『あなたがたに平和があるように』

聖霊降臨の出来事を伝えるヨハネによる福音書には、このような言葉がある。「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。彼らは、本当に恐ろしかった。不安と絶望に打ちのめされていた。ところがその時、驚くべきことが起こる。イエスが弟子たちの真ん中に立ち、こう声をかける。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」。そしてイエスは、「聖霊を受けなさい」と、弟子たちに息を吹きかけられた。「聖霊」とは、主イエスの「息」なのであった。主イエスの息、聖霊を受けた弟子たちは、この瞬間から、生きる力を回復する。希望を取り戻す。あれほどまでにも、不安と絶望の内に震えていた彼らが、死んだようになっていた彼らが、命を回復したのである。そして、弟子たちは、大胆に主イエスをキリストとして証ししてゆく。この力こそが聖霊である。イエスの十字架上での死によって絶えたはずの主イエスの福音は、こうしてよみがえった。聖霊は、打ちのめされた者、絶望の淵にある者、痛み、苦しみにある者、疲れた者に与えられる生きる力である。
聖霊降臨日の福音には、もう一つ非常に大切なことが記されている。それは、イエスが「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」という箇所である。イエスは手とわき腹を見せられた。すなわち、十字架上で釘を打ち抜かれた手とわき腹の傷跡をお見せになった。すぐあとには、トマスがこのイエスのわき腹の傷に直接手を当てて、主を信じる物語が置かれている。イエスは、トマスにこう言われる。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」。トマスはうめくように、振り絞るように言葉を発した。「わたしの主、わたしの神よ」。
トマスに声をかけられたイエスは、栄光のイエスではなかった。復活されたイエスとは、光り輝く天の衣をまとい、金の王冠をかぶったイエスではなかった。トマスと弟子たちの前によみがえられた主とは、手に傷を負い、わき腹から血を流し、荊の冠をかぶらされたままの姿であったのである。おそらくトマスは実際に、その主の傷に、自らの手で触れたのであろう。
主イエス・キリストは、傷を負われたまま、よみがえられた。その傷とはいったい何か。その傷とは、私たちのこの世界、社会にあって、叫びをあげる無数の人々の傷でもある。不当な戦争によって命を奪われた者たちの傷であり、虐げられた人々、病める人々、体の不自由な人々、捨て置かれた人々の痛みである。その無数の痛みと傷を担われたまま、主イエスはよみがえられる。まさに、この事実に、私たちはトマスのように、「わたしの主、わたしの神よ」という、この世で、最も短く、同時に最も完全な信仰告白の言葉を発することができる。私たちは、この「傷」を忘れてはならない。この「傷」を私たちのこの手に感じながら、決して忘れないことこそが、「私たちに平和がある」ことの、主イエスに示された〈必要条件〉なのである。
司祭 アシジのフランシス 西原 廉太
(立教大学教員・岡谷聖バルナバ教会管理牧師)