『「主の祈り」を祈ろう』

司式者:主イエス・キリストが自らお授けくださったこの祈り(主の祈り)を、日夜折あるごとに祈り、キリストに学び、キリストの道を歩みなさい。
洗礼志願者:アーメン

(日本聖公会祈祷書「入信の式」より)

8月号にふさわしい内容でよろしく、と原稿を依頼されました。戦乱に明け暮れる世界を見渡して、平和についての感慨を述べるようにということかも知れないが、それは他の機会に譲るとし、かねてより私が感じている、「『主の祈り』を祈る」ことについて、思うところを記させていただきたい。

ご承知の通り、私自身がいわゆるスローモーなたちで、しゃべったり、行動したりするのが人一倍遅く、半分ひがみもあるかも知れないが、つい数か月前の、日本聖公会総会や教区教役者会などに参加して、他の多くの人々と共に「主の祈り」を祈る機会を与えられたが、すらすらと、何のよどみもないように唱え続ける他の人たちに遅れをとるまいとすればするほど、息が詰まるようになり、神様との交わりを楽しむ至福の境地を味わうどころか、苦痛に感じることもありました(これまで幾度も体験したように)。

ある決まった文句を、調子をとりながら声に出して読んでいく「唱える」作業は、外からみれば、インパクトに富む、エネルギッシュな行為ですが、神に向き合い、神に聞く「祈り」の行為とは少し違うのではと思います。

限られた時間内に捧げる公同の礼拝で、個人的な感傷だけにひたることが許されないのは当然ですが、スロー・ライフとか、スロー・フードがもてはやされる昨今、ほんの数秒、数分だけ、もう少しゆったりと「主の祈り」の一字一句をかみしめながら、神に向かって立つことは出来ないものでしょうか。

古来、私たちはさまざまな種類の祈りに支えられてきましたが、『主の祈り』は、少し時間をかければ幼児でも容易にそらんじることが出来る真に心地良い祈りです。

でも、天とはどんな世界か?み名とは? 聖とするとはどういうことか? み国とは?みこころとは? 日ごとの糧とは? 罪とは? ゆるしとは? 誘惑とは? 悪とは?等々、一つ一つの言葉に思いをはせれば、一言では語り尽くすことができなくとも、イエス様と私たちを結ぶ味わい深い奥義にたどりつき、日々新たにされていきます。

神に対する信仰を告白し、神に応答していくという「祈り」の本質に立ち返って、一言一句、イエス様が教えてくださったイメージを思い浮かべ、心に描きながら祈っていくうちに、すばらしい世界に招き入れられるのを実感できると思います。

そして冒頭の「入信の式」の「主の祈りの授与」にあるように、『主の祈り』を(ただ、走り読むのでなく)よく祈り、キリストに学び、キリストの道を歩んでいくことが出来れば幸せです。

最後に、私が多くを教えられた、ある先輩聖職のメッセージ「聖歌は早く、祈りを遅くしなさい」を皆様と共に味わい、祈りつつ、日々を過ごしていきたいと願います。
司祭 ルカ 森田 日出吉
(高田降臨教会牧師)