『命 名』

新春を告げる恒例の箱根駅伝は今年も熱戦が繰り広げられました。たかがタスキ、されどタスキで、10位以内に入れるかどうかで来年のシード校に決まり、同時に来年の受験者数も増えるので、学校の名誉と将来にもかかっており、一枚の布に託された思いをつなぐタスキへの意気込みはいやがうえにも増してきます。走るのは選手ですが、表示されるのは学校の名前です。その名前を担って走っています。今年の女子高校駅伝はパリッシュにあるチームが全国制覇を果たしています。

今年は元旦が主日と重なり、「主イエス命名の日」の記念を新年の始まりに、初ミサに与かることが出来ました。降誕日から八日目、ルカ福音書2章21節に「八日たって…イエスと名付けられた」とあり、家畜小屋に生まれた幼子にイエスという名前が付けられました。ルカ福音書ではイエスの命名は、神の使いがマリアに「イエスと名付けなさい」と告知しており、神様から与えられた名前がイエスでした。ヘブル語読みでは「ヨシュア」です。その意味は、神(ヤーウェ)は救いです。イエス様のご生涯そのものが神様の救いをもたらす出来事であることを示しています。ルカ福音書ではこの命名が割礼を受ける時とあります。古くは、1月1日は「受割礼日」でした。この規定はレビ記12章3節にあり、バビロニア捕囚後、国や財産や家など全てを失ったイスラエルの民が、割礼を受けることにより、新たな信仰共同体の一員となるしるしを帯びる者の歩みを始めることが出来ました。創世記17章には、この割礼はアブラムが神様と契約を結ぶしるしとして行われていると同時に、「アブラム」から「アブラハム」へと新しく名前が神様から与えられた時であり、アブラハムとなって新たに神様の祝福と導きの道を歩むものとなった時です。

2012年の幕開けです。今年頂いた年賀状に、ある教区の主教様から「今年は教区成立100周年ですね」と励ましの言葉を頂きました。そうです。中部教区は今年教区成立100周年を迎える時です。100周年は教区の誕生と同時に「中部地方部(現在の中部教区)」という名前が付けられた時でもあります。そこには多くの信徒・教役者の祈りと支えが込められています。遠くはカナダからの祈りです。先日開かれた新旧合同教会委員会で、100周年募金の事が話され、ある委員さんから募金以上に参加するようにしましょうと提案されました。私たちはイエス様の愛に連なる信仰共同体の一員です。一人ひとりキリストに連なる名前(教名)を戴く者です。12月に豊田聖ペテロ聖パウロ教会で洗礼堅信の恵みにご夫妻が与かりました。信仰のタスキがかけられ3代目のクリスチャンです。新たな百年に向けての一歩が始まる時です。主と共に。

司祭 マルコ 箭野 眞理
(豊橋昇天教会牧師、豊田聖ペテロ聖パウロ教会管理牧師)

「第59総会を終えて思うこと」

日本聖公会第59(定期)総会が終わりました。24の決議がなされましたが、その中に「原発のない世界を求めて」という声明を採択する件がありました。昨年の東日本大震災以降、日本のキリスト教各教派から原発事故に関する声明が出されています。日本聖公会でも『原発事故と放射能に関してのワーキンググループ』が設置され、原発問題に関して協議をして来ました。今回の声明はこのワーキンググループが原案を作成し、主教会が最終的に検討し提出されたものです。

この総会において日本聖公会は原発を撤廃することを決議しました。原発の全面撤廃については様々な課題や意見があり、一朝一夕に解決する問題ではありません。しかし、原発事故によって多くの人々のいのちや生活が脅かされています(動物や自然も)。この現実を前に日本聖公会としての原発問題に対する態度表明が求められているのです。

原発撤廃のためにどのような具体的な段階を経なければならないのかは引き続きワーキンググループでも検討していくことになるでしょう。同時に、わたしたちの生活様式の転換も求められています。重い課題ではありますが、この決議を受け止めてまいりましょう。

この総会では沖縄教区の主教選挙が行われる予定でしたが、候補者の推薦がなく、結局選挙は行われませんでした。今後のことは主教会に委ねられました。私は議員や代議員の方々がこの結果を冷静に受け止めたように感じました。異常な事態ではありますが、沖縄教区、そして、日本聖公会にとっての何か新しい変化の兆しかもしれません。聖霊は何かを『禁ずる』こともあります。ただし、それは更に別の良い方向へと私たちを導くためであることを信じます。

「A・C・ショー司祭と中部教区」 2012年2月

A・C・ショー司祭と中部教区の関係と言いますと、すぐに思い浮かぶのが軽井沢のことです。軽井沢に第1号の別荘を作り、「軽井沢の恩父」とも呼ばれ、毎年、「軽井沢ショー祭」も開かれています。また、現礼拝堂もショー司祭が建てたものです。

このようにショー司祭と中部教区と言いますと軽井沢との関係だけのように思われがちですが、しかし、中部教区とはもっと深い関わりがあるのです。それは、中部教区最初のカナダ聖公会宣教師であったJ・C・ロビンソン司祭と、その3年後に長野で伝道を開始されたJ・G・ウォーラー司祭との関わりです。

ウォーラー司祭は自著「日本におけるカナダ人の伝道」において次のように述べています。「日本に来てから数ヶ月、ウォーラー夫妻はかつてのロビンソン夫妻のように、東京に滞在し、アーチディーコン・ショウ夫妻の助力で準備の期間をすごした。事実、ウォーラー師らは到着一ヶ月ショウ師の客として過ごした。ショウ師は伝道する都市を選ぶための援助を惜しまなかった。」(大江真道司祭訳)

ロビンソン司祭も自著の中で夫妻がショー司祭によって「暖かく迎えられた」ことを記しています。ロビンソン夫妻は2ヶ月ほどショー司祭のところに滞在し、名古屋に向かいました。ショー司祭が両師と同じカナダ人であり、先輩聖職であったから当然であるとしても、全く未知の国でこれから伝道を始めようとしていた両宣教師夫妻にとってショー司祭から与えられた暖かい配慮は大変心強いものであったに違いありません。このように中部教区前史におけるショー司祭の貢献は間接的ではありますが大きなものがあるのです。教区成立100年を迎えるにあたりそのことも覚えたいと思います。

『祝 主イエス御降誕』 

クリスマスは、今や私達の国でも国民的行事になりました。今年も街をクリスマスの飾り付けが美しく装い、クリスマスキャロルが聞こえてくるという季節になりました。

私はこの季節になるといつも想い出される事があります。それは十数年前の事ですが、ある求道者の方でしたが、「自分はこの雰囲気の中で一緒にクリスマスを喜べない!」と発言されたのでした。さらにその方は言われました。「ローソクや照明を多用し、うれしい楽しい歌ばかりが歌われ、み子イエスの誕生をうんとロマンチックに演出する。そしてサンタクロース、クリスマスプレゼントと神の愛・人の愛を甘く語られ強調される…そのようなクリスマスを私は受け容れられない」と。

私はこの時、軽いショックを受けました。何故なら私にとってクリスマスは、子供の頃からはしゃぎまわりハイテンションで過ごす時だったからです。しかし私は同時に次の事に気付かされました。

キリスト教(聖書)のメッセージが日本に土着化され、クリスマスの行事が国民的行事になる程発展したにもかかわらず「すべての人を照らす光」(ヨハネ1・9)や「民全体に与えられる大きな喜び」(ルカ2・10)から漏れたり、届かなかったりする事があるのだ、そのような多くの人々がいらっしゃるのだという事に。これは大切な発言・指摘だと、今もこの時の事を感謝して思い出します。その時以来、私はクリスマスを迎える時に、ただ「メリークリスマス」を演出するような事をちゅうちょするようになりました。「先生、もう少し教会内の飾り付けを豊かに華やかに致しましょうよ(街に負けないように)」「いや、教会のクリスマスは出来るだけ素朴にシンプルな方がいいですよ」と、こんな会話を何回か交わしてきました。

クリスマスは、最初の福音書マルコ福音書には記述がありませんし、ルカとマタイ伝では、最初にみ子の降誕を知らされた人は特定の人で、他の人は知らなかったり排除したりというような記述、ヨハネ伝は、み子の降誕の描写は全くなく理屈で説明しているというような聖書の記述でわかるように、最初からクリスチャンの関心事ではありませんでした。

ですからキリスト教会は、クリスマスは「み子イエスの誕生日」としてお祝いするのは、とても大切な信仰的行為として勧めていますが、同時にどのようなメッセージを意識して、この時をお祝いすべきなのかを定めてはいないと言っていいと思います。

私はこの文の冒頭に記した出会いがあって以来、毎年繰り返しあらためて問い直します。クリスマスの意味は何か?と。今年この文を書くにあたり黙想いたします。

それは、「山上の説教」の「八福の教え」(マタイ5・3~10)にて語られている人々が、文字通りそのようになり救われる為にみ子イエス様の誕生という出来事があったのではないかと。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる、

柔和な人々は、…(略)」

司祭 パウロ 松本 正俊
(一宮聖光教会牧師)

『いっしょに歩こう!』

「津波ごっこしようか、それとも、お葬式ごっこしようか?」子どもたちの声を聞いて、傍にいた私たちは、一瞬、言葉を失いました。

2011年3月11日、東日本大震災が宮城県亘理町にあったふじ幼稚園を襲いました。大きな地震の後、先生たちは子どもたちを園庭に避難させましたが、雪も降り始めたので、園児たちを幼稚園バスに分乗させました。その時、大きな津波が襲いました。黒く濁った海水は、あっという間に園バスの中に流れ込み、次々に園児たちをのみ込み始めました。先生たちも背丈を超える水に浸かりながら、園児たちをバスの屋根まで引き上げようとしましたが、残念ながら全員を救出することができず、8名の尊い生命が失われました。また、この時、教師として子どもたちの命を守るため、懸命に働いた磯山聖ヨハネ教会の信徒中曽順子さんは、その夜、力尽き、天国に召されていきました。

9月のはじめ、聖公会の「いっしょに歩こう!プロジェクト」の活動にボランティアとして参加した名古屋柳城短期大学の学生及びスタッフの方々と、8月にようやく再開したふじ幼稚園の仮園舎を訪問しました。一見、明るく元気で、どんな幼稚園でも見られる子どもたちの姿でしたが、言葉や行動の端々に、地震と津波に襲われた時の恐怖、友だちや先生を失った心の痛み、また、その後の避難生活の影響などが、子どもたちの心の中に深く入り込んでいる様子が感じられました。

先生にくっついたまま離れようとしない子。彼は、波に襲われた園バスの水の中から引き上げられた子でした。中には、先生がたまたま水の中に伸ばした手の先に引っかかった子どももいたそうです。真っ黒な水の中でもがきながら、どんなに怖い思いをしたことでしょうか。また、給食の間、ひっきりなしに隣の子にちょっかいを出している子。彼は、今、仮設住宅で家族と共に住んでいますが、隣の家との壁が薄いので、いつも母親に「走るな、騒ぐな」と叱られているそうです。

冒頭の子どもたちの言葉に彼らの複雑な思いが込められているように感じます。たくさんの友だちを一度に失った悲しみを、子どもたちはどのように小さな心に受けとめているのでしょうか。いつになったら、子どもたちの心に伸び伸びとした本当の明るさが戻るのでしょうか。

その苦しみは大人も同じです。園長先生は、その日、たまたま出張中で留守でした。園長先生は、8名の子どもたちの生命を守れなかったことの責任を感じ、自分も天国に行って、その子たちの母親になろうかと思ったそうです。でも、生き残った子どもたちも、様々な心の傷を負っていることを思った時、彼らの心を癒し、明るく育てることが自分の仕事ではないのかと、思い直したと話されました。

大人も子どもも深く傷ついています。被災から半年が過ぎ、徐々に現実に引き戻されるにつれて、より孤独と絶望感を深めている人々も少なくないと聞きます。その意味で、被災者への支援活動はこれからが本番なのかもしれません。

「いっしょに歩こう!プロジェクト」が作成したDVDの最後で、東北教区の加藤博道主教が「忘れ去られていくことが、一番、恐ろしい」と語っています。被災した人々にそのような思いをさせてはならないと、あらためて感じています。神様が、被災した一人一人に時には寄り添い、時には彼らを背負いながら、いっしょに歩いていることを信じて、私たちもその歩みに加わっていきたいと思います。いつの日か人々の目から涙が拭い去られ、心の底から笑いあえる時が来ることを祈りながら。

司祭 テモテ 野村 潔
(名古屋聖マルコ教会牧師)

「聖徒の交わり」

先日、長野伝道区合同礼拝が軽井沢でありました。それに先立ち、長野聖救主教会が中心となって、ウォーラー司祭夫人リディアさんと息子さんのジャスティンさんの墓参の祈りが軽井沢外国人墓地で行われました。リディア夫人はウォーラー司祭と共に1890 (明治23) 年に来日し、以来、1938(昭和13)年肺炎のため73歳で逝去されるまでウォーラー司祭と共に教会のためにご奉仕されました。

ウォーラー司祭は夫人の死去に際して、「愛する妻が、突然肺炎のために、召を受けましたことは、私にとつて云ひ難き悲痛であります。」と言い、しかし、「彼女は、今や愛する者らの住む国の一人に加へられましたが、私共が神の祭壇の前に跪き、愛し奉る主が…私共の為に献げ給ふた恵みの犠牲なる聖餐を戴いて、聖徒の交りを実行する時、彼等は常に私と一致するのです。」と言っておられます。ウォーラー司祭は聖餐によって愛する夫人や息子さんたちと常に聖徒の交わりにあることを確信しておられたのです。

ウォーラー司祭は1945年、カナダで逝去されますが、ハミルトン主教はその追悼記事の中で、「彼は目に見える、そして、目に見えない『聖徒の交わり』を固く信じていた。」と書いておられます。この記事からもウォーラー司祭が聖徒の交わりに生きる人であったことが良く分かります。

外国人墓地の片隅には、中部教区最初のカナダ人宣教師であったJ・C・ロビンソン司祭関係のお墓(多分お孫さんたちか?)もあるのですが、実は、ロビンソン司祭の玄孫にあたる方が合同礼拝に参加されました。上田市丸子に在住とのこと。土井司祭から聞いてはいたのですが、不思議な交わりを感ぜずにはおられませんでした。

〈「 」内は長野聖救主教会刊「ウォーラー司祭~その生涯と家庭」より〉

『36年目の再会』

私には今に続く小学校から高校までの友人がいません。いつも「元気と明るさだけが取柄」と言われていますので、信じられないという人も多いかも知れません。小学校の高学年の頃から「牧師の子ども」であることに強い嫌悪感を抱きはじめ、表面的には明るく振舞ってはいましたが、内心は自暴自棄の状態が長く続きました。詳細は割愛しますが、何より当時の我が家では主日礼拝を優先するのが当り前でしたので、日曜日は好きなクラブ活動(サッカー)を試合であっても休まなければならないこともありました。それでも何故か牧師である父親のことは尊敬していて、直接不満を言ったという記憶はありません。中学生になるとサッカー部に入ることさえ叶わず、私は意識的にそれまでの仲間たちから離れていきました。学校の先生にも些細なことで反発しました。今思い返すと、かなり屈折した思春期を過ごしたと言えますが、そのような不安定な心の状態は徐々に解消されていったとは言え、地元の高校を卒業するまで続いたように思います。現実逃避していたと言われればそれまでですが、やはり私にとってこの時代のことは、できれば忘れたい、あまり触れたくない、隠したいというのが本音でした。

ところがこの夏、突然一本の電話が掛かってきました。「〇〇小学校出身のFだけど、覚えてるか?」。名前を聞いて、私はすぐに小学校時代のサッカー部の仲間だと分かりました。彼は小学校卒業と同時に東京へ引っ越したため、それ以来実に36年振りに聞く声でした。興奮した気持ちを抑えながら話を聞くと、以前から東京にいる小学校の仲間で同窓会(飲み会)を定期的に開いているとのことで、どうやらそこで「土井らしき人物が牧師姿でテレビに出ていた」という話題で盛り上がったらしいのです。それで幹事をしているFが事実確認をすることになったという次第で、更に「来週の水曜日に家族連れで軽井沢へ行くから会えるか?」との質問。その時の気持ちを上手く表現することはできませんが、とにかく経験したことのない心躍るような嬉しい気持ちに満たされ、「早く会いたい」という一心でその日を待ちました。不思議なもので、実際再会してみるとすぐに36年のブランクは埋まり、小学校時代の話に花が咲きました。その中で、当時の自分の思いも少し話しましたが、「へ~、そうだったんだ。あまり覚えてないけどね」とあっさりかわされ、「それより今度から土井も出てこいよ。みんな懐かしがってるし…」という彼の言葉に、それまでずっと心のどこかに重くのし掛かっていた大きな重りが瞬時に取り払われたような思いになりました。文字通り気が楽になったのです。

そのような経験を通して直感的に感じたことは、おそらくかつて主イエスに出会った人々も似たような思いになったのではないか。勿論もっと比べものにならない程の大きな喜びに満たされたのではないかということです。なぜなら聖書に描かれるそれらの人々の多くは、社会的にも宗教的にも軽視され、疎外され、神様の祝福を受ける価値のない者として差別され、自らの人生に積極的な意味を見出すこともできずに日々打ちひしがれていたと思うからです。そのような彼らにとって、いわば自分の負の人生をそのまま受けとめ、共感し、共に歩んでくれる主イエスの存在は、どれほどの慰めと喜びと勇気を与えたことでしょう。その後の彼らの人生観は一変したに違いありません。

私の生涯において予想も期待もしていなかった36年目の再会は、多くのことを学ばせてくれました。そしてこれからの人生が、恵みのうちに大きく広がっていくことを予感しています。次回の同窓会は12月に渋谷で行うとのこと。今から楽しみです。

司祭 テモテ 土井 宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)

「教区成立100年を迎えるに当たって」

9月号から毎号継続して、「中部教区成立100周年記念事業実行委員会」の報告が掲載されることになっています。改めて申し上げるまでもなく、来年、中部教区は教区成立100周年を迎えます。中部教区へのカナダ聖公会最初の宣教は1888(明治21)年に開始されましたが、それから24年後の1912(大正元)年にハミルトン司祭が中部教区(地方部)最初の主教として聖別され、中部教区が成立しました。

実行委員会では来年の100周年に向けて準備を進めています。”ともしび”を通して皆様に逐一進行状況をお伝えし、また、ご協力をお願いいたしますが、どうか、教区の皆様全員が教区100周年をお覚えいただきたいと切に願っております。

と言いますのも、わたしは中部教区が成立100周年を記念するということはわたしたちの責任でもあると考えているからです。それは100年経ったからお祝いしましょうということではなく、宣教開始から教区成立を経て今日まで与えられてきたカナダ聖公会からの有形無形にわたる多くの恵みに感謝し、そのお返しをしなければならないと考えるからです。(もちろん、カナダ聖公会が1970年、中部教区への援助を打ち切ってからは、わたしたちがこの教区を支えて来ていることも踏まえてですが。) そのお返しとはカナダ聖公会に何かを返すということではなく、カナダ聖公会から継承した信仰を次の100年、200年に向かって引き渡していくことなのです。それがわたしたちに課された責任なのです。来るべき100周年を神様からのチャンスと捉え、わたしたち自身の信仰の在り方、教区の宣教の在り方をしっかり見直していきたいと願うのです。

『互いに尊敬する心』

9月に入り、新学期が始まる季節になりました。今年の暑い夏は、夏休みを利用して多くの学生が東日本大震災の被災地にボランティアに出かけた、熱い夏でもあったことと思います。日本聖公会の東日本大震災被災者支援活動は、「いっしょに歩こう!プロジェクト」と名付けられ、その方針の一番目は、「困難を負って生きる人々に敬意を払っていっしょに歩きます」とされています。この趣旨は、『復興支援』という上に立った見方ではなく、イエス様が歩かれた道をたどるように、共に歩かせていただきたいという思いがあると聞いています。そしてこれは、新生病院に勤務する私にとっても、とても大切な思いではないかと考えています。

病院のチャプレンとして病室を訪問するとき、全く相手にされないことがあります。そんなときのことを思い返してみると、「キリスト者である私が、スピリチュアルな痛みを持つ患者さんを救いにいくのだ」という思いがあることに気づかされます。病室でお話できるときというのは、「いっしょに歩ませていただく」という、相手に対する敬意の思いがあるときです。そして、この思いは、新生病院の伝統のなかに、脈々と培われているものであることも見逃すことはできません。

新生病院(新生療養所)の初代所長であり、私の敬愛するスタート博士は、当時の医師にはめずらしく「患者にすこしでも温かいものをと配膳車を自分で押して配ったりもした」と伝えられていますし、当時のチャプレンの豊岡司祭は「医師としての技術の他に、むしろ患者と医師の人間関係こそが大切」との趣旨を語っています。このようなスタート博士の患者さんに敬意を払う姿が受け継がれ、新生病院は患者中心の医療機関を目指しているのであると思います。

イエス様が、サマリアの女と初めて出会われたとき、イエス様の方から、この女性に「水を飲ませてください」と頼んでいます。これは、このサマリアの女から、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」という困惑の言葉で回答されるほどのものです。当時のユダヤ人の男性が、ユダヤ人と敵対するサマリア人の、それも女性に、敬意を払って言葉をかけることはあり得ないことだったからです。

イエス様は、けっして上からの目線で人々を救った方ではありませんでした。そして、私たちも、そうあらねばならないと痛感いたします。どうしても世間的に優位な立場にある私たちが、困難を負って生きる人々に、「水を飲ませてください」と頼む勇気は、どこからくるのでしょうか。それは、私たちも困難を負っているかのように振る舞うことにはないと思います。そうではなくて、「互いに尊敬する心」を持つということが大切である、と思います。逆に、いま何とか元気を出そうとして苦しんでいる方に「元気を出して」と言うことは誠に失礼です。元気がないときには一緒に悲しみ、元気が出てきたときには一緒に喜ぶことの意味を思い巡らしたいと思います。

聖職候補生 ヨセフ 石田 雅嗣
(新生礼拝堂勤務・新生病院チャプレン)

「夏の暑さと原発事故」

かつて、植松従爾主教は、「名古屋の暑さよ主を祝い、世々歌いあがめまつれ」と教区報に書いておられます。しかし、名古屋のような暑さでは「夏の暑さよ主を祝い」と言う前に冷房のスイッチに手が行ってしまうのですが、今年の夏は本当に夏の暑さの中で主をほめたたえなければならなくなりました。福島第一原発事故や原発の安全点検のために多くの原発が止まってしまい、必要な電力供給ができないため節電を強いられているからです。

改めて、わたしたちの生活が原発に依存していたことに気付かされました。それにしても、わたし自身原発に対していかに無知であったのか、”原発は事故があったら恐ろしい”程度の認識しかなかったことを恥じなければなりません。事故から5ヶ月が経とうとしているのにいまだに先が見えません。

残念ながら今回の事故で、一度原発事故が起こったらどうなるのかということが明白になりました。人間の命や生活の、ほとんどすべてにわたって影響が及ぶのです。しかも長期間にわたって。日本には現在54基の原発があります。すべてが海岸沿いにあります。再び大きな地震や津波が来たらどうなるのか。中部電力浜岡原発は津波防止のために高さ18メートルの防波堤を何キロにもわたって作るという計画を立てているそうです。18メートルの防波堤が何キロにもわたっている姿をどう想像したらいいのでしょうか。

わたしたちの生活はこれでいいのか。本当に見直す時が来ているのではないか。快適さを求めるあまり生命や生活を代償にしてしまってはいないか。短絡的に原発廃止とは言いませんが、しかし、基本的にわたしたちの生活は”脱原発”に向かわざるを得ないのではないでしょうか。