『軽井沢ミッション』

本当に多くの方々から質問されました。「軽井沢?それもホテルへ何しに行くの?」今年の春のことです。おそらく現在も、私がホテルにチャプレンとして派遣されたことを不思議に感じておられる方も多いのではないでしょうか。それは、今まで司祭が学校や病院に遣わされることはあっても、一企業にということはなかったからです。アパートに住み、毎朝ホテルに出勤するという慣れない生活に、当初は戸惑うこともありましたが、半年を経て率直に思うことは「実に貴重な経験をさせてもらっている」ということです。字数に限りがあるため、この辺りのことはぜひ別の形で報告させて頂ければと願っています。
とにかく、まず何よりもお伝えしたいことは、軽井沢という地は《聖公会》という言葉が浸透している全国でも稀有な(聖公会から言えば貴重な)町であるということです。今年はちょうど町制が施行されて80周年を迎えましたが、発刊された記念誌を開くと、すぐに「ショー記念礼拝堂」のカラー写真が大々的に掲載されています。《聖公会》という言葉も幾度も登場しています。8月に開催された「ショー祭」では、村岡司祭のご配慮により町長に挨拶する機会が与えられましたが、そのとき町長から言われた言葉が「聖公会の先生が軽井沢においで下さり、本当に嬉しく思っています」でした。更に驚いたことは、頂戴した町長の名刺の背景にショー記念礼拝堂の写真が印刷されていたことです。このことは私にとって、軽井沢における新たな宣教の可能性を直感させられた出来事でした。また長野新幹線が開通してからは、定住する人口も毎年増加傾向にあります。そのような中、最近つくづく思うことは、聖公会にとってこれ程恵まれた条件が与えられているにもかかわらず、もし軽井沢における宣教を積極的に考えないのであれば、それは教会の怠慢に他ならないということです。
近年、教会の危機的状況が叫ばれています。私たちは数字を見るたびに意気消沈し、自信喪失の状態に陥ってはいないでしょうか。正直私もそうでした。しかし、軽井沢での新たな経験と気づきを通して、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」というパウロの言葉が今までにない力強い響きをもって迫ってくるのです。勿論教会における礼拝と交わり、そして牧会は何よりも大切にされなければなりません。しかし、そのことだけに私たちの注意と関心が向けられるのであれば、今の厳しい教会の状況を打開、改善していくことは困難であるように思います。
軽井沢に来て改めて感じることは、教会の働きは社会の至るところに広がっているということです。そして《軽井沢の父》と称えられるショー師をはじめ、かつての宣教師たちの伝道に対する熱意と、確固とした信仰、そして常に社会に目を向けている開かれた姿勢から私たちはもっと真摯に学ぶ必要を感じるのです。私は現在、ホテルスタッフの一員として年間400組を超える結婚式の責任を持っていますが、この軽井沢の地においてイエス・キリストの働きを担う者(クリスチャン)として、今後も宣教の可能性を祈りの内に模索していきたいと思っています。
司祭 テモテ 土井 宏純
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森チャプレン)

『聖職試験を受けて』

ようやく司祭試験が終わり、ホッとしています。結果はともあれ、受験生として過ごしたこの3ヶ月は、いつも頭の上に重荷がのしかかっているようで、あまり気分のいいものではありませんでした。胃は痛くなりませんでしたが、ただでさえ少ない髪の毛がさらに減ったような気がします。大勢の方から温かい励ましや、時に厳しい叱咤のお言葉をいただき、うれしいやら情けないやら。「聖職」 への道の険しさに、今さらながらたじろいでいます。
神学校へ行っている時に、試験問題で、「これこれについて、高卒程度の人に理解できるように述べなさい」 というのがあって、高卒の私がその答えを書いたのですが、ちょっと複雑な気持ちでした。今回の試験で、とてもむずかしいと私には思われる問題に遭遇し、ほとんどあてずっぽうの答えを書いたのですが、そんな自分がとてもいやになりました。やっぱりおれは高卒だし、52歳の今までいい加減に生きてきたツケがまわってきたのかな、と悲しくなりました。
今、聖公会の 「司祭」 になるためには、何が求められているのかと、ぼんやりと考えていました。物事、とくに神学的なことを論理的に考え、きちんと表現することが出来る能力、いちいち参考書を見なくても、聖書のこと、教会の歴史、教会の教え、その他の知識が記憶されていて、即座に正確に説明できること。いわゆる 「知的エリート」 として、信徒を指導できる能力を備えている、というようなことなのでしょうか。
聖職志願しようと決めた時、私のそれまでの思いの中から、自分は高校しか出ていないという劣等感が、払拭されたはずだったのですが、まだ残っているようです。「甘えるな」 という声が聞こえてきそうです。学歴のせいにするな。自分に能力がないなどと裁くな。努力が足りないだけなのだ、という声が。
努力といえば、神学校に入学して、私が最初にぶつかった壁は、上昇志向でした。努力せよ。頑張って、いい成績を取れ。立派な牧師になるのだ、と自分をむち打ちました。長続きしませんでした。疲れてしまいました。手に負えない課題もありました。そうした中で、上昇志向を捨てなければならないことに気付かされました。あたかも自分の力でこれまで人生の道を切り開いてきた、のぼってきたという思い、考えは大きな間違いでした。よくよく自分を眺めてみれば、体も健康も、そして命もすべて神から与えられたものであり、与えられたことに感謝こそすれ、それを誇ったり、逆に劣等感を持ったりするのは筋違いだなと思いました。ありのままの自分を受け入れ、そこから出発する必要があると感じました。
イエスが最も弱くされたお姿で、救いのみわざを成就されたことの意味に気付かされました。この愛の内に赦されて、今ここに立たされている。ひとを愛することのできない私が、愛され、生かされている。
変な劣等感で自分自身を粗末にすることは、創り主である神さまに対して失礼です。赦され生かされている私が、自分を大切にして、ひとと助け合って生きていく。そのためにはどうしたらいいのか、自分に与えられている賜物をどう発揮していったらいいのか、この文脈に努力という言葉が出てきます。賜物を生かし切る努力をする、もちろん神さまの助けによって……

執事 イサク 伊藤 幸雄
(岐阜聖パウロ教会牧師補)

『「日本海」・「東海」』

新潟聖パウロ教会は、中部教区内でも大きな教会の方に属します。幼稚園やその他の施設はありませんが、思いッキリ、宣教・伝道について考えてみる事が出来る、非常に良い条件を持っている教会だと思います。
牧会経験が余りにも少ないシロウト牧師が中部教区の大きな教会に来るようになったことの不思議さを思えば、「きっと神様が私に何かを求めておられるのだ」 と強く思わざるを得ません。私の体型の様に少し鈍い私が、新潟聖パウロ教会に対する神様のみ心を解るまでには長い時間がかかるでしょうが、いつかは気づくようになるだろうという思いです。
一昨年は名古屋聖マルコ教会で、牧師というよりは留学生の感じで過ごし、昨年は主教座聖堂である名古屋聖マタイ教会の副牧師 (働きは少なかったですが)、その1年後の今年は新潟聖パウロ教会の牧師になり、しかも伝道区長にまでなっているのをみると、神様は冒険が非常に好きな方だと思われます。
昨年、名古屋で幼稚園の先生をしていた青年から野菜の種をもらった事があります。数ケ月前、そのうちのカブを司祭館の裏側に蒔きました。最初は失敗してもかまわないという軽い気持で種を蒔きましたが、予想以上に早くそして丈夫に育ってくれて、キムチを作って食べる事も出来ました。畑と言うには恥ずかしいくらいの畑 (車1台駐車出来るだけの空間) ですが、毎日忘れず水をやり雑草をとる等の仕事をしながら、時に期待して時に心配するという心、この農夫の心がまさに神様の心なのだろうなという思いでした。
普段日本で簡単に手に入るのは白菜キムチなので、カブのキムチがどんな味なのか気になる方もおられると思いますが、私には懐かしい故郷の味でした。
韓国が懐かしくてという訳ではありませんが、海が近いので2回ほど海岸に夕日を見に出た事があります。日本では 「日本海」 と呼ばれているこの海を、韓国では 「東海」 と呼んでいます。ただ眺めるだけなら、何事もなかったかの様に平安だけが伝わって来るこの海 「東海」 を見て、この海に流した大勢の人々の涙・汗・血が思い浮かんでくるのはどうしてでしょうか? 「マンギョンボン号」 でも有名な新潟、これからこの場所でどんな事が起こっていくのか、心配半分、期待半分という気持ちです。
まず、一番にしたい事は、たくさんの人々に出会うという事です。また、教会に来られない方々を訪ねる事も、喜びを持って徐々に徐々に進めています。
韓国の東海岸から眺めていた 「東海」 は、日が昇る海でした。希望を持って計画し、そして何かを始める、そういう海でした。一方、新潟から眺めるこの 「日本海」 は日が沈む海です。後ろを振り向いて整理し、そして 「また頑張ろう」 と自分に念をおす、そういう海です。しかし、結局この二つの海は一つであって、この海から日が昇り、またこの海に日が沈んでいく訳です。
絶えることなく日が昇りそして沈む事を繰り返すこの海の様に、私の新潟での生活、そして働きにあって、多くの出会いを絶えず続けていけたら嬉しいなと思います。
司祭 イグナシオ 丁 胤植
(新潟聖パウロ教会牧師)

『ホスピスで思うこと』

新生病院のある小布施は、果物の季節を迎え、町のさまざまなお祭りや催し物が続きにぎやかです。でも一歩入った路地の木陰は静かな時間が流れています。病院の中庭も患者さんの散歩のコースになっています。ホスピスに入院された方も体の調子がいいとき静かな中庭の木々に招かれるように、緑の中に身をおいています。「(家族や病院スタッフ)皆さんに見せたくて」と庭で拾ってきた松ぼっくりや摘んできた花がホスピスのホールに飾られていることがあります。
生け花のボランティアに来て下さる方と同じようなことを患者さん自身がしてくださり、私たちのほうが慰められます。ホスピスで思うことはたくさんあります。
病という思わぬ出来事に自分も家族も悩み、やっとの思いでホスピスに来る方もいます。ホスピスは世間では「もう治らない病気のために死を迎えるところ」というイメージがあるようです。しかしそれは間違いです。
がん=ホスピス=死ではないのです。確かに病状が進み亡くなる方もいます。また治療に向けて退院する方もいます。その患者さんの生と死に意味を見い出していく時、それはただの死ではなくなるのです。残された家族や医療者を生かす力となるのです。毎年、ホスピスで亡くなった患者さんの家族に集まっていただき、入院中の思いや今の心境などを語り合う「思いを分かち合う会」というものがあります。今年の6月におこなわれた時には入院してわずか2日で亡くなった方の家族も来て下さいました。最後の時を共に過ごすことができたと感謝していましたが、同時に「もっと早く(ホスピスに)来ていればよかった」とも語っていました。すると他の遺族の方が「一所懸命お世話されたから…長さじゃないですよ」と言われていました。人は、時間が神様から与えられた限られたものであることを忘れがちです。誰でもいつかは死を迎えます。それは神様を信じていてもいなくても同じです。終末期にある患者さんに対して積極的な治療は意味がないばかりか、苦しさが増えるばかりで残された時間がつらいだけになってしまいます。
突然の病気は心に大きな波紋を起こし、やがてくる死はその重たさのために家族だけでなく、病院スタッフをも過去の時間へ引きずり込んでしまうことがあります。しかし大きな波紋の中にある生といつまでも引きずるようなつらい死に、患者さんに関わるあらゆる人たちがゆっくりと心を向けることによって不思議と「死の重たさ」が「感謝」に変えられていくのです。それは必死になって自分に引きとめようとしたものをだんだんと神様にゆだねていくような姿です。コリントの信徒への手紙Ⅰは「死のとげは罪である」と語ります。主イエスは人の存在に思いを向けた事によって「死のとげ」を取り払ったのです。私たちの間に十字架を建ててくださったのです。
ホスピスで思うことはたくさんあります。そして主イエスの出来事を思わざるをえないのです。
司祭 マタイ 箭野 直路
(新生病院チャプレン)

『祈りの時、だ~い好き!』

4月から主教座聖堂名古屋聖マタイ教会に遣わされ、やがて3ヶ月が過ぎようとしています。とは言っても名古屋が第1・第3主日をはさんだ約2週間の単身生活、長岡と三条の生活が第2・第4主日をはさんだ約2週間という、名古屋と新潟を月に2往復、行ったり来たりする日々を送っているのが現状です。
そんな折、2年ぶりに教区報「ともしび」1面の原稿を書いて下さいという依頼を受け、さあ何を書こうかと思案しました。説教は多くの方が書いて下さっているので、今回は思い浮かんだことを書くことにしました。
皆さん、祈りの時は好きですか? だ~い好きですか? 何という不躾で失礼な質問をするんだと思われた方は、きっと真面目で祈りの時が本当に好きな方に違いありません。どうかなぁ? と、少し考えられた方は、その質問から祈りの時に好き、嫌いがあるのかなぁなどと、いろいろ思い巡らされておられる方かもしれません。もし同じ質問がわたしに投げ掛けられたならば、正直なところ、わたしは祈りの時が好きになったり、またある時には嫌いになったりするんです、と答えます。
思い返してみると、幼少の頃、就寝前に「主よ、今宵も、み翼もて、おおい守りませ、あかつきまで、アーメン」と聖歌202番を歌ってから、今日一日の導きを神様に感謝し、暗い夜の間もお守り下さい。そして、明日も元気に起きて楽しく過ごせますように、と家族で祈る祈りの時はだ~い好きでした。
しかし、小学校6年生から中学生の頃、祈りの時が嫌いになりました。それはしばらく同居していた祖父(主教!)が登校前にしてくれるゆっくりと長い祈りの時でした。早く学校へ行って遊びたい気持ちや、ああ今日は早くしてくれないと遅刻しちゃうよというわたしの胸の内を知るよしもなく、祖父の祈りは世界各国のため、わが国のため、教会と信徒・教役者のため、親族、友人、知人、病人のため等々、北は北海道に始まり南は沖縄に至るまで続きました。ああ、まだ中部教区だ、早く終わってよ! そんな思いで祈りの時が終わるのを待っていたことを思い出します。
名古屋に来て毎朝夕の礼拝を若い同労者と祈っています。
わたしはこの祈りの時を、お勤めとして守っているというよりも、今は好きで楽しく守っています。なぜかこの祈りの時の中に、主が共にいて働いていて下さるというリアリティーを強く感じるのです。時間に追われてする祈りではなく、気持ちのゆとりをもってする祈りの時なので、おのずから祈りが膨らみます。わたしが嫌いだった祖父の祈りの時は、祖父にとってはきっと豊かな思いに満たされていたんだなと、今になって分かるような気がします。
長岡や三条でも毎朝教職員と共に祈りの時を持っています。保育に関わる一人の園長としての祈りが、どれだけ他の保育者と共有されているのかを、今一度反省しています。
祈りの時の中に主が共にいて働いていて下さるという確かなリアリティーが感じられるとき、祈りの時が好きになり、楽しくなるのではないかと思います。
主日礼拝、とりわけ聖餐式がだ~い好きになるのも、嫌いになるのも、その点にかかっているように思いますが、皆さんはいかがですか?
司祭 サムエル 大西 修
(名古屋聖マタイ教会牧師)

『あなたがたに平和があるように』

聖霊降臨の出来事を伝えるヨハネによる福音書には、このような言葉がある。「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。彼らは、本当に恐ろしかった。不安と絶望に打ちのめされていた。ところがその時、驚くべきことが起こる。イエスが弟子たちの真ん中に立ち、こう声をかける。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」。そしてイエスは、「聖霊を受けなさい」と、弟子たちに息を吹きかけられた。「聖霊」とは、主イエスの「息」なのであった。主イエスの息、聖霊を受けた弟子たちは、この瞬間から、生きる力を回復する。希望を取り戻す。あれほどまでにも、不安と絶望の内に震えていた彼らが、死んだようになっていた彼らが、命を回復したのである。そして、弟子たちは、大胆に主イエスをキリストとして証ししてゆく。この力こそが聖霊である。イエスの十字架上での死によって絶えたはずの主イエスの福音は、こうしてよみがえった。聖霊は、打ちのめされた者、絶望の淵にある者、痛み、苦しみにある者、疲れた者に与えられる生きる力である。
聖霊降臨日の福音には、もう一つ非常に大切なことが記されている。それは、イエスが「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」という箇所である。イエスは手とわき腹を見せられた。すなわち、十字架上で釘を打ち抜かれた手とわき腹の傷跡をお見せになった。すぐあとには、トマスがこのイエスのわき腹の傷に直接手を当てて、主を信じる物語が置かれている。イエスは、トマスにこう言われる。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」。トマスはうめくように、振り絞るように言葉を発した。「わたしの主、わたしの神よ」。
トマスに声をかけられたイエスは、栄光のイエスではなかった。復活されたイエスとは、光り輝く天の衣をまとい、金の王冠をかぶったイエスではなかった。トマスと弟子たちの前によみがえられた主とは、手に傷を負い、わき腹から血を流し、荊の冠をかぶらされたままの姿であったのである。おそらくトマスは実際に、その主の傷に、自らの手で触れたのであろう。
主イエス・キリストは、傷を負われたまま、よみがえられた。その傷とはいったい何か。その傷とは、私たちのこの世界、社会にあって、叫びをあげる無数の人々の傷でもある。不当な戦争によって命を奪われた者たちの傷であり、虐げられた人々、病める人々、体の不自由な人々、捨て置かれた人々の痛みである。その無数の痛みと傷を担われたまま、主イエスはよみがえられる。まさに、この事実に、私たちはトマスのように、「わたしの主、わたしの神よ」という、この世で、最も短く、同時に最も完全な信仰告白の言葉を発することができる。私たちは、この「傷」を忘れてはならない。この「傷」を私たちのこの手に感じながら、決して忘れないことこそが、「私たちに平和がある」ことの、主イエスに示された〈必要条件〉なのである。
司祭 アシジのフランシス 西原 廉太
(立教大学教員・岡谷聖バルナバ教会管理牧師)

『イエスさまの祈り』

「わたしはあなたのために、 信仰が無くならないように祈った。」 (ルカ22・32)
福音書を見ますとイエス様は非常にしばしば祈っておられることがわかります。 洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時も祈っておられました。 大勢の群衆が押し寄せてきた時にも、 イエス様は人里離れたところに退いて祈っておられました。 十二使徒を選ばれる時にも夜を徹して祈られました。 5つのパンと2匹の魚で5000人以上もの人々を満腹させられた時も神様に賛美の祈りを唱えてからそうされました。
ご自分の受難予告を最初にされる直前にもイエス様は一人で祈っておられました。
イエス様のお姿が変わったのは祈るために山に登った時でした。 主の祈りを弟子たちに教える前にもイエス様は祈っておられました。 また、 気を落とさず絶えず祈ることも教えておられます。
そして、 最後の晩餐の時には感謝の祈りを唱えてからパンとぶどう酒を弟子たちに与えられました。 そして、 いよいよご自分が逮捕される直前には汗が地に滴り落ちるほど祈られました。
このように見てきますとイエス様のご生涯は祈りによって導かれていることがよく分かります。 神様のご意志を生きるためには祈ることによって絶えず神様との交わりを保ち続けることが不可欠だったのです。
そのような祈りの中にあって冒頭に挙げたみ言葉はイエス様がペトロのために祈ったという内容のみ言葉です。 イエス様が特定の誰かのために祈ったというのはこの箇所だけではないでしょうか。 時間的には最後の晩餐とイエス様の逮捕の間であり、 ペトロがイエス様を否認する前のことです。 ペトロという人物は福音書においては人間としての弱さや欠点、 過ちが何の覆いもなく表されている存在として描かれています。 実際そういう人物でもあったのでしょう。 あるいは弟子たちの代表という意味でそのように描かれているのかもしれません。
いずれにしても、 イエス様は、 強がりは言っているが、 間もなくイエス様を知らないと言って逃げ出してしまうペトロのために、 彼の信仰が無くならないように祈られたと言われるのです。 ご自分が間もなく捕らえられ十字架に付けられようという緊迫した状況の中で、 このどうしようもないが、 しかし愛すべき弟子のために祈ったと言われる時、 そこにペトロも含めた弟子たちへのイエス様の限りない愛を見る思いがします。
イエス様のご復活の後、 ペトロを中心とした弟子たちが大胆にイエス様を宣べ伝えて行くことが出来たのも、 このイエス様の愛と祈りに支えられたからに他なりません。
イエス様はわたしたちの信仰が無くならないように祈っていてくださいます。 イエス様の祈りがあるからわたしたちは信仰生活が続けられることを覚えましょう。 イエス様の祈りがペトロが逃げ出さないようにという祈りではなかったことに注意しましょう。 イエス様は 「逃げ出す」 という人間の弱さを良くご存知です。 それでも信仰が無くならないようにと祈ってくださるのがイエス様の祈りであり愛なのです。 その祈りにわたしたちは生かされているのです。
司祭 ペテロ 渋澤 一郎
(名古屋聖マルコ教会牧師)

『復活のイエスの招き』

主イエス様のご復活を心からお祝い申し上げます。

「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」

ヨハネによる福音書21章の冒頭にある物語中の一節である。
ヨハネ福音書は20章できれいに終了している。「本書の目的」をもってきちんと閉じられている。その後何らかの理由で編集者により21章が付け加えられたのである。わたしはこの21章が好きである。お好きな方も多いと思う。21章の中の1節-14節も好きである(目を通していただきたい)。この物語に流れる雰囲気がとてもいい。20章までにペトロにイエスが現れたと言う物語が無いので21章が付加されたのかどうかわからないが、21章全体がシモン・ペトロに関する物語となっている。
まだ復活に出会っていないペトロを初めとする数名の弟子たちが十字架の大騒乱のあとふるさとに戻り、少々疲労気味の中で、慣れた「漁」に夜行くのも自然である。「何もとれなかった」(3節)と記されている。4節の夜明けも象徴的だ。その時刻にイエスは岸に立っておられ、静かに彼らの言動を見ておられたとある。イエスの言葉に従って綱を打つと、引き上げることが出来ないほどの大漁という仰天すべき出来事が起こる―ルカ福音書5章1節以下に関係があるか? イエスの愛しておられた弟子が、主であることを告げると、裸同然だったペトロが上着をまとって湖に飛び込んだという描写、彼の人物、性急で、ユーモラスな性格を見、わたしたちは思わず微笑む。
わたしはこの物語の弟子たち全体の言動の静けさと、心の中のしみじみとしたはちきれるほどの喜びを感じ、描写のうまさに感心する。黙っていても成り立っているイエスと弟子たちとの以前からの関係、しかもあの十字架事件による狼狽と何と復活されたイエス。そこにはイエスに「あなたはどなたですか」と問う必要もなく、弟子たちに「十字架の時は大変だったね」と裏切りを口にする必要もない両者。すべてイエスに見通されており、しかもイエスの赦しが感じられ、責められることもない。焼いた魚を真中に、イエスと気恥ずかしい弟子たち。謝ることも無く以前の関係と同様の関係に甘えられるうれしい気持ち。
暖かい目で見通されている弟子たち。これはイエスとわたしたちの今の状況であろう。わたしたちは分かられている。知られている。個人的に、また社会の中で、世界の中で、わたしたちはみ心にかなう生き方をしようとしながら、主イエスをしばしば裏切ってしまう。40日間の大斎節をともに歩みながら、そのことを切実に感じてきた。しかし大斎節は復活日で終わりとなる。いかなる、み心にかなわない状況にあろうとも、イエスは変わることなく、咎めることなく、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)と手を広げて招いてくださる。わたしたちは分かられている。うれしいことである。
聖餐式は復活のイエスが弟子たちとなさった食事の記念でもある。心から復活日の聖餐式をささげよう。
主教 フランシス 森 紀旦

『マリア・ワルトルタ』

わたくしは、マリア・ワルトルタが書いたイエス様についての書物を知ると、人生は3倍豊かに成る、と勝手に思っています。
『マグダラのマリア』 あかし書房からの抜粋で、マリア・ワルトルタをご紹介します。
1896年、南イタリアのカゼタで、愛情あふれる父と、きびしく変わった気質の母親のもとに生まれる。母の干渉で結婚話が2回とも実らず、愛することなしに生きることが考えられなかった彼女は人間の愛情のはかなさを知って、最大の愛である神に至ることになる。
1917年、第一次世界大戦時にボランティアで看護婦になり、フィレンツェの軍病院で 「下級」 兵士の世話をして献身的に働いた。
1920年、突然、後からついてきた子供に、ベッドからとった鉄棒で力いっぱい背中を打たれるという事件に遭い、それから心身ともに苦しむこととなる。1934年からはもうベッドから起きることはなく、死ぬまでの28年間、病人生活を送る。
病床の間、「神と人なるキリストのポエム」 という、ノート1万5千ページにもわたる原稿を何の推敲もなく、わずか数年の間にしたためる。
この著作について、彼女は 「天から与えられたヴィジョン」 によるものであって、自分は神の手の 「ペン」 または 「道具」 と言い続けた。
1961年、65歳でこの世を去る。
彼女の著作では、イエス様の生涯、すなわち聖書の福音書が映像のようにあざやかによみがえり、人物が語り、現代人に改めて生き生きとした福音を聞かせてくれる。その仕事は自然的に説明できないものであるともいわれる。
「素晴しい本」、「最高の輝き」、「美しい奇跡の本」、「全人類が読むべき本」 とあらゆる賛辞が寄せられる10冊の本はわたくしの宝です。
マリア・ワルトルタ描くイエス様は長身、ブロンド、空色と言うか、サファイア色の瞳、声はバリトン…と詳しく、白や水色の着物などのファッションも細かいので、目の前3メートルにイエス様がいるかのようです。ペトロ、聖母マリアに詳しいだけでなく、イスカリオテのユダが生き生きと描かれます。
神様のお名前はヤーヴェと発音され、マグダラのマリアはマルタとマリアのマリアだとか。一部をご紹介しましょう。
「露の最も小さい一滴にも、その存在のよい理由がある。最も小さい、うるさい昆虫の一匹にも存在するよい理由がある…神経をいらだたせて衰弱させ、この世での一日を苦しくする様々の疑問に打ち勝つための秘訣は、神が知恵深く、または、あるよい理由のために全てを行うと信じ、神が行っていることすべて、人を苦しめるための愚かな目的のためではなく、愛のためであると信じることである」 読むだけで恵まれます。感謝
司祭 ビンセント 高澤 登
(飯田聖アンデレ教会協力牧師)

『新春に思う』

新しき年をお与えくださった神様に、 心から感謝するとともに、 皆様に新年のご挨拶を申し上げます。
しかし早いもので、 ついこの間世紀を迎えたばかりだというのに、 もう3年目を迎えたわけです。
思うに世紀の後半から世界のあらゆるもの、 すべての速度が速くなってきたように感じます。 歴史に加速度がついてきたのでしょうか。
そのため社会の動きも個人の動きも、 地球規模の同時代性をもつようになってきたといってもいいでしょうか。
毎日のテレビで、 刻々と世界中の出来事が伝えられるのを見ると、 私たちもいつの間にか世界的規模の観点で見るようになってきました。
航空技術や、 テレコミュニケーションによる通信の瞬時化によって、 私たちはときどき地理的距離という考えを忘れてしまうほどです。
こうした時代の大きな変化に教会はどう対応していけばいいのか。 そして、 私たちの信仰生活はどうあるべきなのかが、 今問われているように思われます。
教会は何となく平穏で安心感のある所、 神様に守られている方船、 その方船の中に安住する私たちというイメージがあります。
しかし現実はそんなに甘くはないのです。 教会もまた社会の大きな変化の中で危機的状況が見え隠れしているのを感じます。
「イエスは言われた。 『正しい答えだ。 それを実行しなさい。 そうすれば命が得られる』 しかし、 彼は自分を正当化しようとして、 『では、 わたしの隣人とはだれですか』」 (ルカ10・28―29)
今私たち聖職・信徒一人一人が、 イエス様から 「実行しなさい」 と言われたら、 同じように 「では、 わたしの隣人とはだれですか」 と問いかけるかも知れません。
新潟では昨年から 「拉致」 事件が大きな社会問題となっています。 国際的事件であるためにマスコミでも大きく取り上げられ、 各行政を中心に被害者への支援の輪が広がっています。 私たちも両国間での早期解決を強く望んでいます。 しかしこのように国際問題として取り上げられ、 政治的に社会的に支援されるのは特殊な事件だからです。
こと国内でしかも身近な所で、 日常頻繁に起きている 「犯罪被害者」 に対しては、 国も社会も、 支援が遅れているのが現状です。
私も数年前から被害者支援に携わっていますが、 今や教会内においても被害に苦しむ信徒や家族が少なくありません。 したがって教会もこれら被害者の支援活動を積極的に行う必要があります。 その被害者の支援には経済的、 法律的支援とともに大事な精神的支援があり、 しかも被害者が自立するまで、 専門家を中心に大勢の協力者が必要です。
今年も更に変化の激しいそして加速の度を増す社会になることでしょう。 その中で危険と隣り合わせで生きている私たちは、 日常生活の中で起きる様々な精神的身体的な悩みや苦しみを、 教会という共同体の中でこそ解決していけるように努力していきたいものです。 一人が苦しめばともに苦しむ共同体として、 私たち一人一人がもっと深く、 確かな交わりを築いていくならば、 危機的状況は必ず克服することが出来る。 ただ、 「実行しなさい」 と言われた主のみことばが心に響く新春です。
司祭 ヨシュア 鈴木 光信
(新潟聖パウロ教会牧師)