はほんとうに祈っていると言えるのではないでしょうか。そしてその中で教会は、学生たち一人一人の心の叫びを受けとめていく場となることができるのだと思います。

執事 ダビデ 市原信太郎
(名古屋柳城短期大学チャプレン)

『誰のために?』

去る7月13日未明から新潟県中越地方を記録的な集中豪雨が襲いました。その甚大な被害の中、私も支援活動に参加させていただきました。〝泥の竜巻に襲われた街″というのが市街を廻った私の印象でした。私は被害の深刻さに圧倒され、街の復興を遥か遠くに感じ、何らかの働きにより支援したいと考えていた私の力など何の助けにもなれないと思い、泥を掻き捨てるスコップを握る手に熱が入りませんでした。
しかし、そのような私の傍らには、ひたすら復旧作業を続けている幼稚園の先生方の姿がありました。先生方は自分たちも豪雨の被害に遭い、日々を何とか過ごしていくだけで精一杯であるはずなのに、何かに突き動かされるように復旧作業を続けていました。私は、その先生方の姿を見ながら、〝何が、ここまで先生たちを突き動かしているのだろうか?〟と考え、また、熱の入らない私自身と照らし合わせていました。

そして、先生方の復旧作業を見ているうちに、先生方を突き動かしているものを感じ取ることができるようになってきました。泥にまみれた遊具を一つ、一つ丁寧に洗っている先生方の姿、水没したピアノを何とか修繕しようとする先生方の姿の向こうに、その遊具で楽しそうに遊び、そのピアノが奏でる曲に声を合わせて元気に歌う園児の姿が見えたのです。先生方は、〝再び園児が楽しく遊び、安全に過ごすことができるように″〝すべては園児のために〟という使命と希望により突き動かされ、また支えられていたのです。

スコップを握り、泥を掻き捨てる私の手には、そのような 〝誰のために、何のために、何をしたいのか″という思いがなかったのです。そのことが私の心の中に無力感を生み、支えもなく、諦めの中でしか働けない自分を作り上げていたのです。

私は、先生方の姿に支えられ、自分が誰のために、何のために、何がしたいのかを求めながら復旧作業を始め直していきました。そして、園庭で楽しく遊び回る園児、嬉しそうにウサギに餌をあげる園児を思いながら、園庭の汚泥を掻き、ウサギ小屋の汚泥と糞を洗い流しました。すると、自然と作業の中に復興の希望を持てるようになっていたのです。私の働きが本当に少しでも園児の生活の中に生き、先生方を突き動かしている使命と希望の支えになれるかもしれない。その思いが私の働きの希望と支えとなり、私を突き動かしたのです。

そして、ある時、ふっと思ったのです、〝愛するとは、こういうことであるかもしれない〟と。まだ見ぬ園児の笑顔を思い、祈り、働くことができる。そして、そのために働く先生方を思い、自らを園児に捧げることを教えられる。今、私は、あの時、先生方に園児を愛するということを教わり、園児を少しでも愛することができたかもしれないと思っています。

私が三条を離れる時、ある一人の先生が〝たくさん、お手伝いしていただいて、ありがとうございました″という本当に素敵な言葉を私にくださいました。しかし、本当にお礼を言わなければならないのは私であると思いました。保育士を志す多くの学生が通う名古屋柳城短期大学の学生と関わりのある私は、学生たちがこのような、園児を愛することのできる先生になれるよう祈り続けていきたいと思います。
聖職候補生 ヨセフ 下原 太介
(名古屋聖マタイ教会勤務)

『「主の祈り」を祈ろう』

司式者:主イエス・キリストが自らお授けくださったこの祈り(主の祈り)を、日夜折あるごとに祈り、キリストに学び、キリストの道を歩みなさい。
洗礼志願者:アーメン

(日本聖公会祈祷書「入信の式」より)

8月号にふさわしい内容でよろしく、と原稿を依頼されました。戦乱に明け暮れる世界を見渡して、平和についての感慨を述べるようにということかも知れないが、それは他の機会に譲るとし、かねてより私が感じている、「『主の祈り』を祈る」ことについて、思うところを記させていただきたい。

ご承知の通り、私自身がいわゆるスローモーなたちで、しゃべったり、行動したりするのが人一倍遅く、半分ひがみもあるかも知れないが、つい数か月前の、日本聖公会総会や教区教役者会などに参加して、他の多くの人々と共に「主の祈り」を祈る機会を与えられたが、すらすらと、何のよどみもないように唱え続ける他の人たちに遅れをとるまいとすればするほど、息が詰まるようになり、神様との交わりを楽しむ至福の境地を味わうどころか、苦痛に感じることもありました(これまで幾度も体験したように)。

ある決まった文句を、調子をとりながら声に出して読んでいく「唱える」作業は、外からみれば、インパクトに富む、エネルギッシュな行為ですが、神に向き合い、神に聞く「祈り」の行為とは少し違うのではと思います。

限られた時間内に捧げる公同の礼拝で、個人的な感傷だけにひたることが許されないのは当然ですが、スロー・ライフとか、スロー・フードがもてはやされる昨今、ほんの数秒、数分だけ、もう少しゆったりと「主の祈り」の一字一句をかみしめながら、神に向かって立つことは出来ないものでしょうか。

古来、私たちはさまざまな種類の祈りに支えられてきましたが、『主の祈り』は、少し時間をかければ幼児でも容易にそらんじることが出来る真に心地良い祈りです。

でも、天とはどんな世界か?み名とは? 聖とするとはどういうことか? み国とは?みこころとは? 日ごとの糧とは? 罪とは? ゆるしとは? 誘惑とは? 悪とは?等々、一つ一つの言葉に思いをはせれば、一言では語り尽くすことができなくとも、イエス様と私たちを結ぶ味わい深い奥義にたどりつき、日々新たにされていきます。

神に対する信仰を告白し、神に応答していくという「祈り」の本質に立ち返って、一言一句、イエス様が教えてくださったイメージを思い浮かべ、心に描きながら祈っていくうちに、すばらしい世界に招き入れられるのを実感できると思います。

そして冒頭の「入信の式」の「主の祈りの授与」にあるように、『主の祈り』を(ただ、走り読むのでなく)よく祈り、キリストに学び、キリストの道を歩んでいくことが出来れば幸せです。

最後に、私が多くを教えられた、ある先輩聖職のメッセージ「聖歌は早く、祈りを遅くしなさい」を皆様と共に味わい、祈りつつ、日々を過ごしていきたいと願います。
司祭 ルカ 森田 日出吉
(高田降臨教会牧師)

『行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす』

幼稚園の子どものお迎えで、毎朝バスに乗っていると、途中で一面に水田が広がる真ん中の一本道を走ります。水田のはるか向こうにはこんもりと木が生い茂り、その向こうには山々が重なって見えます。5月中旬に田植えがされた水田には青々とした稲が風に揺れています。
幼稚園では4月に入園した子どもたちも、いつの間にか園になじんで友達を作り、体も成長しています。子どもたちの暗唱聖句「成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリ3・6)という言葉が実感される日々を過ごしています。
しかし、この景色の少し向こう、車で行けば1時間もかからない所に柏崎があります。幼稚園から海までは車で5分です。海の向こうには佐渡があります。ちょっと想像力を働かせると、そこには原子力発電所があり、蓮池さんと曽我さんがいます。新潟には横田さんがいます。決して穏やかな平和な光景に落ち着いてはいられないのです。こちらの新聞「新潟日報」を読んでいると、様々な問題が決して他人事ではないことを感じさせてくれます。
そして、ここ直江津に来てから知ったことで何より驚いたのは、新潟県は93年・94年と続いて自殺率日本一だったということです。最近は少し減って5位ぐらいです。しかし代わって1位になったのは秋田県です。50代と80代に多く、都市部よりも山間部が多いそうです。自然に恵まれた美しい光景は、その背景に様々な問題を隠しているのです。
政治や経済、あるいは様々な社会問題を抱える今日のような社会では、多くの人が何とかして自分が精神的安らぎを感じていたいという思いから、周囲に起こる問題と無関係でいようとして、関係性をどんどん切り捨ててしまいがちです。しかし、主は言われています。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタ22・39)私たちに求められていることは内向きに心の平安を求めることではなく、想像力を外向きに働かせて困難に直面している人たちを思いやり、共に悩み、共に苦しむことです。
もちろん私たち一人一人は決して強い人間ではありません。多くの人はそれぞれに悩みを抱えています。家族の問題、仕事の悩み等様々です。人はわずかなことでも多く悩むものです。しかし、そこで立ち止まっていても何も解決しません。問題を抱えつつ共に歩き続けて行くことが、人を成長させ問題の解決に向かわせてくれます。イエス様は弟子たちと歩まれ、弟子たちを派遣されました。そして、その歩みは今も続いているのです。そこに連なる私たちも歩き続けて行きましょう。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(ルカ10・27)という言葉は私たちを力づけ、自分にはまだまだ出来ることがあるという気持ちを抱かせてくれます。
体は一つ、私たち一人一人が出来ることは小さなことです。しかし、共に重荷を負い合い、共に歩むことは出来ます。主はそれを求めておられます。
私たちがすべてを尽くして日々歩いて行くとき、主は共にいてくださいます。
水田を渡ってくるさわやかな風に心を和ませながら、そんなことを考え、バスに揺られています。
執事 ペテロ 田中 誠
(直江津聖上智教会牧師補)

『きんちゃん』

「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタ5・23~24)
ぼくの故郷は日本海に面した町で、長く続く緑の松林と白い砂浜、青く広がる海があります。ぼくの子どもの頃にはなかった原子力発電所が岬の先端に蜃気楼のように見えています。
子どもの頃、よく家族そろって海水浴に出かけました。
松林の中でお弁当を広げていると、風にのって太鼓や鐘の音がにぎやかに聞こえてくることがありました。
その楽しそうな音につられて見に行くと、一団の輪の中で、女の人たちがくるくる踊っていました。
白く光る袖や裾がひらひらと舞うのを、ぼんやりと見ていたことを思い出します。
ずっと後になって、その着物がチマチョゴリという民族衣装だと知りました。
ぼくが小学5年生のときだったと思うのですが、同じ学級に金(キム)くんという生徒がいました。
ぼくは「きんちゃん」と呼んでいたようです。
きんちゃんはいつも同じ服を着ていて、その服の胸と袖のところがペカペカに光っていました。
からだからニンニクの匂いがするので、「くさい、くさい」と鼻をつまんではやされたり、大人たちをまねて、きんちゃんの国の人をさげすむ言葉でからかわれていました。
教会の日曜学校へ行っていたぼくは、イエスさまの光の子なのだから、かわいそうなきんちゃんの友だちになろうと思いました。
ぼくがきんちゃんと仲よくしようとしたのには、もう一つわけがありました。
ぼくは運動が大の苦手で、鉄棒も跳び箱もまるでだめ、かけっこもいつもビリで恥ずかしい思いをしていました。
それが何と、きんちゃんはぼくよりさらに走るのが遅いのです。
だから、きんちゃんと仲よくしていて同じ組で走れば、ビリにならなくてすむと考えたのです。
ある日、空き地の草むらに二人だけでいた時のことだったと思います。
突然、きんちゃんがぼくを押し倒し、馬のりになって、ぼくの頭を地面にゴリゴリ押しつけました。
ぼくはなぜそんなことをされるのか分からず、きんちゃんの顔を見上げると、きんちゃんが泣いていたのです。
ぼくはきんちゃんをはねのけることも、やり返すこともできませんでした。
ぼくの坊主頭には穴があき、血が出ていました。
家に帰ると母が怒って、
「誰にこんなことされたの」と聞きましたが、ぼくは決して、
「きんちゃんにやられた」とは言いませんでした。
それからしばらくして、きんちゃんは学校に来なくなりました。
これは1952年頃の私の忘れられない記憶です。
執事 ヨハネ 大和田康司
(名古屋聖ヨハネ教会牧師補)

『母の死を通して』

1月27日、母は神様のもとへ召されました。その1ヵ月後、思いを岐阜聖パウロ教会の教会だよりに寄せてみませんかと伊藤司祭よりお誘いがあり、書かせていただきました。

母は自分の父を浜松にあるホスピスで看取ったのを機に、10年前に「ぎふホスピス運動をすすめる会」を立ち上げました。祖父はがん告知後に自らホスピスを選び、種々の苦痛を緩和してもらい、穏やかな最期を迎えた人でした。母はその体験から、岐阜の地でもすべての病院・在宅でホスピスケアを、生と死を見つめる大切さをと願いました。そして市民の立場からその普及を進めようと、学習会やホスピス設立を求める署名活動などを行いました。6年前には乳がんが発症し、同じ患者の立場にある方と思いを分かち合ったり、治療法について積極的に勉強するなど、ますます思いを強くして活動していました。最後の一ヶ月は肺転移による呼吸の苦しさを伴いながらも、ホスピスで明るく楽しく過ごしました。自分から周囲に別れと再会を誓う挨拶をし、遺される者が死を迎える気持ちの準備までしてくれました。最後にもらったクリスマスカードにも「この先一緒に過ごせる時間は長くはないかもしれないけど、できるだけ明るく楽しくやっていこうね」「どこにいても祈っていますよ」とあり、私の支えとなっています。そして苦しみから解放されるように神さまに抱かれて旅立っていきました。

そんな母の死、また3年前に肺がんで急逝した父の死を通して感じたことを書いてみたつもりです。まだまだ混乱した思いのままでの文章ですが、神様からのメッセージに目を向ける良い機会ともなりましたことを感謝しております。

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住み慣れた家でもあったこの岐阜聖パウロ教会。神様の愛で満たされたこの場所から母が皆様に見送られて1ヶ月が経ちます。母が旅立つ準備を始めてから通夜の祈り、そして葬送式を終えて母の遺骨と共に帰宅するまでの時間は、夢のような素敵な時でした。
愛する人との別れは辛く重いもの。母の死を思う時、もちろん苦痛を伴わずにはいられません。しかし同時に温かい気持ち、神様への感謝と賛美の気持ちを持つことができる。それが母の死を通して感じた、不思議でもあり当然でもあるような感覚です。寂しくて悲しくてたまらないのに笑顔が溢れてしまう、本当に夢のような心地よい感覚です。
与えられた時間を最後の一瞬まで大切に使いきろうとした母。命に限りがあることを受け入れていた母は命の素晴らしさを実感し、自然と感謝の念を持っていたのではないかと思います。辛さと喜びが同時に母から溢れていた最期でした。私も限りがあるからこそ命は輝くのだと実感させられました。神様が与えられた母の素晴らしい人生に心から感謝しました。母の最期から葬儀を終えるまでが素敵だと感じたのは、母を愛して下さった皆様と共に命の素晴らしさを感じて神様への感謝と賛美を捧げつつ、母とのこの世での別れが十分にできたからだと思います。
しかしこれは父が亡くなった時には無かったものです。3年前、私は父の遺体にすがって泣き続けていました。葬儀中も、父の最期を思って泣いていました。入院中に呼吸が苦しくなり意識を失った父は、最後の数時間を人工呼吸器によって動かされていました。東京から駆けつけた私はそこに命を感じることができず、物として動かされている父を見ました。寂しさよりも悔しさを感じた、大好きな父との別れでした。
母の時とは全く異なる経験でした。何が違うのか、冷静に整理する事はまだできません。ただ1つ感じるのは、与えられた命を「限りある時間」として受け入れるか否かの違いの大きさです。父は、神様の与えられた時間に逆らう事がいかに不自然であり皆に苦痛をもたらすかを教えてくれました。母と同じく人生を懸命に生きた父が苦しみをもって教えてくれました。これは医療者への要望だけでなく、自分への戒めともなりました。
今、父も母も自らの死を通して同じ教えを残してくれたと思うことができます。
母が親友に伝えた一言。「医者も患者も関係ないの。あるのは感謝だけ。」私はこれを「神様の前で人が傲慢になってはいけない。感謝を持って日々を過ごしなさい。」というメッセージでもあると思っています。神様に感謝すること。人とのつながりにも感謝すること。病気であろうとなかろうと、人にはこの世での時間に限りがあると受け入れること。実際にはいつになっても難しい課題ですが、心に留めて努めようと思います。
テレサ 神山佳奈絵
(岐阜聖パウロ教会信徒・臨床心理士)

『ペトロの涙』

主のご復活と導きを感謝して
3月に入ってなお小雪が降り、早朝には氷点下7度の日を迎えるなかで、4月の声が近づくと、やっと新しい命の芽生えを感じる時が来たなとの思いです。春一番が吹き、冬の終わりを告げる雷が鳴り響くと、その音に促されたかのように、厳しい寒さに閉じ込められていた小さな虫たちが地上に顔をのぞかせ、啓蟄を迎えます。死んでしまったと思わせるような冬の世界に、大地のぬくもりのなかで小さな命が見守られていることを教えているようです。根雪を溶かし、幼虫たちに脱皮・変態し動き出す、新たな生きる力の源を注いでいるように思います。そうか、神様はそのように私たちが住むこの世界をお創りになってくださっているのだなと思います。
教会暦では、主のご復活を祝う準備の大斎節も主イエス様のエルサレムでの1週間を覚える聖週に入ります。しかし、弟子たちを代表するとまで言われたペトロにとっては思い出したくもない1週間であり、あの一言さえ言わなければこんな惨めな思いをしないで済んだと、悔やんでも悔やみ切れない出来事でした、「私はあの人を知らない」(ルカ22:57)と。あれほど主に従って歩む道こそ自分の生きる道であると固く信じ誓った私は、主イエス様の言葉どおり、一番大切な時に、一番証しするチャンスの時に「私はあの人を知らない」と叫んでしまいました。その時ペトロに向けられた主の眼差しに、弟子たちの先頭に立った誇りも無く、主を裏切ってしまう自分の弱さを思い知らされ、悔しさと恥ずかしさで主に顔を向けることが出来ず、主のおられる中庭にいたたまれず外に飛び出してしまいました。
この言葉は自ら関係を断ち切る言葉、主の愛のうちに生きる事とは関わりのない関係を宣言する言葉になりました。神様の御用のために主イエス様によって、私こそ最初に召され、先頭に立って歩んで来たその人であると自負してきた者の、挫折した恥ずかしい言葉そのものでした。でもこの言葉は、ペトロだけの言葉でなく、今私たちの口と耳に飛び交う、人間関係を断ち切る言葉になってしまっています。夫婦の親子の兄弟姉妹の家庭のなかで、少子・高齢化社会のなかで、絶えることの無い幼児虐待や最近とみに増えている高齢者の虐待、いじめのなかで、こんな筈ではない、こんな人間関係のために私たちの命が与えられたのではないとの叫びが溢れています。
大声で「私は知らない」と言わざるを得なかったその時、主イエス様の眼差しにペトロの涙は止まりませんでした。そう、イエス様は知っておられるのです。ペトロの思いも、弱さも。それでもなお裏切ってしまった弱いペトロをありのまま受け入れ、そのペトロのために赦しと神様の愛のしるしの十字架へと歩まれました。ご復活の主はペトロに、自分の力に頼って生きる道から脱皮し、神様の愛に活かされる者へと力を注いでくださいました。ペトロのその後は、命がけで復活の主との出会いを証しする歩みでした。それはペトロの内に、十字架のイエス様が共にいてくださる人生へと招いてくださった喜びのしるしです。
「私は知らない」と交わりを絶つ言葉を言い続ける私たちですが、ペトロと共に喜びをもって聖餐式の内に、主が今ともにいてくださる恵みに与りましょう。
司祭 マルコ 箭野眞理
(長野聖救主教会牧師)