『さあ、立て。ここから出かけよう。』 

『パッション』 という映画があります。 ご覧になった方も多いでしょう。 冒頭のシーンは、 ヨハネ福音書のイエスが逮捕される場面です。 『パッション』 については賛否両論あるようですが、 私がこの映画で気づかされたのは、 弟子たちの恐怖の表情でした。 シモン・ペトロが 「おまえもあの者の弟子の一人ではないか」 と詰問され、 そして 「違う」 と言う時のペトロの表情はまさに 「おびえ」 そのものでした。 その時、 ペトロは主が捕らえられる直前に自分たちに語ってくださった言葉を思い出したはずです。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、 あなたがたにすべてのことを教え、 わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 わたしは、 平和をあなたがたに残し、 わたしの平和を与える。」 (ヨハ14・26~27)
そもそも、 「平和」 とはヘブライ語でシャーロームと言いますが、 その本来の意味は 「欠けることのない状態」 というものです。 すなわち、 『主の平和』 とは、 どんなに恐れや悲しみの極限にあったとしても、 決して主は欠けることがない、 必ず共にいてくださることを意味します。 そのことをイエスさまは身をもって示してくださった。 映画 『パッション』 で描かれたような言葉に絶するようなまさに 「パッション」、 痛みを受け、 死という暗闇の中に置かれても、 しかし、 真っ暗闇の中に光るろうそくのともし火のように、 パスカル・キャンドルのともし火のように、 主の光がよみがえる。 主イエスがその死と復活をもって示してくだったのが、 私たちに与えられた 『主の平和』 に他なりません。
イエスさまが弟子たちに 『主の平和』 の意味を告げられた時に、 最後に語られたのはこの言葉です。

「さあ、 立て。 ここから出かけよう。」 (ヨハ14・31)

私たち一人ひとりにも、 さまざまな暗闇の苦しみ、 悲しみがあります。 しかし、 どんな暗闇の中にあっても、 どれほどの痛みや苦しみの中にあっても、 主は必ず、 私たちと共にいてくださる。 主の平和が与えられる。 だから、 私たちは、 心を騒がせることはない。 おびえる必要はない。 「さあ、 立て。 ここから出かけよう。」 このイエスさまの促しに、 私たちは応えて、 一歩を前に向かって、 希望に向かって、 光に向かって踏み出すことができる。
私たちは毎週、 聖餐式の中で、 「主の平和」 と挨拶を交わします。 それは朝の挨拶ではありません。 そうではなく、 手をつなぐ相手に、 「あなたと共に必ず主はおられます。 あなたは決して独りではない。 さあ、 立ってここから出かけましょう」 という励ましを互いに与え合う祈りに他なりません。 手を結ぶあなたと私の間に、 主はおられる。 言は肉となって私たちの間に宿られる。
そのような思いをもって、 私たちは主イエス・キリストが命じられたように、 互いに 『主の平和』 を交し合いたい、 と願うのです。

司祭 アシジのフランシス 西原 廉太
(立教大学教員・岡谷聖バルナバ教会管理牧師)