『平和は米を人々の口に均等に分け合うこと』

8月になると、広島と長崎の原爆、敗戦による終戦、韓国の日本による植民地支配からの解放(光復節)を思い起こします。韓国人として日本に住みながら、平和を考える時に、「平和」とは戦争がない状態、また精神的安定に限定されるべきではなく、「たとえ戦争がなくても人間社会に存在する貧困・不正・差別・抑圧などの状態が存在する限り、それは”平和ならざる状態”(平和の喪失)と捉えるべきとする考え」(前田哲男編著『岩波小辞典 現代の戦争』)に共感します。

私たちはお互いに「主の平和」とあいさつを交わしています。ヘブライ語のシャーローム(shalom)とは、完全、健康、繁栄、安全、そして政治的・精神的忠実を意味し、休戦や人の心の平安を超えて、人々が十分に食べる物を持っている、子どもたちが栄養失調で死ぬことがない、人々に雇用の機会がある、誘拐されたり殺されたりする恐れなしに床に就くことが保障される状態を含みます(ヴァージニア・ファベリア/R.S.スギルタラージャ編『〈第3世界〉神学辞典』)。

ある暑い日、ある人が教会を訪れました。事情を伺うと、北海道から広島まで行くとのことでした。今まで過ごしていた場所を追い出されてしまったのですが、12年間も連絡を取っておらず、電話番号も覚えていないため、お母さんが住む広島まで歩くしかないそうです。しかも、3日間何も食べていないと言うのです。その言葉を聞いた信徒の一人は、冷蔵庫にあるうどんを用意してくれました。私は銭湯代を渡し、もう一人は石鹸とタオルを持ってきてくれました。

北海道から松本まで雨の日は電車に乗ったり、1日40km程歩いたり、ある人からおにぎりをもらって食べる日もあれば、何も食べられない日もある。明日のことが分からない日々が続いて、一人生活をしている母親に連絡する術もなく、もし母親の実家まで歩いて行けたとしても、その先どうなるのかわからない状態なのです。

松本から広島まで550km。私には絶対歩いて行けると思えない距離です。

次の日の礼拝の後、松本の「生存を支える会」の一人に連絡して、彼の事情を聴いてもらいました。次の週に教会に来て、市営住宅に住めるようになったこと、生活保護の審査が通り、職業訓練を受けられるようになったことを嬉しそうに教えてくれました。

韓国では「平和」は「米を人々の口に均等に分け合うこと(韓国平和未来研究所資料集2007)」という考え方があります。教会に集う私たちも、イエス・キリストの体と血であるパンとぶどう酒を分かち合う平和共同体を経験しています。松本聖十字教会も一人との出会いを通して、平和を学んでいます。その人に安心して眠れる場所、今日の糧、そして、明日への安心が与えられていることを共に喜ぶことが出来ます。
金芝河という韓国の民衆神学者の一人は「ご飯は天」という詩を書きました。

ご飯は天なのです。
天を独り占めできないように
ご飯は分かち合って食べるもの
ご飯は天なのです。
天の星をみんなが一緒に見るように
ご飯はみんなが一緒に食べるもの
ご飯を口にすることは
天を体の中に迎え入れること
ご飯は天なのです。
ああ、ご飯は
みんなが分かち合って食べるもの

司祭 フィデス 金 善姫
(松本聖十字教会牧師)

「テレビ『JIN~仁~』を観て」

少し前の日曜日の夜、「仁(じん)」というテレビ番組を観ました。「南方仁(みなかたじん)」という若い医師がタイムスリップして現代から幕末時代に行くという物語です。たまたま観ていたのですが、ある場面で主役の「仁」先生が、「神は乗り越えられる試練しか与えない。」と言うところがありました。あれ、聖書にそんな言葉がなかったかなと思いましたら、コリント一の10章に、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、…」という個所がありました。坂本龍馬も登場しますが、龍馬が暗殺され、落胆している主人公に、「わしゃ、先生と共にいつまでもおるぜよ。」と龍馬が語りかける場面もありました。イエス様が弟子たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われたお言葉と何となく似ているように思いました。

作者は聖書を読んでいるのだろうか、それともクリスチャンなのかなと思い、それから最終回までの数回を観てしまいました。全くのフィクションですが、ひょっとしたらこんなことがありうるのかなと思わせるような面白さがありました。原作は漫画なのですが、原作者がこんなことを言っています。「漫画はフィクションですからウソをつくんですけど、ウソをつく上で、本当のことで調べられることはできるだけ調べてからウソをつきたいですね。よりリアリティを出してウソを本当のように描いて読者を驚かせたいんです。」面白い背景にはそういう努力があるのだと知らされました。

同時に、わたしたちは福音を本当にリアリティをもって語っているのか、また、福音の持つリアリティの中で信仰生活をしているのか考えさせられました。

『虹にまつわるエト・ケテラ』 

7月になりました。今年も折り返し地点を過ぎ、残すところ半年です。梅雨明けはもう少し先のようで、すっきりしない天候が続いています。そんな梅雨の時期ですが、雨上がりに虹を見るチャンスも多いときです。聖書の中で虹は、ノアの洪水物語で最初に登場します。

人を創造したことを後悔した神さまは、この洪水物語で、地上に雨を降らせ、洪水をもたらします。すべての形あるものを洗い流すほどの激しい雨を「雨濯」と言うそうですが、ノアの洪水の時はそんな雨が降り続けたのでしょうか。ノアの箱舟に入った以外の生き物は、洪水によって大地からぬぐい去られます。水が地上からひいた後、神さまはノアと契約を結び、幾ら人間が悪い思いを抱く存在であっても、二度と滅ぼすことはないと言われました。その平和のしるしとして神さまが雲の中に置かれたのが虹なのです。虹はヘブライ語で、ケシェトですが、弓という意味もあります。神さまは、人間を滅ぼすために使った弓を、もう二度と使わないと、雲の中に置かれたのです。空を染める美しい虹に、この神さまの決意が表されているのです。

わたしたちは、一般的に虹は七色だと思っていますが、これは日本を始め、アジア諸国での概念です。厳密には虹はスペクトル色ですから、含まれる色は七色に限らず無限です。蛇足ですが、「虹」という漢字が「虫」偏なのは、昔、中国では虹を見て蛇を連想したからだと言われています。中国では蛇や龍は縁起の良い動物です。

性的少数者・セクシュアルマイノリティも、6色の虹色を自分たちの象徴として用います。それは様々な色が共存する虹は、同性愛者、異性愛者、トランス・ジェンダーに、シス・ジェンダー等、様々なセクシュアリティの人たちが、この地球上で共存していること、「性の多様性」を表し、それら多様な人々の調和を意味しているからです。

また1960年代にイタリアで考案された平和の旗(la bandiera della pace)は、7色の虹の旗で、2003年のイラク戦争開始に前後して世界各地で使われ始め、戦争に反対し、平和を求める意思を表しています。

そのように誰もが、自分らしい色を表現し、自分らしく生きて行くことを互いに認め合うことが出来るのなら、それはいろどりに富んだ素晴らしい、平和な世界が実現するという希望が、虹色には込められているのです。神さまが「良い」と認める世界は、この虹に示される平和な世界です。あらゆるいのちが共存する世界であり、あらゆる人が共存できる社会なのです。

1939年のミュージカル映画「オズの魔法使い」の中で、主人公のドロシー役のジュディ・ガーランドが歌った「虹の彼方に」という歌があります。2001年に全米レコード協会が発表した「20世紀の歌」365曲のうち、堂々の1位を獲得した名曲中の名曲ですが、性的少数者のテーマソング的曲としても、愛され続けています。それは、性的少数者に対して理解が深く、自身もバイセクシュアルであったジュディが、同性愛者のアイコンとして多くの性的少数者から愛されているからなのですが、この「虹の彼方に」の歌詞が、未来への希望を歌っているからでもあります。

今は、多様性を受け入れることが出来ずに、共存できずにいるわたしたちが、いつか互いに認め合うことのできる、平和な虹の向こう側の世界にたどり着くことが出来るように、祈り合って歩んで行きたいと、神さまの約束の虹を仰ぎ見ながら思いました。

司祭 アンブロージア 後藤香織
(名古屋聖ヨハネ教会牧師)

「新たな創造に向かって」

東日本大震災から3カ月が過ぎましたが、まだまだ大きな爪痕が残ったままです。原発問題はあとからあとから隠された事実が明るみに出てきており、一体全体どのような終結に向かうのか全く不透明です。そんな中、管区の震災被災者支援プロジェクトが本格化して来ました。名称が「『いっしょに歩こう!プロジェクト』~日本聖公会東日本大震災被災者支援」と決まりました。このプロジェクトは単なる震災復興支援計画ではなく、支援も含め、日本聖公会としての宣教の新しい創造を目指す活動となるはずです。

思い返してみますと、1891年の濃尾大地震のあと様々な新しい働きが開始されました。被災した人々のため、名古屋にはロビンソン司祭によって幼老院が造られました。また、柳城短大・幼稚園も濃尾地震がきっかけとなって始められたと言ってもいいでしょう。岐阜では岐阜訓盲院(現在の岐阜アソシアと県立岐阜盲学校の前身)も地震のあとに始められたものです。石井十次が日本で最初の孤児院を作ったのも濃尾震災のあとでした。このように大きな災害が起こったあと、そこから新しい働きが必ず生まれてくるのです。災害は災害で終わるのではなく、そこから再創造が始まることを覚えたいと思います。

去る5月25日、退職聖職の林宏三郎司祭が心筋梗塞のため逝去されました。林司祭は直江津聖上智教会を定年退職の後も上田、小布施の教会を助けてくださり、最後まで司祭としての生涯を全うされました。わたしは林司祭の後任として高田降臨教会に赴任したこともあり、いろいろと教えていただきました。先輩聖職が神様に召されていくということは寂しいことです。林司祭の魂の平安をお祈りいたします。

「ウォーラー司祭と東北教区」

去る4月7日、東日本大震災の救援物資を運んで仙台を訪れた時、東北教区のレクイエムに参加させていただく機会がありました。教役者の名前が読み上げられましたが、その中に中部教区にゆかりの深い司祭の名前がありました。J・G・ウォーラー司祭です。ウォーラー司祭が東北教区の福島で働いておられたことはうっすらと記憶していたのですが、東北教区のレクイエムで名前が覚えられていることを改めて知り、嬉しく思いました。来日したウォーラー司祭の最初の任地は福島だったのです。東北教区最初の聖公会宣教師でもありました。
そのウォーラー司祭が長野に来ることになったのは当時の地方部制の変更によるものでした。それまではイギリス聖公会SPGが東北地方の宣教を行っていましたが、アメリカ聖公会がそれを行うようになったのです。カナダ聖公会のウォーラー司祭はSPG系ですので、それを機に福島を去り長野に宣教の場を移しました。福島での伝道は2年足らずでした。長野でのウォーラー司祭の働きは改めてわたしが述べるまでもありません。神様のなさることは大変不思議です。
歴史に”もし”はないと言われますが、もし、ウォーラー司祭がそのまま福島で働いておられたら東北教区はどうなっていたのか、中部教区は、特に長野はどうなっていたのか。わたしは今回仙台を訪問させていただき、東北教区と中部教区との関係というものを改めて考えさせられたような気がしました。一見何のつながりもない教区同士に見えますが、このようにつながっているのです。今回の震災でわたしたちが東北教区を支援するということは、そのようなつながりの延長線上にあるとも言えるのではないでしょうか。

『今、ここ』

自分自身の気持ちからいえば、今回この原稿は新しい学校や職場など新生活を始めた人々へ、神様が後ろから「しっかり」と送り出しているんだということを書こうと思っていました。多くの人々の支えと神様の愛があるんだということを書きたかったのです。厳しい冬を越え、春を迎えて新生活に慣れ始めた人々が不安な中でいろんな人々と出会い、様々な経験を重ねていきます。複雑な社会の中で、どの人も病を抱えるように「閉塞感」を感じながら、なんとか人間性を取り戻そうとします。そのための「つながり」が何なのか、その絆がどこにあるのかを書こうと考えていたときに今回の大震災。
映し出される津波の被害がこんなにも悲惨なものとは思いませんでした。津波が人々や建物、車や田畑を次々と飲み込み押し流していく様子を見るたびに、私はその地震の揺れのようなめまいを何度も感じました。日本中だけでなく、世界中の人々がその恐ろしさを同じ思いで見たことでしょう。今まで築いてきたすべてが理由もなく失われる、その悲惨さは戦争のようです。そして大災害は原発の放射能の恐怖に姿を変え、まるでホロコーストのように人々を生活の場、愛する故郷から追い払います。荒野をさまようユダヤの人々が水を求めて神を試みる場面が旧約聖書にあります。避難を余儀なくされ水を求める人々が、私たちの地面の続くところにいるのです。その苦しさを思いながら聖書を読んでいました。激しく揺れ動いた地面がつながっていたから、ここにいる自分も揺さぶられたのです。その恐怖とともに水を求める苦しさを、心が揺さぶられながらつながっていかなければと思いました。
数々の大災害を経験しながら、私たちは支援やボランティアのあり方、報道のリテラシーなどを学んできました。私も昔読んだ岩波ブックレットの「災害救援文化を創る」―奥尻・島原で―(野田正彰著)という本を読み返しながら、阪神淡路大地震、そして「今」を思いました。これまでに少しずつだけれども、被災者の心のケアを考えながら被災者本人が決めていけるような援助、ボランティアが学んだことを分かち合い、ともに新しい人間関係を考えていくことの大切さを積み重ねてきました。
今回の災害でも、悲しみの中にも心の温かさを感じさせる出来事がありました。人生の中ではどうすることもできないようなことが起こります。でもこのような混迷する世の中だからこそ、「今」をしっかりと生きることが大切なのです。
東北に続いて長野県北部でも震度6強の地震がありました。千曲川沿いのJR飯山線も線路盤が崩れ、多くの住宅が倒壊しました。地震の中心となった長野県栄村には、私がこの夏、結婚式の司式を予定している中学校の先生がいます。被災しながらも復興というビジョンを子ども達の中に一緒に作っていこうとしています。地元のテレビニュースには、小さな村の卒業・入学式においてつらいながらも今を生きようとする人々の姿がありました。
私たちが「今、ここ」に生きることは、未来に生きる人々につながるものです。途切れることない喜びとして未来へつなげてくださる神様によって少しずつ歩き始めましょう。

司祭 マタイ 箭野 直路
(ホテル音羽ノ森・旧軽井沢礼拝堂チャプレン、軽井沢ショー記念礼拝堂協働牧師)

「ひと月のあいだに」

「ともしび」前号の原稿を書いてからひと月が経ちました。その短い間にわたしたちが想像すらしなかった大惨事が起こりました。東日本大震災です。一万人以上の尊い命が奪われました。未だに二万人近くの方々の生死が不明です(4月4日現在)。多くの方々が悲しみの中に置かれています。こういう出来事をどのように理解すべきなのか。ある人は「天罰」という表現をしましたが、もちろんそうではありません。神様は「その独り子をお与えになったほどに、世を愛」しておられます。「み子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことを願っておられます。この世界は神様が創造されたとわたしたちは信じますが、自然の営みはわたしたち人間の想像をはるかに超えているということも知らなければならないでしょう。この世界にはまだまだわたしたちが知り得ないことが沢山あるのです。ですから自然に対する備えもしなければならないのです。
悲しみの中にも復興が始まっています。人間の優しさや思いやりや回復力が復興を支えています。その姿こそ神に似せて造られた人間の姿と言えるでしょう。わたしたちもできるだけの支援をしていきたいと思います。パウロは、「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」(二コリ8・12)と言っています。わたしたちの持てるもので進んで支援をしていきましょう。
前号の最後に高澤登司祭のためにお祈りくださいとお願いしました。高澤司祭は3月27日逝去されました。わたしの名親でもありました。少しユニークな司祭ではありましたが、いなくなってしまいますと寂しい思いです。魂の平安をお祈りください。

「人事異動の大変さ」

4月1日付けで人事異動が行われました。4名の司祭が異動し、1人の聖職候補生が新しい任務につきました。それぞれ聖霊の導きのもと、新しい働きに邁進されますよう心より願っています。異動は教役者にとりましても教会にとりましても大変さが伴います。それまでの慣れ親しんだ関係や環境から全く新しいそれへと入って行かなければならないわけですから、それなりの体力と気力が求められます。異動を8回経験した者の実感でもあります。

しかし、実は、その大変さは教会が成長するためのステップでもあることをご理解いただきたいと思っています。見方によっては何もかも一からのスタートと言えないこともありません。また、教役者、信徒双方にとって新たに関係を作っていくということは時間の浪費のようにも思えることもあるでしょう。礼拝のやり方や教会の運営方法がどこへ行っても同じようにできれば、時間はかからないかもしれません。しかし、異動に伴う新たな教会形成は決して時間の浪費ではありません。教会にとって必要な時間なのです。その教会が更なる高みへと成長していくためのステップなのです。そこで消費される体力と気力は、必ず教会の成長へとつながっていくものなのです。むしろ、その大変さを省略してしまうことのほうが恐ろしい結果を招くのです。

信徒と教役者がお互いに理解し合い、信頼し合う関係作りは、おのずと教会が力強く宣教へと向かって行くための原動力となっていきます。ですから異動に伴う大変さを大変さと思わず、むしろ必要なこととして積極的に受け止めていただければ幸いに思います。

高澤登司祭が2月下旬から新生病院に入院中です。皆様のお祈りの内にお覚えください。

『私の祈りを紹介します。』 

今年に入って、私は最初の祈り(観想祈祷)として「私自身の存在」について神様に尋ねました。

「主よ、私の名前は何でしょうか」と。

「内容(心)が分からない者」という答えが聞こえてきました。

私はまた聴きました。

「主よ、こんなに単純な私がなぜ分からないのでしょうか」

主は答えてくださいました。

「しかし、希望を持っている者、期待される者。私はお前と共にこの新年を開こう」

再び聴きました。

「新年を開くとは何でしょうか」

主の答えは「呼吸、生きること」でした。

その答えを聞いて、私はすぐにこういう内容で新年の最初の祈りを捧げました。

「新年を開く方は主ですけれども、私をあなたの御働きに参加させてください。そして私の新年に主が参加して頂き私の人生を開いてください」

意図的に何かを考えた祈りではなく瞬間的に出てきたことだったので、本当に不思議に思いました。

ところが一つ、「あなたは内容が分からない者」という言葉で気持ちがすっきりしなくて、今自分は主にさえも何か隠そうとしているのかなという思いで悲しくなりました。そんな気持ちのまま翌日を迎えました。ヨセフとマリアが赤ん坊のイエス様を連れてナザレのほうに逃げたという聖書の部分を読みました。ナザレという単語にふれたとき、ほんの1秒にもならない短い時間に、この「ナザレ」は「内容が分からない者」と同じことを示しているということに気づかされました。メシアとはふさわしくなさそうな田舎のナザレ、しかし赤ん坊のイエス様がそこに行かれたことによって希望があり期待される所となった、そこが私自身の心であるということを知らせてくださったわけであります。

その後、もう既に1ヶ月半が経ちました。その間、私の祈りは次のように進んできました。創世記25章19~34節とマルコによる福音書9章30~41節を読んで黙想していた時、感じたことがあります。創世記に、リベカがお腹の双子が喧嘩していたため神様の御声を聴こうとして(祈るため)出かけたと記されています。とにかく、リベカの二人の息子たちは仲が良くなくて、兄は弟に騙されてパンとレンズ豆の煮物で長子の権利を譲ってしまう過ちを起こしました。軽々しく扱った長子の権利とはいったい何を意味しているのか気になりましたが、そのまま継続してマルコによる福音書を読みました。

弟子たちはイエス様の話に対して議論をしましたが、怖くてイエス様に聴こうとしませんでした。イエス様は一人の子どもを彼らの真ん中に立たせてこうおっしゃいました。

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マコ9・37)

私は、長子の権利ということは、とても小さな者を受け入れることと関係があるということに気づきました。

一緒に祈る仲間の人からこういう話を聞きました。「マルコによる福音書に、イエスの弟子でもないのにイエスの御名で奇跡を行う人たちについての話が出ていますが、考えてみれば彼らは力を持って働いたことで弟子たちは逆に弱い者だったという感じを受けます」と。

その時、主は私にこうおっしゃいました。

「弱さをあなたの真ん中に置きなさい、弱いことを嬉しく思いなさい。私が助ける」と。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(長野聖救主教会牧師)

『恐れることはない』

3月11日、大震災が起きた。地震が起こった時、私は大学にいた。書類は倒れライトは大きく揺れ、テレビをつけるとそこには大きな津波が人々を飲み込もうとしていた。都内の交通機関も麻痺し立教のキャンパスを開放した。5千人近い人々と、私も大学で夜を明かした。翌朝には、すでに言語を絶する状況が明らかになりつつあった。詩篇詩人の、苦難を前にして、舌が上あごに張りついて、神に祈ることすらできないという嘆きそのものの経験であった。

ある女性の証言が耳から離れない。大津波から逃げようと高台に向かっている時、後ろを振り返ると、数人の小学生たちが泣き叫びながら必死に走っていた。しかし、次に振り返った時には、もうその子たちの姿は消えていた、という。ある男の子は、行方不明になった両親、兄妹の名前を段ボールに書いて避難所をまわっていた。この現実を前にして、私たちは茫然とするばかりである。

そして、地震と津波に加えて、さらなる恐怖が襲うことになる。福島第一原発の原子炉群の爆発、制御不能と高濃度放射能拡散である。学者たちは「人体に影響がないレベル」と言うが、私が工学部時代に学んだことは、それは急性障害が出るか否かだけで、人体にまったく影響がない放射能などないということだ。実は4年前に、福島原発は、チリ級津波が発生した際には冷却材喪失による過酷事故の可能性があると国会でも指摘されていた。そういう意味では、この原発事故はまったくの人災である。強烈な放射線が降り注ぐ中、身を挺して鎮圧作業に当たった人々を覚えたい。彼らの家族はどんな思いでこの作業を見守っていたであろうか。

私のもとにも、聖公会につらなる世界中の姉妹兄弟から祈りと励ましのメッセージが続々と送られてきた。カンタベリー大主教チャプレンのジョナサン・グッドオール司祭、アングリカン・コミュニオン・オフィス幹事のテリー・ロビンソン司祭によると、地震発生から30時間以内で、世界各地から数百通に及ぶ激励と祈りのメールが届けられたという。東北教区、北関東教区の信徒、教役者をはじめ、被災されたすべての人々は、今も極度の苦難と不安の内にある。被災者のみならず、私たちの誰しもが、言い知れぬ恐れを抱いている。けれども、私たちは独りではない。世界中の仲間たちがこの苦しみに共感して、自らの腸を痛め、叫びのような祈りで、私たちの手を握って離さないのだ。

今こそ、私たちの信仰が問われている。震えるマリアたちに、復活された主イエスは「恐れることはない」と力を与えられたではないか。絶望を永遠なる命へと変えられた復活の主イエス・キリストの、神から与えられた名は<インマヌエル>。この名は「主は私たちと共におられる」という意味だ。

被災地の瓦礫の中を、両手に水の入った大きな容器を持ちながら、歯を食いしばって歩く少年がいた。彼は、瓦礫の絶望の中を、それでも<いのち>という希望に向かって歩み出している。彼と共に、被災されたすべての人々と共に、そして、すべて私たち一人ひとりと共に、復活の主はあのエマオへと向かう道のように、私たちの隣を歩き、私たちの心を熱くしてくださる。

今年の復活日は特別な主日となる。それは、瓦礫の中に生え出でる小さな新芽のように、私たちが希望への新たな一歩を踏み出すための大切な時なのである。

司祭 アシジのフランシス 西原 廉太
(岡谷聖バルナバ教会 管理牧師・3月16日記)