『愛を愛でもって応える』

新幹線と在来線を乗り継いで、軽井沢から職場のある東京の西国分寺へと、通勤している。毎日同じ時間の電車に乗るので、相手の方は知らないと思うのだが、此方は勝手に、「おはよう」と心の中で声をかけている顔馴染みさんがいる。新幹線では、ランドセルを背負った小学生の姉妹、いつも本を読んでいる中学生の双子の姉妹、宿題をやっている小学生の男の子、在来線のホームにも、顔馴染みさんがいる。この顔馴染みさん達の姿が見えなくなると、在来線でも座ることが出来る。夏、冬、春休みの時季である。なので、大抵、在来線では立っていることが多く、また、本を読める程に空いてもいない。
しかし、嘆くことはなく、楽しみも見つけている。それは、車窓からの風景である。季節によって色んな表情を見せる風景は、目を楽しませてくれる。そして、車窓からも顔馴染みさんがいる。老人ホームと思しき窓から、外を眺めている車椅子に乗った白髪のご婦人である。今日も、お元気そうだな、膝掛けをする季節になったのだな、また、明日もお姿を見せて下さいと、勝手に話し掛けている。しかし夏前には、そのお姿が見えなくなり、ご自宅に戻られたのか、それとも体調を崩され、臥せっておられるのかと案ずる日々である。
考えてみると、当り前のことなのだが、同じ様な繰り返しの毎日ではあっても、同じ日は一日もなく、時間が過ぎ去って行くこと、同じ所には留まってはいないということを改めて感じたのである。しかし、楽しい時はこのままでいたい、この時間に留まっていたいと変化を望まない。悲しい時、辛い時は早く逃れたいと変化を願うのではないだろうか。
この願いというのは、人の力だけでは、如何することも出来ないことがある。この如何することも出来ないこと、これが苦しみなのかと思う。苦しみの中にある人と向き合い、関わっているのか、また、気付くことが出来ているのだろうか。
私は嘗て、救急救命の講義の中で、声を上げている患者と、静かにしている患者の何方が緊急を要するかという話を聞いたことがある。何れの患者も緊急性はあるのだが、より緊急性があるのか判断を迫られるのは、静かな患者の方である、というのである。つまり、声なき声に耳を傾け、その声を拾い上げることが出来るのかということである。
これは、今の社会においても同じではないだろうか。声を上げられない人、声を上げることさえ許されない人がいる、この人達に代わって、目を向け耳となり口となって働いているのか、自分自身が隣人となっているのか、マタイ伝22:39を読む度に、問われている気がする。
イエスは、私達の隣人として歩まれた生涯でした。そして、イエスは十字架を通した愛を私達に常に降り注いで下さっているのであり、そして、私達もその愛の内に働きなさいと語りかけても下さっている。作家C・S・ルイスは聖書にある愛は、一方的に与える愛であると本に書いているが、私自身、愛を愛でもって応えられる力を神様が与えて下さることを祈るばかりである。

執事 フランシス 江夏一彰
(軽井沢ショー記念礼拝堂勤務)