『「ハミルトン先生」』 

夏、 アカシヤの木の葉が繁り、 ほのかに甘い香りを漂わせ、 白い花が咲く頃、 上田の教会に在籍した時代を思い出す。 このアカシヤの木は、 戦後、 ある高校生が植えたものである。
聖ミカエル保育園舎のある一画に、 かつて、 フローレンス・ハミルトン先生が住んでおられた。 品位のあるカナダの婦人宣教師で、 戦前松本で、 そして、 戦時中カナダに帰国され、 戦後来日され、 上田でお働きになった。 婦人達、 保育園の教師達、 子供達等に多くの事を教えてくださった。 当時、 毎週水曜日、 先生のお宅に婦人達が集まり、 保育園児の着るエプロン等を製作し、 その果実を教会に献金していた。 聖餐式では、 祭壇に向かって右最後列左が先生の指定席で、 常に全体を見渡し、 礼拝中、 不規則な事があれば、 式後注意された。 礼拝に関しては、 主任司祭は、 ほとんど沈黙していたように思う。 子供心に邦人司祭は、 カナダ人宣教師にまだ頭が上がらないのかと思った。 この事については、 後、 長野の教会に移り、 生前のウォーラー司祭と親交のあった方々との話の中から、 その謎が解けてきた。
50・60年代、 聖餐式のオルガニストは、 少年・少女が担当していた。 その指導も先生がしておられた。 どんなに上手に弾けても、 一流の音楽大学を卒業しても、 先生の指導を受けなければ、 オルガニストになれなかった。 それは、 オルガニストの奏でる音が、 会衆・式全体に微妙に影響するため、 その任には、 純真でニュートラルな少年・少女が適任であったのであろう。
草野球、 魚取りに興じていた小学校高学年の頃、 ハミルトン先生からオルガンを教えて頂くはめになった。 母は大変喜んだが、 少年は嬉しくなかった。 週1回、 先生のお宅で指導を受けた。 居間に伯父さんであり、 どの教会にもある中部教区初代主教ハミルトン師父の写真があった。 同主教が就任された経緯を練習の合間に聞かされた。 先生自身、 同主教の影響を受け来日されたことを話された。 神学校で勉強し、 日本語を習得する苦労話を聞かされた。 流暢な日本語で、 少年に理解できるように話された。 「イエス様にお会いし、 お話しするために聖餐式に出るんです。」 少年には何か感じるところがあった。 そして、 最後に 「聖餐式では、 信仰がなければオルガンは弾けません。」 で終わるのが常であったが、 何のことかわからなかった。
ある秋の土曜日、 祖母から日曜日祭壇に飾る花を教会へ届けるように頼まれ、 自転車で届けた。 すると聖堂からオルガンの音が響いてきた。 そっとのぞいてみると、 ハミルトン先生が弾いておられた。 決して上手な奏法とは思えなかったが、 少年の心の旋律に感動を覚えた。 太平洋の荒波を1ヶ月以上、 命を賭けて渡り、 遠い異国の地で、 イエス様の口・手・足となり、 神様と人々に仕え、 また母国カナダから送られてきた数々の物資を分け与えてくださった行為。 その人生、 生きざまがオルガンの音に投影されていると思った。 練習不熱心な少年は、 先生の期待に反し、 オルガニストになることはなかった。 申し訳ないことをしたと思っている。 その数年後、 先生は、 カナダに帰国された。
さて、 新しい聖歌集が用いられてから1年が過ぎた。 この聖歌集の主要目的の一つは聖餐式を豊かにすることにある。 日々の生活の中で、 神様を仰ぎ見、 その御心を行う心を持って、 聖餐式の中で聖歌を歌う時、 実り豊かな音、 声を響かせることができると思う。

司祭 テモテ 島田公博
(飯山復活教会勤務)