『御降誕の出来事』

御降誕の出来事を通し、神様のお働きが、人間の思いと想像を超えた所に及んでいるということを思わざるを得ません。
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」(マタ・2・1~2)
エルサレムから数十キロ離れた寒村での救い主誕生の知らせは、ダビデによって約束され、ソロモンによって建てられた神殿のある宗教的、政治的中心地であったエルサレムに最初に告げ知らされるべきでありました。しかし、エルサレムの人々には告げ知らされず、遠く離れた東方の地にいた学者達が、その誕生の知らせの星を見ました。ところで聖書では「東」は良い意味が与えられていません。例えば、アダムとエバそして、カインは、エデンの東に追放されました。「東」は、人生に躓き、神様から追いやられた寂しく暗い所でした。しかし、きらびやかな社会の中心である宮殿、神殿ではなく、社会の周辺、異邦の地である「東」でこの星を見たということの中に、御降誕の深い意味があると思います。
次いで、その誕生を知らせる星は、ヘロデの世に輝いていたと記されています。イエス様がお生まれになったのは、ヘロデ王の時代であり、当時、ユダヤはローマの属国であり、人々は、圧制に苦しみ、暗黒の時代でした。その時、この星は、博士達をエルサレムに導き、ヘロデの宮殿を通り過ぎ、小さな幼子の家に導きました。ここに、御降誕の星のもう一つの大切な意味があると思います。
真の権威は、強力な軍隊や兵器によって示されるのではなく、幼子によって、生まれたばかりの命そのもの、何も持たない幼子こそが、真の権威であることを星は告げていると思います。この世の頼みとする物を身につけることによって人生の意味、確かさを得ようとするのではなく、何も持たないで、命として、神様によって造られ、神様の前に生きること、そのことの意味を星は告げていると思います。
そして、その星を、ユダヤ人からは差別され、人間扱いされなかった異邦人である博士達が発見し、彼らはその星を見て出発しました。星を眺めていただけでは救いは確かなものとなりません。彼らは、星の招きに答えてその道程の幾多の困難に遭遇しながらも、主イエス様に巡り会いました。闘い、生き抜き、主イエス様の御旨であると信じて従う時、そこに真の救いがありました。
2006年のクリスマス、私たち自身の人生の身近な所で、さまざまな問題に直面しています。しかし、もう一度イエス様によって与えられた命そのものとして生きることを、主イエス様の御降誕とともに決意しようではありませんか。

司祭 テモテ 島田 公博
(飯山復活教会勤務)

『ウォーラー司祭のこと』

上田に赴任し、長野の管理も命ぜられたことにより、J・ウォーラー司祭のことをより身近に感じるようになりました。特に、昨年、長野聖救主教会から「ウォーラー司祭その生涯と家庭」という立派な本が出され、それを読ませていただいていたので余計そんな思いが強くしています。ウォーラー司祭に始まる長野聖救主教会の司牧者の末席にわたしも連ならせていただいたのかと思うと恐れ多い気がします。
ウォーラー司祭といえば長野というイメージがありましたが、あらためて前掲書を読んでみますと、実は長い間上田の牧師でもあったことがわかります。1908年(明治41年)から1931年(昭和6年)までの23年間、子息のW.ウォーラー司祭がその後を継がれるまで、最初は上田に住み、1915年からは長野に定住し、上田の牧師、長野の管理をされたのです。

先日、長野伝道区の合同礼拝が上田で行われましたが、その折、ある司祭が「ウォーラー先生はこの辺の教会を全部建てたのですね」と言われました。そう思って見てみますと、確かに、東北信の教会・施設はすべてウォーラー司祭によって建てられているのです。長野の聖堂はもちろん、飯山、小布施、稲荷山、上田のそれぞれの聖堂、そして新生療養所と、軒並みウォーラー司祭が直接関わっています。ウォーラー司祭は長野に来てからカナダに帰るまでの半世紀、長野県の、特に東北信の実質的な責任者でありましたので聖堂や施設建設がウォーラー司祭の責任の下で行われても不思議ではないのですが、それにしても、1898年に長野の聖堂を建ててから30年以上を経て、堰を切ったように建築を進めていることに驚かされます。

落成、聖別順に記しますと、新生療養所1932年9月9日、上田32年9月29日、飯山復活教会32年10月18日、稲荷山諸聖徒教会33年11月23日、新生礼拝堂34年6月25日となります。「中部教区センター」ひとつで悩んでいるのがいやになってしまうくらいです。ハミルトン主教はウォーラー司祭を「ビジネスと建築の才能を有する実務肌の人であった」(前掲書)と追想していますが、確かにその通りだったのでしょう。

そして、それらの建築を終え1935年には現職を辞し自費宣教師となられました。ハミルトン主教もその年退職されました。時代もだんだんと宣教師には厳しい時代になってきていました。そんなことを見越しての、半世紀にわたるご自分の働きの仕上げという意味での教会建築だったのでしょうか。戦争のための無念の帰国後、1945年に死去され、カナダに眠っておられますが、その魂は生涯の半分以上を過ごし、愛する妻や息子の眠るこの日本にあるに違いありません。

司祭 パウロ 渋澤一郎
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師)

『人間回復』

心身が癒されるような早朝の空気の爽やかさ、澄み渡った青く高い空に、夏の疲れや記憶も薄れて行くようです。この夏は温暖化の影響が一層現れ、長雨、雷雨、豪雨の次は、連日のじりじりと焼かれるような日差しと暑さが際立ちました。被災された皆様にはまだまだ心労が絶えないことと思います。心よりお見舞い申し上げます。
季節が移ろうにつれ、爽やかで、すがすがしいと、食べものが美味しい。美味しいものを食べると幸せな気持ちになる。幸せな気持ちになると穏やかで優しく、なります。
人の気持ちといった心や身体の状態も気候に左右される、いやむしろ自然の一部なのだとあらためてつくづく思うのです。人がいかに気候に、精神的にも肉体的にも影響され易い弱い存在か、を著わしたものがあります。モーパッサンの短編『雨』(※題やあらすじに間違いがあるかも知れません。記憶だけのため、その際にはご容赦下さい)
希望と夢に満ち溢れた一人の青年宣教師の話であります。
南海の島にキリスト教宣教師がやってきた。人々は大らかで、陽気で、親切で、生きていることを心から楽しんでいるような生活を送っている。しかし、彼には倫理観が欠如し、神を知らしめ、救うべき人々としか見えなかった。自分の務めがこの島においてはいかに重要であるかを確信し、この島に来たこと、その導きに感謝し、毎朝、伝道の成功を祈り、今日も一人の女性に、彼女がしていることは姦淫の罪を犯していること、神の罰を受けなければならないことなど、無知な相手に根気強く語り聞かせ、神を知らしめることができたことを喜び、気力も一層充実し、満足感と自信に満ちていた。季節は雨期となり、連日雨が降り続き、外を出歩く人もいない。蒸し暑い日が続く。毎日降り続く雨は、次第に彼の気力を萎えさせていく。アルコールの力を借りて気持ちを奮い立たせようとするが、体力も衰え、憂鬱さも日増しにつのり、ついに自分がかつて断罪した女性と同じことをしてしまう。自信も誇りも失い、自らを裁き、ピストル自殺をして生涯を終えてしまう。外は相変わらず、今日も雨が降り続いている。
人間の歴史は知性や理性と粘り強い意志によって環境や状況を克服してきた歴史だと言えなくもないでしょう。しかしその歴史や、思い上がり思い違いの影には多くの悲劇、不幸、悲惨、貧困をも生み出した歴史でもあります。
人間の意志の強さと言っても、我々自身の利便性の追求であり、欲望追求の強さです。競争社会の中で傷ついた者、倒れた者、教育の選別化、差別化で落ちこぼれた者を生むのでなく、着たい食べたいという尽きない欲望から、分けあい、仕えあう生き方へと変える強さでありたいと思います。人が本来持っている思いやりと愛との回復、たとえ自然の中での存在は弱くとも、自然のリズムに逆らわず調和した生活に戻ろうとする意志の強さと選択によって、歪められた人間性を回復することが何よりも求められていると思えるのです。

司祭 エリエゼル 中尾志朗
(松本聖十字教会牧師)

『「私は夢見る人です」 と堂々と言いたいのですが…。』 

私は新潟に来てから、夏のキャンプのシーズンがやってくると同じ夢を見る人になります。この2年間はキャンプから帰ってきたらいつも、子ども日曜学校を作ろうと思いました。夢見るだけの人でとどまっているのかも知れませんが……。
さて、今年も子どもたちに大きなことを学んだキャンプでした。チャレンジキャンプの日程は8月の10日からでした。新潟からは3人の子どもたちが参加しました。柏崎あたりを通っていたところ、急に、雷を伴う滝のような激しい雨が降り始め、前方が何も見えない状況の車の中でこういう話をしました。
「去年もキャンプファイアが出来なかったのに、今日も無理かな~? 残念だね」
そのとき、小学2年生の風間剛くんにこう言われました。
「先生、でもね、僕は雨がずっと続いて降って欲しいな」
「なぜ?」と聞いたら、
「雨が止んだら、虹がすごく綺麗に見えるでしょう」と答えました。
なるほど。夢とは今すぐ自分がやりたいキャンプファイアを求めるようなことではなく、思わぬところで現れる小さな感動を期待するようなことではなかろうかと気づかされました。結局、雨は止み、初日の夜はキャンプファイアが楽しめました。
キャンプの最後の日のことです。小学5年生の佐藤菫ちゃんが入っていたグループから、キャンプの中でいろんなことを教えてくれたり、手伝ってくれたりした大人の方々にお礼の歌をプレゼントしたいので、集まってもらいたいという話がありました。
初めて聞いた歌でしたが、最後の歌詞が「アイ ビリービン フューチャー 信じてる」で、メロディーも綺麗でした。何より感動したのは、子どもたちの心が感じられたことです。その感動を忘れたくなかったので、そのときの心をそのまま短い曲として残してみました(写真)。
夢とは心を動かせることで、動けば動くほどその動きが大きくなるようなことだと感じさせられました。
キャンプの間、プログラムディレクターとしてキャンプ全日程を活発にサポートしてくれた漆原隆二さんという人がいました。帰りの車の中で、小学4年生の風間光くんにその人の話をしながら、
「チョン先生はね、その人の明るい性格がうらやましいんだ」と言ったら、光くんはこう言ってくれました。
「先生もきっとそうなれるよ」って。
ただ、うらやましいと言うだけの夢、そして日曜学校を作りたいと思うだけの夢などは、何の力もなく無意味のように見えるかも知れません。しかし、いますぐでなくてもいつかは綺麗な虹が現れるだろうと、そして私と同じ夢を見る人が一人二人現れるだろうという期待をもって、激しい雨の中、ハンドルを握っていたときをもう一度思い浮かべてみました。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(新潟聖パウロ教会牧師)

『語り続けること』 

夏休みに子どもを誘って釣りに行こうと思ったが、あいにく台風が来てしまい行けずに終わった。「逃がした魚は大きい」と言うように次なる期待ばかりが大きくなる。
その題名も「ビック・フィッシュ」と言う映画がある。いつもホラばかり話している父親を嫌っている息子は、親子関係が疎遠になっている。しかし父親の死に接した時、父親がいつも語っていたホラ話の中に出てくる人々は、出会ったいろいろな人間模様、人生の姿であったことを知るのである。その喜びや悲しみを、布に織り上げるように自分の中でつむいで、父親なりの人生の真理を物語として語っていたのである。
8月上旬チャレンジキャンプ14をおこなった。今回は「ものがたり」がテーマである。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」(使18・9b~10a)をテーマの聖句とした。世界の様々な物語には多くの知恵や人間の豊かさが満ちている。物語ることの中に、人を癒したり和解させる力があって、私たちはそんな物語を語ることのできる一人一人であることを子どもたちと学んだ。神様が語り、私たちは聞く。使徒言行録では主イエスの弟子たちが聖霊に満たされ、主イエスの言葉や出来事を物語っていった。彼ら自身語りだすことによって立ち上がり、歩き始めるのである。彼らと彼らの話を聞く人々の思いや願い、そこには主イエスによって新しく生かされる人々の物語がある。私たちも深い悲しみや絶え間ない心の痛みがありつつも神に生かされ、うながされて神の福音を語るのである。
この9月、中部教区宣教130周年記念礼拝がおこなわれる。中部教区に、み言葉の種はまかれ、私たちはその実を頂いている。聖書をとおして神は私たちに救いのメッセージを語りかけている。そのメッセージは聖書の最後のページで終わったのではなく、私たちもまた救いの物語を語っていく一人とするのである。神によって救われ、養われる者は、み言葉の種をまいていくのである。主イエスの救いを私たちの物語として。

司祭 マタイ 箭野 直路
(新生病院チャプレン)

『牧師の子ども』 

自分が牧師の子どもであることに気付き、そのことを意識し始めたのはいつ頃だったのだろうか、定かではない。気付こうが気付くまいが、生まれた時から確かに牧師の子どもであった。両親の主イエス・キリストを信じる信仰のもとに幼児洗礼を受けた。
聖公会に連なる幼稚園で、多くの主イエス・キリストを信じる先生方に可愛がられ、楽しい日々を過ごした。大学に入り、家を出るまでの大半の時期は教会に隣接する牧師館に住んだ。教会に来る多くの信徒の皆さんは、いつもわたしたち牧師の子どもに優しく暖かいまなざしをもって接してくださり、心を寄せてくださった。そんな恵まれた環境の中に育ち、自分が牧師の子どもであること、一人のキリスト者であることを、何のためらいもなく素直に受け入れることのできた時期がしばらく続いた。日曜日には日曜学校に出席し、やがて堅信式を受け、高校生の頃からは日曜学校の先生もした。休まず聖餐式に出席して陪餐することは、わたしにとって至極当然のことであった。
しかし、そのことを初めて意識的に捉え、立ち止まって考えたのは、思春期を迎えた頃の日常生活、教会の外での学校生活の中においてであった。牧師の子どもが特異な存在であり、キリスト者であることが特異な存在であるとは、それまで考えてもみなかった。牧師の子どもは、多くのノンクリスチャンの友人たちにとっては特異な存在であったに違いない。日曜日には礼拝を守る、食前にお祈りをする、真面目、礼儀正しい、お人好し、反面、どことなく堅い感じ、融通がきかない、そんな印象を与えていたのかもしれない。もし、自分がそのように見られていたとしたらそれは心外だそんな思いも持って過ごしていた。
「牧師の子どものくせに、あんなことをして!」などと言われたりすると、いつの間にか、「牧師の子どもはかくあるべきだ、かくあらねばならない」、そんな呪縛に捕らわれて、いわゆる「良い子」になるために偽善的な言動をしてしまったこともしばしばであった。その呪縛から解かれるためには、かなりの年月が必要であり、いまだ完全に解かれてはいない。それは、ありのままの自分を受け入れることなのだが、それがなかなか難しいからに他ならない。
この4月、33歳になる長男を不慮の死で失った。
牧師の子どもとして生まれ、育ち、自分と同じような轍の上を歩いて来た息子の死は、わたしに厳しい問いを突き付けた。あなたはどこかで無意識のうちに、あるいは意識的に息子に対して、「牧師の子ども(キリスト者)はかくあるべきだ、かくあらねばならない」という枷をかけていたのではないかと……。
同じように、牧師として信徒に対しても信徒(キリスト者)はかくあるべきだ、かくあらねばならないという枷をかけてきたのではないかと。
そんな気負ったわたしの魂の深みに、主イエス・キリストのみ言が熱く優しく呼びかけます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と。(マタ11・28、29)

司祭 サムエル 大西 修
(名古屋聖マタイ教会牧師)

『『いま』 泣いているひとは幸い』

2005年5月のメッセージ
マタイによる福音書で有名な「山上の説教」は、ルカによる福音書では「平地の説教」となる。実は、私は「平地の説教」の方が好きだ。平地に集まった人々には、一つの目的があった。それは、「病を癒していただくため」。そのために主に触れることであった。「群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していたからである。」「癒される」経験というのは、イエスと直接に触れることによって、イエスの力が、弱く、苦しむ人々の中に入り、力を与えるという出来事である。最近良く使われる言葉に、”empowerment”(エンパワーメント)というものがある。力無き人に力を注入することだけではなく、その人が本来持っている力をむしろ引き出すこと。力だけではなく、その人自身気がつかなかったり、あるいは外的な条件によって覆い隠されている、その人のそもそもの存在や価値を引き出すことを意味するものである。私は、主イエスの癒しの業とは、まさにこの”empowerment”ではないかと考えたい。イエスに触れる。それがたとえ小さな接触であったとしても、生きているイエスに直接触れることができた者は、自分の存在や意味を回復することができる。失われていた尊厳を取り戻すことができる。それこそが、主イエスの癒しの働きであり、奇跡の行為が意味するところなのである。
同時に、主イエスは、人々にご自身の力を”empower”されることによって、ご自分の力を消費し続けられた、という事実を私たちは忘れてはならない。イエスにとって、他者と出会い、触れ、癒すということは、ご自分の力を与えることと同時に、力を使い果たすことであった。主イエスは、ついに十字架の死に至るまで、力を使い果たされる。これがイエスにとって、人と出会うことであり、人を愛するということであった。
さて、この平地において、人々に言葉を与えられ、癒されたイエスは、弟子たちに向き直り、非常に大切な主の教えを伝えられる。「いま、泣いている人々は、幸い」と。「平地の説教」の中で繰り返し使われているのは、実は『いま』という言葉である。これほどの能力があるから幸いなのではない。これほどまでに努力しているから幸いなのではない。イエスが言われるのはこういうことである。「いま、そのままのあなたが幸いだ」。『いま』、貧しさの内にあるあなたそのままを主は祝福してくださる。貧しき者であるがゆえに、主はあなたを祝福される。それゆえにあなたは満たされる。『いま』、泣いているあなたのその涙そのものを主は祝福される。それゆえに、あなたは笑うようになる。
「いま、そのままのあなたが幸いなのだ」。『いま』重荷を背負う者、破れの内にある者、悲しみの中に生きる者。そのような者こそが、『いま』神さまを本当に必要としている。そして、神さまも『いま』、そのような者こそを探し求められている。それゆえに幸いなのである。これこそが、主イエス・キリストの福音の本質に他ならない。
司祭 アシジのフランシス 西原 廉太
(立教大学教員・岡谷聖バルナバ教会管理牧師)

『「せっぱつまって・・・!」』

『しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。』  (詩編51:19)
ある日、ナタンがダビデ王を訪ね、謎めいた話を語り始め、王としてこの話をどうお思いになるかと訊ねると、王は「そんなことをした男は死罪だ」と激怒します。ナタンは静かに王に向かい「その男はあなただ」と告げるのです。
部下をアンモン人との戦いに出陣させ、自分ひとりエルサレムに残り、情欲のために部下の妻を召し入れ、女が身ごもるやその悪事を糊こ塗とするためにその夫である部下のご機嫌をあれこれ取るものの、それが上手くいかずと知るや故意にその部下を戦死させ、夫の死の悲しみにくれる女を召し入れて妻とする。読むたびに何とひどいことを・・・。憤りを覚えるところです。
ダビデは誰にも知られぬようにひた隠しにしていた罪を暴かれてしまいます。当時は王の故に居直ってもおかしくない時代であるにもかかわらず、彼は懺悔の祈りをせずにはおられませんでした。やはりダビデのダビデたるところでありましょう。王であることも、人目をはばかることも忘れ、神の前にただ一個の罪人として泣き崩れた彼の砕けた心を歌ったのがこの詩編なのです。
同じくヘロデ王も姦淫の罪を犯します。彼は自分に向かって意見したバプテスマのヨハネを投獄し、悩みながらも処刑してしまいます。ヘロデはその後、神の前にその罪を悔いることなしに生涯を終えることになります。
『人間というものは知らず知らずの内に、変わっていってしまうものなの・・・。
せっぱつまった状態に置かれると、そうすることが正しいかどうかを見極めずに、取り敢えず問題を解決しようと飛びついてしまう・・・。そのうち、それが正しいという錯覚に陥り、そういう生き方をするうちにそれに慣れて道理を見失い、目先の事しか見えなくなってしまう・・・。』 (韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」より)
罪を犯してもなかなかそれを認めようとせず、これくらいは誰でもしているではないかと思ってしまい、素直な砕けた心を持つことができなくなっていきます。自分はヘロデとは違うと誰が胸を張って言えるでしょう。それは個人のレベルにおいても然り、国や、国と国とのレベルにおいても、権力や武力、はたまた正義をかさに押さえつけ、自らの非や罪悪を認めるどころか、自らを正当化することに専心します。
しかしダビデはヘロデと違って自分の罪を悔いたのです。神の前にいかに自分が罪深く、自分ではどうすることもできない罪を悔い、ひたすら神に救いを求めます。それ故神に選ばれた王としての歩みを続けることを許されたのです。罪に泣いたダビデに与えられた救いの約束、それは将まさに、イエスの十字架によって今の私達にももたらされている救いの約束でもあることを今一度心に留め、赦され、生かされていること、そして、なにゆえ生かされているのか、と考えずにはおられないところではないでしょうか。
司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(松本聖十字教会牧師)

『教区宣教130周年の年に当たって~ロビンソン司祭のことなど~』 

中部教区は今年宣教130周年を迎えました。秋には新潟で記念礼拝が予定されており大変楽しみです。わたしたちの中部教区がカナダ聖公会の伝道によって作られた教区であることは改めて言うまでもありませんが、中部教区への最初の宣教師は英国聖公会宣教協会(C.M.S.)宣教師のファイソン司祭でした。新潟にやって来ました。それが今から130年前の1875年(明治8年)のことです。ファイソン師は7年で新潟を去りましたが、日本聖公会最初期の聖職の一人である牧岡鉄弥司祭がその時同師から洗礼を受けています。
1882年(明治15年)、ファイソン師が新潟を去ってから後の中部教区における伝道がどうであったのか良く分かりません。次に教区の歴史が動くのが1888年(明治21年)です。中部教区へのカナダ聖公会からの最初の宣教師であるJ・C・ロビンソン司祭が名古屋にやって来ました。「カナダ聖公会からの」と言ってもカナダ聖公会の正式なという意味ではなく、これは自発的な宣教師と言っていいでしょう。ちなみに、カナダ聖公会派遣の正式な宣教師はその翌年に来日したJ・G・ウォーラー司祭でした。2年後には長野にやって来て伝道を始めます。
ロビンソン司祭は元々実業学校を出て銀行に勤めていましたが、召命を受け神学校に行き聖職になった人でした。同師は宣教師として日本に行くことをカナダ聖公会に要請しましたが、カナダ聖公会の事情により彼の願いは叶えられませんでした。そこで、おそらく同師の強い願いを受けてだと思われますが、彼の出身校であるウイクリフ神学校の卒業生が伝道協会を結成して、ロビンソン夫妻を日本に派遣することを決めたのでした。
ロビンソン夫妻は1888年来日し、11月には名古屋にやって来ました。東片端(現在の名古屋聖マルコ教会と柳城幼稚園から少し南へ行った所)に住み伝道活動に専念しました。英語学校や老人と孤児のためのホームである幼老院を作ったりしてのマルチ伝道です。すぐ後にはボールドウィン司祭やハミルトン司祭(後の主教)が加わり、一宮や大垣、豊橋への伝道、更には岐阜への応援と、愛岐地区における中部教区伝道の基礎を固めていったのです。講義所もたくさん出来ました。
カナダ聖公会の中部伝道が初めはカナダ聖公会の正式な宣教師ではなく、いわばボランティア伝道者たちの熱意によって始められたことに大変意義を感じます。わたしたちの中部教区はそういう信仰者の熱意によって形成されてきたのです。中部教区はまだまだ完成された教会ではありません。形成途上の教会です。宣教百年の時の標語のように「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走り続ける教会です。「千年も一日」のようである神様の前では中部教区の宣教は、始まってまだほんの数時間しか経っていないのです。主のご復活の力に促され、先達の信仰的熱意を継承しつつ、更なる宣教の業へと励みたいものです。
司祭 ペテロ 渋澤 一郎
(名古屋聖マルコ教会牧師)

『インマヌエル』

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
イエス・キリストの誕生物語は、マタイ福音書とルカ福音書の二つにあるが、この聖句はマタイ1章23節で、「インマヌエル」という言葉でよく知られている。
インマヌエルは旧約聖書のイザヤ書7、8章に出てくる言葉で、冒頭の聖句中のインマヌエルは7章14節のものである。ギリシャ語で「神はメトゥ(と共に)・ヘーモーン(我々)」となる―マタイ福音書の誕生物語を読む場合、この言葉を覚えておこう。そしてマタイ福音書の特徴を見てみよう。
ルカ福音書には無くマタイ福音書特有のこの聖句について考えてみたい。インマヌエルはヘブライ語で、意味は「神は我々と共におられる」である。「我々と共に」であり、「われと共に」ではない。
マタイ福音書の誕生物語では、イエスは「王」として生まれる。占星術の学者たちのヘロデ王への言葉は、「ユダヤ人の『王』としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とある。このことによってヘロデは自分の「王位」が危ないと不安を感じ、急いで祭司長たちや律法学者たちに調べさせ、誕生の地は「ベツレヘム」であると教えられる。ヘロデ王は「見つかったら知らせてくれ」と言って送り出し、「私も行って拝もう」などと心にも無いことを口にする。
イエスが王として述べられる記事はさらに続く。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、贈り物をささげた」と。そこには、身ごもっているマリアとヨセフの、人口調査のための旅も馬小屋も出てこないし、羊飼いという社会の底辺を生きる人たちも登場しない。
しかし、マタイ福音書のイエスは単なる権勢を誇る「王」ではなく無力な王なのである。それは以下の物語と地上の生涯でわかる。占星術の学者たちがヘロデ王に知らせないで帰国の途に着くと彼は大いに怒り「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、ひとり残さず」殺すのである。幼子はマリア、ヨセフと、その危難の直前に天使の言葉に従いエジプトに逃れた。ようやくヘロデ後の時代になったので帰還しようとするが、大王の子供たちが支配していて危険なので、ナザレの町へひきこもる。王になる人物らしくない。
続く物語は他の福音書と同じくイエスの地上の生涯の叙述であり、神の国についての教え、病人のいやしが述べられる。そして十字架の死、復活が詳述される。
最終章28章に至り、イエスは11人の弟子たちに全世界への宣教命令を与える。その最後の文章に注目したい。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」であるが、最後の最後でまたインマヌエルとよく似た言葉が出てくる。メトゥ(と共に)・ヒューモーン(あなたがた)。
「神は我々と共におられる」「わたしはあなたがたと共にいる」。この「わたし」とはイエス・キリストのことである。マタイ福音書は、神があるいはイエスが我々教会と共にいるという、初めと終わりの宣言で、何と囲まれている福音書なのである。
主教 フランシス 森 紀旦