『祈りの時、だ~い好き!』

4月から主教座聖堂名古屋聖マタイ教会に遣わされ、やがて3ヶ月が過ぎようとしています。とは言っても名古屋が第1・第3主日をはさんだ約2週間の単身生活、長岡と三条の生活が第2・第4主日をはさんだ約2週間という、名古屋と新潟を月に2往復、行ったり来たりする日々を送っているのが現状です。
そんな折、2年ぶりに教区報「ともしび」1面の原稿を書いて下さいという依頼を受け、さあ何を書こうかと思案しました。説教は多くの方が書いて下さっているので、今回は思い浮かんだことを書くことにしました。
皆さん、祈りの時は好きですか? だ~い好きですか? 何という不躾で失礼な質問をするんだと思われた方は、きっと真面目で祈りの時が本当に好きな方に違いありません。どうかなぁ? と、少し考えられた方は、その質問から祈りの時に好き、嫌いがあるのかなぁなどと、いろいろ思い巡らされておられる方かもしれません。もし同じ質問がわたしに投げ掛けられたならば、正直なところ、わたしは祈りの時が好きになったり、またある時には嫌いになったりするんです、と答えます。
思い返してみると、幼少の頃、就寝前に「主よ、今宵も、み翼もて、おおい守りませ、あかつきまで、アーメン」と聖歌202番を歌ってから、今日一日の導きを神様に感謝し、暗い夜の間もお守り下さい。そして、明日も元気に起きて楽しく過ごせますように、と家族で祈る祈りの時はだ~い好きでした。
しかし、小学校6年生から中学生の頃、祈りの時が嫌いになりました。それはしばらく同居していた祖父(主教!)が登校前にしてくれるゆっくりと長い祈りの時でした。早く学校へ行って遊びたい気持ちや、ああ今日は早くしてくれないと遅刻しちゃうよというわたしの胸の内を知るよしもなく、祖父の祈りは世界各国のため、わが国のため、教会と信徒・教役者のため、親族、友人、知人、病人のため等々、北は北海道に始まり南は沖縄に至るまで続きました。ああ、まだ中部教区だ、早く終わってよ! そんな思いで祈りの時が終わるのを待っていたことを思い出します。
名古屋に来て毎朝夕の礼拝を若い同労者と祈っています。
わたしはこの祈りの時を、お勤めとして守っているというよりも、今は好きで楽しく守っています。なぜかこの祈りの時の中に、主が共にいて働いていて下さるというリアリティーを強く感じるのです。時間に追われてする祈りではなく、気持ちのゆとりをもってする祈りの時なので、おのずから祈りが膨らみます。わたしが嫌いだった祖父の祈りの時は、祖父にとってはきっと豊かな思いに満たされていたんだなと、今になって分かるような気がします。
長岡や三条でも毎朝教職員と共に祈りの時を持っています。保育に関わる一人の園長としての祈りが、どれだけ他の保育者と共有されているのかを、今一度反省しています。
祈りの時の中に主が共にいて働いていて下さるという確かなリアリティーが感じられるとき、祈りの時が好きになり、楽しくなるのではないかと思います。
主日礼拝、とりわけ聖餐式がだ~い好きになるのも、嫌いになるのも、その点にかかっているように思いますが、皆さんはいかがですか?
司祭 サムエル 大西 修
(名古屋聖マタイ教会牧師)