「宣教の基本に」

8月下旬、プレ宣教協議会に参加してきました。2012年に開かれる「日本聖公会宣教協議会」の準備のための集まりです。「宣教する共同体のありようを求めて」というテーマでした。参加者は全員で80名でした。全教区からほぼ均等に参加者があり、女性の参加も約30名と多く、久しぶりの管区の集まりへの参加でしたが、何となく力強い思いがしました。植松誠首座主教はこの協議会を「お祭り」と表現しておられましたが、うまい表現だなと思いました。参加者がしかめ面をし、角付き合わせて議論しているばかりでは宣教への意欲は生まれてきません。そこに参加する人が大いに楽しんでわいわいするところから宣教への意欲が生まれてくるのです。そういう意味では今回の協議会はまだ本当にはお祭りにはなっていなかったかもしれませんが、本番の宣教協議会は大いに楽しめる協議会にしたいものです。

今回はいろいろな課題について話し合いましたが、各種の統計的な数字だけを見ますと日本聖公会の前途は悲観的です。どうしたらいいのでしょうか。ふと、岡谷聖バルナバ教会聖堂聖別記念誌の中にあった、聖堂建築当時の牧師であったコーリー司祭の文章が思い起こされました。コーリー司祭はこう書いておられます。「画期的な宣教方法などない。また、焦ると良い結果は出ないということを経験上わかっている。わたしたちは洗礼志願者と一年間祈りを共にし、そして洗礼へと導く。こうすることで、数は少なくても信仰深く陪餐を欠かすことのない信仰共同体を創り上げることができる。」

そっくりそのまま現代の教会にあてはめることはできないかもしれません。しかし、ここには大切な宣教・牧会の基本が示されているように思えるのです。

『語られぬ言葉』

この夏、勤務する学校の生徒の一人が急逝しました。前日まで、保育園でのボランティアに喜んで参加しており、翌日もまた来るねと言ったまま、同日の深夜に突然亡くなりました。通夜と告別式に参列しましたが、ご両親、特にお母様の憔悴した様子は痛々しく、同級生たちもあまりに突然の別れという現実を受け入れがたい様子でした。

そんな中、今度はわたしの親戚の高校生が海水浴中におぼれ、行方不明になるという事件が起きました。おじが心配して電話したところ、両親は口もきけない状態だったということで、わたしとしてもただ祈るしかありませんでした。まさかこんなことになるなど、本人を含め誰一人考えていなかったでしょう。あの日に海になど行かないでいてくれたら、と思わないではいられません。

このような、未来のある子どもや青年の突然の死に接する時、わたしたちにできることは、「もし…だったら」という、言っても詮無いこととは分かっていながらあえて言わずにはいられない、その言葉を繰り返すことだけです。この、永遠に答えのない問いの循環に留まらざるを得ないわたしたちは、命にまつわる事柄に関して人間がいかに無力であるかということを思い知らされます。

また、わたしの生徒の突然の死は、単なる悲しみだけではない別の問いをわたしに突きつけました。赴任からまだ4ヶ月弱という期間の中で、残念ながら彼と個人的に言葉を交わした記憶がないのですが、しかし彼と自分とは礼拝の時間を通して毎週顔を合わせていたはずです。彼がこんなにも早く召されるのだったら、彼にもっと語るべきことがあったのではないだろうか。一体自分は、チャペルで何を語っていたのだろうか。そして彼はそれをどう聞いていてくれたのだろうか。

8月というのは日本にとって特別な月で、戦争、ことに日本による侵略や、原爆の投下や空襲によって、多くの命が失われたことを思い起こす時です。身近な一人が失われたことの大きさにショックを受ける中で、戦争によって失われた一つ一つの命も同じ重みを持つことを改めて感じさせられました。年々戦争の記憶が薄れ、戦争が可能な「普通の国」になろうとする力が強く働いているように見える状況の中でわたしたちがすべきことは、「もし…だったら」という空しい思考実験を繰り返すことではなく、「今語るべきこと」を今、もしかしたら明日はもう会うことができないかも知れない人に向かって語ることではないかと思うのです。

思いもかけぬ突然の別れを強いられた人々は、きっと「語られぬ言葉」をたくさん持っていたはずです。その「語られぬ言葉」をわたしたちは聴き、そして語らなければならないと思います。

「わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。』」(エレ1・6~8a)

司祭 ダビデ 市原 信太郎
(立教池袋中学校・高等学校チャプレン)

「夏の暑さの中で感じたこと」

毎日異常な暑さが続いています。先日新潟伝道区の合同礼拝に行って来ました。礼拝後、会館に場所を移し、食事をいただき、その後で各教会の紹介がありました。N教会からはある司祭夫人が参加しておられました。93歳になられます。教会紹介では夫人が教会を代表して紹介をしてくださいました。参加者一人一人の紹介とご自分の近況や合同礼拝に参加して感じたことの内容でした。紹介が終わると少しどよめきが起こりました。司会者が『このどよめきは何でしょうか』と言われたのが印象的でした。

どうしてかと言いますと、夫人の大変的確で手短な、かつ一言も無駄のない紹介の言葉に、そしてそのお姿の前に一同感嘆の声を上げたのでした。93歳のお年の割にはという思いはあったでしょう。しかし、それを補って余りあるかくしゃくとしたお姿と話しぶりに圧倒されたのでした。

礼拝堂も会館も冷房はありませんでした。わたしなどは礼拝で少しまいっていたのですが、夫人のそのようなお姿に接しますと暑いなどとは言っておられない思いがしました。ある司祭は「我々は93歳までは生きられませんよ」と少しやけになっていましたが、わたしも同感でした。あの見事さは何なのか。どうしたらあのようになれるのか。年の功なのか。そうではないでしょう。その年になったらそうなれるというものではありません。これまでの生き方(信仰生活)の結果なのです。日々の祈りと感謝の賜物でしょう。夫人のお言葉からそう感じました。わたしたちはそのような信仰者の姿に触れますと、大いに励まされます。言葉だけではなくその存在に力を与えられます。これからもお元気で信仰生活をお続けくださることを願っています。

『他人事に関わるなんて』

教会・幼稚園に出入りしているキリスト教書店さんが、毎月プレゼントしてくださる雑誌『いのちのことば』を楽しみにして読んでいる。中でも連載の「わが父の家には住処おほし―北九州・絆の創造の現場から」(筆者は奥田知志氏)は、毎号示唆を受ける文章である。21年間ホームレス支援に取り組んできた奥田氏自らの、経験に基づいた話は、私にとって非常に説得力のあるものであると同時に、心に突き刺さってくるトゲでもある。
7月号も、私は奥田氏からきびしく叱咤されているような思いで、その文章を読んだ。ホームレス状態になった人にとって一番苦しいのは、《隣人不在の状態》。誰も彼の存在を気にも留めず、関わろうともせず「向こう側を」通り過ぎる。この隣人不在の状態は《路上だけの問題ではない》と奥田氏は言う。《2000年5月に起こった佐賀バスジャック事件で逮捕された当時17歳の少年の母がある大学教授に宛てた手紙》に、いじめが原因で中学3年生の頃から、荒れ始めた息子のことを数々の施設に相談しても、《動いてくださる先生は一人もいらっしゃらない》。朝日新聞に掲載されたこの母親の手紙について奥田氏は次のように書いている。《手紙を読んだ日の衝撃を忘れない。教会はあの日何をしていたのか、私はどこにいたのか。》
奥田氏によれば、私たちは「関わらない理由」を準備し、「助けないための理屈」として「自己責任論」を振りかざしているというのである。「自分の責任なのだから自分で解決しなさい。私たちは他人なのだから要らない口出しはしないよ」ということか。
見えないふりをして向こう側をさっさと通り過ぎていけば、煩わしい関わりを持たなくても済む。自分の時間、自分の自由、自分のお金を守ることが出来る。
本当にそれでいいのか! 奥田氏は《「赤の他人の事柄に口を出せ」とイエスは仰る》と書いている。十字架上で祭司長たちや律法学者たちから嘲弄された。《「他人のことに必死になって自分は後回し。イエスはアホや」と。》そして今日に生きる《私たちの信仰をイエスの十字架が問う。「賢く生きすぎていないか」。「キリスト者としてちゃんと嘲弄されているか」》。
今年も、8月がめぐって来た。私は昨年訪れた広島、そして沖縄をまざまざと思い出す。
かつて人間が犯した恐ろしい所業、そして今も続く沖縄に於ける「捨て石作戦」…。
いつの間にか沖縄に関する報道をほとんど目や耳にすることがなくなってしまった。米軍基地があることによって、命、生活を脅かされている沖縄の人たちのことに対する関心がまた薄れてきてしまっているのではないだろうか。脅かされているのは私たち沖縄県民以外の者の責任。日米安保体制を認め、沖縄県にのみ米軍基地を押しつけているのは他ならぬ私たち本土の人間ではないか。これは他人事ではない。軍事力による安全保障が必要と考えるならば、米軍基地は日本全土に平等に配置されなければならない。毎日轟音が鳴り響く生活、いつ頭上に米軍ヘリが落ちてこないかもわからない危険な状況も日本全土で共有すべきである。
あまり偉そうなことは言えない。私はこれまで、見て見ぬふりをして傍らを通り過ぎることが多かった。しかし、せめて心の痛みを感じ、その痛みを持ち続ける者でありたいと思っている。

司祭 イサク 伊 藤 幸 雄
(一宮聖光教会牧師・可児伝道所管理司祭)

「聖公会の多様性と一致の危機」

わたしたちの聖公会は多様性と(の)一致を特徴としています。いろいろな国々やそれに伴う文化、言語、習慣等を抱える聖公会がそれぞれの地域でそれぞれの地域にふさわしい信仰を表わしていくためには当然のことと言えるでしょう。規則で縛るのではなく、最低限の信仰的原則を守る限り、その多様性と一致は保たれるのだというのが聖公会の伝統だったように思います。

ところが、最近その多様性と一致のバランスが崩れかけています。殊に最近の、アメリカ聖公会における、同性愛を公言する一女性司祭の補佐主教への主教按手は全聖公会に大きな波紋を投げかけています。カンタベリー大主教はその按手式をしないようにアメリカ聖公会に警告を発していました。しかし、結果的にアメリカ聖公会は按手式を執行しました。

本来ですと、カンタベリー大主教といえども他管区の事柄に口をはさむことはできないのですが、この件については以前から全聖公会的な会議において、世界中の聖公会の教会で、ある程度の理解が得られるまではそのような按手はしないようにと話し合われていたのです。しかし、今回のような結果に至ってしまいました。カンタベリー大主教はアメリカ聖公会に対してのある種の制裁として、アメリカ聖公会は全聖公会の公式な会議等においてはメンバーとしてではなく顧問的な立場で出席すべきであると提唱しています。

アメリカ聖公会の多様性と、全聖公会の霊的指導者として一致を願うカンタベリー大主教との不一致です。多様性は認められなければなりませんが、全聖公会的な理解も一致のためにはまた必要なのであり、大変厳しい問題です。

『罪人バラバ、その後…』

皆さん、聖書の登場人物の中で、”その後”が気になる人物はいないでしょうか?私は、沢山います。例えば、主イエスの十字架により、自分自身の改心とは全く関係なく、突如として罪を赦され、生かされることとなった罪人バラバ。暴動を扇動し、強盗や殺人まで犯し、死刑を宣告されていた大罪人とも言える罪人バラバの人生は、主イエスの十字架によって、極めて現実的に180度転換し、死から生へと向かっていきます。
皆さん、目を閉じて、少し想像してみてください。
…ある日の明け方、突然始まった狂気に満ちた裁判。その中心にいるのは、威厳に包まれながらも、不思議なまでに何も語らず、ただひたすら群衆に罵声を浴びせ続けられているナザレのイエス。その様子を訳も分からず、ただ興味津々に牢獄から覗き込んでいた罪人バラバ。この時は、まだ、このナザレのイエスの裁判は罪人バラバにとって全くの他人事であり、これまで自分自身も経験し、また、何度も牢獄から垣間見てきた他の罪人の裁判と何ら変わりありません。
しかし、群衆の「バラバを釈放しろ」という叫びによって、ナザレのイエスの裁判は罪人バラバにとって一変します…、自分自身の命をも左右する裁判に。罪人バラバは固唾を呑んで、その裁判の行方を見守っていました。そして、群衆の「十字架につけろ」という主イエスへの罵声や叫びが頂点に達した時、罪人バラバは自分の釈放を確認したに違いありません。”これで俺は助かる!! “と。罪人バラバにとって、群衆の「十字架につけろ」という主イエスへの罵声や叫びこそが、自分自身の救いを告げ知らせるものでした。”ラッキー!棚からぼた餅”程度の救いの宣言が。
そして、釈放され、ナザレのイエスの十字架上での死を見届けた元罪人バラバは、数日後、何を感じ、何を思ったのでしょうか?
数日間、”棚からぼた餅”の命を生きた元罪人バラバは、こう疑問を感じたのではないでしょうか。”なぜ、自分が生かされたのか?”、”まさに自分の身代わりとなって十字架上で死んだ、あのナザレのイエスとは、一体、何者だったのか?”と。そして、こう望んだのではないでしょうか。”あの時、黙し続けていたナザレのイエスは、かつて何を語り、何を行ったのか”と。この疑問を抱いた瞬間から、”棚からぼた餅”の命を生きていた元罪人バラバの命は、”自分の、今ある命の根源を探る”命へと変わります。求道者バラバの誕生です。その命を生きる中で、群衆の「十字架につけろ」という主イエスへの罵声や叫びに自分の救いの確信を得た自分の誤りに気づき、こう悟ります。”私の真の救いとは、あの時、黙し続けていたナザレのイエスそのものである! 私は、彼の命そのものを受け継いだのだ!! ナザレのイエスこそ、主である”と。
彼は、このように信仰者バラバへと変えられた。私は、そう信じています。そして、同時に、信仰者バラバを羨ましく思います。主イエスの命を名実ともにダイレクトに受け継ぎ、それを確信し、希望と喜びと信仰の中を歩めた彼を。私の命と信仰の中に、そして、皆さんの命と信仰の中に、バラバのような回心と主イエスの命が脈々と受け継がれますように、いつもお祈りしています。

司祭 ヨセフ 下原 太介
(岐阜聖パウロ教会牧師・大垣聖ペテロ教会管理・福島教会管理)

「ハミルトン主教と日本アルプス」

中部教区は2012年に教区成立100周年を迎えます。教区ではH・J・ハミルトン主教が1912(大正元)年10月18日、カナダで中部教区の初代主教に按手された年を教区設立の年と定めています。2012年10月8日には記念礼拝を計画しています。カナダ聖公会首座主教にもおいでいただきたいと思っています。教区の皆様も今から是非予定にお入れください。

ハミルトン主教は1892(明治25)年に来日し、すでに名古屋で伝道を始めていたロビンソン司祭に合流しますが、その2年後の1894年7月、日本アルプスを世界に紹介したことで有名なウェストン司祭と共に北アルプスを北から南に縦断し、最終的に御嶽山までの登山を敢行しています。ウェストン司祭の『日本アルプス 登山と探検』によりますと、ハミルトン主教はカナディアンロッキーでの野営生活の経験が豊富であり、この登山では料理長兼写真師の役割を引き受けたと記されています。前掲書にはハミルトン主教が撮った写真がたくさん掲載されていますし、旅の途中の村では、パン屋にパンの作り方を伝授したことも記されています。白馬岳への登山では熱を出してしまい、宿舎に一人取り残されてしまいます。きっと残念な思いだったに違いありません。

わたしはその登山のことを20数年前に新聞で知り、写真を見る限りではとても厳格な感じを受けていたハミルトン主教の、登山で料理を作り、写真を撮っている若き姿を想像して、何となくホッとした思いがしました。その登山で訪れた直江津(高田も経由)、糸魚川、福島にはその後教会が建てられたことを考えますと、その登山も中部教区にとっては神様のご計画のうちにあったのでしょうか。

「沖縄の旅」

6月18日から開かれる管区の「沖縄の旅」に今年は参加させていただきたいと思っています。今から24年前、中部教区の教役者会で沖縄を訪問し、戦跡を巡り、沖縄戦の話を聞き、沖縄教区の教役者の方々とも交わりをさせていただきました。わたしにとりましては初めての沖縄訪問で、沖縄の過去と現実を認識させられた大変貴重な経験でした。

強く印象に残っていますのは、ある信徒の方のお話でした。沖縄戦末期、住民たちがガマに逃げ込んでいた時の話だったと記憶しています。その方のお母さんがある時、その方の弟か妹である赤ちゃんを連れてガマを出て行ったそうです。そして、帰って来た時にはお母さん一人だったそうです。赤ちゃんはどうなったのか。お母さんはその後その事については一切語らなかったそうです。

このような悲しい物語は沖縄戦では枚挙にいとまがないのです。沖縄戦に限らずすべての戦争においてそうなのです。一番弱いところにすべての犠牲が向かってしまう、そのような現実こそが戦争の偽らざる実態だと思います。

もう一つ印象深かった話は、ベトナム戦争時のことで、爆撃機が沖縄からベトナムに飛び立っていたのですが、基地で働く人々が良心的サボタージュとして兵士の着る防弾チョッキの修理を故意に遅らせたそうです。基地で働く人たちの戦争への精一杯の小さな抵抗です。わたしたちはそのような小さな抵抗にこそ思いを向けなければならないのではないかと強く感じました。

65年という年月が経っても未だに沖縄から基地がなくならない。改めてその現実を直視しますと愕然とします。普天間基地問題も迷走しています。今年はぜひ現地で沖縄について考えたいと思っています。

『交じり合う教会』

「交じり合う教会」というイメージが思い浮かんだのは2008年度の「マルコ教会ビジョン」を考えていた時で した。

ルカ福音書の14章15節から24節の「大宴会のたとえ」が目の前にありました。「ああ、そういうことなんだ」としばし茫然としました。

そのたとえは、イエスと食事を共にしていた客の一人が、イエスに「神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう」と言いましたので、イエスは神の国を大宴会にたとえて話されます。

家の主人は大勢の人を宴会に招きますが、招かれた人は世間的なことを言い訳にして断ります。怒った主人は僕に「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて 来なさい」と言います。さらに、まだ席があるというので主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。

ああそうか、神の国はまぜこぜなんだ。貧しい人、体や精神に障がいのある人は勿論のこと、通りや路地裏に居る人も連れて来るなら、いろんな人がいるだろう。無頼の人、野宿の人もいて、外国人もいるはずだ。

こんなふうに「交じり合って」いるのが神の国だとしたら、教会もまぜこぜに「交じり合って」いるのがいいに違いない。

そうして、教会ビジョンの項目の一つに「交じり合う教会」が加えられました。

以前からマルコ教会は「交じり合い」が進行していました。

毎週木・金曜日昼の「聖堂で聖歌を歌おう」には知的障がいのある若者たちや近所の人、信徒が交じり合って聖歌を歌っています。

毎週水曜日は野宿生活の人たちにシャワーサービスを提供します。昼ご飯をご近所のボランティアの方々、信徒が作り、みんなで交じり合ってホールで頂きます。餅つきやお花見会、忘年会等でも交じり合います。バザーは交じり合いの力が最大に発揮される場です。

毎週水曜日夜の聖研には、いろんな人が交じり合って喧々諤々です。鉄道マニアの青年、老弁護士、起業家の女性、シャワーサービスの常連、信徒でない人、他教派の人たち、教区の他教会の人たちが交じり合ってきました。

これらの「交じり合い」が呼び水になって、礼拝にも「交じり合い」が現れてきています。

信じる人も信じない人も交じり合って聖堂を「いっぱい」にできれば素晴らしいです。

「交じり合う教会」には核となる信徒が求められます。幸いなことに、マルコ教会には自分のビジョンを持って、主体的に働き、小さき者のところへ降りていける人たちがいます。

「交じり合う」ことは面倒なことです。戸惑いがあり、軋轢が起こります。排除の論理が働くこともあります。

けれでも、このような困難そのものの中にこそ「『神の国』をあらかじめ示す地上の姿」にふさわしい教会の新しい可能性と希望がある、それが「交じり合う教会」のイメージなのです。

執事 ヨハネ 大和田 康司
(名古屋聖マルコ教会牧師補)

「名前」

主教に按手されて2ヶ月が過ぎようとしていますが、自分が主教であることに改めて気づかされる時があります。それは、聖餐式の代祷の〈わたしたちの主教ペテロ〉というところです。自分の洗礼名が唱えられ、すこしドキッとさせられ、あ、自分のことなんだと気づかされるのです。
イエス様は「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」と言っておられますが、名前を呼ぶ、名前が呼ばれるということは言うまでもなくとても大切なことです。顔が分かっていても名前が分からなければ話しかけようがありません。
4年前、上田に赴任しましたが、上田には保育園があります。当初、子供たちの名前も分かりませんでしたので、子供たちは単なる子供たちでしかありませんでした。しかし、1ヶ月、2ヶ月が過ぎるにしたがって、名前も顔も分かってきますと、その子供たちがとてもかわいい、大切な存在に変わって来ます。どこの保育園や幼稚園の子供たちよりもかわいい存在になるのです。
名前が分かり、名前を呼ぶことによりそこに関係が築かれていきます。信頼関係も出来てきます。保育園には乳児もいます。当然、まだ話など出来ません。しかし、話が出来ないからといって保育士は話しかけないでしょうか。もちろん、そんなことはありません。逆です。乳児の言語の発達や人間関係の形成のために、いつもいつも抱っこして、顔を見て、名前を呼んで話しかけるのです。その繰り返しから、子供は保育士が自分のことを気にかけ、愛していてくれることを感じ、信頼をしていくのです。

主教 ペテロ 渋澤一郎