イースター

厳冬期、雪におおわれて、死んだようになっていた自然に、ようやく若芽があふれています。

茶色がかった緑、萌黄色の緑、白っぽい緑、色とりどりの緑が一杯です。

今や若い生命を示すように緑が溢れようとしています。

冬の間、澄み渡った空を突き刺すような木々の枝が、新しい生命の躍動に芽ぶき始め、大気も冬の厳しい鋭さが和らぎ、丸みをおびています。

新しい生命の若芽の「漲る」春です。

植物において、花が咲き、実が実った後、枯れてしまっても、種子が地に落ちて、翌年、再び、芽を出して育つ、あるいは、茎や葉は枯れても根が残っていて、そこから春になると、芽が出てくるという自然現象を初代教会の人々も見ていたと思います。

生命みなぎる喜びの春、イエス様のご復活を記念し、祝う復活日=イースターは、クリスマスよりずっと古く紀元一世紀から祝われてきたキリスト教の一番大きな祭りです。

日曜日に、学校や会社が休みになるのも、金曜日に十字架にかかって死なれたイエス様が、日曜日の朝早く、復活なさったことを記念し、教会の礼拝に行くためです。

イエス様の十字架の死は、全き人間として、死なれることでもありましたが、罪に陥っている私たち人間の罪を背負っての身代わりであり、深く、広く、高い愛の実践でした。

イエス様の復活とは、愛であるイエス様が、神様の生命に生かされ、この世での命とは別な新しい、神様の「永遠の命」に生きていることです。

イエス様は、言われました。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る、わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」(ヨハ12・24b~26b)

イエス様に従うならば、私たちもまた、春の新しい生命のように、イエス様と共に新しい命に生き生きと生かされていくと思います。

これは、キリスト教の一番初めからの中心的信仰です。

クリスマスは、よく知られ、多くの人々に、抵抗なく受け入れられていますが、イースターは、毎年、異なった日にくるせいもあり、イエス様の死からの甦りは、仲々分かりにくいことです。

しかし、必ず死ななければならない私たちの死が、私たちのすべての終わりでも、虚無になってしまうのでもなく、イエス様に従うのならば、死は新しい生命への門口であり、神様の生命に生かされることである、との希望を持つことのできるのは、この上なく大きな喜びです。それがイエス様の復活への信仰であり、イースターを祝う意味です。

司祭 テモテ 島田公博
(主教座聖堂付)

『感謝と賛美の聖祭』

2、3年前のことですが、某司祭から次のような言葉を投げかけられました。「最近、あなたのように〝聖餐、聖餐〟と言う司祭は少なくなってきましたねぇ」と。その方がどのようなお気持ちからそのような発言をされたのか、その時にあまりにとっさのことで、確かめることが叶いませんでしたが、考えさせられました。

確かに私たちの教会は1960~70年代まで〝ハイチャーチ〟〝ローチャーチ〟というそれぞれの伝統によって教区・教会の在り方・姿勢が特徴づけられていました。しかし、この60~70年代は世界の激動期にあたり、様々に世界観や歴史観、宗教観が厳しく鋭く問われました。カトリック教会では第2ヴァチカン公会議、プロテスタント教会ではWCC総会で、又聖公会もランベス会議において、この世・この世界に対して、キリスト教会はどう在るべきなのかということが真剣に議論され、教会の刷新・改革がなされた時代でした。ですから、その折に礼拝(典礼)についても多くの教派(正教会や福音派系のプロテスタント教会を除く)が、礼拝学の成果を踏まえて新しくされていったのでした。日本聖公会でも、この世界の動きを受けて、礼拝(典礼)が整えられてきたので、この時点で〝ハイチャーチ〟〝ローチャーチ〟という言い方の礼拝観は無効になったと言っていいと思われました。

もう1点、60~70年代の教会の姿を表して〝社会派〟〝教会派〟と言う言い方もありました(日本基督教団や歴史的プロテスタント教会、聖公会でもそのような言い方があった)。あえて乱暴な言い方を致しますが、内向きに教会内で礼拝・お祈りだけ為されても「キリストの福音に生きる」ことにならないという考えが〝社会派〟で、それに対して教会人は、外向きに政治的社会的活動することより、「みことばに生かされて」必要な人のため祈ることの方がもっと大切というのが〝教会派〟だと思いますが、この両者は分離し、時には対立していました。しかしこの分離・対立を包み込み乗り越える考え方が、今まで述べてきた時代背景の中から形成されてきました。つまり両者を包み込み乗り越える原理は、新たに生まれてきた〈聖餐論〉だったのです。

言うまでもなく、〈聖餐〉は救いに必要な二大サクラメントです。(教会問答15.)〈聖餐〉とは、「主イエス・キリストがお定めになった感謝・賛美の祭りであり、教会はこれを主からの賜物として受けた。わたしたちはこれを行うたびに、主が再び来られるまで十字架の犠牲の死と復活、昇天、聖霊降臨を記念し、キリストの命に養われ、主の救いのみ業を宣べ伝えるのである」と聖餐式文冒頭の解説ルブリックにありますが、私たちは裂かれたご聖体を頂くことによって、ただ心とからだの養いにとどまらず、〈聖餐〉によって、その時その場で宣教的力が具現化されているという宣教=聖餐という理解を持ちたいし、そのような〈聖餐〉の恵みの奥義をさらに追い求め、豊かに受容できるような信徒の群れ(教会)でありたいと願うものです。

司祭 パウロ 松本正俊
(新潟聖パウロ教会牧師、三条聖母マリア教会管理牧師、長岡聖ルカ教会管理牧師)

『「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネによる福音書1章14節)』

 今年もクリスマスがやって来ます。私たちの置かれた現実のただ中にみどりごイエス様がお生まれになります。お迎えするにふさわしい備えができるでしょうか。心からお祝いができるでしょうか。この原稿を書いている今はまだ11月中旬、日々の事柄で、てんてこ舞いしています。健康が与えられて働けるというのは大きなお恵みですが、ときにしんどくなることもあります。

 今、日本全国の私立幼稚園は岐路に立たされています。「子ども・子育て支援新制度」が今年の4月から施行され、地域差はありますが遅かれ早かれ各幼稚園は決断し変わっていかなければなりません。園としてこの新制度に乗るのか乗らないのか、認定こども園(「教育」と「保育」を一体的に行う施設)へと移行するのかしないのか、さらには認定こども園の中でも幼保連携型をめざすのか幼稚園型をめざすのか。選択は自由だと国は言っていますので、ますます困惑します。私が園長を務めている幼稚園は園舎が1974年に建てられたものであり、築41年、老朽化は否めません。建て替えたいのですが問題は資金で、公的な補助金が戴けるとしても園負担が必要となってきます。幼保連携型認定こども園へ移行するに伴う園舎改築だったら補助金が4分の3戴けるので園負担は4分の1で済みます。仮に総事業費3億円としても園負担は7千5百万円なので、なんとか手が届きそうと希望の火を燃やし、この3年間上越市にアタックし続けてきましたが、このたび結論を言い渡されました。少子化の中、この地区にはすでに保育園が多数あり供給は充分足りているので、これ以上保育園ないし保育機能を持つ施設を増やす必要はないと市は認識している。必要がないところに市が多額の投資をする理由がない、とのことでした。うちの園がある地区が子どもの数に対して保育園の収容人数が上回っているというのは重々承知で、しかし近年1歳2歳の子どもの入園問い合わせが多く来ているのも現実です。このことや当園の内情を赤裸々に話してなんとか助けてもらえないかとお話してきたのに、切羽詰まってからの回答でした。

 文字通り寝ても覚めてもこのことで頭はいっぱいです。私の判断、私の行動が及ぼす影響の大きさ、責任の重さを痛感しています。90年前にカナダから派遣されたパウルス主教(当時、司祭)がここ高田の地にかかげた幼児教育の灯を、消してはならないと思っています。

建園の精神
 「幼児の生命と人格を尊重し、個々の内に与えられている能力を充分に伸ばさせる。」
 聖公会紅葉幼稚園は1925(大正14)年、日本社会の健全な発達のためには真の民主主義教育が、幼児の内から行わなければならないことを痛感したカナダ聖公会派遣宣教師P・S・C・パウルス司祭によって開設されました。

 来週、上越市の担当課と面談予定です。どう話が進んでいくのか不安です。この文章が皆さまのお目に触れる頃はすでに結論が出ているかもしれません。でもどんな結果になろうとも、生きておられる神様の導きを信じ「イエス様、一緒にくびきを負ってください」と祈るものであります。

司祭 イサク 伊藤幸雄
(高田降臨教会、直江津聖上智教会牧師)

『タリタ、クム』

 神様から与えられた聖職者としての歩みを始めて10年以上が経ち、その働きの中で幾度もの病者訪問を行ってきました。その訪問先には、病を受け入れ、平安のうちに死を覚悟している方、病に立ち向かい、まさに闘病の最中の方、病の回復への希望と悪化への不安の狭間で葛藤している方、病に罹った現実に驚きと戸惑いを感じ、困惑の中にいる方、病の回復を実感し、安堵の中で喜びを感じている方など、実に様々な方々がいました。また、一人の方であっても、病の状況や過程によって、実に様々な心持ちがあることを感じていました。

 そのような方々と共に祈りを捧げ、時間を過ごす中で、ある時、ある一つの言葉を意識的に用いることを避けている自分自身に気が付きました。

 病に立ち向かい、まさに闘病の最中の方に対し、励ましの言葉として与えたいと思いながらも言えなかった言葉。病の回復への希望と悪化への不安の狭間で葛藤している方に対し、希望の光を指し示す大切な言葉として与えるべきだと思いながらも、それを語る勇気が持てなかった言葉。病の回復を実感し、安堵の中で喜びを感じている方に対し、病の回復の宣言として、また感謝の言葉として証しすべきだった言葉…。言えなかった、その言葉…。

 今年の6月21日に長女が生まれました。長女の出産は予期せぬ難産となりました。私も立ち会う、通常の自然分娩中、医師が声を上げました。「これは、だめだ!!」と。長女の頭より先に左手が出て来てしまい、肩と頭が出て来られず、更に、このままだとへその緒が絡まる危険があり、長女の命が危ないと言うのです。また、左肘まで出かかっており、これ以上出てしまうと、産道の下へと胎児を押し出す筋肉の収縮で、帝王切開しても腹部から取り出せないと。

 「最低でも30分以内に帝王切開で取り出さなければならない。でも、このケースは私一人では手術できないので、近隣の産科医に応援を要請しなければなりません。しかし、応援の医師を待っている間に、赤ちゃんがこれ以上出てしまったら、赤ちゃんだけでなく、お母さんの命まで危ない。このまま、お母さんを守り、赤ちゃんを諦めるか、一か八かで応援の医師を待ち、手術をするか、どうしますか?」。私は、医師のその言葉を聞き、正直、長女の命を諦めました。しかし、妻は応援の医師を待ち、手術を受けることを望みました。

 応援の医師が駆けつけたら、すぐに緊急手術を始められるように、妻が分娩室から手術室へと運ばれていく最中…、妻が手術室に姿を消し、一人、その手術室の前の廊下で立ち尽くしている間…、「3分経ったら教えろ!!」、「何分経った?!」、「絶対に間違うな!!」、医師が看護師に指示する、その切迫した言葉の一つ一つが手術室から廊下にまで漏れ、それを目を閉じながら聞き、心が握り潰されそうだったその瞬間…。私は祈りながら、ある言葉を求めていました。

 その時、私にとっても、妻にとっても、そして、生まれて来ようとする長女にとっても、最も重要であり、最も必要であった、その言葉。医師が私たちに対し、宣言してくれなかった、その言葉。そして、これまで、病者訪問の際に、共に祈った方に、私が口にできなかった、その言葉。

 主イエスは、その言葉を、それを最も必要としている人々に対し、迷いなく大胆に語り、宣言します。「タリタ、クム!(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)」と。今、私の心に、この言葉は「大丈夫。心配ない。私がいるから何があっても大丈夫!」と聞こえます。

 この世に生きる全ての人々に必要な、この言葉。しかし、誰もが簡単に口にできるようなものではない、この言葉。この世界に、一体、何人、「大丈夫。心配ない。私がいるから何があっても大丈夫!」と、私たち一人ひとりに語ってくれる人がいるでしょうか?そして、ただ言葉だけでなく、現実にも、それを実現してくれる人が…。

 妻が手術室に姿を消して15分後、応援の医師が駆けつけ、何とか、長女が無事に生まれ、妻も翌日の午後、目を覚ましました。目を覚まし、少しやつれた妻は、私に、こう言いました。「赤ちゃん、大丈夫?」と。私は「大丈夫。心配ない(タリタ、クム)」と答えると、妻は、心から安らぎを得たような笑顔を浮かべました。

 やはり、全ての人々にとって、神様からの「大丈夫。心配ない(タリタ、クム)」という言葉は希望の言葉であり、救いの言葉なのです。

司祭 ヨセフ 下原太介
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師、福島教会管理牧師、聖ミカエル保育園園長)

『網を降ろしなさい』

 秋の味覚の季節、多くの恵みに与る季節を迎えています。豊橋には日本一の生産量を誇る次郎柿があります。収穫ができるようになって100年が経ちます。松本次郎吉さんが、1844年(弘化元年)に幼木を見つけ、豊橋に植えたのが始まりとのことです。「柿が赤くなれば、医者が青くなる」と言われるほど、ビタミンCが(レモンよりも)豊富です。時々牧師館に信徒の方が送られてきた旬の果物を、時には報告書を届けるついでにこれを食べてとか、「魚の配達人でーす」と、ご主人の釣果の魚を持ってきてくださったりなど、山海の恵みに与る機会があります。その一つ一つが人々の手によってもたらされ、さらなる恵みに気づかされます。信徒の皆さんは、季節の恵みを届けるだけでなく、あなたは神様の恵みに生かされ、それに応えて教会の業に励んでくださいね、と祈ってくださっているように思います。

 ルカ福音書5章には漁師たちを弟子に招くイエス様がいます。イエス様は漁師に「網を降ろしなさい」と声をかけますが、その時漁師たちは「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と疲れ切っており、イエス様のみ言葉を聞く状況ではありません。けれどシモンは、イエス様から自分の姑が苦しみから癒されたことを聞いていたのでしょう(4章)。それならば、と網を降ろします。するとおびただしい魚がとれました。シモンはこの収穫を見て、有頂天にもならず、やっと苦労が報われたとも言いませんでした。「主よ、私は罪深い者です」と、悔い改めに導かれます。「網を降ろしなさい」という言葉はギリシャ語では「カラサテ(カラソウ)」が用いられています。降ろすとか、緩めるという意味に使われます。自分たちの収穫だけに目を向け、思いっきり力を入れて引っ張り上げることばかり考えてしまったり、こっちの方に収穫があるのではと、あらぬ方向に網を降ろしたりしてしまう私たちです。力を緩め、それぞれに与えられた賜物である網をイエス様のみ言葉に身をゆだね、降ろす時、シモンのように神様の恵みに包まれ生かされている私がここにいる、ということに導かれることでしょう。なぜお弟子さんたちの中に漁師が多いかは、イエス様しかご存じありませんが、自分の力ではどうしようもなく、イエス様によって、ただ恵みに生かされている自分であることを一番知っていた人たちではなかったかと思います。

司祭 マルコ 箭野眞理
(豊橋昇天教会牧師、豊田聖ペテロ聖パウロ教会管理牧師)

『礼拝堂の掃除』

この夏、困った珍事件が起きました。例年にない猛暑が続いた日の朝、礼拝堂を開けに行くと、祭壇の周り一面に木屑が散乱しているのです。古い建物ですから、尖塔の下などは風の強かった翌朝にはホコリや吹き込んだ枯れ葉が落ちていることも少なくないのですが、こんな惨状は初めてでした。嫌な予感が頭をよぎり、お世話になっている大工さんに診てもらうと、案の定原因はアリ(シロアリではなく腹部の赤い大型のアリ)の大量発生によるものでした。早速殺虫剤などを用いて駆除作業に取り掛かると、天井板の隙間から次々と落下…、元気なアリは床に落ちても礼拝堂のあちこちへと逃げ回り、掃除機を手に汗だくになりながら、おそらく数千匹のアリと格闘する羽目になりました。お陰で現在は沈静化した模様で、結果として礼拝堂の隅々まで綺麗になり、来訪者からは「掃除が行き届いて気持ちがいい」とお褒めの言葉までいただきました。

当教会に赴任した年の忘れられない出来事があります。礼拝堂入口の机の上に常設してある来訪者ノートに、ある日このような書き込みがありました。「テレビで観るより古く、がっかりです。整理整頓して下さい。」本当にショックで、嫌がらせかと怒りの気持ちさえ禁じ得ませんでした。なぜなら毎日欠かさず掃除をしていましたし、同日の続く書き込みには「当時そのままの姿に感動しました。今のまま長く維持していただけるように祈っております。」「こんなチャペルで子供達を挙式させたいと思います。」と気遣いとも思える温かいメッセージが並んでいたからです。

しかし、2年前に協働関係にあるホテル音羽ノ森の社員旅行(宗教施設を巡る旅)に同行した折、ある気付きを与えられました。最初に名古屋聖マタイ教会を表敬訪問した後、伊勢神宮に立ち寄り、目的地である京都では金閣寺や清水寺など代表的な寺院を訪問しました。2月の真冬であったにも拘らず、どの寺社も観光客で賑わっていましたが、(有料とは言え)何よりどの施設も内部だけではなく境内地も整然と手が入れられ、何とも言えない清々しく凛とした空気に包まれていました。その時以来、もしかしたらあの書き込みをした人は、そのような空気を求めていたのかもしれないと思うようになり、完璧にという訳にはいきませんが、出来る限り心を込めて掃除をするようになりました。

仏教では、僧侶の修行の基本中の基本はお経や座禅よりも、まず掃除であると聞きます。それは一見おろそかにされがちな掃除が、実は心を磨き豊かな人格を養うために、絶対不可欠な要素であるとの考えからだそうです。そしてそれはキリスト教をはじめ、すべての宗教にも相通ずるものがあるように感じるのです。

私たちの教会は、今年礼拝堂聖別120周年を迎え、9月6日には記念礼拝を長野伝道区合同礼拝として行うことになっています。聖霊の宮とも言われる教会に集ってくださる方々が、少しでも爽やかに気持ちよく祈りと賛美をささげられるように、喜びをもって準備していきたいと思います。

司祭 テモテ 土井宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師、新生礼拝堂管理牧師)

『他宗教との共生と平和』

松本聖十字教会の耐震補強工事も具体的に礼拝堂への改修が始まりました。まだまだ工事目標額まではいきませんが、とりあえず必要なところから始めて、クリスマスには聖十字幼稚園の園児が松本聖十字教会の礼拝堂で過ごすことができるようにと努力していますので、これからも献金をお願いできればと思っています。

さて、耐震補強工事の関係で、ある工事関係者の方とお話をしていましたら、公園のなかに神社もあり、役所がその公園の整備をしたら宗教関係者から訴えられたという話を聞きました。そして、その方は、「宗教というのは、こういう争いごとばかりするから嫌だ」と、そして、「あの宗教は良くてこの宗教はいけないというなら、イスラム国(編者注:同国を名乗る過激派組織ISILのこと)のやっていることと同じではないか」と語られていました。私は、とても複雑な思いで聞いていましたが、確かにキリスト教をはじめとして宗教とは、互いに尊敬し合い協力し合って、苦しんでいる人々に具体的な喜びをもたらすものであるから、自分の宗教の利益だけを考え、自分の宗教だけが正しくてこれを信じなければ救われないという絶対主義はおかしいと感じました。

このように言いますと、唯一絶対の神を信じるキリスト教に反していると思われるかもしれません。しかし、キリスト教の絶対性を超えて、不寛容と独善を克服し、宗教が互いに尊敬し協力して、苦しんでいる人々が必ず救われるということを知らせ、示していくことの方が大切であると思います。歴史をさかのぼれば、キリスト教も相当ひどいことをしています。だからといって、キリスト教にも良い面がたくさんあるのですから、そのような目で、神道、仏教、イスラム教、ユダヤ教の良い面をみていくことができるのではないでしょうか。

アメリカの臨床心理学者、カール・ロジャースは、「来訪者中心療法」を提唱していますが、そこで大切なことは、カウンセラー(援助者)は、クライアント(相談者)の言葉、考え、感情、説明、そのすべてを受け止めること、すなわち受容し共感することであると言っています。ここで注意しなければならないことは、受け止めることと受け入れることは違います。よく間違えられますが、受け入れるということは、なんでも「その通り」ということになります。ですから、ISILの信仰も「その通り」と言うと、奴隷や殺人も受け入れてしまうことになります。カール・ロジャースが言っていることは、受け入れるということではなくて、受け止めるということ、立ち止まるということ、共感し、対話をする用意を持つということです。他の宗教と対立し、自分の宗教の拡大だけを目指すのではなく、他の宗教と共感し、共生する道を選ぶべきであり、これこそ、キリスト教が平和の器になることであると思います。

司祭 ヨセフ 石田雅嗣
(松本聖十字教会牧師、飯田聖アンデレ教会管理牧師)

『新生病院で出会ったKさんの「愛している」との言葉から』 

新生病院のチャプレンとして新たな歩みを始めた私は、前任者の石田雅嗣司祭からの引き継ぎ通り、朝8時半と午後1時半に4階の緩和ケア病棟で行われるミーティングに出るようにしています。朝、夜勤を終えた看護師から日勤の看護師に連絡事項を伝えるその場は、医師、看護師、ソーシャルワーカー、チャプレンなど多職種の人々による連携のための大切な役割を果たしています。
Kさんとの出会いと交わりを紹介したいと思います。
Kさんは、入院の時からチャプレンとのお話を希望されている方の一人でした。「一生懸命に働いて来たし、退職してからも色んな趣味も楽しめたし、悔いはない」と言われていました。ピアノの音が好きなKさんは、ピアノを弾きたいとのことで、部屋の片隅に鍵盤を置き、自ら弾いたり、訪ねてくるお嫁さんに弾いてもらってその曲を楽しんだり、音色を聞きながら眠ることも度々ありました。
両目が不自由で、しかも難聴でもあり、熱が出たり、眠って過ごしたりする時間がだんだん長くなり、お話できる機会が少なかったのですが、体調の良いある日、隣で付き添っているお連れ合いさんに色々と説明を加えていただきながら、家族のこと、仕事のこと等、様々なお話を伺うことができました。
自分が農家の長男でありながらも教員の仕事を続けることができたのは、お連れ合いさんが畑について責任を持ってくれたおかげであり、今まで本当にありがたかったとお話されました。そんなお話をしていると、隣でお連れ合いさんが「私のような者が嫁に来ちゃった」と言いました。するとKさんは「そう言われるととても寂しい」と話しながら、手でハートを描き、「愛している」気持ちを表現し、大切に思っていることを伝えたのでした。お連れ合いさんは「どうしたの?今までそんなこと言われたこともない」と驚きながらも嬉しい気持ちを隠せませんでした。
別の日には、私の顔が見えないとおっしゃるので、お連れ合いさんがメガネを掛けようと顔を近づけると、手でその顔を何度も何度もなでるのでした。目が悪くなってきたこともあり、目で顔を見る代わりに、手で顔をしっかりと確認しているかのようでした。お連れ合いさんも照れながらも嬉しそうにその手の暖かさを受け入れていました。
病院のチャプレンの仕事は多くの患者さんと一緒に過ごし、時には死にゆく場面にも立ち会うこともあることから、色々な方に、毎日大変ではないかとよく聞かれます。
しかし、スタート博士は病院の勤務者に配布するために書かれた数ページの冊子の中で、患者さんと接することは「神様が癒してくださることへのお手伝い」であると述べていたと伺いました。新生病院にたずさわる者は、神様の癒しを経験して生きていることを常に心がけているわけです。医師や看護師だけでなく、私自身も神様の癒しの業に参加していることを日々感じたいと思います。病の中でこれまでの人生を振り返る方々との出会いを通して、私自身も多くを感じ、その方々の尊厳と命の強さを学ばせていただいています。主に感謝。

司祭 フィデス 金 善姫
(新生病院チャプレン、新生礼拝堂副牧師、飯山復活教会管理牧師)

『人 の 夢 と 欲』 

6月になって軽井沢は、新緑の中で結婚式も多くなります。結婚準備のオリエンテーションのとき、二人にどんな家庭を築いていきたいのかを伺います。ありきたりの言葉であっても、自分たちが始めていく結婚生活で家族や周囲の人たちが喜びあえるように努力する、彼らの夢は小さなものかもしれませんが、人々を喜ばすことにおいて広がっていくことになればと思います。人は夢を持ち、実現していこうとします。それが人々の喜びや幸福につながっていくならば社会への貢献となるでしょう。しかし社会的に成功してもそれが他の人や他の国の犠牲の上に成り立っていれば、人が抱く夢も夢ではなくなってしまい、いつしかそれは「人の欲」になっていくのではないでしょうか。
戦後70年、戦争体験を語ることのできる人々が少なくなっていく中で、私たちは平和を夢みて、ある意味実現させてきたと思います。しかし一方で命の危険や騒音、犯罪による犠牲を米軍基地周辺の人々に押しつけた「平和」を歩んできました。この「平和」をただ享受していくということは喜び合える夢ではなくて、人の欲になっていくのではないでしょうか。
また東日本大震災によって改めて放射能の怖さを私たちは知りました。またそれは原発の稼働が一部の地方に住む人々の危険や犠牲のもとに成り立っていたということです。快適な暮らし、平和な生活は多くの犠牲と私たちの欲によるもの、ということを隠していくことはもうできません。
創世記には「風の吹くころ、主なる神が歩まれる音を聞き」罪を犯してしまったアダムとイブは隠れたと書かれています。自分たちは弱く、清さを失った裸の姿であることを知ったのです。神様によって創造された清さを失い、闇が心の中にまで広がってしまいました。神様の創造された世界に茨とあざみが広がるように、人間のエゴや欲望が現代まで広がります。
イエス様は山上において「あなたがたは地の塩である。世の光である」と語られました。この世界に対して私たちがその腐敗を止め、清めていく、味付けていくようにと呼びかけました。でも私たちは隠れてしまいたくなるほど自分の中の闇を知っています。パウロはローマの信徒への手紙の中で「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。」と旧約聖書の時代から続く、罪の中の人間を書いています。自分を見つめれば、まず自分が清められたい存在であることを告白せざるを得ません。しかしイエス様はご自分の十字架によって、私たちを地の塩、世の光として用いようとなさったのです。主イエスのあわれみによって、私たちは自己中心の考えや欲望に向き合ってこれを抑えなければなりません。
意識するしないに関わらず、米軍基地や原発の「恩恵」に私たちは生きてきました。巨大な基地や原発をめぐる利権が動く中で、生活の快適さや安全、平和の根底に私たちの思い上がりをもってしまったのではないでしょうか。犠牲を遠くに住む他者に押しつけて、共感する心を失っていないでしょうか。神の赦しと恵みを受け、他者への祈りと共感を実現させ、喜びあえる者でありたいと思います。

司祭 マタイ 箭野直路
(ホテル音羽ノ森・旧軽井沢礼拝堂チャプレン)

『青年期の自分に出会う。そして、友達…。』 

先日、韓国に行ったときのことです。高校卒業で離れ離れになり、その後探し続けていた親友とやっと電話がつながりました。彼を通して、他の同窓の友人たちの近況も聞くことができました。さらに今回、大学の親友にまで会うことができました。彼らと話ができたのは、1993年の卒業以来ですので、約20年ぶりのことです。電話一本ですぐ会えたのに、何故こんなにも会うのが難しかったのか。何故こんなにもその道のりは遠かったのか。
4年間の大学時代は、私の人生の花と言える時期です。信仰を通して交わるという初めての経験、その中で築いた親友との格別な友情、友達の狭い部屋に上がり込んで文字通り体をぶつけ合いながら過ごした貧しい暮らし。時には友人の痛みに深く関わり、時には少し離れて見守りながら、お互いに支え合った時期。出会いと別れ、慰めと励ましを共に経験した時期でした。
親友と再会している内に、学生時代にお世話になった沢山の顔が目に浮かんできたのですが、その中でも特に二人の先輩を思い出しました。人生の目標が明確ではなかった私に、信仰の灯火を点けてくれた先輩です。その一人は、イエスは生きていて私を愛しておられることを私のこの胸にしっかりと気づかせてくれた人です。もう一人は、大学職員として就職した後、全てを捨てて牧師の道に進み、さらに詩人へと変貌を遂げながら、素敵に生きていた人です。すでに二人とも神様のもとに旅立ってしまったのに、「ありがとう」の言葉を直接伝えることができませんでした。豊かではなかった時代、本当の兄弟姉妹のように後輩の面倒を見て、食べ物を用意してくれた先輩たち一人一人の顔が浮かんできます。希望が見いだせず、暗く、袋小路に迷い込んでいた私に、柔和な表情を一変させて鬼の顔になって怒鳴ってくれた先輩たち。「こんにちは」ではなく「幸せでね」「幸せに生きるのよ」と、挨拶する人たちでした。
さて、大学4年間、一緒に暮らしていた友人の一人にインムクという名前の人がいました。インムクは、1年生の時から偶然同じ下宿の同じ部屋を使うようになって以来の親友です。ある日、インムクの実家から連絡がありました。「弟が死んだ」と。インムクは受話器を下ろすと、急いで家に向かいました。私も翌日、何も考えずに彼の実家に向かいました。しかし若かった私にはインムクに慰めの言葉を言うこともできません。とにかく、ただインムクの近くに座って顔を見ていただけでした。その時のインムクの一言、「弟とあまり話ができなかったことを後悔している」の言葉は、今でも耳に強く残っています。私たちは顔と顔を合わせて出会い、話を聴くことを大切にしようとしていたはずなのに、自分たちにはそれができていない。私自身も、友人が辛い時に何もできない自分に、至らなさを感じていました。ところがインムクは、後になって、「大変だったときに、一緒になって座っていてくれた人」と、私のことを表現してくれたのです。
今回、久々の再会を通して、あの頃を思い出し、出会うこと、交わることとは何かを振り返ることができました。神様は、あらゆる方法で、出会いと交わりを通して和解の業を成し遂げようとされています。倒れて立ち上がることも困難な人たちと共に、まず一緒に座ることのできる私でありたいと、今、改めて思っているところです。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(長野聖救主教会牧師、稲荷山諸聖徒教会管理牧師)