『加齢の恵み』

私は1月が誕生月なので、新年早々50歳を迎えようとしている。周りからは「ついに大台だね」とか「中年真っ盛り」などとからかわれているが、意外にも加齢を楽しんでいる自分がいることに気付かされる。30歳や40歳に達したときは「もうそんな歳になってしまったか」とネガティブな感情にとらわれたものだが、今回は不思議と素直にその事実を受け入れている。ここ数年来、老眼鏡が必要になったり、気持ちに体力が追い付いてこなくなったという身体的衰えも一因と言えるが、それ以上に精神面の変化が大きいように感じている。

私は昔から「お前は八方美人だ」と批判されることが多い。以前はその都度反論していたが、最近では自分も納得するようになった。私の意識の根底には「誰からも嫌われたくない」「良い評判を得たい」といった他人の目を必要以上に気にする心理があるように思う。そのような自分と決別したいと願ってはいるのだが、おそらく自分という存在に根本的に自信が持てないのだろう。ところが、特に40代後半頃から経験してきた仕事や子育ての困難さの中で、あるいは教会内外や被災された方々との様々な出会いを通して、自分の無力さや弱さと共に、自分の中にある驕り、高ぶり、偽善というものをイヤというほど痛感し、本来の小心な自分、大した人間ではないという自分の存在を徐々にではあるが受容できるようになった。極端な言い方をすれば「虚栄心からの解放」と言えるかもしれない。勿論完全に解放されたわけではないが、肩の力が抜けて気持ちが楽になり、以前のように人の目や評価をあまり気にしなくなったように思う。

このような精神面の変化を日頃からお世話になっている方に話したところ、「それは歳をとったということだよ。悪い歳のとり方じゃないと思うけどね…」という言葉が返ってきた。お酒の席ではあったが、何かホッとするのと同時に、歳を重ねるというのは積極的な意味があるのだと改めて気付かされた。考えてみれば、聖書においても長寿は基本的に神様の祝福のしるしと理解されている。むやみに加齢を美化するつもりはないが、それでも歳を重ねることは決して悲観することではなく、むしろ恵みであり人間として成熟することと言える。

そこで思うのだが、私たちの多くは社会でも教会でも、これまで「(少子)高齢化」という言葉を危機意識の中で、マイナスイメージとしてばかり使用してはこなかっただろうか。もしかしたらそれは根本的に間違った認識で、見方を変えれば高齢化は歓迎すべき現象なのかもしれない。

人生の先輩方には「まだ50歳の青二才が」と言われそうだが、教会の衰退が叫ばれる昨今、それを打開する最大のヒントは、高齢化する状況を危機としてではなく、この時代に神様から与えられた恵みとして喜んで受けとめていくことの中に隠されているのではないかと、確信めいたものを感じ始めている。

「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザ46・4)

司祭 テモテ 土井宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)