『ホスピスで思うこと』

新生病院のある小布施は、果物の季節を迎え、町のさまざまなお祭りや催し物が続きにぎやかです。でも一歩入った路地の木陰は静かな時間が流れています。病院の中庭も患者さんの散歩のコースになっています。ホスピスに入院された方も体の調子がいいとき静かな中庭の木々に招かれるように、緑の中に身をおいています。「(家族や病院スタッフ)皆さんに見せたくて」と庭で拾ってきた松ぼっくりや摘んできた花がホスピスのホールに飾られていることがあります。
生け花のボランティアに来て下さる方と同じようなことを患者さん自身がしてくださり、私たちのほうが慰められます。ホスピスで思うことはたくさんあります。
病という思わぬ出来事に自分も家族も悩み、やっとの思いでホスピスに来る方もいます。ホスピスは世間では「もう治らない病気のために死を迎えるところ」というイメージがあるようです。しかしそれは間違いです。
がん=ホスピス=死ではないのです。確かに病状が進み亡くなる方もいます。また治療に向けて退院する方もいます。その患者さんの生と死に意味を見い出していく時、それはただの死ではなくなるのです。残された家族や医療者を生かす力となるのです。毎年、ホスピスで亡くなった患者さんの家族に集まっていただき、入院中の思いや今の心境などを語り合う「思いを分かち合う会」というものがあります。今年の6月におこなわれた時には入院してわずか2日で亡くなった方の家族も来て下さいました。最後の時を共に過ごすことができたと感謝していましたが、同時に「もっと早く(ホスピスに)来ていればよかった」とも語っていました。すると他の遺族の方が「一所懸命お世話されたから…長さじゃないですよ」と言われていました。人は、時間が神様から与えられた限られたものであることを忘れがちです。誰でもいつかは死を迎えます。それは神様を信じていてもいなくても同じです。終末期にある患者さんに対して積極的な治療は意味がないばかりか、苦しさが増えるばかりで残された時間がつらいだけになってしまいます。
突然の病気は心に大きな波紋を起こし、やがてくる死はその重たさのために家族だけでなく、病院スタッフをも過去の時間へ引きずり込んでしまうことがあります。しかし大きな波紋の中にある生といつまでも引きずるようなつらい死に、患者さんに関わるあらゆる人たちがゆっくりと心を向けることによって不思議と「死の重たさ」が「感謝」に変えられていくのです。それは必死になって自分に引きとめようとしたものをだんだんと神様にゆだねていくような姿です。コリントの信徒への手紙Ⅰは「死のとげは罪である」と語ります。主イエスは人の存在に思いを向けた事によって「死のとげ」を取り払ったのです。私たちの間に十字架を建ててくださったのです。
ホスピスで思うことはたくさんあります。そして主イエスの出来事を思わざるをえないのです。
司祭 マタイ 箭野 直路
(新生病院チャプレン)

『祈りの時、だ~い好き!』

4月から主教座聖堂名古屋聖マタイ教会に遣わされ、やがて3ヶ月が過ぎようとしています。とは言っても名古屋が第1・第3主日をはさんだ約2週間の単身生活、長岡と三条の生活が第2・第4主日をはさんだ約2週間という、名古屋と新潟を月に2往復、行ったり来たりする日々を送っているのが現状です。
そんな折、2年ぶりに教区報「ともしび」1面の原稿を書いて下さいという依頼を受け、さあ何を書こうかと思案しました。説教は多くの方が書いて下さっているので、今回は思い浮かんだことを書くことにしました。
皆さん、祈りの時は好きですか? だ~い好きですか? 何という不躾で失礼な質問をするんだと思われた方は、きっと真面目で祈りの時が本当に好きな方に違いありません。どうかなぁ? と、少し考えられた方は、その質問から祈りの時に好き、嫌いがあるのかなぁなどと、いろいろ思い巡らされておられる方かもしれません。もし同じ質問がわたしに投げ掛けられたならば、正直なところ、わたしは祈りの時が好きになったり、またある時には嫌いになったりするんです、と答えます。
思い返してみると、幼少の頃、就寝前に「主よ、今宵も、み翼もて、おおい守りませ、あかつきまで、アーメン」と聖歌202番を歌ってから、今日一日の導きを神様に感謝し、暗い夜の間もお守り下さい。そして、明日も元気に起きて楽しく過ごせますように、と家族で祈る祈りの時はだ~い好きでした。
しかし、小学校6年生から中学生の頃、祈りの時が嫌いになりました。それはしばらく同居していた祖父(主教!)が登校前にしてくれるゆっくりと長い祈りの時でした。早く学校へ行って遊びたい気持ちや、ああ今日は早くしてくれないと遅刻しちゃうよというわたしの胸の内を知るよしもなく、祖父の祈りは世界各国のため、わが国のため、教会と信徒・教役者のため、親族、友人、知人、病人のため等々、北は北海道に始まり南は沖縄に至るまで続きました。ああ、まだ中部教区だ、早く終わってよ! そんな思いで祈りの時が終わるのを待っていたことを思い出します。
名古屋に来て毎朝夕の礼拝を若い同労者と祈っています。
わたしはこの祈りの時を、お勤めとして守っているというよりも、今は好きで楽しく守っています。なぜかこの祈りの時の中に、主が共にいて働いていて下さるというリアリティーを強く感じるのです。時間に追われてする祈りではなく、気持ちのゆとりをもってする祈りの時なので、おのずから祈りが膨らみます。わたしが嫌いだった祖父の祈りの時は、祖父にとってはきっと豊かな思いに満たされていたんだなと、今になって分かるような気がします。
長岡や三条でも毎朝教職員と共に祈りの時を持っています。保育に関わる一人の園長としての祈りが、どれだけ他の保育者と共有されているのかを、今一度反省しています。
祈りの時の中に主が共にいて働いていて下さるという確かなリアリティーが感じられるとき、祈りの時が好きになり、楽しくなるのではないかと思います。
主日礼拝、とりわけ聖餐式がだ~い好きになるのも、嫌いになるのも、その点にかかっているように思いますが、皆さんはいかがですか?
司祭 サムエル 大西 修
(名古屋聖マタイ教会牧師)

『あなたがたに平和があるように』

聖霊降臨の出来事を伝えるヨハネによる福音書には、このような言葉がある。「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。彼らは、本当に恐ろしかった。不安と絶望に打ちのめされていた。ところがその時、驚くべきことが起こる。イエスが弟子たちの真ん中に立ち、こう声をかける。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」。そしてイエスは、「聖霊を受けなさい」と、弟子たちに息を吹きかけられた。「聖霊」とは、主イエスの「息」なのであった。主イエスの息、聖霊を受けた弟子たちは、この瞬間から、生きる力を回復する。希望を取り戻す。あれほどまでにも、不安と絶望の内に震えていた彼らが、死んだようになっていた彼らが、命を回復したのである。そして、弟子たちは、大胆に主イエスをキリストとして証ししてゆく。この力こそが聖霊である。イエスの十字架上での死によって絶えたはずの主イエスの福音は、こうしてよみがえった。聖霊は、打ちのめされた者、絶望の淵にある者、痛み、苦しみにある者、疲れた者に与えられる生きる力である。
聖霊降臨日の福音には、もう一つ非常に大切なことが記されている。それは、イエスが「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」という箇所である。イエスは手とわき腹を見せられた。すなわち、十字架上で釘を打ち抜かれた手とわき腹の傷跡をお見せになった。すぐあとには、トマスがこのイエスのわき腹の傷に直接手を当てて、主を信じる物語が置かれている。イエスは、トマスにこう言われる。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」。トマスはうめくように、振り絞るように言葉を発した。「わたしの主、わたしの神よ」。
トマスに声をかけられたイエスは、栄光のイエスではなかった。復活されたイエスとは、光り輝く天の衣をまとい、金の王冠をかぶったイエスではなかった。トマスと弟子たちの前によみがえられた主とは、手に傷を負い、わき腹から血を流し、荊の冠をかぶらされたままの姿であったのである。おそらくトマスは実際に、その主の傷に、自らの手で触れたのであろう。
主イエス・キリストは、傷を負われたまま、よみがえられた。その傷とはいったい何か。その傷とは、私たちのこの世界、社会にあって、叫びをあげる無数の人々の傷でもある。不当な戦争によって命を奪われた者たちの傷であり、虐げられた人々、病める人々、体の不自由な人々、捨て置かれた人々の痛みである。その無数の痛みと傷を担われたまま、主イエスはよみがえられる。まさに、この事実に、私たちはトマスのように、「わたしの主、わたしの神よ」という、この世で、最も短く、同時に最も完全な信仰告白の言葉を発することができる。私たちは、この「傷」を忘れてはならない。この「傷」を私たちのこの手に感じながら、決して忘れないことこそが、「私たちに平和がある」ことの、主イエスに示された〈必要条件〉なのである。
司祭 アシジのフランシス 西原 廉太
(立教大学教員・岡谷聖バルナバ教会管理牧師)

『イエスさまの祈り』

「わたしはあなたのために、 信仰が無くならないように祈った。」 (ルカ22・32)
福音書を見ますとイエス様は非常にしばしば祈っておられることがわかります。 洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時も祈っておられました。 大勢の群衆が押し寄せてきた時にも、 イエス様は人里離れたところに退いて祈っておられました。 十二使徒を選ばれる時にも夜を徹して祈られました。 5つのパンと2匹の魚で5000人以上もの人々を満腹させられた時も神様に賛美の祈りを唱えてからそうされました。
ご自分の受難予告を最初にされる直前にもイエス様は一人で祈っておられました。
イエス様のお姿が変わったのは祈るために山に登った時でした。 主の祈りを弟子たちに教える前にもイエス様は祈っておられました。 また、 気を落とさず絶えず祈ることも教えておられます。
そして、 最後の晩餐の時には感謝の祈りを唱えてからパンとぶどう酒を弟子たちに与えられました。 そして、 いよいよご自分が逮捕される直前には汗が地に滴り落ちるほど祈られました。
このように見てきますとイエス様のご生涯は祈りによって導かれていることがよく分かります。 神様のご意志を生きるためには祈ることによって絶えず神様との交わりを保ち続けることが不可欠だったのです。
そのような祈りの中にあって冒頭に挙げたみ言葉はイエス様がペトロのために祈ったという内容のみ言葉です。 イエス様が特定の誰かのために祈ったというのはこの箇所だけではないでしょうか。 時間的には最後の晩餐とイエス様の逮捕の間であり、 ペトロがイエス様を否認する前のことです。 ペトロという人物は福音書においては人間としての弱さや欠点、 過ちが何の覆いもなく表されている存在として描かれています。 実際そういう人物でもあったのでしょう。 あるいは弟子たちの代表という意味でそのように描かれているのかもしれません。
いずれにしても、 イエス様は、 強がりは言っているが、 間もなくイエス様を知らないと言って逃げ出してしまうペトロのために、 彼の信仰が無くならないように祈られたと言われるのです。 ご自分が間もなく捕らえられ十字架に付けられようという緊迫した状況の中で、 このどうしようもないが、 しかし愛すべき弟子のために祈ったと言われる時、 そこにペトロも含めた弟子たちへのイエス様の限りない愛を見る思いがします。
イエス様のご復活の後、 ペトロを中心とした弟子たちが大胆にイエス様を宣べ伝えて行くことが出来たのも、 このイエス様の愛と祈りに支えられたからに他なりません。
イエス様はわたしたちの信仰が無くならないように祈っていてくださいます。 イエス様の祈りがあるからわたしたちは信仰生活が続けられることを覚えましょう。 イエス様の祈りがペトロが逃げ出さないようにという祈りではなかったことに注意しましょう。 イエス様は 「逃げ出す」 という人間の弱さを良くご存知です。 それでも信仰が無くならないようにと祈ってくださるのがイエス様の祈りであり愛なのです。 その祈りにわたしたちは生かされているのです。
司祭 ペテロ 渋澤 一郎
(名古屋聖マルコ教会牧師)

『復活のイエスの招き』

主イエス様のご復活を心からお祝い申し上げます。

「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」

ヨハネによる福音書21章の冒頭にある物語中の一節である。
ヨハネ福音書は20章できれいに終了している。「本書の目的」をもってきちんと閉じられている。その後何らかの理由で編集者により21章が付け加えられたのである。わたしはこの21章が好きである。お好きな方も多いと思う。21章の中の1節-14節も好きである(目を通していただきたい)。この物語に流れる雰囲気がとてもいい。20章までにペトロにイエスが現れたと言う物語が無いので21章が付加されたのかどうかわからないが、21章全体がシモン・ペトロに関する物語となっている。
まだ復活に出会っていないペトロを初めとする数名の弟子たちが十字架の大騒乱のあとふるさとに戻り、少々疲労気味の中で、慣れた「漁」に夜行くのも自然である。「何もとれなかった」(3節)と記されている。4節の夜明けも象徴的だ。その時刻にイエスは岸に立っておられ、静かに彼らの言動を見ておられたとある。イエスの言葉に従って綱を打つと、引き上げることが出来ないほどの大漁という仰天すべき出来事が起こる―ルカ福音書5章1節以下に関係があるか? イエスの愛しておられた弟子が、主であることを告げると、裸同然だったペトロが上着をまとって湖に飛び込んだという描写、彼の人物、性急で、ユーモラスな性格を見、わたしたちは思わず微笑む。
わたしはこの物語の弟子たち全体の言動の静けさと、心の中のしみじみとしたはちきれるほどの喜びを感じ、描写のうまさに感心する。黙っていても成り立っているイエスと弟子たちとの以前からの関係、しかもあの十字架事件による狼狽と何と復活されたイエス。そこにはイエスに「あなたはどなたですか」と問う必要もなく、弟子たちに「十字架の時は大変だったね」と裏切りを口にする必要もない両者。すべてイエスに見通されており、しかもイエスの赦しが感じられ、責められることもない。焼いた魚を真中に、イエスと気恥ずかしい弟子たち。謝ることも無く以前の関係と同様の関係に甘えられるうれしい気持ち。
暖かい目で見通されている弟子たち。これはイエスとわたしたちの今の状況であろう。わたしたちは分かられている。知られている。個人的に、また社会の中で、世界の中で、わたしたちはみ心にかなう生き方をしようとしながら、主イエスをしばしば裏切ってしまう。40日間の大斎節をともに歩みながら、そのことを切実に感じてきた。しかし大斎節は復活日で終わりとなる。いかなる、み心にかなわない状況にあろうとも、イエスは変わることなく、咎めることなく、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)と手を広げて招いてくださる。わたしたちは分かられている。うれしいことである。
聖餐式は復活のイエスが弟子たちとなさった食事の記念でもある。心から復活日の聖餐式をささげよう。
主教 フランシス 森 紀旦

『マリア・ワルトルタ』

わたくしは、マリア・ワルトルタが書いたイエス様についての書物を知ると、人生は3倍豊かに成る、と勝手に思っています。
『マグダラのマリア』 あかし書房からの抜粋で、マリア・ワルトルタをご紹介します。
1896年、南イタリアのカゼタで、愛情あふれる父と、きびしく変わった気質の母親のもとに生まれる。母の干渉で結婚話が2回とも実らず、愛することなしに生きることが考えられなかった彼女は人間の愛情のはかなさを知って、最大の愛である神に至ることになる。
1917年、第一次世界大戦時にボランティアで看護婦になり、フィレンツェの軍病院で 「下級」 兵士の世話をして献身的に働いた。
1920年、突然、後からついてきた子供に、ベッドからとった鉄棒で力いっぱい背中を打たれるという事件に遭い、それから心身ともに苦しむこととなる。1934年からはもうベッドから起きることはなく、死ぬまでの28年間、病人生活を送る。
病床の間、「神と人なるキリストのポエム」 という、ノート1万5千ページにもわたる原稿を何の推敲もなく、わずか数年の間にしたためる。
この著作について、彼女は 「天から与えられたヴィジョン」 によるものであって、自分は神の手の 「ペン」 または 「道具」 と言い続けた。
1961年、65歳でこの世を去る。
彼女の著作では、イエス様の生涯、すなわち聖書の福音書が映像のようにあざやかによみがえり、人物が語り、現代人に改めて生き生きとした福音を聞かせてくれる。その仕事は自然的に説明できないものであるともいわれる。
「素晴しい本」、「最高の輝き」、「美しい奇跡の本」、「全人類が読むべき本」 とあらゆる賛辞が寄せられる10冊の本はわたくしの宝です。
マリア・ワルトルタ描くイエス様は長身、ブロンド、空色と言うか、サファイア色の瞳、声はバリトン…と詳しく、白や水色の着物などのファッションも細かいので、目の前3メートルにイエス様がいるかのようです。ペトロ、聖母マリアに詳しいだけでなく、イスカリオテのユダが生き生きと描かれます。
神様のお名前はヤーヴェと発音され、マグダラのマリアはマルタとマリアのマリアだとか。一部をご紹介しましょう。
「露の最も小さい一滴にも、その存在のよい理由がある。最も小さい、うるさい昆虫の一匹にも存在するよい理由がある…神経をいらだたせて衰弱させ、この世での一日を苦しくする様々の疑問に打ち勝つための秘訣は、神が知恵深く、または、あるよい理由のために全てを行うと信じ、神が行っていることすべて、人を苦しめるための愚かな目的のためではなく、愛のためであると信じることである」 読むだけで恵まれます。感謝
司祭 ビンセント 高澤 登
(飯田聖アンデレ教会協力牧師)

『新春に思う』

新しき年をお与えくださった神様に、 心から感謝するとともに、 皆様に新年のご挨拶を申し上げます。
しかし早いもので、 ついこの間世紀を迎えたばかりだというのに、 もう3年目を迎えたわけです。
思うに世紀の後半から世界のあらゆるもの、 すべての速度が速くなってきたように感じます。 歴史に加速度がついてきたのでしょうか。
そのため社会の動きも個人の動きも、 地球規模の同時代性をもつようになってきたといってもいいでしょうか。
毎日のテレビで、 刻々と世界中の出来事が伝えられるのを見ると、 私たちもいつの間にか世界的規模の観点で見るようになってきました。
航空技術や、 テレコミュニケーションによる通信の瞬時化によって、 私たちはときどき地理的距離という考えを忘れてしまうほどです。
こうした時代の大きな変化に教会はどう対応していけばいいのか。 そして、 私たちの信仰生活はどうあるべきなのかが、 今問われているように思われます。
教会は何となく平穏で安心感のある所、 神様に守られている方船、 その方船の中に安住する私たちというイメージがあります。
しかし現実はそんなに甘くはないのです。 教会もまた社会の大きな変化の中で危機的状況が見え隠れしているのを感じます。
「イエスは言われた。 『正しい答えだ。 それを実行しなさい。 そうすれば命が得られる』 しかし、 彼は自分を正当化しようとして、 『では、 わたしの隣人とはだれですか』」 (ルカ10・28―29)
今私たち聖職・信徒一人一人が、 イエス様から 「実行しなさい」 と言われたら、 同じように 「では、 わたしの隣人とはだれですか」 と問いかけるかも知れません。
新潟では昨年から 「拉致」 事件が大きな社会問題となっています。 国際的事件であるためにマスコミでも大きく取り上げられ、 各行政を中心に被害者への支援の輪が広がっています。 私たちも両国間での早期解決を強く望んでいます。 しかしこのように国際問題として取り上げられ、 政治的に社会的に支援されるのは特殊な事件だからです。
こと国内でしかも身近な所で、 日常頻繁に起きている 「犯罪被害者」 に対しては、 国も社会も、 支援が遅れているのが現状です。
私も数年前から被害者支援に携わっていますが、 今や教会内においても被害に苦しむ信徒や家族が少なくありません。 したがって教会もこれら被害者の支援活動を積極的に行う必要があります。 その被害者の支援には経済的、 法律的支援とともに大事な精神的支援があり、 しかも被害者が自立するまで、 専門家を中心に大勢の協力者が必要です。
今年も更に変化の激しいそして加速の度を増す社会になることでしょう。 その中で危険と隣り合わせで生きている私たちは、 日常生活の中で起きる様々な精神的身体的な悩みや苦しみを、 教会という共同体の中でこそ解決していけるように努力していきたいものです。 一人が苦しめばともに苦しむ共同体として、 私たち一人一人がもっと深く、 確かな交わりを築いていくならば、 危機的状況は必ず克服することが出来る。 ただ、 「実行しなさい」 と言われた主のみことばが心に響く新春です。
司祭 ヨシュア 鈴木 光信
(新潟聖パウロ教会牧師)

『受けるより与える方が幸い』

クリスマスはキリスト教の大切なお祝いですが、今では日本の子供たちに人気のある行事になり、季語としても定着しています。復活日は初代教会の時から守られていましたが、クリスマスが祝われる様になったのは、4世紀頃からと言われています。初代教会の人達は復活された主イエスと共に生きる喜びがあり、主イエスの誕生日を正確に知って、祝う必要性を感じなかったのだと思います。100年程前までは日本でも子供の誕生日を祝う習慣がなく、社会的地位の高い家庭の男の子だけの行事だったようです。日本のどこの家庭でも子供の誕生日を盛大に祝うようになったのは50年程前からで、戸籍制度や男女平等の意識が確立され、経済的余裕ができたこととも関係があります。
福音書はイエス様の誕生についてそれぞれ違った書き方をしています。マタイの福音書では 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(1・23)と旧約聖書との関連を記していますが、マルコの福音書は全く触れていません。ルカの福音書は 「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(2・6、7)と文学的に記し、ヨハネの福音書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1・14)と神学的に記しています。クリスマスは平和の主が私達の中に来られ、共におられることを感謝する、信仰的に大切な意味のある日であることが分かります。
20年程前、主イエスが生まれた町ベツレヘムを聖地旅行で訪れました。周辺の殆どの人達がイスラム教徒で、主イエスが生まれた家畜小屋の跡と言われる所は聖誕教会のドームの中央に保存されていました。現状では歴史を想起するのは難しく、むしろ主イエスはどこにでもおられるとの気持ちを強く持って帰りました。
私が生まれ育った新潟県の高田は雪が多く、クリスマス頃になると地面にも、木々にも雪が降り積もって、町全体が白く、音さえも飲み込んでしまう静かな町でした。私のクリスマスのイメージと言えば、カナダのクリスマスカードの絵そのままに、サンタさんがそりに乗ってプレゼントを運んで来ることを現実のこととして受け止めることができました。当時は衣食住が貧弱で除雪作業に苦労しましたが、サンタさんからプレゼントを貰うと、そのご苦労が良く分かり、心から感謝することができました。
現在は豊かになり過ぎて、サンタさんがプレゼントを選ぶのにも悩むようです。どんどん便利で面白くて新しい物がはんらんし、子供が家庭でお手伝いをすることもなくなり、余程のことがないと喜んだり、感謝することさえありません。以前、ある日曜学校のクリスマスでプレゼントをもらった子供が 「何だこんな物か」と、投げ捨てて帰ったのを見て心が痛みました。主イエスは「受けるより与える方が幸いです」と教えています。この言葉をサンタさんの姿の中に見出して、一人一人がサンタさんになって、今、一番プレゼントを必要とし、喜ぶ人のことを思い出して、受ける喜びを、与える喜びに変えて欲しいと思います。
司祭 パウロ 塚田 道生
(一宮聖光教会牧師)

『A・C・ショー宣教師の足跡に学ぶ ―ショー祭に事寄せて―』

私たちの長野伝道区には、明治時代に活躍された聖公会の宣教師を讃える祭りが二つもある、というのは珍しい思いがします。その一つは毎年6月に上高地で行われるウェストン祭であり、もう一つが、毎年8月1日に当礼拝堂と境内地で町民祭として行われるショー祭です。もっともこちらは最近に始まったばかりで今年で3回目ですが、これは10年前に軽井沢在住の有志が始めた別荘建築等の調査保存の運動から、それらを生み出す根元となったショー師の存在と精神こそ軽井沢町の精神であることが再確認され、感謝と将来への指標として行われるようになった祭典です。
アレクサンダー・クロフト・ショー司祭は1873(明治6)年にSPG(英国聖公会福音宣布協会)の宣教師として来日し、在日英国公使の助言もあって三田の大松寺という寺に居住して日本語を学びつつ日本の文化・伝統・宗教への理解を求めて行きました。それは当時のSPGの宣教方針でもあったようです。更に師はこの時期に福沢諭吉氏と出会い終生の深い交わりを持ったこと、慶應義塾で倫理(実は聖書)を教えつつ向学心に燃えた学生たちと親しく膝を交えたこと、更に英国公使館付牧師として在日欧米人のため、また当時海外列強から不当に扱われていた日本の地位確立のために大きな貢献をしたこと等、実に幅の広い優れた宣教者であったことを知るのです。
1879(明治12)年、ショー師は芝栄町に聖アンデレ教会を創立しその後の働きの拠点としました。ここでも師は、日本の伝道は日本人によって為されるべきだと、若く優れた聖職の育成に力を注ぎ、日本聖公会の指導者たちを生み出したのでした。また彼等と共に東日本地区の責任者として各地に伝道の足を伸ばし、現在の中部教区の基礎を築いたのです。師は高潔な性格の人で自分の業績を公にするような人ではなかったのですが、師の創り上げた基礎は非常に確固たるもので、その働きの結果は今日でも日本聖公会の伝統の一部となっています。
1885(明治18)年、ショー師は伝道の旅の途次に軽井沢を通り過ぎたことが避暑地軽井沢開発の発端となりました。その翌年から夏の休暇にはここで家族と共に過ごし、多くの人々にこの地の素晴らしさを伝えると共に村人達との交流を深め、自然と共に生きる喜び、人種階級を超えた自由で平等な交わりという今日の軽井沢の精神を遺されました。そのことが今日、ショー祭という祝典として今年も200名を越える人々が集まる祭りとなったのです。今年は師逝去100年記念の年、その遺徳は礼拝堂と共にいつまでも語り伝えられ、神の御業を讃美する声となることでしょう。青山霊園に眠る師の墓標には「主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る」(ミカ7・9)と刻まれています。正に師の生涯にふさわしい聖句です。
司祭 ミカエル 村岡 明
(軽井沢ショー記念礼拝堂嘱託)

『カード訪問』

牧会の基本が「訪問」にあることは言うまでもない。イエス様がその人を訪ねている。聖職者(教会)はそれを目に見える形で表現しなければならない。
しかし訪問が得意な場合はよいが、人にはそれぞれ得て不得手があるものだから、教役者だからといって簡単にできるものではない。私もいわゆるマメな性格ではないので、神学生の境から、卒業後いかに訪問するべきか困っていた。
2年生のときの夏期勤務でそれが解消した。大宮聖愛教会の斎藤茂樹司祭(後の主教)のところで勤務となった。同司祭と朝夕、礼拝をささげ、様々な仕事をやったが、その中に同師の訪問のやり方があり、それが私のその後の牧会のあり方を決めたのである。
斎藤司祭は古ぼけた1冊のノートを見せ、説明してくれた。それは最初の頁が1月1日、次の貢が1月2日、というふうで、366日ある。各頁は誕生・洗礼・堅信・結婚・逝去に分かれていて、1月1日にいずれかの記念日がある人の名が書き込まれている。2日以降もそうなっている。これだけ作るのは教籍簿を見れば簡単なことだが、問題はこのノートの使い方である。
同教会では中部教区の諸教会と同様、主日聖餐式でその週に記念日を迎える人のためお祈りしていた。同師は、誕生.洗礼・堅信・結婚・逝去を迎える人―逝去者の場合は関係者―あての5種類のカードを予め1年分作っていた。
私も始めた。訪問する動機ができるし、手渡して記念日のことを中心に話もできる。そして次の家へ。不在の時は郵便受けへ。カードには簡潔に「洗礼記念[○月〇日]おめでとうございます。次の主日の礼拝(○月○日)でお祈りいたします。ご出席ください。19△△年前橋聖マッテア教会」と印刷。「年に3回必ずその人を訪問できるよ」と斎藤司祭に言われたことを思い出す。
この方法はどの教会に行っても本当に助かった。訪問する方は「会える」、される方は「礼拝に出るよう勧められる」(カードの言葉だけで)。大体一週間に10枚くらい。地図で家を調べ、自転車で一回りしてくる。前橋は県庁所在地で広かった。雨や雪のときは市街地の人だけで、後は郵送となる。「郵送ぐせ」がつくとこの方法は意味がない。市外の人たちの場合は主としてバスであった。
あるときバスに乗り、教会に来ていない一人の男性(60代?)を訪ねた。挨拶しても黙って盆栽に水をやっている。「○○記念、おめでとうございます」。振り向きもしない。「持ってきたカードをここにおいていきますね」。バスに乗って帰ってきた。10数年後その人が教会で活躍していることを、転勤先の教会で知った。
家が分からない人の場合は勤め先の会社に持参した。「イラッシャイマセ」 と言ってくれる受付の女性に告げる。あわてて降りてきたその人は必ず次の主日礼拝に出た。会社訪問はよくした。
人数は増え、皆で宣教について考えた。教会の感謝献金もものすごく上がった。ささげた人の名を月報に載せるから、多い人はわずかずつでも5回おささげしていた。
訪問できないことがはっきりしている場合、信徒さんが礼拝の帰りに寄って渡してくれるよう頼んだ。それだけでも人と人との触れ合いがある。
最近よく思い出すことを取りとめもなく書いてみた。
継続は力である。

主教 フランシス 森 紀旦