『東日本大震災を覚えて』 

東日本大震災より3年6ヶ月以上になります。この間、余震や台風、津波と聞くたびに、「被災地は大丈夫だろうか」と案じてきました。
犠牲となられた2万人近い方々の魂の平安を祈り、今なお不安な生活を送っておられる被災地の方々に、心よりお見舞い申し上げます。
今なお盛んに今回の地震、津波、原発事故について科学的現象としてとらえ、「なぜ起きたのか」と原因やメカニズムを究明し、検証しつつあります。やがて、その説明は完全なかたちで私たち国民の前に明らかにされると思います。
特に、原発事故は天災ではなく、「人災」と言われています。重大な過失に対して、「想定外」という言葉で責任をあいまいにしている関係者の姿勢に、いらだちを覚えました。
日本の科学技術は地震の予知ができるし、原子力の制御も可能であるかのように思っていた点があります。しかし今回の震災によって、原子力の利用についても警鐘を鳴らす役割を、唯一の被爆国である日本が皮肉にも担うことになりました。
私たちは、優れた科学技術をもちながら、人間の力や知恵の及ばないことがあることを受けとめ、心の姿勢を正していかなければならないと思います。
復興の要である政治に仕える人々や原発に責任を負う人々に目を向けても、この点が欠落しているように思います。その傲慢な姿勢を改めないかぎり、同じ過ちを繰り返すと思います。
旧約聖書にも天変地異や民族の興亡が記され、それは一見、厳しい神の裁きのように描かれています。しかし、突き詰めて読んでみると、神は民に対して愛と善しか試さず、預言者を遣わして民が悔いて立ち帰ることを求めておられます。日本の真の復興は大いなるお方の前に姿勢を正し、祈ることから始まると思います。
私たちは豊かな大自然の恩恵に浴してきました。その一方で自然災害に遭うたびに己の小さな存在を自覚し、姿勢を正し、野に出でて、畏れと祈りをもって天を見上げて祈る民でした。
人間が人間以上の大いなるお方の存在を仰ぐとき、心は澄み魂は清まっていきます。このような民族の霊性をもって素晴らしい国づくりをしてきたのが日本です。被災地の復興は停滞を許されません。しかし、何よりも、私たち国民の一人ひとりの内の精神的土台、すなわち祈りの土台が据えられなければ、真の復興にはなっていかないと思います。
震災の報道を読んでいると、月日が経つにつれて「宗教」に触れる記事が多くなりました。「宗教の役割は何か。巨額の義援金を集めたり、大勢のボランティアを動員したりすることなのか。それもよいことだが、心痛む被災者に寄り添い、その悲しみ、痛みに耳を傾けることではないか」と。亡くなられた方々の魂の平安を祈り、遺族でもあり、被災者でもある方々の拭いがたい痛みを癒やすことです。
このたびの震災を振り返ると世界からも賞賛される日本人の美徳が発揮されました。それは魂の中に流れている自己犠牲の精神が現われたことです。私たちはこの尊い精神を受け継いで生きてゆきたいと思います。
一方では復興の指導者の欠如や、風評被害、被災地のガレキ受け入れ拒否等、利己的な面もあらわになり、重い課題を残しています。このようなことを含め、日本はもっと精神的に目覚めてゆかなければならないと思います。
私たちは、2万人にも及ぶ犠牲者の死を記憶し、被災地の痛みを心に刻み、これからも震災に向き合い続ける必要があります。そして、一人ひとりが復興の基となるものが何であるかを深め、応えてゆかなければなりません。
この精神的目覚めがなされる限り、今後、日本が大震災に見舞われても必ず真の復興を遂げると思います。また、そのことが災害で苦しむ世界の国々の希望となることを信じ、祈らずにはおられません。

司祭 テモテ 島田公博
(主教座聖堂付)

死刑執行に断固抗議します

2014年9月1日

内閣総理大臣  安倍 晋三 様
法務大臣    谷垣 禎一 様

 死刑執行に断固抗議します

2014年8月29日、仙台拘置所において小林光弘さん、東京拘置所において高見沢勤さんに対して死刑が執行されたことに対し、ここに強く抗議いたします。

死刑制度は「残忍な刑罰」を禁じた日本国憲法第36条や、「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない」と定めた世界人権宣言(第5条)の精神に反するものです。また、死刑制度廃止へと向かう国際社会の潮流にも逆行しています。
刑罰として生命までも奪う権利は国家にも、だれにも与えられていません。しかしながら現実には、法務大臣がきわめて事務的・機械的に署名捺印し、死刑が施行されるという暴挙が行われています。死刑の執行はまさに国家による殺人です。

私たちは現在、死刑の判決後キリスト教の信仰を受け入れ、受洗した死刑囚と共に信仰生活を送っております。また、これまでに、自分の犯した罪に真摯に向き合い、「生きて罪を償いたい」と贖罪の日々を送っていた5名の同宗の友を、死刑の執行によって奪われました。私たちの、死刑制度廃止を求める願いには切なるものがあります。
私たちは、神より与えられたすべての人の生命と尊厳、そして人権を守るキリスト教信仰にたって、一日も早い死刑制度廃止を強く求めます。

谷垣法務大臣には、是非とも多くの死刑制度廃止を訴える私たち国民の声に耳を傾け、内閣及び国会の場において、死刑制度廃止に向け努力されますように、また、その法改正がなされるまで、決して死刑の執行をしないよう強く要請致します。

                日本聖公会中部教区・宣教局社会宣教部

「喜んでささげる」

 一昨年の教区会で「中部教区基金造成のための募金の件」が決議され、2013年4月から募金が開始されております。今年の6月末までに約1、500万円余りの献金が捧げられました。大変感謝です。募金委員の皆様にも各教会へのアピール等、御苦労いただいておりますこと感謝いたします。目標が1億円ですので皆様にはもう少しのご協力をいただかなければなりません。
 募金の目標を改めて確認いたしますと、(1)教役者育成のため、(2)教区の新しい宣教活動のため(可児の働きも含めて)、(3)各教会の修改築等のための貸付金造成のため、となっています。改めて申し上げるまでもなく、いずれも現在教区にとって緊急の課題です。
 そのような状況を考えますと、どうしても基金の造成は必要になってくるのです。教区としても宣教事業等によって資金の造成・確保を行っていますが、やはり信徒の皆様からの献げものは何といっても教会活動の基本となるものです。
 募金項目の一つに「各信徒は一人ひとり主から受けたものを喜んで捧げられる額とする」とあります。この募金は強制でも割り当てでもありません。主から受けたものを喜んで主に捧げるという、献金本来の意義を表すものなのです。
 パウロは献金について「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(コリント二9:7)と言っています。
 喜んで与えるということは単に献金を捧げるということではなく、各自の信仰の表現でもあります。不承不承でもなく、強制されてでもなく、自分にできる範囲で喜んで捧げるということが神様に喜ばれることなのです。
 引き続き皆様のご協力をお願い申し上げます。

『洗礼から陪餐へ』

洗礼から陪餐へ…洗礼の意義の再確認
去る5月27日から開催された日本聖公会第61(定期)総会において、「日本聖公会祈祷書一部改正の件」が決議(協賛)されました。改正の主たる文言は、「洗礼を受けた者は陪餐できる」です。現在の祈祷書では「堅信を受けた者は陪餐することができる」となっていますので、原則的に堅信を受けなければ陪餐できませんが、今回の決議により「洗礼によって陪餐できる」ということになります。
祈祷書の教会問答には、「キリストがすべての人の救いのために福音のうちに自ら定められた聖奠は何ですか」という問いがあり、答えは、「洗礼と聖餐です」とあります。つまり、すべての人の救いにとって必要な聖奠は「洗礼と聖餐」なのです。ですから、洗礼を受けた人が堅信を経ることなく陪餐できるということは自然なことといえます。
この改正のポイントは堅信の意義を後退させたということではなく、洗礼の意義の重要性を再確認したということです。わたしたちはだれでも洗礼によって神の子とされ、神の民に加えられ、イエス様の聖餐にあずかることができるのです。

堅信の必要性
では堅信は必要ないのでしょうか。全くそうではありません。堅信は改正の文言にもありますように、「聖霊により日々強められ、この世に遣わされる」ために必要な大切な聖奠的な式なのです。「洗礼さえ受けていれば堅信は必要ない」ということでは決してないのです。洗礼を受けたキリスト者はこの世に遣わされて、この世でキリスト者として生き、キリストを証し、宣教の業を行っていきます。そのためには聖霊による強めや促しが必要になってきます。その強めをいただくのが堅信式になるのです。ですから、受けても受けなくてもいいというものではなく、この世界でキリスト者として生きて行くために必要な式なのです。
わたしは「洗礼・陪餐・堅信」を一体のこととして理解する必要があると考えます。ですから、現在もそういう場合が多くありますが、洗礼と堅信が同時に行われ、そして陪餐という形が理想的とも言えるでしょう。もちろん、それが事実上不可能な場合もありますが、仮に、「洗礼→陪餐」の場合でも、洗礼の後、出来るだけ早い時期に堅信式が行われるべきであると考えます。

これからの方向
今回第1回目の決議(協賛)がなされましたが、祈祷書の改正は総会で2回の協賛が必要になります。次の総会までの2年間で様々な課題を解決しなければなりません。たとえば、現在受聖餐者の定義、統計表のこと、幼児の陪餐年齢について、幼児の時に洗礼を受け成人になっている人の陪餐はどうするのか、法規の改正、献金の問題、他教派からの人たちの場合、等々いろいろあります。
それらの課題を整理し、ある一定の方向付けをしてから実際には施行されることになります。主教会でもこの問題に対する教書やガイドラインが必要だと考えています。Q&Aも必要でしょう。この2年間で改正の意義と課題を周知徹底し、皆様にご理解をいただきながら施行へと向かうことになります。

主教 ペテロ 渋澤一郎

集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に抗議し、撤回を求めます

内閣総理大臣 安倍 晋三 様

集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に抗議し、撤回を求めます

7月1日、集団的自衛権行使を容認する閣議決定がなされました。
集団的自衛権の行使容認は、日本が攻撃を受けていなくても他国のために戦争をすることを意味し、戦後の平和主義を捨て、戦争をしないという日本の国のあり方を根本から覆すものです。

日本の歴代政府は集団的自衛権について、行使は憲法第9条のもとで許された「必要最小限度の実力行使」の範囲を超えると解釈し、禁じてきました。
憲法第9条の実質的な改変を国民不在の政府、与党の議論のみで進め、閣議決定するということは、立憲主義の原則を否定するということに他なりません。

政府は集団的自衛権行使の歯止め策として「武力行使三要件」を設け、「国民権利が根底から覆される明白な危険がある」場合に限定すると主張しますが、極めて曖昧で、時の政府の判断によって自由な解釈がされてしまう危険性があります。

日本国憲法は、過去の破壊的な戦争の反省に立って作られた憲法であるとともに、この戦争によって甚大な被害を受けた国内外の人々の尊い犠牲の上に作られた憲法です。特に憲法第9条は「武力による威嚇又は武力の行使の放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」を定め、国内外で平和憲法と認められています。
集団的自衛権の行使を容認する閣議決定は、立憲主義と恒久平和主義をまさに捨て去るもので、到底認めることはできません。
わたしたちは再び戦争の加害者にも被害者にもならないため、日本国憲法、ことに第9条を守り、憲法第9条を形骸化する集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に断固抗議し、撤回を求めます。
以上

2014年7月7日

宗教法人日本聖公会中部教区
宣教局社会宣教部

「一つの修女会の発展的解消」

 日本聖公会第61(定期)総会が先日終わりました。37の決議がなされましたが、その中に「神愛修女会の今までの働きに感謝する件」という決議がありました。
 日本には聖公会の修女会が2つありました。「ナザレ修女会」と「神愛修女会」です。その神愛修女会が昨年の11月10日の礼拝をもってその活動を終えたのです。修女さんの減少(お二人だけ)と高齢化のためです。いままでの活動に対して日本聖公会として感謝の意を表しました。とは言え、一つの修女会がなくなってしまったということは大変寂しいことですし、残念なことです。
 神愛修女会は、戦後、聖ヨハネ修士会の木村兵三神父を中心に群馬県の榛名で誕生しました。当時、結核保養施設であった「榛名荘」(現在は立派な施設に変貌している。)での看護と、幼児教育を中心にして修道生活が行われました。
 その後、南紀(和歌山県上富田町)に活動の場を移し、特別養護老人ホームを設立し社会福祉にも活動を広げました。老人ホームの設立に際して、県関係者からは、「あなたがたのような人が設立してくれたら老人たちは喜ぶでしょう」と勧められたとのこと。地元の人たちも「修女会だから」と言って協力を惜しまなかったそうです。その活動は現在も継続されております。
 しかし、修女さんたちの減少と高齢化はいかんともしがたく、昨年、修女会自体の活動は停止せざるを得なくなったのでした。京都の主教さんは、修女会は解散したが「修女会だから」という精神はその地に残るのであり、「発展的解消」と理解したいと言っておられました。長い間のお祈りと働きに感謝します。いつの日かその精神が復活することを願いつつ…。

『成長の途上にある可児ミッション』 

可児より平和の挨拶をお送りします。
可児ミッションの活動は発足以来、急速に拡大しています。2008年に中部教区第79(定期)教区会において、可児ミッションの設立が決議され、常駐スタッフが配置されました。そして、2013年には可児聖三一教会が誕生しました。その間、可児ミッションは可児市周辺地域の外国籍住民への支援を大切にし、2012年には可児ミッション「キンダークラス」を開園し、さらに今年に入ってから岐阜市の岐阜聖パウロ教会内に「きぼう教室」、美濃加茂市に「美濃加茂プレスクール」をオープンしました。これらすべてのセンターは、日本で暮らしながらも、地域の幼稚園や学校に通うことが困難な、外国にルーツを持つ子どもたちのための教育活動を行っています。限られた予算の中で、これらのプログラムをどれだけ維持できるかは、未知数です。
教育プログラム以外では、生活全般に関して様々な問題をかかえる在住フィリピン人の相談活動を実施しています。可児、美濃加茂、さらに岐阜県内の様々な地域に住み、困難な状況にある外国籍住民が相談にやってきます。この相談活動がなければ、可児ミッションがすべきことは何かを見出すことはできません。こうした教会の働きを通して、中部教区は地域のフィリピン人から信頼と支持を得ています。スタッフたちが、可児ミッションは今どういう存在であるべきかを検討してきたことが、こうした実りを生みました。神はその民を通して働かれ、その使命を行う人々を選び出すのです。
今や岐阜県内を広くカバーする可児ミッションの活動には、不安をかかえつつも喜びがあります。私たちのすぐ近くで暮らす外国籍住民を支えることを、今、神から強く促されているという心境です。レビ記19章33~34節はこう語ります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」。それゆえ、神の祝福の下、私たちは、教会の愛の奉仕によって実現する神の憐れみと愛、善き行いを携えて、岐阜地域における外国人と日本人に対する教会のミッションをさらに広げていきたいと願っています。
神の導きが私たちと共にありますように、お祈りください。

執事 山下グレン
(可児聖三一教会勤務)

死刑執行に断固抗議します

内閣総理大臣  安倍 晋三 様
法務大臣    谷垣 禎一 様

 死刑執行に断固抗議します

本日、大阪拘置所において川﨑政則さんに対して死刑が執行されました。第2次安倍政権発足後、9名にのぼる執行となります。極めて遺憾であり、死刑執行に断固として抗議します。
死刑制度の存置が犯罪抑止力にならないことは統計上からも明白であります。また、足利事件、志布志事件、東電OL殺人事件、そして先ごろの袴田事件など冤罪事件が続発しており、今もなお、名張毒ぶどう酒事件など、冤罪を訴え続けている死刑囚がおります。ひとたび死刑が執行されれば、取り返しがつきません。
国際的に、死刑制度は廃止される傾向にあり、世界で死刑を廃止または停止している国は140か国に上ります。OECD(経済協力開発機構)加盟国(34か国)の中で死刑制度を存置している国は、日本・韓国・アメリカの3か国のみですが、韓国とアメリカの18州は死刑を廃止または停止しており、死刑を国家として統一して執行しているのは日本だけです。
私たちは現在、死刑の判決後キリスト教の信仰を受け入れ、受洗した死刑囚と共に信仰生活を送っております。また、これまでに、自分の犯した罪に真摯に向き合い、「生きて罪を償いたい」と贖罪の日々を送っていた5名の同宗の友を、死刑の執行によって奪われました。私たちの、死刑制度廃止を求める願いには切なるものがあります。
私たちは、神より与えられたすべての人の生命と尊厳、そして人権を守るキリスト教信仰にたって、一日も早い死刑制度の廃止を訴えます。谷垣法務大臣には、是非とも多くの死刑制度廃止を訴える私たち国民の声に耳を傾け、内閣及び国会の場において、死刑制度廃止に向け努力されますように、また、その法改正がなされるまで、決して死刑の執行をしないよう強く要請致します。

2014年6月27日

日本聖公会中部教区・宣教局社会宣教部

「新館長と森巻耳先生」

 「ともしび」5月号で紹介がありましたように、この4月から教区関連施設の責任者に新たに何人かの方々が就任されました。いろいろ御苦労もあるかと思いますがお働きの上に神様のお導きをお祈りいたします。
 その中で、岐阜アソシア「視覚障害者生活情報センターぎふ」館長に山田智直さんが就任されました。山田さんはご本人も書いておられますが全盲の視覚障がい者です。
 岐阜アソシアの前身である岐阜聖公会訓盲院の初代院長は森巻耳先生(伝道師)です。森先生は岐阜聖パウロ教会の信徒で、眼病のため失明されましたが、当時岐阜で伝道していたA・F・チャペル師と共に岐阜聖公会訓盲院を設立し、視覚障がい者の教育や生活の向上のために尽力されました。
 森先生はご自分の目が見えなくなったのは「これ皆な神の聖旨なり、吾を盲人社会に用いて神の栄を表わさしむなり」と受けとめ、視覚障がい者の教育と福祉のために生涯を捧げられました。山田館長もその遺志を受け継ぎ、彼自身も書いておられるように視覚障がい者の方々の気持ちを共有し、その方々に寄り添った働きをしてくださることを信じています。
 山田館長とはわたしが岐阜聖パウロ教会に赴任してからの関わりですので25年になります。実を言いますと、彼に出会い、彼の明るさと前向きさとバイタリティーにより、わたしの視覚障がい者に対する意識が変えられたのです。彼の言動から、目が見えないことは決してハンディではなく、ただ少し不自由なだけだということ、そして、その不自由さを取り除くことが晴眼者であるわたしたちの務めであり、それが共に生きるということなのだと教えられたのです。山田館長の活躍に期待します。

集団的自衛権の行使容認に反対します

内閣総理大臣 安倍 晋三 様

集団的自衛権の行使容認に反対します

わたしたち日本聖公会中部教区社会宣教部は、安倍首相が表明した集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を検討することに対し反対します。
日本国憲法は、破壊的な戦争の反省によって作られた憲法であるとともに、この戦争によって甚大な被害を受けた国内外の人々の尊い犠牲の上に作られた憲法です。特に憲法第9条は「武力による威嚇又は武力の行使の放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」を定め、国内外で平和憲法と認められています。日本の歴代政府は集団的自衛権について、「主権国として保有している」と位置づけながら、行使は憲法第9条のもとで許された「必要最小限度の実力行使」の範囲を超えると解釈し、禁じてきました。憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認は、戦後の平和主義を捨て、戦争のできる国にしようとするということです。
また、首相は、与党協議の結果に基づき、憲法解釈の変更が必要とされれば、改正すべき法制の基本的方向を閣議決定していくと述べています。国民的議論も合意もなく、平和主義憲法の根幹を変えようとしています。解釈変更だけで行使を認めれば、憲法が権力を縛るという立憲主義の原則が否定されることになります。

わたしたちは再び加害者にも被害者にもならないため、日本国憲法、ことに第9条を守り、憲法第9条を形骸化する集団的自衛権の行使容認に断固反対します。
以上

2014年5月24日

宗教法人日本聖公会中部教区 社会宣教部