『痛みと喜び』 

3月下旬、「いっしょに歩こう!プロジェクト」のわかめ収穫ボランティアに参加するワークキャンプの引率者として、生徒4名と共に東北を訪れました。ところが、初日に宿舎で入浴中転倒して、歩くこともできなくなったため救急搬送され、骨折と診断されてそのまま入院することになりました。手術が必要ということでしたので、帰京しての治療を希望し、翌日様々な交渉の結果、何とか新幹線に車いすで乗り、東京に戻ってくることができました。

数日後、折損部を固定する手術を受け、その後さらに3週間ほどの入院生活を経て松葉杖での歩行が可能となり、ようやく退院しました。まだ全快というにはほど遠い状況ですが、とりあえず日常生活がおくれる程度には回復しました。

入院はもちろん骨折も初めてでしたので、いろいろと思うことは多くありましたが、特に入院生活と聖週・復活節が重なったことはわたしにとって大きな意味があり、主の受難を自らの身体を通して黙想「させられた」(半ば強制的に!)ことは恵みであったと思っています。

普通ならば、「なぜ風呂場で転んだだけでこんな大事になるのか」(医師もこんな大けがになったことを不思議がっていましたが、「運が悪かった」というのが結論のようです)と落ち込んだりしそうなものですが、幸か不幸か骨折の痛みはそんなことで悩む心の余裕を与えませんでした。骨折してから手術で患部を固定するまでは、とにかく何をしても激痛が走り、夜も一時間おきに起きるような状態で身体的にも肉体的にも疲弊しました。また、手術の準備として足の牽引をするようになってからは、寝返りはおろかベッドから降りることもできなくなり、排泄も看護師さんのお世話にならなければならなかったのは恥ずかしかったし、精神的にも辛くみじめな気持ちでした。始終襲ってくる痛みに加え、徹頭徹尾無力な自分の姿と向き合わされた一週間でした。

ヨーク大主教ジョン・センタムは、今年の聖金曜日に寄せて次のように言っておられます。「聖金曜日は、深みと向き合う日です。イエスは十字架の苦しみの中で叫びます。『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?』その最期の時に、イエスは人間の苦しみの深さを極限まで知り、孤独の焼け付くような喪失感を知ったのです。…しかしイースターの物語の終わりは死ではなく、命であり、そのあらゆる豊かさに満ちあふれる命なのです。」

ベッドの上でわたしが味わった痛みや無力感は、わずかにではあっても確かに主イエスの十字架の端につながっていたのだと思います。「痛い」ということを骨の髄まで思い知らされた時でしたが、しかしその十字架の向こうには、復活の喜びがたたえられていることも確かに知ることができました。病院から車いすに乗って外出し、イースターの聖餐式に出席して教え子の洗礼式に立ち会うことのできた喜び!今年は本当に忘れられない大斎・復活節となりました。

司祭 ダビデ 市原信太郎
(立教池袋中学校・高等学校チャプレン)