『『主の祈り』 雑感』

聖公会・カトリック教会共通訳の主の祈りを使い始めてから8~9年になりますが、 やっとそれまで使っていた主の祈りと間違えずに唱えられるようになりました。 共通訳を使い始めた当初は、 時々、 神様が 「天におられる」 のか 「天にいます」 のか混乱してしまいました。 主の祈りはわたしたちに最も身近な祈りだけにあまり変わらないことが望ましいでしょう。 文語の主の祈りが根強い支持を得ているのは、 文語から来る格調の高さもさることながら、 長い間祈り続けてきて、 完全にその人の祈りの一部となっているからに違いありません。 それが一夜にして変えられてしまうことには誰しもが抵抗を感じることは当然のことでしょう。
かつて牧会していた教会でのことですが、 口語祈祷書の試用期間が始まった時のことです。 日曜学校でも文語から口語の主の祈りにすることにしました。 ところが、 小学校1年生の子どもが、 「こんなのお祈りじゃない」 「こんなの使わない」 と口語の主の祈りの使用に抵抗を示しました。 その子はそれまで幼稚園で文語の主の祈りに慣れ親しんでいたのです。 もちろん彼の抵抗は無駄な抵抗に終わり、 口語は使われていったのですが、 たとえ子どもであってもそれまで慣れ親しんできた祈りを明日から変えますよと言われたら、 やはりすんなりとは受け入れられないものだと実感しました。
これもかつて牧会していた教会での経験ですが、 赴任して少し経った頃だと思いますが、 あるお年寄りの方を教会の方々と共に老人保健施設に訪問しました。 その方はわたしたちのことをおそらくきちんとは認識できない状態でした。 言葉のやり取りもほとんど不可能でした。 こちらから一方的にお話をするという状況でした。 お別れするときに、 「主の祈りをお祈りしましょう」 と言って主の祈りを唱えました。 「天におられる」 ではなく 「天にまします」 で祈りました。 すると驚いたことにその方は小さな声でしたが、 わたしたちと一緒にほとんど正確に主の祈りを唱えたのです。 みんなとても感動しました。 若い時からきっといつも祈っていたのでしょう。 ですから、 いろいろなことを忘れてしまっても主の祈りだけはその人の中にずっと留まり続けていたのです。 主の祈りを通してイエス様がその方と共におられたと言ってもいいでしょう。 主の祈りによってイエス様と結ばれていたのです。 素晴らしいことです。 自分がそういう状況になった時、 この方のように主の祈りが口をついて出てくるだろうかと少し不安になりました。
聖書を見る限り、 主の祈りはイエス様が 「こう祈りなさい」 と教えてくださった唯一のお祈りです。 イエス様に直結する祈りです。 それだけ祈っていればそれでもう大丈夫という祈りでもあります。 ですから、 口語であろうと文語であろうと関係はないのです。 ただ主の祈りがわたし自身の一部となることを願うだけです。

司祭 ペテロ 渋澤 一郎
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師)

『ウォーラー司祭のこと』

上田に赴任し、長野の管理も命ぜられたことにより、J・ウォーラー司祭のことをより身近に感じるようになりました。特に、昨年、長野聖救主教会から「ウォーラー司祭その生涯と家庭」という立派な本が出され、それを読ませていただいていたので余計そんな思いが強くしています。ウォーラー司祭に始まる長野聖救主教会の司牧者の末席にわたしも連ならせていただいたのかと思うと恐れ多い気がします。
ウォーラー司祭といえば長野というイメージがありましたが、あらためて前掲書を読んでみますと、実は長い間上田の牧師でもあったことがわかります。1908年(明治41年)から1931年(昭和6年)までの23年間、子息のW.ウォーラー司祭がその後を継がれるまで、最初は上田に住み、1915年からは長野に定住し、上田の牧師、長野の管理をされたのです。

先日、長野伝道区の合同礼拝が上田で行われましたが、その折、ある司祭が「ウォーラー先生はこの辺の教会を全部建てたのですね」と言われました。そう思って見てみますと、確かに、東北信の教会・施設はすべてウォーラー司祭によって建てられているのです。長野の聖堂はもちろん、飯山、小布施、稲荷山、上田のそれぞれの聖堂、そして新生療養所と、軒並みウォーラー司祭が直接関わっています。ウォーラー司祭は長野に来てからカナダに帰るまでの半世紀、長野県の、特に東北信の実質的な責任者でありましたので聖堂や施設建設がウォーラー司祭の責任の下で行われても不思議ではないのですが、それにしても、1898年に長野の聖堂を建ててから30年以上を経て、堰を切ったように建築を進めていることに驚かされます。

落成、聖別順に記しますと、新生療養所1932年9月9日、上田32年9月29日、飯山復活教会32年10月18日、稲荷山諸聖徒教会33年11月23日、新生礼拝堂34年6月25日となります。「中部教区センター」ひとつで悩んでいるのがいやになってしまうくらいです。ハミルトン主教はウォーラー司祭を「ビジネスと建築の才能を有する実務肌の人であった」(前掲書)と追想していますが、確かにその通りだったのでしょう。

そして、それらの建築を終え1935年には現職を辞し自費宣教師となられました。ハミルトン主教もその年退職されました。時代もだんだんと宣教師には厳しい時代になってきていました。そんなことを見越しての、半世紀にわたるご自分の働きの仕上げという意味での教会建築だったのでしょうか。戦争のための無念の帰国後、1945年に死去され、カナダに眠っておられますが、その魂は生涯の半分以上を過ごし、愛する妻や息子の眠るこの日本にあるに違いありません。

司祭 パウロ 渋澤一郎
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師)

『教区宣教130周年の年に当たって~ロビンソン司祭のことなど~』 

中部教区は今年宣教130周年を迎えました。秋には新潟で記念礼拝が予定されており大変楽しみです。わたしたちの中部教区がカナダ聖公会の伝道によって作られた教区であることは改めて言うまでもありませんが、中部教区への最初の宣教師は英国聖公会宣教協会(C.M.S.)宣教師のファイソン司祭でした。新潟にやって来ました。それが今から130年前の1875年(明治8年)のことです。ファイソン師は7年で新潟を去りましたが、日本聖公会最初期の聖職の一人である牧岡鉄弥司祭がその時同師から洗礼を受けています。
1882年(明治15年)、ファイソン師が新潟を去ってから後の中部教区における伝道がどうであったのか良く分かりません。次に教区の歴史が動くのが1888年(明治21年)です。中部教区へのカナダ聖公会からの最初の宣教師であるJ・C・ロビンソン司祭が名古屋にやって来ました。「カナダ聖公会からの」と言ってもカナダ聖公会の正式なという意味ではなく、これは自発的な宣教師と言っていいでしょう。ちなみに、カナダ聖公会派遣の正式な宣教師はその翌年に来日したJ・G・ウォーラー司祭でした。2年後には長野にやって来て伝道を始めます。
ロビンソン司祭は元々実業学校を出て銀行に勤めていましたが、召命を受け神学校に行き聖職になった人でした。同師は宣教師として日本に行くことをカナダ聖公会に要請しましたが、カナダ聖公会の事情により彼の願いは叶えられませんでした。そこで、おそらく同師の強い願いを受けてだと思われますが、彼の出身校であるウイクリフ神学校の卒業生が伝道協会を結成して、ロビンソン夫妻を日本に派遣することを決めたのでした。
ロビンソン夫妻は1888年来日し、11月には名古屋にやって来ました。東片端(現在の名古屋聖マルコ教会と柳城幼稚園から少し南へ行った所)に住み伝道活動に専念しました。英語学校や老人と孤児のためのホームである幼老院を作ったりしてのマルチ伝道です。すぐ後にはボールドウィン司祭やハミルトン司祭(後の主教)が加わり、一宮や大垣、豊橋への伝道、更には岐阜への応援と、愛岐地区における中部教区伝道の基礎を固めていったのです。講義所もたくさん出来ました。
カナダ聖公会の中部伝道が初めはカナダ聖公会の正式な宣教師ではなく、いわばボランティア伝道者たちの熱意によって始められたことに大変意義を感じます。わたしたちの中部教区はそういう信仰者の熱意によって形成されてきたのです。中部教区はまだまだ完成された教会ではありません。形成途上の教会です。宣教百年の時の標語のように「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走り続ける教会です。「千年も一日」のようである神様の前では中部教区の宣教は、始まってまだほんの数時間しか経っていないのです。主のご復活の力に促され、先達の信仰的熱意を継承しつつ、更なる宣教の業へと励みたいものです。
司祭 ペテロ 渋澤 一郎
(名古屋聖マルコ教会牧師)

『イエスさまの祈り』

「わたしはあなたのために、 信仰が無くならないように祈った。」 (ルカ22・32)
福音書を見ますとイエス様は非常にしばしば祈っておられることがわかります。 洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時も祈っておられました。 大勢の群衆が押し寄せてきた時にも、 イエス様は人里離れたところに退いて祈っておられました。 十二使徒を選ばれる時にも夜を徹して祈られました。 5つのパンと2匹の魚で5000人以上もの人々を満腹させられた時も神様に賛美の祈りを唱えてからそうされました。
ご自分の受難予告を最初にされる直前にもイエス様は一人で祈っておられました。
イエス様のお姿が変わったのは祈るために山に登った時でした。 主の祈りを弟子たちに教える前にもイエス様は祈っておられました。 また、 気を落とさず絶えず祈ることも教えておられます。
そして、 最後の晩餐の時には感謝の祈りを唱えてからパンとぶどう酒を弟子たちに与えられました。 そして、 いよいよご自分が逮捕される直前には汗が地に滴り落ちるほど祈られました。
このように見てきますとイエス様のご生涯は祈りによって導かれていることがよく分かります。 神様のご意志を生きるためには祈ることによって絶えず神様との交わりを保ち続けることが不可欠だったのです。
そのような祈りの中にあって冒頭に挙げたみ言葉はイエス様がペトロのために祈ったという内容のみ言葉です。 イエス様が特定の誰かのために祈ったというのはこの箇所だけではないでしょうか。 時間的には最後の晩餐とイエス様の逮捕の間であり、 ペトロがイエス様を否認する前のことです。 ペトロという人物は福音書においては人間としての弱さや欠点、 過ちが何の覆いもなく表されている存在として描かれています。 実際そういう人物でもあったのでしょう。 あるいは弟子たちの代表という意味でそのように描かれているのかもしれません。
いずれにしても、 イエス様は、 強がりは言っているが、 間もなくイエス様を知らないと言って逃げ出してしまうペトロのために、 彼の信仰が無くならないように祈られたと言われるのです。 ご自分が間もなく捕らえられ十字架に付けられようという緊迫した状況の中で、 このどうしようもないが、 しかし愛すべき弟子のために祈ったと言われる時、 そこにペトロも含めた弟子たちへのイエス様の限りない愛を見る思いがします。
イエス様のご復活の後、 ペトロを中心とした弟子たちが大胆にイエス様を宣べ伝えて行くことが出来たのも、 このイエス様の愛と祈りに支えられたからに他なりません。
イエス様はわたしたちの信仰が無くならないように祈っていてくださいます。 イエス様の祈りがあるからわたしたちは信仰生活が続けられることを覚えましょう。 イエス様の祈りがペトロが逃げ出さないようにという祈りではなかったことに注意しましょう。 イエス様は 「逃げ出す」 という人間の弱さを良くご存知です。 それでも信仰が無くならないようにと祈ってくださるのがイエス様の祈りであり愛なのです。 その祈りにわたしたちは生かされているのです。
司祭 ペテロ 渋澤 一郎
(名古屋聖マルコ教会牧師)