『母の死を通して』

1月27日、母は神様のもとへ召されました。その1ヵ月後、思いを岐阜聖パウロ教会の教会だよりに寄せてみませんかと伊藤司祭よりお誘いがあり、書かせていただきました。

母は自分の父を浜松にあるホスピスで看取ったのを機に、10年前に「ぎふホスピス運動をすすめる会」を立ち上げました。祖父はがん告知後に自らホスピスを選び、種々の苦痛を緩和してもらい、穏やかな最期を迎えた人でした。母はその体験から、岐阜の地でもすべての病院・在宅でホスピスケアを、生と死を見つめる大切さをと願いました。そして市民の立場からその普及を進めようと、学習会やホスピス設立を求める署名活動などを行いました。6年前には乳がんが発症し、同じ患者の立場にある方と思いを分かち合ったり、治療法について積極的に勉強するなど、ますます思いを強くして活動していました。最後の一ヶ月は肺転移による呼吸の苦しさを伴いながらも、ホスピスで明るく楽しく過ごしました。自分から周囲に別れと再会を誓う挨拶をし、遺される者が死を迎える気持ちの準備までしてくれました。最後にもらったクリスマスカードにも「この先一緒に過ごせる時間は長くはないかもしれないけど、できるだけ明るく楽しくやっていこうね」「どこにいても祈っていますよ」とあり、私の支えとなっています。そして苦しみから解放されるように神さまに抱かれて旅立っていきました。

そんな母の死、また3年前に肺がんで急逝した父の死を通して感じたことを書いてみたつもりです。まだまだ混乱した思いのままでの文章ですが、神様からのメッセージに目を向ける良い機会ともなりましたことを感謝しております。

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住み慣れた家でもあったこの岐阜聖パウロ教会。神様の愛で満たされたこの場所から母が皆様に見送られて1ヶ月が経ちます。母が旅立つ準備を始めてから通夜の祈り、そして葬送式を終えて母の遺骨と共に帰宅するまでの時間は、夢のような素敵な時でした。
愛する人との別れは辛く重いもの。母の死を思う時、もちろん苦痛を伴わずにはいられません。しかし同時に温かい気持ち、神様への感謝と賛美の気持ちを持つことができる。それが母の死を通して感じた、不思議でもあり当然でもあるような感覚です。寂しくて悲しくてたまらないのに笑顔が溢れてしまう、本当に夢のような心地よい感覚です。
与えられた時間を最後の一瞬まで大切に使いきろうとした母。命に限りがあることを受け入れていた母は命の素晴らしさを実感し、自然と感謝の念を持っていたのではないかと思います。辛さと喜びが同時に母から溢れていた最期でした。私も限りがあるからこそ命は輝くのだと実感させられました。神様が与えられた母の素晴らしい人生に心から感謝しました。母の最期から葬儀を終えるまでが素敵だと感じたのは、母を愛して下さった皆様と共に命の素晴らしさを感じて神様への感謝と賛美を捧げつつ、母とのこの世での別れが十分にできたからだと思います。
しかしこれは父が亡くなった時には無かったものです。3年前、私は父の遺体にすがって泣き続けていました。葬儀中も、父の最期を思って泣いていました。入院中に呼吸が苦しくなり意識を失った父は、最後の数時間を人工呼吸器によって動かされていました。東京から駆けつけた私はそこに命を感じることができず、物として動かされている父を見ました。寂しさよりも悔しさを感じた、大好きな父との別れでした。
母の時とは全く異なる経験でした。何が違うのか、冷静に整理する事はまだできません。ただ1つ感じるのは、与えられた命を「限りある時間」として受け入れるか否かの違いの大きさです。父は、神様の与えられた時間に逆らう事がいかに不自然であり皆に苦痛をもたらすかを教えてくれました。母と同じく人生を懸命に生きた父が苦しみをもって教えてくれました。これは医療者への要望だけでなく、自分への戒めともなりました。
今、父も母も自らの死を通して同じ教えを残してくれたと思うことができます。
母が親友に伝えた一言。「医者も患者も関係ないの。あるのは感謝だけ。」私はこれを「神様の前で人が傲慢になってはいけない。感謝を持って日々を過ごしなさい。」というメッセージでもあると思っています。神様に感謝すること。人とのつながりにも感謝すること。病気であろうとなかろうと、人にはこの世での時間に限りがあると受け入れること。実際にはいつになっても難しい課題ですが、心に留めて努めようと思います。
テレサ 神山佳奈絵
(岐阜聖パウロ教会信徒・臨床心理士)

『ペトロの涙』

主のご復活と導きを感謝して
3月に入ってなお小雪が降り、早朝には氷点下7度の日を迎えるなかで、4月の声が近づくと、やっと新しい命の芽生えを感じる時が来たなとの思いです。春一番が吹き、冬の終わりを告げる雷が鳴り響くと、その音に促されたかのように、厳しい寒さに閉じ込められていた小さな虫たちが地上に顔をのぞかせ、啓蟄を迎えます。死んでしまったと思わせるような冬の世界に、大地のぬくもりのなかで小さな命が見守られていることを教えているようです。根雪を溶かし、幼虫たちに脱皮・変態し動き出す、新たな生きる力の源を注いでいるように思います。そうか、神様はそのように私たちが住むこの世界をお創りになってくださっているのだなと思います。
教会暦では、主のご復活を祝う準備の大斎節も主イエス様のエルサレムでの1週間を覚える聖週に入ります。しかし、弟子たちを代表するとまで言われたペトロにとっては思い出したくもない1週間であり、あの一言さえ言わなければこんな惨めな思いをしないで済んだと、悔やんでも悔やみ切れない出来事でした、「私はあの人を知らない」(ルカ22:57)と。あれほど主に従って歩む道こそ自分の生きる道であると固く信じ誓った私は、主イエス様の言葉どおり、一番大切な時に、一番証しするチャンスの時に「私はあの人を知らない」と叫んでしまいました。その時ペトロに向けられた主の眼差しに、弟子たちの先頭に立った誇りも無く、主を裏切ってしまう自分の弱さを思い知らされ、悔しさと恥ずかしさで主に顔を向けることが出来ず、主のおられる中庭にいたたまれず外に飛び出してしまいました。
この言葉は自ら関係を断ち切る言葉、主の愛のうちに生きる事とは関わりのない関係を宣言する言葉になりました。神様の御用のために主イエス様によって、私こそ最初に召され、先頭に立って歩んで来たその人であると自負してきた者の、挫折した恥ずかしい言葉そのものでした。でもこの言葉は、ペトロだけの言葉でなく、今私たちの口と耳に飛び交う、人間関係を断ち切る言葉になってしまっています。夫婦の親子の兄弟姉妹の家庭のなかで、少子・高齢化社会のなかで、絶えることの無い幼児虐待や最近とみに増えている高齢者の虐待、いじめのなかで、こんな筈ではない、こんな人間関係のために私たちの命が与えられたのではないとの叫びが溢れています。
大声で「私は知らない」と言わざるを得なかったその時、主イエス様の眼差しにペトロの涙は止まりませんでした。そう、イエス様は知っておられるのです。ペトロの思いも、弱さも。それでもなお裏切ってしまった弱いペトロをありのまま受け入れ、そのペトロのために赦しと神様の愛のしるしの十字架へと歩まれました。ご復活の主はペトロに、自分の力に頼って生きる道から脱皮し、神様の愛に活かされる者へと力を注いでくださいました。ペトロのその後は、命がけで復活の主との出会いを証しする歩みでした。それはペトロの内に、十字架のイエス様が共にいてくださる人生へと招いてくださった喜びのしるしです。
「私は知らない」と交わりを絶つ言葉を言い続ける私たちですが、ペトロと共に喜びをもって聖餐式の内に、主が今ともにいてくださる恵みに与りましょう。
司祭 マルコ 箭野眞理
(長野聖救主教会牧師)

『平和の器として』

『ナチスが共産主義者を弾圧した時、私は不安に駆られたが、自分は共産主義者ではなかったので、何の行動も起こさなかった。その次、ナチスは社会主義者を弾圧した。私は更に不安を感じたが、自分は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった。それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、そのたびに私の不安は増大した。が、それでも私は行動に出なかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして、私は牧師だったので、行動に立ち上がった。しかし、その時はすべてがあまりに遅すぎた。』 (マルチン・ニーメラー)
1999年、「日の丸」、「君が代」をそれぞれ「国旗」、「国歌」とする「国旗・国歌法」が成立しました。以来、殊に教育現場における「日の丸」、「君が代」の押しつけが、急速に強まりました。最近、聞いた話ですが、東京都では、各学校の公式行事の際に、教育委員会が「日の丸」を掲げる場所を含めた会場のレイアウトに介入したり、或いは「君が代」を歌う際には、誰が立たなかったか、誰が歌わなかったか等のチェックが公然となされているとのことです。こうした圧力によって、今では全国の公立学校における「日の丸」、「君が代」の実施率はほぼ100%となっています。つまり公立学校の教職員及びそこで学ぶ生徒たちは、知らず知らずに公権力が一方的に決めつけた「愛国心」の強制というある種の思想統制を受けていると言えるのです。更に最近では、私立学校にも「日の丸」、「君が代」を義務づけようという論議が生じているようです。聖公会に連なる諸教育機関は大丈夫かと言いたくなります。
他方、日米安保条約の下、アメリカの軍事戦略を支援協力することによって、日本は 軍事力を強化してきました。1999年には「周辺事態法」が成立し、周辺地域の有事であっても米軍の後方支援という形で軍事行動ができる道を開きました。2001年9月11日の「同時多発テロ事件」の後には、「テロ対策特別措置法」や「改訂PKO協力法」などを成立させ、自衛隊派兵に向けての環境整備を行ってきました。そして、昨年は「武力攻撃事態法」を含むいわゆる有事法制関連三法が成立しました。それによって、有事の際には国民及び病院や銀行などの諸施設の動員が可能となり、国民の人権や自由が著しく制限される恐れが生じてきました。
こうした一連の軍事化の歩みが、結果的に自衛隊のイラク派兵に道を開いていったのです。戦後初めて戦地に自衛隊を送ることによって、日本は新たな戦時体制に突入したと言えます。日の丸の小旗に送られて出兵する自衛隊員の姿を見て、皆さんは、どのように思われたでしょうか。
1996年、日本聖公会第49(定期)総会は「日本聖公会の戦争責任に関する宣言文」を決議しました。この「宣言文」では、聖公会が日本国家による戦争を支持、或いは黙認したことの罪を告白すると共に、平和の器として歩むことを祈り求めています。
私たちは、再び同じ過ちを犯してはならないのです。冒頭のマルチン・ニーメラー牧師の詩をあらためて心に刻みながら、共に平和への願いを深めて参りたいと思います。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ2・4)
司祭 テモテ 野村  潔
(教区教務局長)

『イエスの福音』

新しい世紀4年目となっても、残念ながら憎しみ、暴力、混乱、破壊が荒れ狂う世界が続いています。また幼児虐待など弱い者への暴力も深刻な問題となっています。逆に同性愛の結婚の承認、同性愛者の主教の誕生など、新しい世界の幕開けにつながるような希望に満ちた出来事も起こっています。今はまさに、ポストモダンの時代、真剣に自分たちが何に基づいて立っているのか、どのような方向へ向かっているのかを考えなくてはならない時代なのだと実感させられます。
私たちが立つ場、そこから行動を始める場とは何でしょうか。それは今もイエス・キリストの福音であり、またそれを常に再確認し続けることでしょう。そのように記すと保守的・キリスト教中心主義的・内向的教会論のように聞こえますが、キリスト者である以上、それは欠くことの出来ない事柄です。すなわち、課題は、どのような福音に立ち、どのように再確認し続けるのかというモダン的問いに基づいているのです。
イエス・キリストの福音とは何であったか。これは簡単なようで難しい問いです。福音を復活に集中させ、悔い改めてイエスをキリストと信じる人々すべてに罪の許しを与えるという伝統的な立場から、福音をイエスの生涯に集中させ、小さくされたもの弱くされたものを最初にかつ偏愛的に救う出来事であるという立場まで、その範囲は広く、それぞれにそれなりの意義があります。しかし、イエスの復活に集中しようが、イエスの生涯に集中しようが、イエスの福音はそれら人間の思惟を超越している事柄です。それは人間が論理的にも感覚的にも常識的にも知ることの出来ないような形で、神が今もっとも苦しむ人に光を当てる出来事です。
イエスの福音を譬えるテキストとして99匹と1匹の羊の話が有名です。問題は、それを本当に受け入れられるのかということです。20世紀というコンテクストの中でその譬を考えますと、忘れてはならない事柄があります。それは20世紀最悪の人物の一人ともいえるアドルフ・ヒトラーです。ヒトラーについて詳細な説明は必要ないでしょうが、確認しておくべきことがあります。彼は不正があったとしても選挙と議会制政治という合法的手段、現在でも人間が理性的な機構として保持している手段を通じて独裁者となったということです。多くの人がその言動に幻を見、彼に救いを見たのです。しかし、その幻、救いから生み出されたのは、歴史に負の遺産として残る抑圧と暴力と破壊でした。その時、人間の良心に芽生えた事柄が、このヒトラー一人いなければ、平和が訪れるのではという考えでした。しかし、ヒトラー暗殺計画は、40回以上計画されたと言われますが、一回も成功しませんでした。決して許されることのないヒトラーであっても、イエスの福音という観点から見れば、見捨ててもいい、殺してしまってもいい羊ではなかったということかもしれません。何故ならば、その時のイエスは傍観者ではなく、収容所、ガス室、瓦礫の下、戦場の中で不当に抑圧され殺される人、一人ぼっちで死んで行く人と共に苦しみ、死と苦しみを深く理解しておられたからです。イエスは今もそのように苦しみながらも、誰一人も切り捨てない世界の到来を叫び続けている。そこにイエスの福音がある。そのように改めて痛感します。現在の我々が置かれている状況では、信徒の減少や会計上の問題の方が深刻な課題であるかもしれません。しかし、私たちの場としての福音を改めて確認すること、それが新しい年を迎えても変わらない課題であると思います。
司祭 バルナバ 菅原 裕治
(名古屋柳城短期大学教員・チャプレン)

『軽井沢ミッション』

本当に多くの方々から質問されました。「軽井沢?それもホテルへ何しに行くの?」今年の春のことです。おそらく現在も、私がホテルにチャプレンとして派遣されたことを不思議に感じておられる方も多いのではないでしょうか。それは、今まで司祭が学校や病院に遣わされることはあっても、一企業にということはなかったからです。アパートに住み、毎朝ホテルに出勤するという慣れない生活に、当初は戸惑うこともありましたが、半年を経て率直に思うことは「実に貴重な経験をさせてもらっている」ということです。字数に限りがあるため、この辺りのことはぜひ別の形で報告させて頂ければと願っています。
とにかく、まず何よりもお伝えしたいことは、軽井沢という地は《聖公会》という言葉が浸透している全国でも稀有な(聖公会から言えば貴重な)町であるということです。今年はちょうど町制が施行されて80周年を迎えましたが、発刊された記念誌を開くと、すぐに「ショー記念礼拝堂」のカラー写真が大々的に掲載されています。《聖公会》という言葉も幾度も登場しています。8月に開催された「ショー祭」では、村岡司祭のご配慮により町長に挨拶する機会が与えられましたが、そのとき町長から言われた言葉が「聖公会の先生が軽井沢においで下さり、本当に嬉しく思っています」でした。更に驚いたことは、頂戴した町長の名刺の背景にショー記念礼拝堂の写真が印刷されていたことです。このことは私にとって、軽井沢における新たな宣教の可能性を直感させられた出来事でした。また長野新幹線が開通してからは、定住する人口も毎年増加傾向にあります。そのような中、最近つくづく思うことは、聖公会にとってこれ程恵まれた条件が与えられているにもかかわらず、もし軽井沢における宣教を積極的に考えないのであれば、それは教会の怠慢に他ならないということです。
近年、教会の危機的状況が叫ばれています。私たちは数字を見るたびに意気消沈し、自信喪失の状態に陥ってはいないでしょうか。正直私もそうでした。しかし、軽井沢での新たな経験と気づきを通して、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」というパウロの言葉が今までにない力強い響きをもって迫ってくるのです。勿論教会における礼拝と交わり、そして牧会は何よりも大切にされなければなりません。しかし、そのことだけに私たちの注意と関心が向けられるのであれば、今の厳しい教会の状況を打開、改善していくことは困難であるように思います。
軽井沢に来て改めて感じることは、教会の働きは社会の至るところに広がっているということです。そして《軽井沢の父》と称えられるショー師をはじめ、かつての宣教師たちの伝道に対する熱意と、確固とした信仰、そして常に社会に目を向けている開かれた姿勢から私たちはもっと真摯に学ぶ必要を感じるのです。私は現在、ホテルスタッフの一員として年間400組を超える結婚式の責任を持っていますが、この軽井沢の地においてイエス・キリストの働きを担う者(クリスチャン)として、今後も宣教の可能性を祈りの内に模索していきたいと思っています。
司祭 テモテ 土井 宏純
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森チャプレン)

『聖職試験を受けて』

ようやく司祭試験が終わり、ホッとしています。結果はともあれ、受験生として過ごしたこの3ヶ月は、いつも頭の上に重荷がのしかかっているようで、あまり気分のいいものではありませんでした。胃は痛くなりませんでしたが、ただでさえ少ない髪の毛がさらに減ったような気がします。大勢の方から温かい励ましや、時に厳しい叱咤のお言葉をいただき、うれしいやら情けないやら。「聖職」 への道の険しさに、今さらながらたじろいでいます。
神学校へ行っている時に、試験問題で、「これこれについて、高卒程度の人に理解できるように述べなさい」 というのがあって、高卒の私がその答えを書いたのですが、ちょっと複雑な気持ちでした。今回の試験で、とてもむずかしいと私には思われる問題に遭遇し、ほとんどあてずっぽうの答えを書いたのですが、そんな自分がとてもいやになりました。やっぱりおれは高卒だし、52歳の今までいい加減に生きてきたツケがまわってきたのかな、と悲しくなりました。
今、聖公会の 「司祭」 になるためには、何が求められているのかと、ぼんやりと考えていました。物事、とくに神学的なことを論理的に考え、きちんと表現することが出来る能力、いちいち参考書を見なくても、聖書のこと、教会の歴史、教会の教え、その他の知識が記憶されていて、即座に正確に説明できること。いわゆる 「知的エリート」 として、信徒を指導できる能力を備えている、というようなことなのでしょうか。
聖職志願しようと決めた時、私のそれまでの思いの中から、自分は高校しか出ていないという劣等感が、払拭されたはずだったのですが、まだ残っているようです。「甘えるな」 という声が聞こえてきそうです。学歴のせいにするな。自分に能力がないなどと裁くな。努力が足りないだけなのだ、という声が。
努力といえば、神学校に入学して、私が最初にぶつかった壁は、上昇志向でした。努力せよ。頑張って、いい成績を取れ。立派な牧師になるのだ、と自分をむち打ちました。長続きしませんでした。疲れてしまいました。手に負えない課題もありました。そうした中で、上昇志向を捨てなければならないことに気付かされました。あたかも自分の力でこれまで人生の道を切り開いてきた、のぼってきたという思い、考えは大きな間違いでした。よくよく自分を眺めてみれば、体も健康も、そして命もすべて神から与えられたものであり、与えられたことに感謝こそすれ、それを誇ったり、逆に劣等感を持ったりするのは筋違いだなと思いました。ありのままの自分を受け入れ、そこから出発する必要があると感じました。
イエスが最も弱くされたお姿で、救いのみわざを成就されたことの意味に気付かされました。この愛の内に赦されて、今ここに立たされている。ひとを愛することのできない私が、愛され、生かされている。
変な劣等感で自分自身を粗末にすることは、創り主である神さまに対して失礼です。赦され生かされている私が、自分を大切にして、ひとと助け合って生きていく。そのためにはどうしたらいいのか、自分に与えられている賜物をどう発揮していったらいいのか、この文脈に努力という言葉が出てきます。賜物を生かし切る努力をする、もちろん神さまの助けによって……

執事 イサク 伊藤 幸雄
(岐阜聖パウロ教会牧師補)

『「日本海」・「東海」』

新潟聖パウロ教会は、中部教区内でも大きな教会の方に属します。幼稚園やその他の施設はありませんが、思いッキリ、宣教・伝道について考えてみる事が出来る、非常に良い条件を持っている教会だと思います。
牧会経験が余りにも少ないシロウト牧師が中部教区の大きな教会に来るようになったことの不思議さを思えば、「きっと神様が私に何かを求めておられるのだ」 と強く思わざるを得ません。私の体型の様に少し鈍い私が、新潟聖パウロ教会に対する神様のみ心を解るまでには長い時間がかかるでしょうが、いつかは気づくようになるだろうという思いです。
一昨年は名古屋聖マルコ教会で、牧師というよりは留学生の感じで過ごし、昨年は主教座聖堂である名古屋聖マタイ教会の副牧師 (働きは少なかったですが)、その1年後の今年は新潟聖パウロ教会の牧師になり、しかも伝道区長にまでなっているのをみると、神様は冒険が非常に好きな方だと思われます。
昨年、名古屋で幼稚園の先生をしていた青年から野菜の種をもらった事があります。数ケ月前、そのうちのカブを司祭館の裏側に蒔きました。最初は失敗してもかまわないという軽い気持で種を蒔きましたが、予想以上に早くそして丈夫に育ってくれて、キムチを作って食べる事も出来ました。畑と言うには恥ずかしいくらいの畑 (車1台駐車出来るだけの空間) ですが、毎日忘れず水をやり雑草をとる等の仕事をしながら、時に期待して時に心配するという心、この農夫の心がまさに神様の心なのだろうなという思いでした。
普段日本で簡単に手に入るのは白菜キムチなので、カブのキムチがどんな味なのか気になる方もおられると思いますが、私には懐かしい故郷の味でした。
韓国が懐かしくてという訳ではありませんが、海が近いので2回ほど海岸に夕日を見に出た事があります。日本では 「日本海」 と呼ばれているこの海を、韓国では 「東海」 と呼んでいます。ただ眺めるだけなら、何事もなかったかの様に平安だけが伝わって来るこの海 「東海」 を見て、この海に流した大勢の人々の涙・汗・血が思い浮かんでくるのはどうしてでしょうか? 「マンギョンボン号」 でも有名な新潟、これからこの場所でどんな事が起こっていくのか、心配半分、期待半分という気持ちです。
まず、一番にしたい事は、たくさんの人々に出会うという事です。また、教会に来られない方々を訪ねる事も、喜びを持って徐々に徐々に進めています。
韓国の東海岸から眺めていた 「東海」 は、日が昇る海でした。希望を持って計画し、そして何かを始める、そういう海でした。一方、新潟から眺めるこの 「日本海」 は日が沈む海です。後ろを振り向いて整理し、そして 「また頑張ろう」 と自分に念をおす、そういう海です。しかし、結局この二つの海は一つであって、この海から日が昇り、またこの海に日が沈んでいく訳です。
絶えることなく日が昇りそして沈む事を繰り返すこの海の様に、私の新潟での生活、そして働きにあって、多くの出会いを絶えず続けていけたら嬉しいなと思います。
司祭 イグナシオ 丁 胤植
(新潟聖パウロ教会牧師)

『ホスピスで思うこと』

新生病院のある小布施は、果物の季節を迎え、町のさまざまなお祭りや催し物が続きにぎやかです。でも一歩入った路地の木陰は静かな時間が流れています。病院の中庭も患者さんの散歩のコースになっています。ホスピスに入院された方も体の調子がいいとき静かな中庭の木々に招かれるように、緑の中に身をおいています。「(家族や病院スタッフ)皆さんに見せたくて」と庭で拾ってきた松ぼっくりや摘んできた花がホスピスのホールに飾られていることがあります。
生け花のボランティアに来て下さる方と同じようなことを患者さん自身がしてくださり、私たちのほうが慰められます。ホスピスで思うことはたくさんあります。
病という思わぬ出来事に自分も家族も悩み、やっとの思いでホスピスに来る方もいます。ホスピスは世間では「もう治らない病気のために死を迎えるところ」というイメージがあるようです。しかしそれは間違いです。
がん=ホスピス=死ではないのです。確かに病状が進み亡くなる方もいます。また治療に向けて退院する方もいます。その患者さんの生と死に意味を見い出していく時、それはただの死ではなくなるのです。残された家族や医療者を生かす力となるのです。毎年、ホスピスで亡くなった患者さんの家族に集まっていただき、入院中の思いや今の心境などを語り合う「思いを分かち合う会」というものがあります。今年の6月におこなわれた時には入院してわずか2日で亡くなった方の家族も来て下さいました。最後の時を共に過ごすことができたと感謝していましたが、同時に「もっと早く(ホスピスに)来ていればよかった」とも語っていました。すると他の遺族の方が「一所懸命お世話されたから…長さじゃないですよ」と言われていました。人は、時間が神様から与えられた限られたものであることを忘れがちです。誰でもいつかは死を迎えます。それは神様を信じていてもいなくても同じです。終末期にある患者さんに対して積極的な治療は意味がないばかりか、苦しさが増えるばかりで残された時間がつらいだけになってしまいます。
突然の病気は心に大きな波紋を起こし、やがてくる死はその重たさのために家族だけでなく、病院スタッフをも過去の時間へ引きずり込んでしまうことがあります。しかし大きな波紋の中にある生といつまでも引きずるようなつらい死に、患者さんに関わるあらゆる人たちがゆっくりと心を向けることによって不思議と「死の重たさ」が「感謝」に変えられていくのです。それは必死になって自分に引きとめようとしたものをだんだんと神様にゆだねていくような姿です。コリントの信徒への手紙Ⅰは「死のとげは罪である」と語ります。主イエスは人の存在に思いを向けた事によって「死のとげ」を取り払ったのです。私たちの間に十字架を建ててくださったのです。
ホスピスで思うことはたくさんあります。そして主イエスの出来事を思わざるをえないのです。
司祭 マタイ 箭野 直路
(新生病院チャプレン)

『祈りの時、だ~い好き!』

4月から主教座聖堂名古屋聖マタイ教会に遣わされ、やがて3ヶ月が過ぎようとしています。とは言っても名古屋が第1・第3主日をはさんだ約2週間の単身生活、長岡と三条の生活が第2・第4主日をはさんだ約2週間という、名古屋と新潟を月に2往復、行ったり来たりする日々を送っているのが現状です。
そんな折、2年ぶりに教区報「ともしび」1面の原稿を書いて下さいという依頼を受け、さあ何を書こうかと思案しました。説教は多くの方が書いて下さっているので、今回は思い浮かんだことを書くことにしました。
皆さん、祈りの時は好きですか? だ~い好きですか? 何という不躾で失礼な質問をするんだと思われた方は、きっと真面目で祈りの時が本当に好きな方に違いありません。どうかなぁ? と、少し考えられた方は、その質問から祈りの時に好き、嫌いがあるのかなぁなどと、いろいろ思い巡らされておられる方かもしれません。もし同じ質問がわたしに投げ掛けられたならば、正直なところ、わたしは祈りの時が好きになったり、またある時には嫌いになったりするんです、と答えます。
思い返してみると、幼少の頃、就寝前に「主よ、今宵も、み翼もて、おおい守りませ、あかつきまで、アーメン」と聖歌202番を歌ってから、今日一日の導きを神様に感謝し、暗い夜の間もお守り下さい。そして、明日も元気に起きて楽しく過ごせますように、と家族で祈る祈りの時はだ~い好きでした。
しかし、小学校6年生から中学生の頃、祈りの時が嫌いになりました。それはしばらく同居していた祖父(主教!)が登校前にしてくれるゆっくりと長い祈りの時でした。早く学校へ行って遊びたい気持ちや、ああ今日は早くしてくれないと遅刻しちゃうよというわたしの胸の内を知るよしもなく、祖父の祈りは世界各国のため、わが国のため、教会と信徒・教役者のため、親族、友人、知人、病人のため等々、北は北海道に始まり南は沖縄に至るまで続きました。ああ、まだ中部教区だ、早く終わってよ! そんな思いで祈りの時が終わるのを待っていたことを思い出します。
名古屋に来て毎朝夕の礼拝を若い同労者と祈っています。
わたしはこの祈りの時を、お勤めとして守っているというよりも、今は好きで楽しく守っています。なぜかこの祈りの時の中に、主が共にいて働いていて下さるというリアリティーを強く感じるのです。時間に追われてする祈りではなく、気持ちのゆとりをもってする祈りの時なので、おのずから祈りが膨らみます。わたしが嫌いだった祖父の祈りの時は、祖父にとってはきっと豊かな思いに満たされていたんだなと、今になって分かるような気がします。
長岡や三条でも毎朝教職員と共に祈りの時を持っています。保育に関わる一人の園長としての祈りが、どれだけ他の保育者と共有されているのかを、今一度反省しています。
祈りの時の中に主が共にいて働いていて下さるという確かなリアリティーが感じられるとき、祈りの時が好きになり、楽しくなるのではないかと思います。
主日礼拝、とりわけ聖餐式がだ~い好きになるのも、嫌いになるのも、その点にかかっているように思いますが、皆さんはいかがですか?
司祭 サムエル 大西 修
(名古屋聖マタイ教会牧師)

『あなたがたに平和があるように』

聖霊降臨の出来事を伝えるヨハネによる福音書には、このような言葉がある。「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。彼らは、本当に恐ろしかった。不安と絶望に打ちのめされていた。ところがその時、驚くべきことが起こる。イエスが弟子たちの真ん中に立ち、こう声をかける。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」。そしてイエスは、「聖霊を受けなさい」と、弟子たちに息を吹きかけられた。「聖霊」とは、主イエスの「息」なのであった。主イエスの息、聖霊を受けた弟子たちは、この瞬間から、生きる力を回復する。希望を取り戻す。あれほどまでにも、不安と絶望の内に震えていた彼らが、死んだようになっていた彼らが、命を回復したのである。そして、弟子たちは、大胆に主イエスをキリストとして証ししてゆく。この力こそが聖霊である。イエスの十字架上での死によって絶えたはずの主イエスの福音は、こうしてよみがえった。聖霊は、打ちのめされた者、絶望の淵にある者、痛み、苦しみにある者、疲れた者に与えられる生きる力である。
聖霊降臨日の福音には、もう一つ非常に大切なことが記されている。それは、イエスが「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」という箇所である。イエスは手とわき腹を見せられた。すなわち、十字架上で釘を打ち抜かれた手とわき腹の傷跡をお見せになった。すぐあとには、トマスがこのイエスのわき腹の傷に直接手を当てて、主を信じる物語が置かれている。イエスは、トマスにこう言われる。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」。トマスはうめくように、振り絞るように言葉を発した。「わたしの主、わたしの神よ」。
トマスに声をかけられたイエスは、栄光のイエスではなかった。復活されたイエスとは、光り輝く天の衣をまとい、金の王冠をかぶったイエスではなかった。トマスと弟子たちの前によみがえられた主とは、手に傷を負い、わき腹から血を流し、荊の冠をかぶらされたままの姿であったのである。おそらくトマスは実際に、その主の傷に、自らの手で触れたのであろう。
主イエス・キリストは、傷を負われたまま、よみがえられた。その傷とはいったい何か。その傷とは、私たちのこの世界、社会にあって、叫びをあげる無数の人々の傷でもある。不当な戦争によって命を奪われた者たちの傷であり、虐げられた人々、病める人々、体の不自由な人々、捨て置かれた人々の痛みである。その無数の痛みと傷を担われたまま、主イエスはよみがえられる。まさに、この事実に、私たちはトマスのように、「わたしの主、わたしの神よ」という、この世で、最も短く、同時に最も完全な信仰告白の言葉を発することができる。私たちは、この「傷」を忘れてはならない。この「傷」を私たちのこの手に感じながら、決して忘れないことこそが、「私たちに平和がある」ことの、主イエスに示された〈必要条件〉なのである。
司祭 アシジのフランシス 西原 廉太
(立教大学教員・岡谷聖バルナバ教会管理牧師)