「宣教協議会を終えて…新たな始まり」

去る9月14日~17日、浜松で「2012年日本聖公会宣教協議会」が開催されました。既に”ともしび”10月号に協議会の概要が掲載されておりますのでご覧いただいたことと思います。

この協議会は各教区の主教や常置委員、執行機関の長や女性、青年をはじめとして万遍なく参加者が集いました。大韓聖公会からの参加もありました。そういう意味では日本聖公会全体を網羅した協議会であったと言っていいでしょう。そして、この度、協議会からの提言である「日本聖公会〈宣教・牧会の十年〉提言」が出されました。管区事務所から皆様のもとに届いていることと思います。植松誠首座主教のお願い文も添えられています。

この提言は、二つの講演、東日本大震災の現場及び支援活動からの報告、そしてそれらを受けて話し合われた各グループ討議を最終的にまとめたもので、これから十年の日本聖公会の宣教・牧会の方向を指し示すものです。

この提言を受け、各教区・教会・個人・関連施設など、それぞれの場でそれぞれの仕方で宣教・牧会が更に推進されることが期待されています。中部教区でもこの提言を受け、各教会と連携しつつ、主教書簡などともすり合わせながら教区としての宣教・牧会の方向を改めて定め直していきたいと思います。

そのためにも皆様には、まずじっくりとこの提言をお読みいただき、教区に、また自分の教会に、そして自分の周りにどのようにこの提言を生かしていけるのかをイメージしていただきたいと思います。宣教・牧会の担い手はわたしたち、信徒・教役者”一人一人”です。この”わたし”が宣教者・牧会者であることを覚え、教区のこれからの十年を見据えながら前に進みたいと願っています。

「地の塩として」

今回、100周年のためにおいでくださったヒルツ大主教とフィーリー大執事は、共に日本と日本の教会は全くの初めてということで、すべてが初体験であり、驚きの連続だったようです。わたしは幸いなことにかなりの時間をお二人と過ごすことができました。お二人は大変きさくで、時々、自分がカナダ聖公会の”首座主教”と一緒にいるのだということを忘れるくらいでした。皆様に申し訳ないくらい、大変貴重で素晴しい時間でした。

感謝礼拝での説教、また、祝会でのスピーチを通してもそうでしたが、ヒルツ大主教はわたしたちを励まし、力づけてくださいました。わたしは共に時間を過ごさせていただいたことにより、そのような公式のスピーチ以外でも大主教と大執事の日本の教会に対する思いに接することができました。

とにかく、お二人は日本の教会の信仰者の誠実な姿に驚きと感銘を受けておられました。震災被災地訪問で、また、教区内の各教会・施設訪問で多くの人々に出会い、その信仰の姿に心を動かされたのです。建物も素晴しいが、それ以上に人々に出会い、その信仰に触れたことが大きな収穫であったと言っておられました。日本のクリスチャンが少数でありながら一生懸命に信仰している姿をしっかりと受けとめてくださったのです。今回の訪問は自分たちの魂にとって大きな養いになったとまで言っておられました。大変嬉しいことです。

ヒルツ大主教は日本のクリスチャンは「地の塩」であると言っておられました。「地の塩」とは少しこそばゆい思いがしますが、しかし、「地の塩」であることを自覚し、地の塩としての役割を果たしていくことこそが、教会のあるべき姿であることを改めて教えられました。

「200年に向かって」

去る10月8日の教区成立100周年記念感謝礼拝をたくさんの皆様と共にお捧げすることができまして本当に感謝でした。ヒルツ大主教の説教も大変力強いもので、わたしたち中部教区を大いに励まし、力づけてくださいました。改めて感謝いたします。次号のともしびに説教が掲載されることと思いますが、礼拝に参加できなかった皆様にも是非読んでいただきたいと思います。

わたしたちは幸運です。なぜならば100年に一度の礼拝をお捧げすることができたからです。”何だ、そんなことか”と思われるかもしれませんが、100年目に当たるこの年に信仰者として生かされているということは大変意味のあることです。たまたまそうなのではなく、そこに神様のご意思があると受けとめなければなりません。

わたしたちはなぜ丁度この100年目にここにいるのでしょうか。それはわたしたちがこの中部教区を次の100年に向けて整えて送っていく使命を神様からいただいているからだとわたしは考えます。わたしたちの先輩の信仰者たちが過去100年の中部教区を作ってくださいました。今度はわたしたちが次の100年を作り上げるのです。その基盤を作るのです。それが100年と200年の間に立っているわたしたちの務めなのです。

イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われます。教役者だけが働き手ではありません。わたしたち一人ひとりが働き手であり、宣教の担い手なのです。もっともっとそのことを自覚して101年目のスタートを切りましょう。

200周年の時、100周年の時あの人たちががんばったから今の中部教区があるのだと言ってもらえたらどんなにかすばらしいことでしょう。

「東日本大震災とアンパンマン」

東日本大震災のあと、漫画のアンパンマンのテーマ曲が被災地の人々に元気を与えています。「なんのためにうまれて なにをしていきるのかこたえられないなんて いやだ」というテーマ曲は漫画の主題歌としては少し難しいのではとも感じましたが、親しみやすいメロディーと考えさせる詩とがマッチして子どもにも大人にも元気を与えてくれているのだと思います。

そんなことを考えていましたら、先日、N司祭から「(アンパンマンの作者の)やなせたかしは聖公会ですよ」と教えられました。びっくりしましたが、アンパンマンには何かキリスト教的なメッセージが含まれているような気もしていましたので、胸につかえていたものが取れたような気がしました。

先日の新聞に東日本大震災関連でやなせたかしさんの話が載っていました。アンパンマンはもともと大人向けの物語として書かれ、その後子ども向けの絵本になったそうです。当初、子どもには難解すぎると言われたり、アンパンマンが自分の顔を人に食べさせるのは残酷だという抗議もあったようです。しかし、子どもたちはそういう大人の心配をよそにアンパンマンのファンになっていったのでした。

アンパンマンはイエス様を模しているとも言われます。確かに、自分の体の一部を食べさせるということは、イエス様の「わたしの体を食べ、わたしの血を飲む」(ヨハネ6・56)というお言葉に通じるものがあります。自分の顔を食べさせてしまったアンパンマンはふらふらになるのですが、『ジャムおじさん』が新しい顔を作ってくれて復活します。ジャムおじさんはさしずめ神様といったところでしょうか。アンパンマンがこれからも被災者の皆さんに力を与えてくれますように。

「新生病院…祈りの80年」

中部教区は今年教区成立100周年を迎えましたが、小布施の新生病院は今年の秋に創立80周年を迎えます。長野のウォーラー司祭をはじめとするカナダ聖公会宣教師たちの、日本の結核を何とかしたいという強い願いと祈りが実現し、小布施に新生療養所が開所したのは1932(昭和7)年9月のことでした。
当時の最先端の医療技術と設備を備えた療養所として、全国から多くの結核患者を迎え入れました。院長であるスタート先生やスタッフの献身的な働きは今日に至るまで語り継がれています。スタート先生の在任期間は戦前戦後合わせて10数年と、決して長くはありませんでしたが、「愛と祈り」の医師として多くの人々に大きな影響力を与えたのでした。
しかし、新生病院を支えてきたのはもちろんスタート先生だけではありません。戦中の病院存亡の危機には病院・教区の関係者たちが必死の思いで療養所を守りました。また、戦後しばらくして結核が終焉を迎えるようになってからは徐々に一般病院に移行していきましたが、カナダミッションからの援助停止、医師不足等、難題がたくさんありました。しかし、その都度、関係者が祈りつつ知恵を出し合い難局を乗り越えて来ました。
このように新生病院80年の歴史は祈りの歴史と言えます。病院に関わる人たちの『新生病院を何とかしなければ』、『新生病院を少しでも良い病院に』という強い思いや願いは『祈り』そのものです。そのような祈りがあるところには必ず神様の導きがあるのです。数々の困難を乗り越えて来た新生病院の歴史はそのことを証ししています。これからも新生病院はその『祈り』に支えられて90年、100年へと向かって行くのです。

「『狭山事件』から50年」

先日、管区主催の『新任人権研修』があり、管区の人権担当主教としてわたしも参加してきました。この3月に神学校での学びを終え、4月から教会に出て行かれる新任教役者の人権に関する研修です。
今年は「狭山事件」を中心に研修が行われました。2泊3日の研修でしたが、2日目は狭山に行き、事件の犯人とされている石川一雄さんと、お連れ合いの早智子さんのお話をお聞きし、合わせて事件現場を実際に歩いて事件の概要、経過などの研修をしました。
狭山事件は事件発生から来年で50年を迎えます。石川さんは1963年5月に逮捕され、一審では死刑判決、二審で無期懲役刑を受け服役しましたが、1994年に仮出獄し、現在は第三次再審請求を申し立てているところです。わたしも何度か狭山事件の研修会には参加しましたが、研修をすればするほど石川さんが冤罪であることの確信は強くなります。刑事事件や裁判に詳しくない人でも、今までに明らかにされている証拠や証言、事件現場やその周辺における状況を見れば、石川さんを犯人と断定することには全く無理があることが良く分かります。
にもかかわらず、なかなか再審開始には至りません。最近、やっと検察は裁判所の求めに応じて、まだ明らかにされていない証拠を開示し始めました。しかし、肝心な証拠はまだまだ開示されてはいないのです。開示されれば石川さんの無罪が一目瞭然になってしまうからです。『50年も経つのだから』という心情的なことではなく、隠されている証拠がすべて提示された上で客観的な裁判が求められているのです。「すべて刑事事件においては、被告人は公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。」(憲法37条)

「ある世界祈祷日でのこと」

先日、名古屋市内の世界祈祷日礼拝が名古屋聖マタイ教会で開かれました。各教派から200名以上の参加者があり盛会でした。メッセージは田中誠司祭がされたのですが、そのメッセージの途中でふと、過去の世界祈祷日のことを思い起こしました。
ある世界祈祷日でのことでした。ある教派の教会で行われ、教会の方々と出席しました。その日は少し頭痛がして風邪気味でした。夜は常置委員会が予定されており、車で名古屋まで行かなければなりませんでしたので、早く良くなってほしいと願っていました。礼拝が進みメッセージになり、その教派の先生がお話をされました。少し長めで、内容的には当日の礼拝式文(冊子)に書かれているような内容で、頭痛で少しボーっとしていたこともあり、いけない、いけないとは思いつつ、話には引き込まれないで眠りに引き込まれてしまいました。
ふと気がつくと7~8分は経っていたでしょうか。完全に熟睡していました。幸いまだメッセージは続いていましたので、体勢を整えて何事もなかったかのように拝聴したのですが、ふとその時、ある変化に気がつきました。いつの間にか頭痛が消えていたのです。軽い頭痛でしたので、時間的には丁度回復するころだったのか、あるいは、熟睡が効いたのか、頭はすっきりしていました。それにしても不思議な出来事でした。医学的には何らかの説明がつくのでしょうが、わたしは素直に神様がこのメッセージを通してわたしを癒してくださったのだと感謝しました。それからは自分の説教で聞き手が眠っていても全然気にはならなくなりました。そんなことを思い出していたのですが、田中司祭のメッセージは最後までちゃんと聞かせていただきました。

「野外礼拝で思ったこと」

何年か前、長野の管理牧師の時、長野市中条日高という所で野外礼拝をしたことがありました。中条は旧中条村(それ以前は栄村)といい、教会からは車で3~40分くらいの、犀川に添った山間の地区で、日高にはウォーラー司祭の時代からの信者さんのお宅があります。

礼拝をした場所は、日高から犀川の方に傾斜地を下って行った林の中で、すぐ先はもう川でした。その日の朝にその信者さんが下草を刈ってくださり、そこにビニールシートを敷いて礼拝をしました。礼拝後、昼食を食べながらいろいろな話に花が咲いたのですが、その話の中でふと教区草創期の方々に思いを馳せることがありました。礼拝をした場所のすぐ脇が、わたしたちが下って来た狭い道なのですが、その信者さんによりますと、かつてその道は幹線道路で、長野から松本方面にはこの道を通り、少し先にあった船着き場から船で対岸に渡って行ったのだそうです。礼拝した所から20メートル位先は草が生い茂り、道はそこで行き止まりになっていました。

わたしは、その時、この脇の道をウォーラー先生や曽我捨次郎先生、覚前政吉先生などが伝道のために歩かれたに違いないと思いました。ひょっとしたらその先生方が行き止まりの向こうの茂みから現れるような錯覚に一瞬陥りそうになりました。教区草創期の聖職・信徒の方々は今では考えられない苦労をして伝道し、また、礼拝に出席されたのでした。現在では中条から教会までは車で40分もあれば行けますが、当時は徒歩で一日かかったことでしょう。そのことを思えば、時代が違うとはいえ、わたしが車で名古屋から長野や新潟の教会を巡回することなど実に楽なことだと思ったのでした。

「第59総会を終えて思うこと」

日本聖公会第59(定期)総会が終わりました。24の決議がなされましたが、その中に「原発のない世界を求めて」という声明を採択する件がありました。昨年の東日本大震災以降、日本のキリスト教各教派から原発事故に関する声明が出されています。日本聖公会でも『原発事故と放射能に関してのワーキンググループ』が設置され、原発問題に関して協議をして来ました。今回の声明はこのワーキンググループが原案を作成し、主教会が最終的に検討し提出されたものです。

この総会において日本聖公会は原発を撤廃することを決議しました。原発の全面撤廃については様々な課題や意見があり、一朝一夕に解決する問題ではありません。しかし、原発事故によって多くの人々のいのちや生活が脅かされています(動物や自然も)。この現実を前に日本聖公会としての原発問題に対する態度表明が求められているのです。

原発撤廃のためにどのような具体的な段階を経なければならないのかは引き続きワーキンググループでも検討していくことになるでしょう。同時に、わたしたちの生活様式の転換も求められています。重い課題ではありますが、この決議を受け止めてまいりましょう。

この総会では沖縄教区の主教選挙が行われる予定でしたが、候補者の推薦がなく、結局選挙は行われませんでした。今後のことは主教会に委ねられました。私は議員や代議員の方々がこの結果を冷静に受け止めたように感じました。異常な事態ではありますが、沖縄教区、そして、日本聖公会にとっての何か新しい変化の兆しかもしれません。聖霊は何かを『禁ずる』こともあります。ただし、それは更に別の良い方向へと私たちを導くためであることを信じます。

「A・C・ショー司祭と中部教区」 2012年2月

A・C・ショー司祭と中部教区の関係と言いますと、すぐに思い浮かぶのが軽井沢のことです。軽井沢に第1号の別荘を作り、「軽井沢の恩父」とも呼ばれ、毎年、「軽井沢ショー祭」も開かれています。また、現礼拝堂もショー司祭が建てたものです。

このようにショー司祭と中部教区と言いますと軽井沢との関係だけのように思われがちですが、しかし、中部教区とはもっと深い関わりがあるのです。それは、中部教区最初のカナダ聖公会宣教師であったJ・C・ロビンソン司祭と、その3年後に長野で伝道を開始されたJ・G・ウォーラー司祭との関わりです。

ウォーラー司祭は自著「日本におけるカナダ人の伝道」において次のように述べています。「日本に来てから数ヶ月、ウォーラー夫妻はかつてのロビンソン夫妻のように、東京に滞在し、アーチディーコン・ショウ夫妻の助力で準備の期間をすごした。事実、ウォーラー師らは到着一ヶ月ショウ師の客として過ごした。ショウ師は伝道する都市を選ぶための援助を惜しまなかった。」(大江真道司祭訳)

ロビンソン司祭も自著の中で夫妻がショー司祭によって「暖かく迎えられた」ことを記しています。ロビンソン夫妻は2ヶ月ほどショー司祭のところに滞在し、名古屋に向かいました。ショー司祭が両師と同じカナダ人であり、先輩聖職であったから当然であるとしても、全く未知の国でこれから伝道を始めようとしていた両宣教師夫妻にとってショー司祭から与えられた暖かい配慮は大変心強いものであったに違いありません。このように中部教区前史におけるショー司祭の貢献は間接的ではありますが大きなものがあるのです。教区成立100年を迎えるにあたりそのことも覚えたいと思います。