「心を合わせて、声も合わせて」

最近、年のせいか声の出が悪くなって困っています。加齢によって声帯も縮むとどこかに書いてあったような気がしますのでそのせいかもしれません。イースターには聖別祷の途中でおかしくなり往生しました。できるだけしっかりと声を出そうと心掛けている昨今です。
 ですから、声が良く出ている方はうらやましく思います。しかし、あまり出すぎるということも時には困ることもあります。殊に、礼拝において一人だけ大きな声で唱えられますと、礼拝がその人に引きずられてしまうということがあり、礼拝の調和が少し乱れることがあります。聖歌も同じです。一人だけが大きな声で歌いますと、やはり礼拝の調和が乱れます。みんなが心を一つにして神様を礼拝するためにはやはり他の会衆と同じテンポや声の高さが求められるでしょう。
 そのためには回りの声が聞けなければなりません。かつてある方から、聖歌を歌うときには回りの声を聞きながら歌いなさいと教えられたことがあります。自分が歌っているときに他の人の声も聞くということです。一生懸命すぎると他の声は聞こえません。回りの声が聞けるということは自分の声が図抜けていないということのバロメーターにもなるのです。お祈りも同じです。礼拝は大きな声でというのは間違いではありませんが、大きすぎると礼拝の妨げにもなるのです。少しくらいボリュームを下げても神様はちゃんと聞いてくださいます。
 立教大学の名物チャプレンであった竹田鐵三神父さんの遺稿集の中に、「公同の祈りは聖歌で声に自信のあるのがひとりで大声で歌うと全体の気分を壊すようにお祈りも皆と一緒に平凡な声、平凡なアクセントで祈るのが上々」とあったのを思い出しました。