「北中央教区を訪問して」

2月下旬、宣教協働関係にあるフィリピン聖公会北中央教区を訪問して来ました。昨年の教区成立100周年にはパチャオ主教はじめ2名の方々が中部教区を訪問してくださいましたのでその返礼の意味もあり、また、北中央教区が今年創立25年目を迎えたことへのお祝いの意味もありました。

北中央教区はマニラのある中央教区から1989年に独立して教区になりました。発足当時、教会数は小さなミッション・ステーションも含めて65あり、信徒数は約24000人でした。ところが、発足直後の1990年には主教座聖堂があるバギオを中心として大地震が発生し、教区は大きな被害を受けました。大聖堂は結局、使用不可能になり改築しなければならなくなりました。更に追い打ちをかけるように、1991年にはピナツボ火山が噴火し、教区の南西に位置する教会が被害を受けたのでした。

そのような大災害を乗り越えてパチャオ主教を中心に教区の再建・自立・自給が進められてきました。その結果、2011年末には教会数116(ミッション・ステーションも含みますが)、信徒数約32000人に成長したのです。自給教会は決して多くはありませんが宣教意欲は大きいものがあります。

フィリピンはキリスト教国ですので日本と単純に比較することは出来ませんが、常に前進しようとする姿勢には大いに刺激を受けました。日本聖公会は2012年から2022年までの10年間を「宣教・牧会の10年」と位置づけています。秋には中部教区でもそのための研修会が開催されます。宣教・牧会を担うのは誰か他の人ではなくわたしたち一人一人です。そのことをもう一度思い返し、更なる宣教・牧会活動へと前進して行きましょう。

『2つの顔を持つ男 』

執事に按手されてから、約4ヶ月余の月日が流れようとしている。教会の周りにある木々もすっかり葉も落ち、積もった雪は融けることもなく、地面のあちこちに天然のスケート場が出来ている。

そんな季節の移ろいの中、自分の名刺を作ることとなった。指導司祭の土井宏純司祭からの提案である。軽井沢では教会以外にも、ミッションを通して町の行政の方など、様々な方と関わられた経験をされているから仰って下さったのだと思う。今まで自分は、名刺という物を持ったことがなかった。というよりも、持つ必要性が無かったと言っても過言ではない。そこで、名刺を作るのであれば、特任聖職である自分は、名刺を2枚持つよりも、両面印刷の名刺を作ろうという思いに至ったのである。つまり、片面は「日本聖公会中部教区・軽井沢ショー記念礼拝堂執事」であり、一方は職場の「東京都立多摩総合医療センター検査科」といった具合である。この名刺が出来上がった時には、何だか嬉しく思ったのと同時に、身の引き締まる思いを抱いたのである。つまり、この名刺は両面とも表であると実感したからである。

私には、心に残る医師の一人に、逆境の中で、富山県のイタイイタイ病の原因を解明・患者救済に立ち向かった地元開業医でもある萩野昇がいる。萩野は、イタイイタイ病が某企業からの廃水が原因であると発表するも、田舎医師の売名行為として医学界から非難される。しかし、アメリカで萩野の学説が正しいと証明されると、イタイイタイ病は日本で初めての公害病として認定されることになる。その萩野は、参議院産業公害特別委員会で参考人として、「私は単なる田舎の開業医でございます。日本の基幹産業を相手に戦おうというような気持ちは微塵もございません。ただ、一人の医師として患者が可哀相なばかりに、この病気の研究を積み重ねてきただけで御座います。痛い、痛い、先生なんとかして下さい、泣き叫びながら死んでいった中年の農婦たち、全身の激痛のため診察も出来ない老女の絶叫、主婦が寝込んだために起きた家庭の悲劇、あの人たちに何の罪があるのでしょう…、私はただ患者が気の毒だと思います。私はただ患者を助けるのが医師の宿命と考え、純粋な立場で、謙虚な気持ちで研究を積み重ねただけです。」と証言する。患者の苦しみを知り、患者を第一に考え医師としての信念を貫いた生き方は、社会的に弱い立場におかれた方に捧げた歩みでもある。

被献日の特祷の中に、「わたしたちも主にあってみ前に献げられ」とある。それはイエス様が神様に献げられたように、私達も神様に献げ、イエス様の御跡に従って歩むことが出来るようにして下さい、という思いが籠められているのではないだろうか。イエス様は社会的に端に追いやられた方と共に歩んでこられた。自分も、その後ろで色んな方に仕える働きが出来ますように、また苦しんでいる方の中にイエス様を見出せる力を与えて下さいと祈り続けたいと思う。2つの顔ではあるが、仕えるという働きにおいては、1つなのかもしれない。

執事 フランシス 江夏 一彰
(軽井沢ショー記念礼拝堂勤務)

「カナダからの手紙」

昨年10月、教区成立100周年でフレッド・ヒルツ大主教に同行されたポール・フィーリー大執事からその後お手紙をいただき、今回の訪問についての思いを教区の皆様にも伝えてほしいとのことですので短く、意訳でその内容をお伝えします。

今回の訪問は自分の生涯において大変感動的であり、こんなにも真実な愛に満ちた恵み深いもてなしを受けたことはない。大主教と私は日本の教会の様々な面を見ることができた―大聖堂での力強い100周年礼拝、津波の被害地での幼稚園児の顔、各教会及び病院の様子、自動車での移動、美しい自然、日本の伝統的・近代的なもの等々。
たくさんおみやげをいただいたが―それは自分にとって宝物である―、それ以上に日本のキリストにある兄弟姉妹が行いと祈りによって生活の中で福音を証ししていることが自分の心の中に忘れることのない思い出となっている。カナダに戻ってから日本での「物語」を語り始めている。先日の聖餐式の説教で、震災の時園児を救うために命を落とした幼稚園教諭の中曽順子さん(磯山聖ヨハネ教会信徒)のことを語った。会衆は身じろぎ一つしないで説教に聞き入り、涙を流していた。
この訪問が自分の人生とキリスト者としての旅においてどれだけ意義深いものであったかは言葉では言い表せない。自らの信仰を語ってくれた人々の喜びの顔は希望と愛の模範を私に与えてくれた。カナダ人は日本に福音を伝えた宣教師であったが、今回は皆さんが私たちに神の愛を教えてくれた宣教師であった。ヘンリー・ナウエンは「イエスを愛しなさい。そして、イエスが愛したように愛しなさい」と書いているが、皆さんがこの言葉通りのことをしてくれた。“非常に多くの愛とおもてなしをありがとうございました”(日本語)。

『クリスマス・カロル 』

幼年期、上田の聖ミカエル保育園で過ごしました。12月に入ると、毎年、チャールズ・ディケンズの「クリスマス・カロル」(クリスマス賛歌)を温もりのある薪ストーブのそばで、林(旧姓花里)梅子先生から読み聞かされました。はな垂れ小僧、ほっぺの赤い女の子達は瞳を輝かし聞き入りました。先生の熱い思いが充分、伝わってきました。

ディケンズのこの作品は、クリスマス・イブからクリスマスにかけての2日間を舞台にしています。主人公は、シェイクスピアの「ベニスの商人」の金貸しシャイロックのような人物で、ケチで金を貯めることしか考えないスクルージと言う老人です。

クリスマス・イブ、スクルージのたった一人の甥が、ケチで結婚もせず、一人で暮らしている伯父を思いクリスマスの夕食にと誘いに来ます。「クリスマスおめでとう、伯父さん」と明るく元気な声がしました。スクルージは言った。「何がクリスマスおめでとうだ。何の権利があってお前がめでたがるのかってことよ。貧乏人のくせに」。スクルージにとっては金があること以外にめでたいことはなく、クリスマスなぞは無関係なのです。そして、「お前にゃいいクリスマスだろうよ。今までにだって相当役にたったことなんだろうからな」と。スクルージと甥とのこの二、三のやりとりの後にディケンズは甥にこう言わせています。「僕はクリスマスがめぐってくるごとに―その名前といわれのありがたさは別としても、……もっとも、それを別にして考えられるかどうかはわからないけれど―とにかくクリスマスはめでたいと思うんですよ。親切な気持ちになって人を赦してやり、情け深くなる楽しい時節ですよ。ですからね、伯父さん、僕はクリスマスで金貨や銀貨の1枚だって儲けたわけじゃありませんが、やっぱり僕のためにはクリスマスは功徳があったと思いますし、これから後も功徳はあると思いますね。そこで僕は神様のお恵みがクリスマスの上に絶えないようにと言いますよ」。その後、スクルージは独りぼっちの冷たい家に帰り、その晩、夢を見ます。その夢の中に4人の幽霊が登場し、3人の幽霊がスクルージを過去、現在、未来へと連れて行きます。第1の夢は、若い時代のこと、彼の過去のクリスマス、そして忘れていた自分の過去の思い出を、反省と後悔と共に夢見ます。次いで楽しい笑いに満ちた現在のクリスマス。そして第3の夢、未来のクリスマスは、スクルージの死と、一切を失う自分の姿を見て彼は恐怖に戦きます。一夜明けて、夢であったことを知ったスクルージは、喜びと感謝で一杯でした。彼は一夜にして変わりました。「私は心からクリスマスを尊び、一年中その気持ちで過ごすようにいたすつもりです。私は過去、現在、未来の教えの中に生きます。この3人の幽霊様がたは、私の心の中で私をはげまして下さいます」と必死に誓い祈ります。そして、クリスマスの日、皆に心からのクリスマスの挨拶をし、喜びをもって善意を示します。

一晩で人が変わることはあり得るでしょうか。スクルージの変化、それは、人は心の深みに達する経験によって大きく変わリ得るものです。クリスマス、それはあの甥が言ったように、「親切な気持ちになって人を赦してやり、情け深くなる楽しい時節ですよ」です。自分たちより困っている人達のことを親身に考えようとする時、普段は忙しくて他人のことなどかまっていられなくても、365日の中の1日、このクリスマスの時だけでも、他の人のことを思おうとする日なのです。

司祭 テモテ 島田 公博

「宣教協議会を終えて…新たな始まり」

去る9月14日~17日、浜松で「2012年日本聖公会宣教協議会」が開催されました。既に”ともしび”10月号に協議会の概要が掲載されておりますのでご覧いただいたことと思います。

この協議会は各教区の主教や常置委員、執行機関の長や女性、青年をはじめとして万遍なく参加者が集いました。大韓聖公会からの参加もありました。そういう意味では日本聖公会全体を網羅した協議会であったと言っていいでしょう。そして、この度、協議会からの提言である「日本聖公会〈宣教・牧会の十年〉提言」が出されました。管区事務所から皆様のもとに届いていることと思います。植松誠首座主教のお願い文も添えられています。

この提言は、二つの講演、東日本大震災の現場及び支援活動からの報告、そしてそれらを受けて話し合われた各グループ討議を最終的にまとめたもので、これから十年の日本聖公会の宣教・牧会の方向を指し示すものです。

この提言を受け、各教区・教会・個人・関連施設など、それぞれの場でそれぞれの仕方で宣教・牧会が更に推進されることが期待されています。中部教区でもこの提言を受け、各教会と連携しつつ、主教書簡などともすり合わせながら教区としての宣教・牧会の方向を改めて定め直していきたいと思います。

そのためにも皆様には、まずじっくりとこの提言をお読みいただき、教区に、また自分の教会に、そして自分の周りにどのようにこの提言を生かしていけるのかをイメージしていただきたいと思います。宣教・牧会の担い手はわたしたち、信徒・教役者”一人一人”です。この”わたし”が宣教者・牧会者であることを覚え、教区のこれからの十年を見据えながら前に進みたいと願っています。

「地の塩として」

今回、100周年のためにおいでくださったヒルツ大主教とフィーリー大執事は、共に日本と日本の教会は全くの初めてということで、すべてが初体験であり、驚きの連続だったようです。わたしは幸いなことにかなりの時間をお二人と過ごすことができました。お二人は大変きさくで、時々、自分がカナダ聖公会の”首座主教”と一緒にいるのだということを忘れるくらいでした。皆様に申し訳ないくらい、大変貴重で素晴しい時間でした。

感謝礼拝での説教、また、祝会でのスピーチを通してもそうでしたが、ヒルツ大主教はわたしたちを励まし、力づけてくださいました。わたしは共に時間を過ごさせていただいたことにより、そのような公式のスピーチ以外でも大主教と大執事の日本の教会に対する思いに接することができました。

とにかく、お二人は日本の教会の信仰者の誠実な姿に驚きと感銘を受けておられました。震災被災地訪問で、また、教区内の各教会・施設訪問で多くの人々に出会い、その信仰の姿に心を動かされたのです。建物も素晴しいが、それ以上に人々に出会い、その信仰に触れたことが大きな収穫であったと言っておられました。日本のクリスチャンが少数でありながら一生懸命に信仰している姿をしっかりと受けとめてくださったのです。今回の訪問は自分たちの魂にとって大きな養いになったとまで言っておられました。大変嬉しいことです。

ヒルツ大主教は日本のクリスチャンは「地の塩」であると言っておられました。「地の塩」とは少しこそばゆい思いがしますが、しかし、「地の塩」であることを自覚し、地の塩としての役割を果たしていくことこそが、教会のあるべき姿であることを改めて教えられました。

「200年に向かって」

去る10月8日の教区成立100周年記念感謝礼拝をたくさんの皆様と共にお捧げすることができまして本当に感謝でした。ヒルツ大主教の説教も大変力強いもので、わたしたち中部教区を大いに励まし、力づけてくださいました。改めて感謝いたします。次号のともしびに説教が掲載されることと思いますが、礼拝に参加できなかった皆様にも是非読んでいただきたいと思います。

わたしたちは幸運です。なぜならば100年に一度の礼拝をお捧げすることができたからです。”何だ、そんなことか”と思われるかもしれませんが、100年目に当たるこの年に信仰者として生かされているということは大変意味のあることです。たまたまそうなのではなく、そこに神様のご意思があると受けとめなければなりません。

わたしたちはなぜ丁度この100年目にここにいるのでしょうか。それはわたしたちがこの中部教区を次の100年に向けて整えて送っていく使命を神様からいただいているからだとわたしは考えます。わたしたちの先輩の信仰者たちが過去100年の中部教区を作ってくださいました。今度はわたしたちが次の100年を作り上げるのです。その基盤を作るのです。それが100年と200年の間に立っているわたしたちの務めなのです。

イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われます。教役者だけが働き手ではありません。わたしたち一人ひとりが働き手であり、宣教の担い手なのです。もっともっとそのことを自覚して101年目のスタートを切りましょう。

200周年の時、100周年の時あの人たちががんばったから今の中部教区があるのだと言ってもらえたらどんなにかすばらしいことでしょう。

『主の平和』 

「平和」本当によく耳にし、また今まさに必要とされる言葉です。

新約聖書で、平和はイエス・キリストの姿であり、イエスは平和の盾であると語られてきました。

マタイによる福音書10章34~36節では、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」と述べられています。

わたしたちが聖書の信仰に従うなら、これが平和だと思えるのでしょうか? このような平和が、アメリカ、イギリス、フィリピンなどのキリスト教国によって支持されてきたので、世界中に戦争があるのでしょうか?

正しい理解のために、10章全体をみていく必要があります。まず、イエスの平和のメッセージは、その宣教活動に示されています。イエスはガリラヤの人々が、平和に過ごし、愛しあい、ゆるしあい、神の国を述べ伝えるようにと、癒しの宣教活動をされました。

10章1~33節に、このことを理解する鍵があります。

イエスは、その眼差しが「イスラエルの家の失われた羊」(6節)まで届くように、12人の弟子たちを派遣されました。イスラエルの家の失われた羊とは、当時の神殿の指導者たちを筆頭に、ユダヤの人々が神への信頼を失っていることを示しています。民衆の中の神の人、イエスを理解できずに、かたくなになっていたのです。ですから、イエスは弟子たちに、人々の中で敵に出会うであろうと警告するのです。

さらに、弟子たちの平和を携えた訪問をも、拒む人があるだろうと述べられ(12~14節)、迫害による苦難も示されます。それ故、イスラエルの民は分裂を余儀なくされるのです。

「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(32~33節)

この32~33節に続き、34~36節の家族の分裂が語られます。この言葉は、当時のユダヤ人に向けて語られているのです。

しかし、ユダヤ人でないからといって、分裂の対象でないとは言えません。わたしたちも対象なのです。なぜなら、キリストによって、異邦人すなわち、わたしたちもその福音を受けるものとして認められたからです。

わたしたちは、キリストを信じる神の民ですが、家族の間で、友人、親族、そして教会の中でさえ、分裂を経験するのです。分裂は不調和をもたらします。しかし、わたしたちが真理に目覚めれば、平和を取り戻すことができます。

ヨハネによる福音書14章6節で、主イエスは語られます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」イエスに従い、イエスを信じることが、世界に平和をもたらす道です。主イエスは、人々に平和、愛、癒し、奉仕、ゆるしをもたらすために、わたしたちを派遣されるのです。わたしたちが携えた平和を拒み、迫害する人もあるかも知れません。そうであっても、わたしたちは教会の業として、主イエス・キリストの宣教の業を、絶え間なく続けていくのです。

わたしたちの心に、思いに、力に、主イエス・キリストの平和がありますように。

執事 山下グレン
(可児伝道所)

「東日本大震災とアンパンマン」

東日本大震災のあと、漫画のアンパンマンのテーマ曲が被災地の人々に元気を与えています。「なんのためにうまれて なにをしていきるのかこたえられないなんて いやだ」というテーマ曲は漫画の主題歌としては少し難しいのではとも感じましたが、親しみやすいメロディーと考えさせる詩とがマッチして子どもにも大人にも元気を与えてくれているのだと思います。

そんなことを考えていましたら、先日、N司祭から「(アンパンマンの作者の)やなせたかしは聖公会ですよ」と教えられました。びっくりしましたが、アンパンマンには何かキリスト教的なメッセージが含まれているような気もしていましたので、胸につかえていたものが取れたような気がしました。

先日の新聞に東日本大震災関連でやなせたかしさんの話が載っていました。アンパンマンはもともと大人向けの物語として書かれ、その後子ども向けの絵本になったそうです。当初、子どもには難解すぎると言われたり、アンパンマンが自分の顔を人に食べさせるのは残酷だという抗議もあったようです。しかし、子どもたちはそういう大人の心配をよそにアンパンマンのファンになっていったのでした。

アンパンマンはイエス様を模しているとも言われます。確かに、自分の体の一部を食べさせるということは、イエス様の「わたしの体を食べ、わたしの血を飲む」(ヨハネ6・56)というお言葉に通じるものがあります。自分の顔を食べさせてしまったアンパンマンはふらふらになるのですが、『ジャムおじさん』が新しい顔を作ってくれて復活します。ジャムおじさんはさしずめ神様といったところでしょうか。アンパンマンがこれからも被災者の皆さんに力を与えてくれますように。

『神さまの必要』

47歳のときにそれまでのサラリーマン生活に終止符を打ち、牧師への道を歩み始めました。3年間、ウイリアムス神学館で学びましたが、勉強したからといって急に信仰深くなれるわけではありません。神学生としての3年間の生活の中で与えられたことは、自分の頑張りには限界があるという気付きです。もっとも限界まで頑張ったかどうかは疑問ですが。傍目には同じように頑張っているように見えたとしても、その頑張りが、神さまにゆだねた頑張りなのか神不在の頑張りなのかで、大きく違います。自分中心、自分を過信しての頑張りは疲れます。次第に息切れしてきて、もうだめだと倒れかけたときに、神さまからの静かな声に気付かされます。あれから14年…。

牧師は神さまから特別な恵みをいただいている、と思っています。それは何かというと、苦しみを伴った恵みであり、イエスさまの御苦しみに思いを馳せさせる恵みです。イエスさまは福音を告げ知らせるために、天の父によって地上の世界に遣わされました。イエスさまの福音とは、神はすべての人を愛しておられる、ということでした。たとえ律法(に付随する)戒律が守れなくても、「義人」でなくても、すべての人を神は必要としておられる、愛する対象として。御子イエスさまのまなざし、イエスさまのより多くの関心は「罪人」「病人」に向けられました。苦しみ悩む人びとに、その人間性の回復を告げられました。天の父の御心を地上に於いて具体的に表された御子イエスさまの言動は、当時の宗教的政治的指導者であるファリサイ派の人びと、律法学者、最高法院の議員たちにとっては許し難い、反社会的行為と受け取られました。

「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(マルコ3・6)

実にイエスさまの地上の生涯は、ご自分に向けられた激しい憎しみとの戦いでもありました。誤った律法主義、人間が功績を積むことによって「義人」とされるという考え方は、「罪人」を生み出します。それは「赦し」とは正反対の「裁き」です。赦しは人を生かし、裁きは人を殺します。イエスさまは繰り返し人を裁くなと語り、ひたすら「罪人」を赦されました。「赦し」の行き着くところが十字架であり、愛の勝利である復活でありました。

もう一つ牧師の特別な恵みに「説教」があります。何年経験を積んでも説教を作るのはやはり大変です。苦しみ悩み求め続けて日曜日の早朝、ようやくできあがることがしばしばです。しかも努力と結果は結び付きません。でもこの説教を作るプロセスをとおして大きな恵みを与えられています。聖書熟読によって福音と向き合わされ、イエスさまへの憧れはますます強くなってきました。信仰の道は終わりがありません。命召されるまで迷って行ったり来たりのわたしでしょう。さて、神さまからの静かな声は
「大丈夫だよ、わたしはおまえを愛している。頑張っていようがいまいが、ありのままのおまえをわたしはとてもいとおしく思っている。だから力を抜いて、わたしのほうを向きなさい。わたしの愛を受け入れなさい。わたしにとって今のままのおまえが必要なのだ。」

司祭 イサク 伊藤 幸雄
(高田降臨教会/直江津聖上智教会牧師)