『ペトロの涙』

主のご復活と導きを感謝して
3月に入ってなお小雪が降り、早朝には氷点下7度の日を迎えるなかで、4月の声が近づくと、やっと新しい命の芽生えを感じる時が来たなとの思いです。春一番が吹き、冬の終わりを告げる雷が鳴り響くと、その音に促されたかのように、厳しい寒さに閉じ込められていた小さな虫たちが地上に顔をのぞかせ、啓蟄を迎えます。死んでしまったと思わせるような冬の世界に、大地のぬくもりのなかで小さな命が見守られていることを教えているようです。根雪を溶かし、幼虫たちに脱皮・変態し動き出す、新たな生きる力の源を注いでいるように思います。そうか、神様はそのように私たちが住むこの世界をお創りになってくださっているのだなと思います。
教会暦では、主のご復活を祝う準備の大斎節も主イエス様のエルサレムでの1週間を覚える聖週に入ります。しかし、弟子たちを代表するとまで言われたペトロにとっては思い出したくもない1週間であり、あの一言さえ言わなければこんな惨めな思いをしないで済んだと、悔やんでも悔やみ切れない出来事でした、「私はあの人を知らない」(ルカ22:57)と。あれほど主に従って歩む道こそ自分の生きる道であると固く信じ誓った私は、主イエス様の言葉どおり、一番大切な時に、一番証しするチャンスの時に「私はあの人を知らない」と叫んでしまいました。その時ペトロに向けられた主の眼差しに、弟子たちの先頭に立った誇りも無く、主を裏切ってしまう自分の弱さを思い知らされ、悔しさと恥ずかしさで主に顔を向けることが出来ず、主のおられる中庭にいたたまれず外に飛び出してしまいました。
この言葉は自ら関係を断ち切る言葉、主の愛のうちに生きる事とは関わりのない関係を宣言する言葉になりました。神様の御用のために主イエス様によって、私こそ最初に召され、先頭に立って歩んで来たその人であると自負してきた者の、挫折した恥ずかしい言葉そのものでした。でもこの言葉は、ペトロだけの言葉でなく、今私たちの口と耳に飛び交う、人間関係を断ち切る言葉になってしまっています。夫婦の親子の兄弟姉妹の家庭のなかで、少子・高齢化社会のなかで、絶えることの無い幼児虐待や最近とみに増えている高齢者の虐待、いじめのなかで、こんな筈ではない、こんな人間関係のために私たちの命が与えられたのではないとの叫びが溢れています。
大声で「私は知らない」と言わざるを得なかったその時、主イエス様の眼差しにペトロの涙は止まりませんでした。そう、イエス様は知っておられるのです。ペトロの思いも、弱さも。それでもなお裏切ってしまった弱いペトロをありのまま受け入れ、そのペトロのために赦しと神様の愛のしるしの十字架へと歩まれました。ご復活の主はペトロに、自分の力に頼って生きる道から脱皮し、神様の愛に活かされる者へと力を注いでくださいました。ペトロのその後は、命がけで復活の主との出会いを証しする歩みでした。それはペトロの内に、十字架のイエス様が共にいてくださる人生へと招いてくださった喜びのしるしです。
「私は知らない」と交わりを絶つ言葉を言い続ける私たちですが、ペトロと共に喜びをもって聖餐式の内に、主が今ともにいてくださる恵みに与りましょう。
司祭 マルコ 箭野眞理
(長野聖救主教会牧師)