『「ハミルトン先生」』 

夏、 アカシヤの木の葉が繁り、 ほのかに甘い香りを漂わせ、 白い花が咲く頃、 上田の教会に在籍した時代を思い出す。 このアカシヤの木は、 戦後、 ある高校生が植えたものである。
聖ミカエル保育園舎のある一画に、 かつて、 フローレンス・ハミルトン先生が住んでおられた。 品位のあるカナダの婦人宣教師で、 戦前松本で、 そして、 戦時中カナダに帰国され、 戦後来日され、 上田でお働きになった。 婦人達、 保育園の教師達、 子供達等に多くの事を教えてくださった。 当時、 毎週水曜日、 先生のお宅に婦人達が集まり、 保育園児の着るエプロン等を製作し、 その果実を教会に献金していた。 聖餐式では、 祭壇に向かって右最後列左が先生の指定席で、 常に全体を見渡し、 礼拝中、 不規則な事があれば、 式後注意された。 礼拝に関しては、 主任司祭は、 ほとんど沈黙していたように思う。 子供心に邦人司祭は、 カナダ人宣教師にまだ頭が上がらないのかと思った。 この事については、 後、 長野の教会に移り、 生前のウォーラー司祭と親交のあった方々との話の中から、 その謎が解けてきた。
50・60年代、 聖餐式のオルガニストは、 少年・少女が担当していた。 その指導も先生がしておられた。 どんなに上手に弾けても、 一流の音楽大学を卒業しても、 先生の指導を受けなければ、 オルガニストになれなかった。 それは、 オルガニストの奏でる音が、 会衆・式全体に微妙に影響するため、 その任には、 純真でニュートラルな少年・少女が適任であったのであろう。
草野球、 魚取りに興じていた小学校高学年の頃、 ハミルトン先生からオルガンを教えて頂くはめになった。 母は大変喜んだが、 少年は嬉しくなかった。 週1回、 先生のお宅で指導を受けた。 居間に伯父さんであり、 どの教会にもある中部教区初代主教ハミルトン師父の写真があった。 同主教が就任された経緯を練習の合間に聞かされた。 先生自身、 同主教の影響を受け来日されたことを話された。 神学校で勉強し、 日本語を習得する苦労話を聞かされた。 流暢な日本語で、 少年に理解できるように話された。 「イエス様にお会いし、 お話しするために聖餐式に出るんです。」 少年には何か感じるところがあった。 そして、 最後に 「聖餐式では、 信仰がなければオルガンは弾けません。」 で終わるのが常であったが、 何のことかわからなかった。
ある秋の土曜日、 祖母から日曜日祭壇に飾る花を教会へ届けるように頼まれ、 自転車で届けた。 すると聖堂からオルガンの音が響いてきた。 そっとのぞいてみると、 ハミルトン先生が弾いておられた。 決して上手な奏法とは思えなかったが、 少年の心の旋律に感動を覚えた。 太平洋の荒波を1ヶ月以上、 命を賭けて渡り、 遠い異国の地で、 イエス様の口・手・足となり、 神様と人々に仕え、 また母国カナダから送られてきた数々の物資を分け与えてくださった行為。 その人生、 生きざまがオルガンの音に投影されていると思った。 練習不熱心な少年は、 先生の期待に反し、 オルガニストになることはなかった。 申し訳ないことをしたと思っている。 その数年後、 先生は、 カナダに帰国された。
さて、 新しい聖歌集が用いられてから1年が過ぎた。 この聖歌集の主要目的の一つは聖餐式を豊かにすることにある。 日々の生活の中で、 神様を仰ぎ見、 その御心を行う心を持って、 聖餐式の中で聖歌を歌う時、 実り豊かな音、 声を響かせることができると思う。

司祭 テモテ 島田公博
(飯山復活教会勤務)

『「聖公会とランベス会議」』 

5月11日、 聖霊降臨日に、 日本福音ルーテル教会と日本聖公会の合同礼拝が東京で行われました。 わたしはこの中で、 聖公会という教会を紹介する役目を頂戴したのですが、 神学生時代にルーテル東京教会で教会実習をさせていただき、 その教会生活を経験する中で、 聖公会という教会について改めて考える機会を与えられたわたしにとって、 とても嬉しい機会でした。
ご承知の通り、 聖公会は英国の 「国教会」 を母体にしています。 この教会の性格により、 教会は所属員の持ち物ではなくその地域全体に属するものであり、 その地域のすべての人のために存在するという理解を、 聖公会は当初から持っていました。 従って必然的に、 教会はその地域社会全体に目を配る責任を負うことになります。 また、 地域の人全員が来ることができる教会ということから、 特定の神学や思想に基づいて所属員を選ぶこともなく、 こういうところからも 「中道」 と言われる教会の性格が築かれてきたのではないでしょうか。 そして、 地域ごとに異なる性格を持った教会同士が互いに関心を持ち合い、 一つの大きな 「教会」 を形成するのが聖公会です。 わたしたちの尊ぶ主教制や教区制は、 こんな文脈で意味を与えられてきたのだろうと思います。
この特徴により、 聖公会は一方では幅広い人々を包み込む懐の深い教会ということになりますが、 一方では漠然とした玉虫色の結論しか出さない教会という歯がゆさも持つことになるかもしれません。 また、 自分たちの教会や地域の外側に関心が向きにくいということもあり得ます。 聖公会では、 この弱さの自覚のゆえに、 対話の重要さが常に強調されています。 そしてこのことは、 アングリカン・コミュニオンという考え方にも表れています。
今年の7月には、 10年に一度のランベス会議がイギリスのカンタベリーで行われ、 森主教も参加されます。 ランベス会議とは、 全世界の聖公会の主教達が集まって持たれる会合ですが、 この会議の決議に拘束力はありません。 だったら何のために集まるのか?という疑問が当然出てきますが、 ランベス会議のWebサイトでは、 「各教区の代表である主教が集まることで、 それらの教区がお互いに出会うことになる」 と言っています。 この、 異なる場所で活動する教会同士の出会いによって初めて、 わたしたちは教会となるのです。
地上の教会は、 神の完全な教会である 「普遍の教会」 の、 ある地域・ある時代における一つの具現化・現実化であり、 わたしたちもその一部です。 どの教会も、 自分たちだけで完全であることはできないのです。 ですから、 わたしたちは 「神の普遍の教会」 に連なるものとして、 お互いへの関心、 ことに地域的に隔たった教会への関心を失ってはならないのです。
「神よ、 聖霊の賜物をわたしたちに注ぎ、 ランベス会議に備える人々を知恵と理解とで満たしてください。 そして、 あなたの像に造られ、 あなたの愛によって贖われたわたしたちの人性に根ざす創造のエネルギーとビジョンとが、 自らのうちに働いていることを知ることができますように。」 (ランベス会議の祈り)

司祭 ダビデ 市原信太郎
(名古屋柳城短期大学チャプレン)

『アーメン』

今、 私は宣教部長として中部教区にとって非常に重要な役割を担わせていただいています。 その働きの一つとして、 ここ1年間程、 「中部教区宣教方針」 (仮) の作成に向けての協議を様々な場で繰り返しています。 その協議の場の一つで、 ある聖職の方が私に、 このようなアドバイスをくださいました。 「下原司祭の考えておられる宣教方針も良いものですが、 教会による癒しの業 の重要性について触れられている部分が少ないので、 是非、 その辺りを補強してください」 と。 私は、 その方の一言で、 これまでの自らの聖職としての働きで、 いつの間にか後回しにしてきてしまった大切な事柄に気付かされました。 それは病床訪問であり、 信徒訪問です。 私を含め、 多くの聖職の方々が様々な働きの中で、 いつの間にか後回しにしてしまいがちであり、 しかし、 信徒の方々が最も聖職に求める働きの一つ。 それが病床訪問であり、 信徒訪問ではないでしょうか。
聖体と聖血、 そして、 聖油を携え、 病室に向かいます。 病室に入る瞬間が一番、 緊張します。 「病状が深刻だったら、 大変だ」、 「回復の兆しがなかったら、 どうしよう」 などと考えると病室のドアノブを握るのを少し躊躇してしまう程です。 その緊張を何とか隠しながら、 病室に入ると実に様々な表情を持った方々と出逢います。 苦しみに耐え、 不安と向き合い、 必死にこの時を過ごしている方、 快方に向かい、 一安心し、 静かな時を過ごしている方、 そして、 何にも反応できない程の状況に陥っている方など。
私は、 そのような人々の前で 「平安がこの病室にありますように」 と祈り始めます。 すると、 病室に入った時には実に様々な表情を持っていた方々が、 必ずと言っていい程、 同じ表情を見せてくれます。 それは、 目を閉じ、 聖堂の中で唱えているかのような、 静かで、 真剣な、 心から 「アーメン」 と祈る姿です。 苦しみの中でも、 不安に呑み込まれそうでも、 昏迷状態とも思える中でも、 私の耳には、 心には、 その方の 「アーメン」 という祈りが鮮明に聴こえるのです。 私は、 この時、 「アーメン」 という最も短い祈りが持つ癒しの力、 信仰の力、 神への愛を、 直接、 肌で感じ、 身が震えます。 私は、 この時、 「アーメン」 (そのようになりますように) という祈りの本質に触れることができます。
そして、 帰り道で、 いつも実感します、 「僕は聖職として、 このような働きをしたかったのだ」 と。 その満ち足りた気持ちの中で、 同時に、 こうも思います、 「その働きを後回しにしてしまっている自分自身が情けない」 と。
聖職とは、 人々の 「アーメン」 という祈りをひとつ一つ集め、 神に届ける使命を持っていると思います。 聖職は、 人々が聖堂で唱える 「アーメン」 という祈りだけを集めるのではなく、 それぞれの家で、 病室で、 職場で、 施設で唱えられる 「アーメン」 という祈り、 ひとつ一つに立会い、 また、 その祈りが絶えないように導かなければならないのです。 人々が心の底から 「アーメン」 と祈る時、 聖職は、 共にいて、 その 「アーメン」 を見過ごしてはならないのです。

司祭 ヨセフ 下原 太介
(岐阜聖パウロ教会牧師)

『歩きましょう 毎日を 人生を』 

二人の弟子がエマオに向かって歩いています。 エルサレムから60スタディオンといいますから11キロぐらいのようです。 歩いて2時間半ぐらいでしょう。 今、 私は直江津と高田の2つの教会、 幼稚園を毎日往復していますが、 丁度10キロです。 残念ながら車でです。
私たちが交通手段として歩くということは、 極めて少なくなっています。 日本において車と交通網の発達が、 社会に及ぼした影響は、 大きなものがあります。 私自身もかつて子どもの頃は、 今よりは歩いていました。 昔、 豊橋にいた時に教会学校に通うのに途中から市電を利用していたのですが、 だんだん慣れてくると、 帰りは弟と二人で歩いて帰り、 電車賃でお菓子を買ったものです。 1時間は歩いたでしょう。
人は歩いている時は、 他のことは何もできません。 頭の中で、 あれやこれやと考えるだけです。 二人連れであれば、 ひたすら話し続けて、 話の種がなくなれば、 後は黙々と歩くだけです。 しかし、 この肉体的行為と考える営みが、 人間に及ぼす影響には大きなものがあると思います。 洋の東西を問わず巡礼が行われる理由は、 そこにあるのでしょう。
私たちは、 常にこれからの教会の歩みについて考えています。 教会が社会に対して何が出来るのか、 多くの人に対してどのようにしたら関われるのか? その考えは、 なかなか発展せず、 いつも同じ所に留まっているような感じがあります。 それは、 二人の弟子が、 イエスを失って途方にくれているということと、 これから先の見通しが見えないということでは、 共通している部分があるかもしれません。
なすべきことの明確な答えはなかなか見出せませんが一つヒントと思えることは、 「歩き続ける」 ことです。 歩き続けるということをどのようなことの比喩として考えるのかは、 はっきりとは分かりません。 ただ、 私たちが信仰のゴールに向かって歩き続けることははっきりしています。 そして、 そこにいつの間にかイエス様が一緒に歩いてくださることも。
私たちは、 何かをしようとしたときに、 実行した先のことや、 その効果について考えます。 無駄なこと、 失敗することをついつい避ける習慣があります。 それは、 必要なことではありますが、 そのことが現実的な行動を生み出せず、 いつも同じ所に留まっているということにつながっているとも言えます。
4月は新学期、 幼稚園にも新しい子どもたちが入って来ます。 子どもたちは、 新しい世界に入って興味を感じたことに飽きることなく何度でも挑戦していきます。 そして、 一つ一つ出来ることが増えていきます。 そんな姿を見ながら、 そこから力を得ていきたいと思います。
雪国の4月は、 一斉にたくさんの花が咲きます。 水仙も、 梅も桜もパンジーも、 色とりどりです。 こうした自然の恵みも私たちの気持ちに新たなものを与えてくれます。 たまには車を降りて歩いてみましょう。 信仰の道を歩き続けることによって後になって、
「道で話しておられるとき、 また聖書を説明してくださったとき、 わたしたちの心は燃えていたではないか」 と思える時が来ると思うのです。

司祭 ペテロ  田中  誠
(高田降臨教会・直江津聖上智教会牧師)

『こいぬのうんち』

「こいぬのうんち」 という絵本のお話を紹介します。 文はクォン・ジョンセン、 絵はチョン・スンガクで二人は韓国、 日本語訳は在日朝鮮人二世のピョン・キジャです。

こいぬが石垣のすみっこにうんちをしました。
すずめが一羽飛んで来て、 うんちをちょんちょんとつついて言いました。
「うんち、 うんち、 アイゴーきったねえ」
「なんだって! ぼくはうんちだって? ぼくはきたないんだって?」
こいぬのうんちは腹立たしく悲しくなって泣き出しました。
近くに転がっていた土くれが、 話しかけてきました。
「もともとおいらは、 向こうの山の段々畑で野菜を育ててたのさ」
「去年の夏は、 雨がちっとも降らなくて、 ひどい日照り続きで、 おいら、 その時、 とうがらしの赤ん坊を枯らしてしまったんだよ」
「そのばちが当たったんだ。 きのう、 ここでおいらだけ荷車からこぼれ落ちたのさ。
ああ、 おいら、 もう畑と仲間のところには帰れない」
土くれは悲しそうにつぶやきました。
その時、 牛に引かせた荷車がガタゴトやって来て、
「ありゃりゃ!これは、 うちの畑の土のようじゃが?」 と荷車のおじさんが土くれをいとおしそうに両手で拾い上げて、 荷車に乗せて行ってしまいました。
「ぼくはきたないうんち。 何の役にも立たないんだ。 ぼくはこれからどうすればいいんだろう?」
春になって、 こいぬのうんちの前に、 緑色の芽が、 ぽつんと顔を出しました。
「きみ、 だあれ?」
「わたしは、 きれいな花を咲かせるたんぽぽよ」
「どうしてきれいな花を咲かせられるの?」
「それは雨と太陽の光のおかげよ」
「それとね、 もう一つ絶対必要なものがあるの」
たんぽぽはそう言って、 こいぬのうんちを見つめました。
「それはね、 うんちくんがこやしになってくれることなの」
「ぼくがこやしになるって?」
「うんちくんがぜーんぶとけて、 わたしの力になってくれることなの。
そうしたら、 わたしはお星さまのようにきれいな花を咲かせることができるの」
「えっ、 ほんとにそうなの?」
こいぬのうんちはうれしくて、 たんぽぽの芽を両手でぎゅっと抱きしめました。
雨が降り、 こいぬのうんちは、 雨に打たれてどろどろにとけて、 土の中に沁み込み、 たんぽぽの根っこから茎を登り、 つぼみをつけました。
そして、 暖かい春のある日、 きれいなたんぽぽの花が一つ、 咲きました。
やさしく微笑むたんぽぽの花には、 こいぬのうんちの愛がいっぱい詰まっていました。

これはあらすじです。 実際の絵本は文も絵も訳もすばらしいものです。
老人である私には、 こいぬのうんちが小さなたんぽぽのこやしになる、 というこのお話は、 老人の残された生と死にも、 「主の栄光を現わす」 務めが恵みとして、 なお備えられていることを教えてくれていると思えるのです。

執事 ヨハネ 大和田 康司
(名古屋聖マルコ教会牧師補)

『励まされて』

「こういうわけで、 わたしたちもまた、 このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、 すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、 自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」 (ヘブ12・1~2)
主イエス命名の日を迎え、 新しい1年が始まりました。 お正月恒例の行事はいくつかありますが、 はずせないのが箱根駅伝ではないでしょうか。 今年は初めて聖公会関連学校の立教が関東学連選抜のメンバーの一人に加えられ、 見事学連選抜が4位に入ったということです。 興味を引くのはそれだけでなく3チームの途中棄権が出たということで、 大会史上初めてのことでした。 誰もが予期せぬ出来事で、 まさかそんなことが自分の身に起こるとは思ってもみなかったことでしょう。 あるチームはレースの最初のほうで、 あるチームはレースの後半で、 あるチームはあと一人にタスキを渡す所でした。 立ち上がることも出来ない状態になってしまい、 どんなに屈辱を感じたことでしょう。 これでもう選手生活は終わりだと感じたほどではないかと思います。 でも倒れて終わりにはなりませんでした。 監督の 「もう充分力を尽くしたから後は任せろ」 との言葉でまた新たな思いに立ち上がることが出来るようになっていくのでしょう。
先日、 信仰の先輩が逝去されました。 6年半にわたる長い闘病生活の後でした。 脳梗塞で倒れられたとき、 教会にも行けない、 祈りや賛美を唱えることも出来なくなってしまい、 もうこれで信仰生活も終わりだとお感じになってしまっていたのではないかと思います。 でも、 神様は決して証人としての信仰生活を終わりにはなさいませんでした。 信徒の方とご家族の家に病床聖餐で行くと、 お祈りや聖歌のところでわずかですがうめき声を出され、 ご一緒に唱和されているようでした。 そして車椅子で陪餐に与り、 わたし達が帰るときに涙を浮かべておられるのを見たとき、 ああこうして一緒に陪餐に与り神様の恵みを頂くことの喜びと、 そして信仰の友との交わりを大切にされている涙であることを実感しました。 私たちこそあらためて主日ごとに、 陪餐の恵みに与る喜びを大切にし、 信仰の交わりが与えられていることを大切に、 多くの信仰の諸先輩の証人たちに囲まれつつ励まされている自分がここに居ることに気が付きましょう。 ここに教会の原点があるように思いました。 そしてチームの監督が 「後は任せろ」 と言われたように、 出来ないことの悔しさなどすべてのことを主イエス様にお任せし、 信仰生活のゴールで待っていてくださる主イエス様にひたすら目を向けてこの1年の信仰の歩みの上に神様の祝福と導きを祈りましょう。

司祭 マルコ 箭野 眞理
(豊橋昇天教会 牧師)

『「クリスマスキャロル」 の響く小布施町』 

私は、 新生病院に赴任してまだ1年経過していませんので、 ここ小布施の12月・クリスマスに何が起きるのか知りません。
しかし、 毎年のクリスマスイブの夜、 当新生礼拝堂を拠点に、 教会のメンバーや病院関係者また小布施・近隣の住民らが集い、 自然に聖歌隊が結成され、 手に手にペンライトを持ち、 肌を切るような風に頬を赤く染めながら町の通りを歩み、 所々立ち止まっては聖歌を歌うというキャロリングは、 小布施町の年末の恒例行事なのだそうです。
『闇を行く明りの列と聖歌の響きは、 町を幻想的な空気で包み、 人々はその独特の風情に胸を熱くする。 年によっては、 舞う粉雪が粋な演出をしてくれる』 と中島敏子著 「新生病院物語」 という本に記されていますが、 きっとそうだろうと想像し、 心が踊ります。
単にクリスマスが一つの教会の狭い行事でなく、 町・地域の人々と共に幼な子イエスの誕生をお祝いし、 「静かな夜・聖しこの夜」 を体験し、 町・地域全体が 「文化としてのクリスマス」 を喜びあうのは何と凄い事でありましょう。
私達は、 キャロルといえば、 すぐ 「クリスマスキャロル」 を思うのですが、 キャロルは、 元々は自国語の歌詞で歌われる喜ばしい感じの、 各季節の宗教的民謡といっていい歌です。 従ってクリスマスキャロルは、 当初、 必ずしもキリスト教会と結びついたものではなく、 一般民衆が祝歌・讃歌として歌っていた 「世俗音楽」 だったのです。 しかしこれを 「教会音楽」 にしたのは、 あの宗教改革推進者のマルティン・ルターであるという歴史があります。
また 「キャロリング」 というのは、 クリスマスイブの夜、 教会に集まった子供達が街の家々を訪ねて、 クリスマスキャロルを歌う慣習が欧米にあり、 これを英語で 「キャロリング」 と言っておりました。
そもそも民衆の歌であったキャロルがキリスト教会の賛美歌となり、 特にクリスチャン人口の少ない我が国に於いては、 キリスト教会でのみ歌われていたのを、 小布施ではあらためて教会の枠を取り外し開放し、 本来の姿に回復した形で具現化したキャロリングが実施されるのです。 偉大な生ける神の恵みだと思わざるにはいられません。
小布施町年末恒例行事でもあるキャロリング、 これはもう小布施町の文化です。
以前、 司祭で教育者のケネス・ハイムという方が 「文化としてのクリスマス」 という文を書かれ、 その中に次の様な言葉が綴られています。
『最初の降誕物語から遠くかけ離れ、 初めの意味が見失われてしまったような催しでさえ、 文化の力を持っているように思えます。 その動機が営利追求でしかないデパートの飾りでさえ、 降誕物語のもつ力を証しする文化的遺産であるといえるでしょう。 いずれにしろ、 メサイヤを聴いたり、 ジングルベルを歌う未信者たちも、 降誕物語の中心から光が輝き出る光景の中に包み込まれてしまうのです』 と。
正に小布施の町も、 キャロリングをする時に、 幼な子イエスの誕生、 この誕生した幼な子はすべての生命を照らす光としての意義をもつとのメッセージの中に包み込まれてしまうのです。 ハレルヤ!

司祭 パウロ 松本 正俊
(新生礼拝堂副牧師・新生病院チャプレン)

『楽園を生きた男』

以前、 岡谷聖バルナバ教会の深澤小よ志さんから 「教会は、 昔は楽園だった」 というお話を聞きました。 小よ志さんは、 1920年代、 12才の時から岡谷の製糸工場で働かれました。 当時、 1日12時間、 ロクに休憩もとれないような労働をしていた工女たちにとっては、 教会で行われるすべてが新鮮で、 楽しく、 まさに楽園のようでした。
その頃、 教会の現状に様々な疑問を感じていた私にとって、 小よ志さんのこの言葉は、 実に印象的で、 深く心に残りました。 以来、 楽園のような教会というのは、 私にとって、 教会の姿を考える際のキーワードのひとつになりました。
しかし、 現実の教会は、 そんな楽しいことばかりではないし、 不自由なことも多く、
トラブルも多いし、 とてもじゃないけど楽園と呼べるような場所ではないように感じてきました。 今の時代、 楽園のような教会というのは幻想だと諦めていました。
ところが、 そんな現実の教会を楽園のように生きた人がいました。 名古屋聖ステパノ教会の神原榮さんです。
彼は、 福岡県の田川で生まれ、 若い頃は炭鉱労働者として働きました。 しかし、 炭鉱の閉山によって失業を余儀なくされます。 そして、 多くの炭鉱労働者と同様、 職を求めて都会に出ていきますが、 なかなか安定した職業はなく、 結果的に大阪の釜ケ崎にて日雇労働に従事します。
その後、 名古屋に移り、 日雇労働を続けていましたが、 糖尿病を患い、 仕事を続けることが困難になりました。 その頃、 日雇労働者への支援活動を通して、 聖ステパノ教会の松本普さんたちと出会い、 生活保護を得てアパート生活を始め、 教会にも通うようになりました。
そして2001年秋、 彼は念願の洗礼・堅信を受け、 聖公会の信徒になりました。 その後の神原さんの生活は、 文字通り教会と共にありました。
毎主日の礼拝はもちろん、 週日に各教会で行われる様々な行事、 集会にも参加しました。 まるで参加することに意義があるかのように、 いろいろな集まりに参加し、 そこにいる誰とでも 「主の平和」 のあいさつを交わしました。 彼は、 聖ステパノ教会の信徒ですが、 徐々にその行動範囲を広げ、 今週は聖マルコ教会、 来週は聖マタイ教会、 更には主教さんと一緒に岐阜の教会へなどと、 主教巡回のお供までするようになりました。
神原さんは教会に行くことは大好きでしたが、 聖書や祈祷書を読んだり、 説教を聞いたりすることは得意ではありませんでした。 でも、 お祈りの最後には大きな声で 「アーメン」 と唱えました。 所属教会のことよりも、 聖書やお祈りの内容よりも、 人が集まって、 お互いが笑顔で 「主の平和、 アーメン」 とあいさつができることが心からうれしかったのだと思います。 その意味で、 教会は神原さんにとってまさに楽園そのものでした。
その神原さんが、 去る9月8日、 入院先の病院で本当の楽園に旅立たれました。 葬儀には、 愛岐伝道区の各教会からも多くの方々がお別れに参列され、 神原さんが過ごした短い教会生活の間に、 いかに多くの仲間を得ていたかということを感じました。
教会を楽園のように感じられる人がいる間は、 まだまだ教会には希望があるのかも知れません。 神原さんの死に際して、 再び 「楽園のような教会」 というテーマを与えられたような気がしました。

司祭 テモテ 野村 潔

『観光客の祈り』

「こんなに活気のある教会になっているとは驚いた。 以前来た時はこのまま朽ち果てていくのかと残念に感じたものだ」 と、 25年ぶりにショー記念礼拝堂に来られたという方から言われました。 私は 「いや~、 夏の間だけですよ」 と遠慮がちに答えながらも、 内心はとても嬉しく思いました。
今春から同礼拝堂の定住牧師として過ごしていますが、 避暑地軽井沢の発祥地とは言えここまで観光客が多いとは正直想像していませんでした。 おそらく全国に約300ある日本聖公会の教会の中でも群を抜いているでしょう。 特にゴールデンウィークと夏期 (7月下旬~9月中旬) は、 連日数百人の観光客が見学に訪れます (というよりは押し寄せてきます)。 国籍も様々で、 日本語や英語以外の言語もあちこちで飛び交うこともあり、 その情景は聖霊降臨の出来事を彷彿とさせる感があります。 「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、 ほかの国々の言葉で話しだした」 (使徒言行録2:4)。 このように書くと 「何と羨ましい!」 と思われる方も多いでしょうが、 実際は心無い観光客の言動に困惑させられることも度々です。 あまりの非礼な行為に怒鳴りつけてしまうこともあります (神様ゴメンナサイ)。 しかし、 殆どの良識的な観光客は静かに礼拝堂に入り、 黙想し祈りをささげます。 その自然な姿にこちらの方が感動を覚えることも少なくありません。
先日もこんなことがありました。 迷彩服を着た一人の男性がキョロキョロしながら礼拝堂の前を行き来しています。 見るからに怪しげな様子に、 私は庭を掃除している振りをしながら注意を払っていると、 礼拝堂に誰も居なくなったことを確認した彼は中に入ると迷うことなく一番前まで進み、 椅子にも座らず祭壇の前に跪きました。 そして突然外まで聞こえるような大声で何かを唱え始めたのです。 未だにそれが何語であったのか分かりませんが、 とにかくその祈りと思われる言葉は15分ほど続きました。 勿論その間は、 私も含め誰もその光景に圧倒されて礼拝堂に入ることは出来ませんでした。 しかし、 その後礼拝堂から出てきた彼は目に涙を浮かべながら去っていったのです。 言葉の問題もあり、 司祭として声一つ掛けられなかったことを後悔していますが、 おそらく異国の地で何か苦しいことに直面しているのでしょう。 あるいは母国で何か辛い出来事が起こったのかもしれません。 ただ確信をもって言えることは、 神様は彼のその切実な祈りを間違いなく受け止められたということです。 彼だけではありません。 本当に多くの人々が毎日この礼拝堂で神様と向かい合い、 慰めを受け、 勇気を得て帰っていきます。 礼拝堂に備えられている来訪者ノートがそのことをよく物語っています。
礼拝堂を出て3分も歩けば、 そこは華やかで賑やかな旧軽銀座と呼ばれるショッピング街。 今日も休暇を楽しむ人々で溢れています。 しかし、 一人一人はそれぞれに悩みと苦しみを抱えているのも事実です。 私たちクリスチャンだけでなく、 多くの人々にとって、 自分の思いのすべてを素直に神様に表現できる場として今後もこの礼拝堂が用いられていくことを願って止みません。

司祭 テモテ 土井 宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)

『青年は荒野をめざして…』 

好きな曲だけを集めて作ったMDを10年程前のある日、 職場で昼食のときにかけたらみんなシーンとなってしまった。 別れとか旅立ちに関する曲が多かったせいだろうか。 それから半年後にその職場を去ることになるとは、 そのときの私は夢にも思わなかったのだが。 この、 MDの曲目は以下の通りである。 ①時代、 ②贈る言葉、 ③雲よ風よ空よ、 ④青年は荒野をめざす、 ⑤若者たち、 ⑥翼をください、 ⑦遠い世界に、 ⑧思い出の赤いヤッケ、 ⑨神田川、 ⑩精霊流し、 ⑪悲しくてやりきれない、 ⑫昴、 ⑬君といつまでも、 ⑭いちご白書をもう一度、 ⑮名残雪、 ⑯花嫁…
悲しみと希望が交錯する青春、 別れ、 旅立ち…こういう曲を好んで聞いていた私がそれまでの場所から去り、 47 歳にして新しい人生へと踏み出していった。 青年ではなく中年の私が荒野をめざす、 定年を待たず荒野へと旅立った。
この夏休み、 ケネス・リーチという人の書いた 『牧者の務めとスピリチュアリティ』 (聖公会出版) という本を読んだ。 この本を読もうと思ったきっかけは 『神学院だより第50号』 に我が中部教区の神学生金善姫さんが書いていた報告である。 『第13回短期集中講座』 ~スピリチュアリティのこれまで・いま・これから~と題された文章を読みはじめてすぐにおや?と思った。 「最も印象に残ったのは、 牧会者がその多忙さの中でどのように霊的生活を維持するかという質問に対して…」 ケネス・リーチの答えである。 「愛、 祈り等のあたたかい領域を養わないと、 相手に大きな傷を与えることになる」 「相手を傷つけないために牧会者自身が休息を取る必要がある」。 この人の本をさっそくネットで注文したところ、 私の夏休みに間に合ったのであった。 猛暑の中で読み始めたところ私の心も熱くなってきた。 やたらと感情移入しながらの読書で本の中は鉛筆の線だらけになってしまった。 例えば 「神が貧しい者の側に立っているという事実は世間と妥協した教会から真っ先に追放された事実の一つである。」 「今日流行っている霊性は、 受肉した御言葉における、 また、 それを通した私たちの生命の変容よりも、 むしろ慰めと安心と内面の平安を提供する事に大きな関心を抱いているように思われる」。 私にとって印象的だったのは次の箇所である。 黙想的祈りに関して、 「荒野」 「暗黒の夜」 という二つのシンボルがキリスト教の伝統において繰り返し現れる。 この二つの象徴が示している行路は人に根源的な浄化と暗黒の出会いを求めているとリーチは述べている。 かつてイスラエル民族が、 旧約時代の預言者たちが、 そしてイエスが、 4世紀エジプトやシリアの修道士たちが荒野において、 葛藤し自分を浄化し神と出会ったのである。 そして暗黒の夜の中で人は神を叫び求める。 暗黒の体験をとおして私たちは自己崩壊の危機に瀕し、 はっきりと見えるようになる。 激しく愛するようになる。 真の自己統合へと向かう。 『「荒野」、 つまり、 自身の根源的で独自の孤独を見つけることが必要である。 そうすることによって、 私たちは他者の中にある 「荒野」 に出会うようになる。』
今日は倒れても再び起きあがり歩き出す。 荒野へと向かう。 自分自身の中の沈黙と孤独、 葛藤と苦しみにおいて神が語りかけてくださる。 東の空から希望の太陽が昇り、 再びまちへ、 人々の中へ帰っていく。 聖霊に突き動かされて…

司祭 イサク 伊藤 幸雄
(一宮聖光教会牧師)