「ハミルトン主教と日本アルプス」

中部教区は2012年に教区成立100周年を迎えます。教区ではH・J・ハミルトン主教が1912(大正元)年10月18日、カナダで中部教区の初代主教に按手された年を教区設立の年と定めています。2012年10月8日には記念礼拝を計画しています。カナダ聖公会首座主教にもおいでいただきたいと思っています。教区の皆様も今から是非予定にお入れください。

ハミルトン主教は1892(明治25)年に来日し、すでに名古屋で伝道を始めていたロビンソン司祭に合流しますが、その2年後の1894年7月、日本アルプスを世界に紹介したことで有名なウェストン司祭と共に北アルプスを北から南に縦断し、最終的に御嶽山までの登山を敢行しています。ウェストン司祭の『日本アルプス 登山と探検』によりますと、ハミルトン主教はカナディアンロッキーでの野営生活の経験が豊富であり、この登山では料理長兼写真師の役割を引き受けたと記されています。前掲書にはハミルトン主教が撮った写真がたくさん掲載されていますし、旅の途中の村では、パン屋にパンの作り方を伝授したことも記されています。白馬岳への登山では熱を出してしまい、宿舎に一人取り残されてしまいます。きっと残念な思いだったに違いありません。

わたしはその登山のことを20数年前に新聞で知り、写真を見る限りではとても厳格な感じを受けていたハミルトン主教の、登山で料理を作り、写真を撮っている若き姿を想像して、何となくホッとした思いがしました。その登山で訪れた直江津(高田も経由)、糸魚川、福島にはその後教会が建てられたことを考えますと、その登山も中部教区にとっては神様のご計画のうちにあったのでしょうか。

「沖縄の旅」

6月18日から開かれる管区の「沖縄の旅」に今年は参加させていただきたいと思っています。今から24年前、中部教区の教役者会で沖縄を訪問し、戦跡を巡り、沖縄戦の話を聞き、沖縄教区の教役者の方々とも交わりをさせていただきました。わたしにとりましては初めての沖縄訪問で、沖縄の過去と現実を認識させられた大変貴重な経験でした。

強く印象に残っていますのは、ある信徒の方のお話でした。沖縄戦末期、住民たちがガマに逃げ込んでいた時の話だったと記憶しています。その方のお母さんがある時、その方の弟か妹である赤ちゃんを連れてガマを出て行ったそうです。そして、帰って来た時にはお母さん一人だったそうです。赤ちゃんはどうなったのか。お母さんはその後その事については一切語らなかったそうです。

このような悲しい物語は沖縄戦では枚挙にいとまがないのです。沖縄戦に限らずすべての戦争においてそうなのです。一番弱いところにすべての犠牲が向かってしまう、そのような現実こそが戦争の偽らざる実態だと思います。

もう一つ印象深かった話は、ベトナム戦争時のことで、爆撃機が沖縄からベトナムに飛び立っていたのですが、基地で働く人々が良心的サボタージュとして兵士の着る防弾チョッキの修理を故意に遅らせたそうです。基地で働く人たちの戦争への精一杯の小さな抵抗です。わたしたちはそのような小さな抵抗にこそ思いを向けなければならないのではないかと強く感じました。

65年という年月が経っても未だに沖縄から基地がなくならない。改めてその現実を直視しますと愕然とします。普天間基地問題も迷走しています。今年はぜひ現地で沖縄について考えたいと思っています。

『交じり合う教会』

「交じり合う教会」というイメージが思い浮かんだのは2008年度の「マルコ教会ビジョン」を考えていた時で した。

ルカ福音書の14章15節から24節の「大宴会のたとえ」が目の前にありました。「ああ、そういうことなんだ」としばし茫然としました。

そのたとえは、イエスと食事を共にしていた客の一人が、イエスに「神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう」と言いましたので、イエスは神の国を大宴会にたとえて話されます。

家の主人は大勢の人を宴会に招きますが、招かれた人は世間的なことを言い訳にして断ります。怒った主人は僕に「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて 来なさい」と言います。さらに、まだ席があるというので主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。

ああそうか、神の国はまぜこぜなんだ。貧しい人、体や精神に障がいのある人は勿論のこと、通りや路地裏に居る人も連れて来るなら、いろんな人がいるだろう。無頼の人、野宿の人もいて、外国人もいるはずだ。

こんなふうに「交じり合って」いるのが神の国だとしたら、教会もまぜこぜに「交じり合って」いるのがいいに違いない。

そうして、教会ビジョンの項目の一つに「交じり合う教会」が加えられました。

以前からマルコ教会は「交じり合い」が進行していました。

毎週木・金曜日昼の「聖堂で聖歌を歌おう」には知的障がいのある若者たちや近所の人、信徒が交じり合って聖歌を歌っています。

毎週水曜日は野宿生活の人たちにシャワーサービスを提供します。昼ご飯をご近所のボランティアの方々、信徒が作り、みんなで交じり合ってホールで頂きます。餅つきやお花見会、忘年会等でも交じり合います。バザーは交じり合いの力が最大に発揮される場です。

毎週水曜日夜の聖研には、いろんな人が交じり合って喧々諤々です。鉄道マニアの青年、老弁護士、起業家の女性、シャワーサービスの常連、信徒でない人、他教派の人たち、教区の他教会の人たちが交じり合ってきました。

これらの「交じり合い」が呼び水になって、礼拝にも「交じり合い」が現れてきています。

信じる人も信じない人も交じり合って聖堂を「いっぱい」にできれば素晴らしいです。

「交じり合う教会」には核となる信徒が求められます。幸いなことに、マルコ教会には自分のビジョンを持って、主体的に働き、小さき者のところへ降りていける人たちがいます。

「交じり合う」ことは面倒なことです。戸惑いがあり、軋轢が起こります。排除の論理が働くこともあります。

けれでも、このような困難そのものの中にこそ「『神の国』をあらかじめ示す地上の姿」にふさわしい教会の新しい可能性と希望がある、それが「交じり合う教会」のイメージなのです。

執事 ヨハネ 大和田 康司
(名古屋聖マルコ教会牧師補)

「名前」

主教に按手されて2ヶ月が過ぎようとしていますが、自分が主教であることに改めて気づかされる時があります。それは、聖餐式の代祷の〈わたしたちの主教ペテロ〉というところです。自分の洗礼名が唱えられ、すこしドキッとさせられ、あ、自分のことなんだと気づかされるのです。
イエス様は「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」と言っておられますが、名前を呼ぶ、名前が呼ばれるということは言うまでもなくとても大切なことです。顔が分かっていても名前が分からなければ話しかけようがありません。
4年前、上田に赴任しましたが、上田には保育園があります。当初、子供たちの名前も分かりませんでしたので、子供たちは単なる子供たちでしかありませんでした。しかし、1ヶ月、2ヶ月が過ぎるにしたがって、名前も顔も分かってきますと、その子供たちがとてもかわいい、大切な存在に変わって来ます。どこの保育園や幼稚園の子供たちよりもかわいい存在になるのです。
名前が分かり、名前を呼ぶことによりそこに関係が築かれていきます。信頼関係も出来てきます。保育園には乳児もいます。当然、まだ話など出来ません。しかし、話が出来ないからといって保育士は話しかけないでしょうか。もちろん、そんなことはありません。逆です。乳児の言語の発達や人間関係の形成のために、いつもいつも抱っこして、顔を見て、名前を呼んで話しかけるのです。その繰り返しから、子供は保育士が自分のことを気にかけ、愛していてくれることを感じ、信頼をしていくのです。

主教 ペテロ 渋澤一郎

『イエスの言葉を思い出す』

主イエス・キリストのご復活をお喜び申し上げます。

冒頭に、 改めて聖パウロの言葉を想い起こし、 主のご復活の大切さを認識いたしたいと思います。 「キリストが復活しなかったのなら、 わたしたちの宣教は無駄であるし、 あなた方の信仰も無駄です。」 (一コリ15・14)

イエス様のご復活についての福音書の記事に共通していることは、 イエス様の墓に最初に行ったのは女性 (たち) であったということです。 イエス様の十字架の死によって使徒たちは失意と恐怖のどん底につき落とされてしまいました。 そして、 ただただ自分たちも捕まることを恐れてじっと身を潜めているだけでした。 それに対して、 イエス様に従っていた女性たちは週の初めの日の早朝、 イエス様のご遺体を清めようと墓に出かけて行きました。 その勇気ある行動力には驚かされます。 主イエスの復活の出来事はその女性たちの行為から始まっていくのです。 女性たちの行為は、 わたしたちがイエス様のご復活を理解するためにはわたしたちも自ら墓に出向くことの必要性を暗示しているようにも思えます。

今年の復活日の福音書日課はルカ福音書から取られていますが、 ルカの復活物語の特徴の一つはイエス様のお言葉、 聖書のみ言葉にあると言っていいでしょう。 墓に行った女性たちはイエス様のご遺体の代わりに天使たちに遭遇します。 恐れてひれ伏している彼女たちに天使たちは、 「あの方は、 ここにはおられない。 復活なさったのだ。 まだガリラヤにおられたころ、 お話しになったことを思い出しなさい。」 と言います。 つまり、 イエス様が苦しみを受けられ、 十字架につけられ、 3日目に復活すると言っていたことを思い出しなさいと言うのです。 「そこで、 婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」 とルカは記します。

この 「イエスの言葉を思い出した」 という表現の中にイエス様のご復活を理解する鍵があるように思えるのです。 イエス様の十字架によって、 イエス様のお言葉も行いもすべて無意味になってしまったと彼女たちは思ったことでしょう。 しかし、 天使たちの促しによって再び彼女たちの思いがイエス様のみ言葉に向けられます。 そして、 「3日目に復活することになっている」と言われたイエス様のみ言葉が彼女たちの心の中によみがえってきました。 その時、 主イエスのご復活が彼女たちの中に現実性を持ち始めたのです。 「思い出す」ということはただ単に思い出すということではなく、 イエス様のお言葉が彼女たちの心の中に生命を持った存在となって描き出されてきたということです。

そして、 イエス様のみ言葉が存在するところにはイエス様ご自身が存在するのです。 イエス様との出会いはみ言葉を通して実現するのです。 弟子たちがイエス様のご復活を信じることができたのも復活されたイエス様が彼らの傍らで聖書の説明をしてくれたことがきっかけになっています。 イエス様 (聖書) のみ言葉を思い出すこと、 心に根付かせること、 それこそがご復活の主イエスにお会いする最も確かな道であることをルカ福音書はわたしたちに証しているのです。 「実に、 信仰は…キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」 (ロマ10・17)

主教 ペテロ 渋澤 一郎

中部教区の皆様へ ~主教按手・就任式を終えて~

去る2月11日の主教按手式・就任式に際しましては皆様方のご臨席、 お祈り、 ご協力、 本当にありがとうございました。 主教按手式はわたしの個人的な出来事ではなく、 極めて教区的な事柄であると思いますので、 個人的にありがとうございますとお礼を申し上げることではないのかもしれませんが、 按手式のために様々な準備をしてくださいましたことにつきまして改めて教区主教として皆様に御礼申し上げたいと思います。 また、 これまで管理主教をお引き受けくださった大西修主教様に、 そして11年余りに渡ります森紀旦主教様のお働きにそれぞれ感謝申し上げます。 森主教様には健康に留意され、 これからもお元気にお過ごしいただきたいと願っています。

わたしが按手を受けるについて、 皆様から 「おめでとうございます」 と言っていただきましたが、 わたし個人が主教に按手されることなど極めて小さな取るに足らないことで、 決しておめでたいことではないのですが、 問題はこれからいかにその主教職を遂行していけるのかだと思っています。 マリアさんは受胎告知の時、 天使から 「おめでとう、 恵まれた方」 と言われました。 その 「おめでとう」 の意味は、 これからマリアさんがイエス様と共にイエス様の負われた苦難を共に担うという意味でもありました。 わたしも皆様からの 「おめでとうございます」 をそのように理解したいと思います。

主教按手式の試問で、 わたしは「神の助けによって」 「聖霊の力によって」 「キリストのみ名によって」 「神の愛に基づいて」 「神の恵みによって」、 この務めを行いますと答えました。 主教職は自分が自分の力で行うものではなく、 常に神様の御助けによって行われるものなのです。 同時に、 信徒と教役者の方々が共に担ってくださるものでもあります。 そのように考えますと少し肩の力が抜けます。 神様の助けによって、 中部教区のすべての皆様と共に宣教のみ業に邁進してまいりたいと思います。

イエス様はご自分の受難の前に、 ペテロがイエス様を裏切ることをご承知の上で、 「わたしはあなたのために、 信仰がなくならないように祈った。」 と言われました。 ペテロはいつもイエス様を誤解したり、 失敗をしてイエス様に叱られています。 (もっともそれは彼が弟子を代表してという意味でしょうが。) それでもイエス様はペテロ (弟子たち) を最後まで愛し抜かれました。 最後の最後までペテロのために祈られました。 わたしがペテロという教名をいただいたのは、 自分自身が人間的には欠けたところだらけですが、 それでもイエス様は愛していてくださることの素晴らしさをペテロの姿に見たからでした。

イエス様はいつもわたしたちのために祈っていてくださいます。 いつもわたしたちを愛していてくださいます。 そのイエス様を見つめながらこれからご一緒にイエス様に従ってまいりましょう。

主教 ペテロ 渋澤 一郎

『おめでとう、 恵まれた方』 

クリスマスおめでとうございます。 諸聖徒日に信徒の墓参式で豊橋市の飯村 (いむれ) 霊園に行くと、 苔むした古い大きな墓石に 「神婢」 (神のはしため) と書いたロシア正教のお墓に沢山出会います。 そうか、 ロシア正教ではこのような書き方をするのかなと思うだけでしたが、 クリスマスが近づくと、 まてよ、 これはイエス様の母となられたマリア (ヘブル語読みではミリアム) さんの言葉ではないかと気付かされました。 ルカによる福音書では名も知られないナザレ村のマリアに神の使いが言います。 『おめでとう、 恵まれた方』 と。 でもマリアはこの挨拶を理解出来ません。 これから婚約者ヨセフとのささやかな幸せが訪れようとしているのに、 この方は何を困難な事を私なんかにと、 恐れと不安に包まれます。 けれど 「あなたの親類のエリサベトも…」 と告げられると、 あのエリサベトさんは高齢で不妊の女と蔑まされていたのに、 あの方も神様の祝福を頂いているのですねと、 神様の恵みの力に圧倒されてしまいます。 そして幼子イエスの母になることは神様の御心として 「私は主のはしためです。 お言葉どおり、 この身になりますように」 とマリアは主のはしためとして生きる道、 そして主が共におられる道を歩み始めます。 先の事はどうなるか分りません。 けれどこれから歩もうとする道は、 どんな困難な事があっても神様が共にいて導いてくださり、 神様の御心にかなった道であることを祈るものでした。 自分のささやかな幸せを求める人から神様の御心を求め祈る人になっていったのがマリアの道ではないかと思います。

長野在任中、 ある時美術を学んでいる大学生が聖堂に来ました。 聖堂内にはいくつかの聖画が飾られており、 そのなかに聖母子の描かれたものがありました。 その学生が 『これは誰の作品ですか』 と質問するので、 絵の裏を見ても作者が書いてありません。 私も調べてみましょうと、 聖母子の本を調べ、 絵画の世界のマリア探しが始まりました。 けれど同じ絵の作者がどうしても分りませんでした。 後日再度訪れた学生さんには聖母子を探したけれど見つかりませんでした、 今度はあなたも探していただけませんかとお願いしたまま長野を離れました。 そんななか、 今までは墓地礼拝をしても、 他教派の墓石があるなと思っていただけでしたが、 今年信徒の方と墓参し、 ロシア正教会の墓碑には 「神婢」 と書かれていることに初めて気が付きました。 そうか、 絵の中にマリアさんを探していたけれど、 ここにも、 ここにも 「おめでとう、 恵まれた方」 と神様の招きに応えて 『わたしは主のはしためです。 お言葉どおりに』 と恵みに包まれ信仰の道を歩み、 生涯を奉げられたもう一人の 「マリアさん」 がいたことを知らされる思いでした。 クリスマスは 『おめでとう、 恵まれた方』 と、 私たち一人ひとりに目を留め、 神様の恵みの道に招かれる出来事です。

司祭 マルコ 箭野 眞理
(豊橋昇天教会牧師・豊田聖ペテロ聖パウロ教会管理)

『「塗油」の式について』

私は、 病院に勤めさせて頂いて、 なおさら強く思うことですが、 聖奠的諸式である 「塗油」 の式の恵みの大きさを思います。

以前は 「抹油 (終油)」 と言い 「葬りの備え」 の強調点があった為、 今でも死を迎える前の祈りとのイメージが信徒・教役者の中に残っており、 積極的にこの式をしない風潮があるように感じるのは、 私だけの誤解でしょうか。

私たちは、 大きな病気にかかり、 その結果 「ことば」 を失ったり、 「認知症」 などの病気故に会話が困難になったり、 あるいは 「死」 を迎える前の重篤な状態の折りに、 話が出来るにしても出来ないにしても、 たいてい不安と孤独を強く感じるということがあります。

そのような折りに、 タイミングよく 「塗油」 の祈りをして、 神さまの癒しのみ手にゆだねることが出来るというのは、 何と素晴らしい大きな霊の恵みでありましょう。

「あなたがたの中に病んでいる者があるか。 その人は、 教会の長老たちを招き、 主のみ名によって、 オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。 信仰による祈りは、 病んでいる人を救い、 そして、 主はその人を立ち上がらせてくださる。 かつ、 その人が罪を犯していたなら、 それも赦される。」

この聖ヤコブの手紙のみことばを聞いて、 祈祷書の指示どおり 「塗油」 の式を行う時、 私は 「癒しのみわざ」 をなさっていらっしゃるイエスさまのお働きのお手伝いをさせて頂いているような感謝とよろこびを覚えます。

私は新生病院に勤めさせて頂いて、 色々学び体験することが出来ましたが、 とても大きな発見がひとつあります。 それは 「病院は、 病気と闘い治す所」 とずーっと思っていましたが、 そうではない、 と知ったことです。

著名なドクター日野原重明氏が 「医療の目的は何か」 という問いに対して、 1500年代にアンブロワーズ・パレというフランスの医師が残したことばを用いて応答しています。 それは 『医療は、 ときに治すことが出来るが、 和めることはしばしば出来る。 でも、 いつでも出来ることは、 慰めを与えることなんだ』 と、 今までの病気を治すことに全力投球してきたことの反省を促し、 治すことより先にやることがある。 病気については16世紀も今も変わらない、 と語っておられます。

新生病院も、 病にある方々が 「いのちの尊厳を意識され、 その人らしく生きることを願っておられる」 時、 その生き方を支え、 お手伝いをさせて頂くことをモットーとしています。

この視点は、 私にとって大切な気づきでした。 そうであるならば、 私たちはイエスさまの様々なお働きの中での 病気癒し のみわざに、 さらにもっと注目すべきであると考えるようになりました。 そして、 そのような流れで 「塗油」 の式の聖奠的恵みを強く意識し始めたのでした。

カトリック教会では、 「世界病者の日」 という日があり、 その日に全てのカトリック教会が、 特に病者の方々やその家族を招き、 ミサの中で関連聖書が読まれ、 「塗油」 の式が行われます。 私たちの教会 (聖公会) でも、 同様のことが出来るといいがなあと思います。

司祭 パウロ 松本 正俊
(新生病院チャプレン)

『伊勢湾台風50周年に想う』

1959年9月26日、 伊勢湾岸を襲った台風15号は、 死者・行方不明者5000人を超える被害を与えました。 伊勢湾台風と名づけられたこの台風による被害は、 阪神・淡路大震災が起こるまで、 戦後最悪と言われていました。 記録によれば、 最大風速60m、 名古屋港では5mを超える高波があり、 愛知県から三重県にかけて名古屋市の3倍の面積が水没するというすさまじい暴風雨でした。

被害が拡大したひとつの原因は木材によるものでした。 当時、 名古屋港周辺の貯木場には、 ラワン材など直径2m、 長さ10m、 重さ5トンを超える丸太が、 大量に浮かべられていました。 巨大な高波は堤防を決壊させ、 数十万トンに及ぶ丸太が、 一挙に住宅地に流出しました。 目撃した人は、 巨大な丸太がタテに転がっていたと証言しています。 高潮に乗った大量の丸太は、 住宅、 建物を破壊し、 人々を巻き込んでいきました。 名古屋市南区では、 丁度、 集団で避難していた子どもたちの群れを飲み込み、 多くの幼子たちが命を失いました。

台風が去り、 丸太の下には、 たくさんの遺体と共に、 無数の小さな靴が残されていました。 人々は、 その小さな靴を集め、 そこに花を飾り、 犠牲となった人々の冥福を祈りました。 誰ともなく、 その場を 「靴塚」 と呼び、 慰霊碑が建てられ、 台風の犠牲者を覚える小さな公園になりました。

被災者の救援活動のため、 名古屋のキリスト教会各派が集められ、 名古屋YMCAを拠点に 「伊勢湾台風基督教救援本部」 が設置されました。 救援活動は、 全国各地から多くのボランティアが集まり、 約4ヶ月間、 続けられました。

ある日、 被災した女性が、 子どもを背中にくくりつけて、 ヘドロを家の外にかき出している写真が新聞で報道されました。 それを見た人々が、 大人たちが復興作業に集中できるようにと、 子どもたちを預かる託児所を設置しました。

復興に目途がつき、 「救援本部」 が解散された後も、 託児所の継続を望む声が強く、 その働きはボランティアによって続けられました。 託児所には、 毎日、 120名もの乳幼児が預けられました。

辛うじて生き残った人々も、 家や財産を失い、 生きる希望を失いかけていました。 救援活動に携わった人々は、 人々に生きる希望を与えるための働きが必要と考え、 翌年、 この託児所の働きを母体に名古屋キリスト教社会館 (以下 『社会館』) を設立することになりました。 以来、 社会館は、 様々な運営上の困難を乗り越え、 多くの人々に支えられながら、 働きを続けてきました。 今では、 保育園、 障がい者の通園施設、 お年寄りのデイサービスなど様々な働きが広がり、 200名以上の職員を抱える社会福祉施設に成長しました。

社会館の創立記念日は、 9月26日です。 それは、 伊勢湾台風がこの地に上陸した日です。 被災した人々の悲しみや苦しみを忘れず、 人々に生きる希望を与えるための働きであることを、 いつも心に刻むためにこの日を記念日にしているのです。

今年、 伊勢湾台風から50回目の9月26日を迎えます。 大きな災害が生み出した小さな働きが、 人々の生きる希望として、 地域になくてはならない存在になりました。 人々の悲しみ、 苦しみに寄り添いながら働く神様の力が、 これからもこの社会館の働きを通して示されることを願っています。

司祭 テモテ 野村  潔

『お行儀が悪い弟子たち?』

「なぜ、 あなたの弟子たちは、 昔の人の言い伝えを破るのですか。 彼らは食事の前に手を洗いません (マタイ 15:2)」
最後の晩餐の場面は、 どんな様子だったのだろうかと、 ふと思うことがあります。 ユダヤ人は、 儀式的に手を洗い、 そのとき祝祷を唱え、 感謝の祈りを捧げるなど、 沢山の作法にしたがって食事をしたそうですが、 弟子たちは、 食事のときにお行儀が悪かったのでしょうか。 マタイ福音書によるとファリサイ派と律法学者たちから、 手を洗っていないことを批難されています。
「日本」 では食事のとき、 右利きの人の場合は、 右手で箸を持ち、 左手でご飯茶碗や汁茶碗を持ちますね。 幼いときから食事のときに、 茶碗を持つことを躾けられてきましたが、 どうして、 左手で茶碗を持つのかという理由について、 わたしは韓国で生活をするまで考えたこともありませんでした。
「日本」 では、 7世紀初めに食事で箸が使われ始めます。 奈良時代にちょっと匙が使われますが、 14世紀頃には箸だけで食事をするようになります。 韓国の食事では、 箸と匙の両方を使います。 匙はスッカラ、 箸はチョッカラとそれぞれ呼びますが、 スヂョ (匙と箸) と両方をあわせて呼んだりもします。 匙ですくって、 ご飯も、 スープも食べますので、 お茶碗は持ち上げません。 箸はおかずを取るときに使うぐらいなのです。
生活をする前から、 何度か韓国を訪問していましたので、 お茶碗は持ち上げないことは知っていました。 ですが生活をしていると、 食事のとき韓国の人がお茶碗を持たないことが、 気になり始めました。 その他にも、 一つの汁鍋から自分のスッカラで直接スープを飲むことや、 立ち膝で食事をすること、 箸と箸で食べ物のやりとりをしたりする光景を目にする度に、 お隣の国なのにずいぶんと違うものだと驚き、 何でそうなのだろうかという疑問がわいてきました。 調べてみて驚いたのは、 茶碗を持たないのはお行儀が悪くなく、 茶碗を持って食べる方が、 世界的には特異で、 韓国でもそうですが、 お行儀が悪い場合が多いというのです。
匙、 スプーンを使い、 食べ物を口まで運ぶ場合、 食器を持つ必要がありません。 しかし、 「日本」 では匙を使いませんので、 食べ物をこぼさずに口元まで運ぶには、 器自体を口元に近づける必要があるのです。 なかでも汁物は、 お椀に口を着けなければ飲むことが出来ません。 匙を使わないことが、 茶碗を持ち上げる作法を生み出していたのです。 そして茶碗を持つ行為は、 反対に茶碗自体が匙なのだという、 日本独特の考え方を生み出してきたのです。 匙、 スプーンは手に持たないと、 食べ物を口に運べませんよね。 日本では茶碗自体が匙ですので、 どうしても持たないではいられないのです。
弟子たちがしなかった食事の手洗いは、 衛生的な理由ではなく、 宗教的な穢れを清めるために行われていました。 イエスさまは、 行いや出来事を表面的に、 規則からだけ判断するファリサイ派や律法学者たちを、 偽善者と呼びます。 イエスさまの時代には、 寝そべって左手で頬杖をつき、 右手で食べ物を口に運んだということですが、 わたしたちから見るとなんともお行儀が悪く、 注意したくなりますよね。
わたしたちは、 自分と違うものと出会うときに、 違和感をおぼえます。 その違和感をそのままにしていたのでは、 その出会いを深めてゆくことはできません。 どうしてなのかということを、 丁寧に見てゆくこと、 知ってゆくことが、 「違い」 がひしめき合う今の教会の状況に必要なのではないでしょうか。 違う相手を、 深く知ることが、 自分自身を豊かに知ることにつながってくる、 そんな歩みをともにして行きたいと思います。

司祭 アンブロージア 後藤 香織
(名古屋聖マタイ教会副牧師)