『「クリスマス難民症候群」』 

「ははぁ~ん」 と察しのつく方は随分と、 ここ数年の世事や人の心情にお詳しい方のように思われます。
これは何だ? と思う方、 巷ではこんな言葉が次々と生まれているようです。

『街に繰り出せばクリスマスソングが流れ、 イルミネーションやネオンが妖しく欲望を小刻みに心地よく刺激し続け、 誘惑するように輝くクリスマス商戦真最中。 パソコンを立ち上げれば、 スタートページからクリスマス仕様。 いよいよクリスマスから始まり、 カウントダウンイベント、 バレンタインデーと続く恋人たちのイベントシーズンの到来である。 巷に溢れるお祭りムード、 これではキリスト教信仰者でなくとも、 意識するなという方が無理な話で、 さも普段通り過ごすことを否定されているような心境にさせられてしまう。 見事に、 しかも時間を掛けてしたたかに仕掛けられたイベントムードの刷り込みマジック (マインドコントロール) の成果が現れているのでしょう。
プレゼントは何を贈ろうか、 ケーキやレストランの予約急がなきゃ、 そんな話題に一人参加できず、 取り残された気分、 彼氏が欲しいのはヤマヤマだけど、 焦っていると思われるのも癪。 クリスマスなんてやって来なければいいのに、 こんなお祭りムードを煩わしく思う 「クリスマス難民症候群」。』 (web コラム投稿から筆者が加筆・修正等を加えた後、 転載)

「今日ダビデの町で、 あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ主メシアである。 あなたがたは、 布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」
(ルカ2・11~12)

私たちひとりひとりに与えられた場でクリスマスを待つアドベントの日々が始まりました。 季節は師走でもあり、 夕暮れが早いだけに何かと気ぜわしくイライラ仕勝ちで、 アドベントの本意とは気持ちがずれる季節でもあります。 「待つ」 「待たされる」 ことが好きでない、 じれったい私たちは、 「待つ」 にふさわしい、 「待つ」 に価する本当のもの、 確かなものを知らないから、 なのかも知れません。

はるか二千年も昔のイスラエルの民は、 民族的にも個人的にも真の贖いを待ち望み、 時の満ちるのをひたすら待ち続けておりました。 そしてついに、 しかし神は真に待ち望む者にしか観ることができない、 という仕方でその 「しるし」 を与えられたのです。
闇が地をおおい、 暗闇と悲しみ、 嘆きが諸国の人々をおおっているこの世界を欲望の炎の輝きをもってしても魂の闇を光で満たすことはできませんでした。 又たとえ欲望が与え、 欲望がもたらす豊かさにしても魂の渇きを癒すことはこれからも決してないでしょう。
ネオンやイルミネーションの誘惑的な輝き、 欲望を一層掻きたてる妖しい輝きに彩られたアドベントではなく、 闇の中に輝く神の救いの輝き、 希望をもたらす真の輝きを見つけ、 これからも見つめ続けることのできるクリスマスを迎えたいものです。

司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(新潟聖パウロ教会牧師)

『教会は何が出来るのでしょうか』 

神学院を卒業し、 松本聖十字教会に赴任して4ヶ月が経ちました。 教会は松本城の近く、 奇麗な山々が見える所にあります。 静かで平穏な町、 季節毎に可愛い花がいっぱい咲きます。 教会の近所を散歩していると、 私はこの世が平和で、 何の困難も無いように感じることさえあります。 しかし、 そうではない事を私たちは知っています。
教会に助けを求めてくる人々がいます。 お腹を空かせている人、 お金を求めてくる人、 話を聞いて欲しい人、 病気や死への不安に苦しむ人々…。
そして、 暴力と戦争に満ちた世界に気が付きます。 全世界が北京オリンピックに注目し応援している時も、 独立を願うチベットのような少数民族に対する中国の弾圧は続き、 南オセチア自治州を巡るグルジア紛争も含め、 様々な暴力と人権侵害は絶えません。 敗戦63年を迎える日本で、 広島の平和礼拝に出席し、 日韓青年たちと沖縄を訪問し、 平和について考える時を与えられました。 戦争を経験した人々が戦争を知らない世代へ戦争の悲惨さ・残酷さを伝えています。
また、 神学院での実習で訪問したフィリピンは深刻な貧困の中で、 政治的殺害や環境破壊 (外国資本による開発という名目でのダム建設や埋立て、 伐採によるはげ山化)、 海外労働者への人権侵害はとても深刻な状況です。 その状況が日本と深く関連付けられている事に私は大きなショックを受けました。
教会はこのような人々の苦しみに対して、 何が出来るのでしょうか。
現在多くの教会が信徒の減少と高齢化によって沈滞の中にあります。 その沈滞によって、 傷ついた世界より教会の現状が切実であるという声もあります。 しかし、 イエスの愛 (生と死、 苦難と復活) の記憶を共有し、 「共に苦しむ (コンパッション)」 イエスの記憶が私たちに勇気と希望を与えてくれます。 教会は苦しむ人々と手をつなぎ、 連帯する勇気を得られるのです。
神は何故、 戦争、 貧困、 飢餓、 病気、 拷問、 不幸を無くさないで、 多くの人が寂しく、 孤立したまま苦しむのを放置するのかと多くの人々は問います。 私もその中の一人です。 まだ答えを得ていませんが、 私は韓国の教会で学んだ事が一つあります。 独裁政権に抵抗し、 学生運動・民主化運動に参与する青年たちは、 苦難のイエスの記憶を持っていました。 その記憶から希望を見出していたのです。 貧しい人々は貧しいイエスの記憶を持っていました。 逮捕され拷問を受ける人々は、 同じく逮捕され拷問を受けるイエスの記憶を持って耐えました。 そのイエスの記憶が、 多くの人々に連帯への勇気と希望を与えたのです。
私たちは礼拝と交わりを通して、 イエスの記憶を共有し、 イエスの教えを聞き、 イエスの体と血を分け合い、 主の平和を求め、 世の中に派遣されています。 「共に苦しむ」 イエスと共に行きましょう。 傷ついた世界と、 傷ついた人々と共に!

聖職候補生 フィデス 金 善姫
(松本聖十字教会勤務)

『『主の祈り』 雑感』

聖公会・カトリック教会共通訳の主の祈りを使い始めてから8~9年になりますが、 やっとそれまで使っていた主の祈りと間違えずに唱えられるようになりました。 共通訳を使い始めた当初は、 時々、 神様が 「天におられる」 のか 「天にいます」 のか混乱してしまいました。 主の祈りはわたしたちに最も身近な祈りだけにあまり変わらないことが望ましいでしょう。 文語の主の祈りが根強い支持を得ているのは、 文語から来る格調の高さもさることながら、 長い間祈り続けてきて、 完全にその人の祈りの一部となっているからに違いありません。 それが一夜にして変えられてしまうことには誰しもが抵抗を感じることは当然のことでしょう。
かつて牧会していた教会でのことですが、 口語祈祷書の試用期間が始まった時のことです。 日曜学校でも文語から口語の主の祈りにすることにしました。 ところが、 小学校1年生の子どもが、 「こんなのお祈りじゃない」 「こんなの使わない」 と口語の主の祈りの使用に抵抗を示しました。 その子はそれまで幼稚園で文語の主の祈りに慣れ親しんでいたのです。 もちろん彼の抵抗は無駄な抵抗に終わり、 口語は使われていったのですが、 たとえ子どもであってもそれまで慣れ親しんできた祈りを明日から変えますよと言われたら、 やはりすんなりとは受け入れられないものだと実感しました。
これもかつて牧会していた教会での経験ですが、 赴任して少し経った頃だと思いますが、 あるお年寄りの方を教会の方々と共に老人保健施設に訪問しました。 その方はわたしたちのことをおそらくきちんとは認識できない状態でした。 言葉のやり取りもほとんど不可能でした。 こちらから一方的にお話をするという状況でした。 お別れするときに、 「主の祈りをお祈りしましょう」 と言って主の祈りを唱えました。 「天におられる」 ではなく 「天にまします」 で祈りました。 すると驚いたことにその方は小さな声でしたが、 わたしたちと一緒にほとんど正確に主の祈りを唱えたのです。 みんなとても感動しました。 若い時からきっといつも祈っていたのでしょう。 ですから、 いろいろなことを忘れてしまっても主の祈りだけはその人の中にずっと留まり続けていたのです。 主の祈りを通してイエス様がその方と共におられたと言ってもいいでしょう。 主の祈りによってイエス様と結ばれていたのです。 素晴らしいことです。 自分がそういう状況になった時、 この方のように主の祈りが口をついて出てくるだろうかと少し不安になりました。
聖書を見る限り、 主の祈りはイエス様が 「こう祈りなさい」 と教えてくださった唯一のお祈りです。 イエス様に直結する祈りです。 それだけ祈っていればそれでもう大丈夫という祈りでもあります。 ですから、 口語であろうと文語であろうと関係はないのです。 ただ主の祈りがわたし自身の一部となることを願うだけです。

司祭 ペテロ 渋澤 一郎
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師)

『「聖イグナチオの霊操」』

暑い8月は、 ヒロシマ、 ナガサキ、 戦争を思い起こさせる。
イグナチオは、 まさにその現実の血腥い戦争において活躍していた騎士であった。
イグナチオはスペイン・バスク地方の貴族の家に生まれ、 文武の教育を受けたが生活は乱れていた。 1521年、 敗戦のなかで、 イグナチオは最後まで城壁を守ることを主張した。 その時、 砲弾が破裂し、 彼の足に当たり、 瀕死の重傷を負い、 片足が短くなった。
イグナチオは短い足を伸ばす手術の後、 人の世のはかない名誉よりも、 神の栄光のために奉仕する決心をし、 一切の武具を放棄し、 ロヨラ城を出て、 バルセロナ近くにあるマンレサの洞窟にこもった。
長期間、 祈りと断食の生活をし、 キリスト様に出会い、 その経験から 『霊操 (霊的エクササイズ)』 の草案ができあがる。
それは、 祈りを深めるための体系的プログラムであり、 さらには、 人を生かすために悪霊の群れとの霊的戦闘において勇敢に戦う戦士を養成するための、 新兵訓練プログラムと言うべき激しさを持つ。
とにかく忙しいお祈りの連続で、 一ヶ月もかかる祈りの最後には歓喜が待っているという。
私も、 英隆一朗神父様が1日1時間で霊操できるように工夫された 「息吹をうけて」 というテキストを用いて、 ノートをつけながら 「キリストに出会って変えられる」 ことを願って2月22日から始めてみた。 私の場合、 小さな恵みが積み重なって、 かなり戦闘的?になったと感じている。
例えば、 4月に母が亡くなった時、 火葬炉の前で3分ほど証をさせていただいた。
「私の母の生涯は、 聖歌357番にそっくりです。 それゆえ、 私はキリストを信じることができます。」 と。
「息吹をうけて」 を自分なりに要約するとこんな祈りとなります。 黙想の助けになったら幸いです。
* * *

人生を5つの期間に分け、 写真アルバムを開き、 そのときに与えられた恵みを書く。
同じく、 自分の罪をリストアップする。
世界にどのような罪・苦しみがあるか味わってみる。 戦争、 災害、 病気、 不況…
神の怒りを味わってみる。
羊飼いと一緒に幼子イエス様を礼拝しに行くことを想像する。
3人の博士が贈り物を捧げるのをよく観察する。 私はイエス様に何を捧げようか。
悪魔の陣営・戦略・派遣をイメージする。 富の欲求、 虚栄心、 傲慢心。
キリスト様の陣営・戦略・派遣をイメージする。 心の貧しさ、 実際の貧しさを願う。 侮辱・蔑みを厭わない謙遜。
イエス様とともに宣教し、 十字架の道を歩いていこう。
最後の晩餐に弟子たちと共に参加してみる。
十字架上のイエス様との対話。 その最後、 その死の場面を味わってみよう。
復活した主の、 喜び、 愛、 栄光に焦点をあてて味わう。
すべてにおいて神様を見いだすこと。
キリスト様はあなたに今ここで何を望んでおられるか。
* * *
このような激しい訓練を続けて遠く日本に派遣されたのがフランシスコ・ザビエルであり、 その鹿児島への上陸は8月15日のことであった。

司祭 ビンセント 高澤 登
(飯田聖アンデレ教会協力牧師)

『「ハミルトン先生」』 

夏、 アカシヤの木の葉が繁り、 ほのかに甘い香りを漂わせ、 白い花が咲く頃、 上田の教会に在籍した時代を思い出す。 このアカシヤの木は、 戦後、 ある高校生が植えたものである。
聖ミカエル保育園舎のある一画に、 かつて、 フローレンス・ハミルトン先生が住んでおられた。 品位のあるカナダの婦人宣教師で、 戦前松本で、 そして、 戦時中カナダに帰国され、 戦後来日され、 上田でお働きになった。 婦人達、 保育園の教師達、 子供達等に多くの事を教えてくださった。 当時、 毎週水曜日、 先生のお宅に婦人達が集まり、 保育園児の着るエプロン等を製作し、 その果実を教会に献金していた。 聖餐式では、 祭壇に向かって右最後列左が先生の指定席で、 常に全体を見渡し、 礼拝中、 不規則な事があれば、 式後注意された。 礼拝に関しては、 主任司祭は、 ほとんど沈黙していたように思う。 子供心に邦人司祭は、 カナダ人宣教師にまだ頭が上がらないのかと思った。 この事については、 後、 長野の教会に移り、 生前のウォーラー司祭と親交のあった方々との話の中から、 その謎が解けてきた。
50・60年代、 聖餐式のオルガニストは、 少年・少女が担当していた。 その指導も先生がしておられた。 どんなに上手に弾けても、 一流の音楽大学を卒業しても、 先生の指導を受けなければ、 オルガニストになれなかった。 それは、 オルガニストの奏でる音が、 会衆・式全体に微妙に影響するため、 その任には、 純真でニュートラルな少年・少女が適任であったのであろう。
草野球、 魚取りに興じていた小学校高学年の頃、 ハミルトン先生からオルガンを教えて頂くはめになった。 母は大変喜んだが、 少年は嬉しくなかった。 週1回、 先生のお宅で指導を受けた。 居間に伯父さんであり、 どの教会にもある中部教区初代主教ハミルトン師父の写真があった。 同主教が就任された経緯を練習の合間に聞かされた。 先生自身、 同主教の影響を受け来日されたことを話された。 神学校で勉強し、 日本語を習得する苦労話を聞かされた。 流暢な日本語で、 少年に理解できるように話された。 「イエス様にお会いし、 お話しするために聖餐式に出るんです。」 少年には何か感じるところがあった。 そして、 最後に 「聖餐式では、 信仰がなければオルガンは弾けません。」 で終わるのが常であったが、 何のことかわからなかった。
ある秋の土曜日、 祖母から日曜日祭壇に飾る花を教会へ届けるように頼まれ、 自転車で届けた。 すると聖堂からオルガンの音が響いてきた。 そっとのぞいてみると、 ハミルトン先生が弾いておられた。 決して上手な奏法とは思えなかったが、 少年の心の旋律に感動を覚えた。 太平洋の荒波を1ヶ月以上、 命を賭けて渡り、 遠い異国の地で、 イエス様の口・手・足となり、 神様と人々に仕え、 また母国カナダから送られてきた数々の物資を分け与えてくださった行為。 その人生、 生きざまがオルガンの音に投影されていると思った。 練習不熱心な少年は、 先生の期待に反し、 オルガニストになることはなかった。 申し訳ないことをしたと思っている。 その数年後、 先生は、 カナダに帰国された。
さて、 新しい聖歌集が用いられてから1年が過ぎた。 この聖歌集の主要目的の一つは聖餐式を豊かにすることにある。 日々の生活の中で、 神様を仰ぎ見、 その御心を行う心を持って、 聖餐式の中で聖歌を歌う時、 実り豊かな音、 声を響かせることができると思う。

司祭 テモテ 島田公博
(飯山復活教会勤務)

『「聖公会とランベス会議」』 

5月11日、 聖霊降臨日に、 日本福音ルーテル教会と日本聖公会の合同礼拝が東京で行われました。 わたしはこの中で、 聖公会という教会を紹介する役目を頂戴したのですが、 神学生時代にルーテル東京教会で教会実習をさせていただき、 その教会生活を経験する中で、 聖公会という教会について改めて考える機会を与えられたわたしにとって、 とても嬉しい機会でした。
ご承知の通り、 聖公会は英国の 「国教会」 を母体にしています。 この教会の性格により、 教会は所属員の持ち物ではなくその地域全体に属するものであり、 その地域のすべての人のために存在するという理解を、 聖公会は当初から持っていました。 従って必然的に、 教会はその地域社会全体に目を配る責任を負うことになります。 また、 地域の人全員が来ることができる教会ということから、 特定の神学や思想に基づいて所属員を選ぶこともなく、 こういうところからも 「中道」 と言われる教会の性格が築かれてきたのではないでしょうか。 そして、 地域ごとに異なる性格を持った教会同士が互いに関心を持ち合い、 一つの大きな 「教会」 を形成するのが聖公会です。 わたしたちの尊ぶ主教制や教区制は、 こんな文脈で意味を与えられてきたのだろうと思います。
この特徴により、 聖公会は一方では幅広い人々を包み込む懐の深い教会ということになりますが、 一方では漠然とした玉虫色の結論しか出さない教会という歯がゆさも持つことになるかもしれません。 また、 自分たちの教会や地域の外側に関心が向きにくいということもあり得ます。 聖公会では、 この弱さの自覚のゆえに、 対話の重要さが常に強調されています。 そしてこのことは、 アングリカン・コミュニオンという考え方にも表れています。
今年の7月には、 10年に一度のランベス会議がイギリスのカンタベリーで行われ、 森主教も参加されます。 ランベス会議とは、 全世界の聖公会の主教達が集まって持たれる会合ですが、 この会議の決議に拘束力はありません。 だったら何のために集まるのか?という疑問が当然出てきますが、 ランベス会議のWebサイトでは、 「各教区の代表である主教が集まることで、 それらの教区がお互いに出会うことになる」 と言っています。 この、 異なる場所で活動する教会同士の出会いによって初めて、 わたしたちは教会となるのです。
地上の教会は、 神の完全な教会である 「普遍の教会」 の、 ある地域・ある時代における一つの具現化・現実化であり、 わたしたちもその一部です。 どの教会も、 自分たちだけで完全であることはできないのです。 ですから、 わたしたちは 「神の普遍の教会」 に連なるものとして、 お互いへの関心、 ことに地域的に隔たった教会への関心を失ってはならないのです。
「神よ、 聖霊の賜物をわたしたちに注ぎ、 ランベス会議に備える人々を知恵と理解とで満たしてください。 そして、 あなたの像に造られ、 あなたの愛によって贖われたわたしたちの人性に根ざす創造のエネルギーとビジョンとが、 自らのうちに働いていることを知ることができますように。」 (ランベス会議の祈り)

司祭 ダビデ 市原信太郎
(名古屋柳城短期大学チャプレン)

『アーメン』

今、 私は宣教部長として中部教区にとって非常に重要な役割を担わせていただいています。 その働きの一つとして、 ここ1年間程、 「中部教区宣教方針」 (仮) の作成に向けての協議を様々な場で繰り返しています。 その協議の場の一つで、 ある聖職の方が私に、 このようなアドバイスをくださいました。 「下原司祭の考えておられる宣教方針も良いものですが、 教会による癒しの業 の重要性について触れられている部分が少ないので、 是非、 その辺りを補強してください」 と。 私は、 その方の一言で、 これまでの自らの聖職としての働きで、 いつの間にか後回しにしてきてしまった大切な事柄に気付かされました。 それは病床訪問であり、 信徒訪問です。 私を含め、 多くの聖職の方々が様々な働きの中で、 いつの間にか後回しにしてしまいがちであり、 しかし、 信徒の方々が最も聖職に求める働きの一つ。 それが病床訪問であり、 信徒訪問ではないでしょうか。
聖体と聖血、 そして、 聖油を携え、 病室に向かいます。 病室に入る瞬間が一番、 緊張します。 「病状が深刻だったら、 大変だ」、 「回復の兆しがなかったら、 どうしよう」 などと考えると病室のドアノブを握るのを少し躊躇してしまう程です。 その緊張を何とか隠しながら、 病室に入ると実に様々な表情を持った方々と出逢います。 苦しみに耐え、 不安と向き合い、 必死にこの時を過ごしている方、 快方に向かい、 一安心し、 静かな時を過ごしている方、 そして、 何にも反応できない程の状況に陥っている方など。
私は、 そのような人々の前で 「平安がこの病室にありますように」 と祈り始めます。 すると、 病室に入った時には実に様々な表情を持っていた方々が、 必ずと言っていい程、 同じ表情を見せてくれます。 それは、 目を閉じ、 聖堂の中で唱えているかのような、 静かで、 真剣な、 心から 「アーメン」 と祈る姿です。 苦しみの中でも、 不安に呑み込まれそうでも、 昏迷状態とも思える中でも、 私の耳には、 心には、 その方の 「アーメン」 という祈りが鮮明に聴こえるのです。 私は、 この時、 「アーメン」 という最も短い祈りが持つ癒しの力、 信仰の力、 神への愛を、 直接、 肌で感じ、 身が震えます。 私は、 この時、 「アーメン」 (そのようになりますように) という祈りの本質に触れることができます。
そして、 帰り道で、 いつも実感します、 「僕は聖職として、 このような働きをしたかったのだ」 と。 その満ち足りた気持ちの中で、 同時に、 こうも思います、 「その働きを後回しにしてしまっている自分自身が情けない」 と。
聖職とは、 人々の 「アーメン」 という祈りをひとつ一つ集め、 神に届ける使命を持っていると思います。 聖職は、 人々が聖堂で唱える 「アーメン」 という祈りだけを集めるのではなく、 それぞれの家で、 病室で、 職場で、 施設で唱えられる 「アーメン」 という祈り、 ひとつ一つに立会い、 また、 その祈りが絶えないように導かなければならないのです。 人々が心の底から 「アーメン」 と祈る時、 聖職は、 共にいて、 その 「アーメン」 を見過ごしてはならないのです。

司祭 ヨセフ 下原 太介
(岐阜聖パウロ教会牧師)

『歩きましょう 毎日を 人生を』 

二人の弟子がエマオに向かって歩いています。 エルサレムから60スタディオンといいますから11キロぐらいのようです。 歩いて2時間半ぐらいでしょう。 今、 私は直江津と高田の2つの教会、 幼稚園を毎日往復していますが、 丁度10キロです。 残念ながら車でです。
私たちが交通手段として歩くということは、 極めて少なくなっています。 日本において車と交通網の発達が、 社会に及ぼした影響は、 大きなものがあります。 私自身もかつて子どもの頃は、 今よりは歩いていました。 昔、 豊橋にいた時に教会学校に通うのに途中から市電を利用していたのですが、 だんだん慣れてくると、 帰りは弟と二人で歩いて帰り、 電車賃でお菓子を買ったものです。 1時間は歩いたでしょう。
人は歩いている時は、 他のことは何もできません。 頭の中で、 あれやこれやと考えるだけです。 二人連れであれば、 ひたすら話し続けて、 話の種がなくなれば、 後は黙々と歩くだけです。 しかし、 この肉体的行為と考える営みが、 人間に及ぼす影響には大きなものがあると思います。 洋の東西を問わず巡礼が行われる理由は、 そこにあるのでしょう。
私たちは、 常にこれからの教会の歩みについて考えています。 教会が社会に対して何が出来るのか、 多くの人に対してどのようにしたら関われるのか? その考えは、 なかなか発展せず、 いつも同じ所に留まっているような感じがあります。 それは、 二人の弟子が、 イエスを失って途方にくれているということと、 これから先の見通しが見えないということでは、 共通している部分があるかもしれません。
なすべきことの明確な答えはなかなか見出せませんが一つヒントと思えることは、 「歩き続ける」 ことです。 歩き続けるということをどのようなことの比喩として考えるのかは、 はっきりとは分かりません。 ただ、 私たちが信仰のゴールに向かって歩き続けることははっきりしています。 そして、 そこにいつの間にかイエス様が一緒に歩いてくださることも。
私たちは、 何かをしようとしたときに、 実行した先のことや、 その効果について考えます。 無駄なこと、 失敗することをついつい避ける習慣があります。 それは、 必要なことではありますが、 そのことが現実的な行動を生み出せず、 いつも同じ所に留まっているということにつながっているとも言えます。
4月は新学期、 幼稚園にも新しい子どもたちが入って来ます。 子どもたちは、 新しい世界に入って興味を感じたことに飽きることなく何度でも挑戦していきます。 そして、 一つ一つ出来ることが増えていきます。 そんな姿を見ながら、 そこから力を得ていきたいと思います。
雪国の4月は、 一斉にたくさんの花が咲きます。 水仙も、 梅も桜もパンジーも、 色とりどりです。 こうした自然の恵みも私たちの気持ちに新たなものを与えてくれます。 たまには車を降りて歩いてみましょう。 信仰の道を歩き続けることによって後になって、
「道で話しておられるとき、 また聖書を説明してくださったとき、 わたしたちの心は燃えていたではないか」 と思える時が来ると思うのです。

司祭 ペテロ  田中  誠
(高田降臨教会・直江津聖上智教会牧師)

『こいぬのうんち』

「こいぬのうんち」 という絵本のお話を紹介します。 文はクォン・ジョンセン、 絵はチョン・スンガクで二人は韓国、 日本語訳は在日朝鮮人二世のピョン・キジャです。

こいぬが石垣のすみっこにうんちをしました。
すずめが一羽飛んで来て、 うんちをちょんちょんとつついて言いました。
「うんち、 うんち、 アイゴーきったねえ」
「なんだって! ぼくはうんちだって? ぼくはきたないんだって?」
こいぬのうんちは腹立たしく悲しくなって泣き出しました。
近くに転がっていた土くれが、 話しかけてきました。
「もともとおいらは、 向こうの山の段々畑で野菜を育ててたのさ」
「去年の夏は、 雨がちっとも降らなくて、 ひどい日照り続きで、 おいら、 その時、 とうがらしの赤ん坊を枯らしてしまったんだよ」
「そのばちが当たったんだ。 きのう、 ここでおいらだけ荷車からこぼれ落ちたのさ。
ああ、 おいら、 もう畑と仲間のところには帰れない」
土くれは悲しそうにつぶやきました。
その時、 牛に引かせた荷車がガタゴトやって来て、
「ありゃりゃ!これは、 うちの畑の土のようじゃが?」 と荷車のおじさんが土くれをいとおしそうに両手で拾い上げて、 荷車に乗せて行ってしまいました。
「ぼくはきたないうんち。 何の役にも立たないんだ。 ぼくはこれからどうすればいいんだろう?」
春になって、 こいぬのうんちの前に、 緑色の芽が、 ぽつんと顔を出しました。
「きみ、 だあれ?」
「わたしは、 きれいな花を咲かせるたんぽぽよ」
「どうしてきれいな花を咲かせられるの?」
「それは雨と太陽の光のおかげよ」
「それとね、 もう一つ絶対必要なものがあるの」
たんぽぽはそう言って、 こいぬのうんちを見つめました。
「それはね、 うんちくんがこやしになってくれることなの」
「ぼくがこやしになるって?」
「うんちくんがぜーんぶとけて、 わたしの力になってくれることなの。
そうしたら、 わたしはお星さまのようにきれいな花を咲かせることができるの」
「えっ、 ほんとにそうなの?」
こいぬのうんちはうれしくて、 たんぽぽの芽を両手でぎゅっと抱きしめました。
雨が降り、 こいぬのうんちは、 雨に打たれてどろどろにとけて、 土の中に沁み込み、 たんぽぽの根っこから茎を登り、 つぼみをつけました。
そして、 暖かい春のある日、 きれいなたんぽぽの花が一つ、 咲きました。
やさしく微笑むたんぽぽの花には、 こいぬのうんちの愛がいっぱい詰まっていました。

これはあらすじです。 実際の絵本は文も絵も訳もすばらしいものです。
老人である私には、 こいぬのうんちが小さなたんぽぽのこやしになる、 というこのお話は、 老人の残された生と死にも、 「主の栄光を現わす」 務めが恵みとして、 なお備えられていることを教えてくれていると思えるのです。

執事 ヨハネ 大和田 康司
(名古屋聖マルコ教会牧師補)

『励まされて』

「こういうわけで、 わたしたちもまた、 このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、 すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、 自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」 (ヘブ12・1~2)
主イエス命名の日を迎え、 新しい1年が始まりました。 お正月恒例の行事はいくつかありますが、 はずせないのが箱根駅伝ではないでしょうか。 今年は初めて聖公会関連学校の立教が関東学連選抜のメンバーの一人に加えられ、 見事学連選抜が4位に入ったということです。 興味を引くのはそれだけでなく3チームの途中棄権が出たということで、 大会史上初めてのことでした。 誰もが予期せぬ出来事で、 まさかそんなことが自分の身に起こるとは思ってもみなかったことでしょう。 あるチームはレースの最初のほうで、 あるチームはレースの後半で、 あるチームはあと一人にタスキを渡す所でした。 立ち上がることも出来ない状態になってしまい、 どんなに屈辱を感じたことでしょう。 これでもう選手生活は終わりだと感じたほどではないかと思います。 でも倒れて終わりにはなりませんでした。 監督の 「もう充分力を尽くしたから後は任せろ」 との言葉でまた新たな思いに立ち上がることが出来るようになっていくのでしょう。
先日、 信仰の先輩が逝去されました。 6年半にわたる長い闘病生活の後でした。 脳梗塞で倒れられたとき、 教会にも行けない、 祈りや賛美を唱えることも出来なくなってしまい、 もうこれで信仰生活も終わりだとお感じになってしまっていたのではないかと思います。 でも、 神様は決して証人としての信仰生活を終わりにはなさいませんでした。 信徒の方とご家族の家に病床聖餐で行くと、 お祈りや聖歌のところでわずかですがうめき声を出され、 ご一緒に唱和されているようでした。 そして車椅子で陪餐に与り、 わたし達が帰るときに涙を浮かべておられるのを見たとき、 ああこうして一緒に陪餐に与り神様の恵みを頂くことの喜びと、 そして信仰の友との交わりを大切にされている涙であることを実感しました。 私たちこそあらためて主日ごとに、 陪餐の恵みに与る喜びを大切にし、 信仰の交わりが与えられていることを大切に、 多くの信仰の諸先輩の証人たちに囲まれつつ励まされている自分がここに居ることに気が付きましょう。 ここに教会の原点があるように思いました。 そしてチームの監督が 「後は任せろ」 と言われたように、 出来ないことの悔しさなどすべてのことを主イエス様にお任せし、 信仰生活のゴールで待っていてくださる主イエス様にひたすら目を向けてこの1年の信仰の歩みの上に神様の祝福と導きを祈りましょう。

司祭 マルコ 箭野 眞理
(豊橋昇天教会 牧師)