「カンタベリー大主教にお会いして」

去る10月29日、その次の日から韓国の釜山で開かれる、世界教会協議会(WCC)総会に出席の途中、日本を訪問された、ジャスティン・ウェルビー・カンタベリー大主教に日本聖公会主教たちでお会いしました。今回の訪問は植松誠首座主教の招待による非公式な訪問でしたが、実質1日という短時間の中で、首座主教・東日本大震災被災者の方々・各教区主教とのそれぞれ懇談、そして聖餐式、夕食会というぎっしり詰まったスケジュールで、大主教にとってはかなりきつい日程のようでしたが、わたしたちにとりましてはカンタベリー大主教と、より親しく(非公式がゆえに)まみえることができた大変祝福されたひと時でした。

殊に、大主教の希望でもありましたが、わたしたち日本聖公会の主教たちが大主教と一緒に聖餐式をお献げできたことは大きな恵みであり喜びでした。説教の中で大主教は、「主がわたしたちの中におられる」「わたしのそばにおられる」ということを強調されました。そして、日本はこの25年の間に2度にわたる大震災や経済不況を経験したが、教会は困難な中にあっても、「主がわたしたちのそばにいて、力づけてくださる」ことを証しして行かなければならないと語られました。

ウェルビー大主教は57歳で、今年の3月に第105代カンタベリー大主教に就任されたばかりです。全聖公会(アングリカン・コミュニオン)の霊的指導者、首座主教会議の議長でもあり、全聖公会を束ねていく要の人物です。また、対外的には全聖公会を代表するお方でもあります。多くの課題を抱える今の聖公会にあって、ご苦労も多いことと思いますが、お働きの上に祝福を祈りたいと思います。

「佐々木鎮次主教とカナダ聖公会祈祷書」

8月にセロ・パウルス司祭の葬儀のためバンクーバーに行きましたが、その折、日系聖十字教会で説教する機会が与えられました。カナダの日系教会については何も知りませんでしたので、牧師のイム・テビン司祭とやり取りをしましたが、その中で教区2代目の主教であった佐々木鎮次主教が1937年(昭和12)、当時の日系教会(昇天教会と聖十字教会)を訪問していることを知りました。その年にカナダのバンフで開かれたカナダ聖公会総会に出席された帰途に立ち寄られたのでした。

パウルス司祭の葬儀から帰国しましたら、ある方から佐々木主教がカナダ聖公会祈祷書教会暦の小祝日に名前が掲載され、記念されていることを知らされました。2月24日が記念日になっています。なぜその日なのかは不明です。佐々木主教の逝去は12月ですので逝去記念日でもないようです。特祷、奉献の祈り、晩餐後の祈りは佐々木主教の名前が入った祈りになっています。ちなみに特祷は、「わたしたちの羊飼いである神よ、あなたはあなたの僕・パウロ佐々木(主教)に、試練の時、教会の自由と全き証しを守るために不動の精神を与えられました。…」となっています。

佐々木主教は戦時中、教会合同問題で揺れる日本聖公会の一致のため東京教区主教に転出されました。その後スパイ容疑で憲兵隊司令部に留置され、厳しい尋問を何ヶ月かに渡り受けましたが、聖公会の信仰を守り通されました。心臓が悪かった主教は留置の結果、健康が著しく損なわれ、戦後、日本聖公会再建の総会議長を務め終えた後、1946年12月21日、61歳で逝去されました。カナダ聖公会はそのような佐々木主教の信仰の戦いを覚え記念しているのです。

『” いっしょに いっぽ “~教区成立100周年記念感謝礼拝を目前に控えて~』

残暑厳しき折、皆様の上に主の平和がありますようお祈りいたします。

さて、まだまだ先のことだと思っておりました、中部教区成立100周年記念感謝礼拝が1ヶ月後に迫って来ました。一人でも多くの皆様に参加していただき、100年の感謝賛美の礼拝をお捧げしたいと願っております。

「ともしび」紙上にはここ1年にわたり教区成立100周年記念事業につきましての報告やお願いが掲載されてきました。皆様もご覧になり、100周年への想いを深くして来られたのではないかと思っております。記念事業募金も皆様のご協力により目標に向かって献げられております。本当に感謝です。ありがとうございます。引き続きご協力をお願い申し上げます。

記念感謝礼拝当日はカナダ聖公会首座主教のフレッド・ヒルツ大主教様が説教をしてくださいます。また、ソウル教区の金根主教様にも前日の夕の礼拝で説教をいただくことになっております。お二人からは中部教区のこれからの宣教に対する良き示唆がいただけるものと楽しみにしております。

100周年のテーマは「いっしょに いっぽ」です。テーマ聖句は「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」(詩37・23)です。この100年の礼拝を中部教区の更なる一歩前進の契機としてまいりたいものです。中部教区の100年も一歩から始まりました。一歩一歩の積み重ねが100年になっているのです。カナダ聖公会が教区100年の第一歩を記してくださいました。教区200年の第一歩はわたしたち自身が記すのです。わたしたち一人ひとりが次の100年に向けての一歩を踏み出さなければ、教区200年は始まらないのです。百歩、二百歩でなく、一歩でいいのです。その一歩が大切です。その一歩が次の一歩につながっていくのです。教区の一人ひとりがそのことを自覚して歩みましょう。

人間の目から見たら100年は長い年月ですが、神様の目から見たら100年はほんの一瞬です。「主のもとでは…千年は一日のよう」(二ペト3・8)だからです。神様の目から見たら100年はまだまだ成人にも達していないのです。初代の教会においても、イエス様の昇天から100年後はまだまだ信仰や教会形成のための必死の戦いがなされていた時代です。

そういうことから言ったら、中部教区はまだまだ生まれたばかりの教会と言ってもいいのかもしれません。100年経ったというよりも、まだ100年しか経っていないのです。これから更に神の国の宣教のために進まなければなりません。この100年の記念行事や感謝礼拝は、神様が中部教区200年の第一歩のために備えてくださったものです。

教区にとって、各教会にとって、その一歩とは何なのか。そのことを今わたしたちは考えましょう。そして、その第一歩を踏み出しましょう。教会の在り方、教区の体制などを大胆に発想転換していくことも許されるでしょう。信徒も教役者も変化を恐れず信仰的な挑戦を行っていくことも求められるでしょう。神様が中部教区の進むべき道を備え、わたしたちの足をしっかりと定めていてくださることを信じつつ記念感謝礼拝をお捧げしましょう。

「一つの時代の終わり」 2013年9月

本年4月、かつて名古屋学生センター(当時)、及び名古屋聖マタイ教会で働かれた、カナダ聖公会宣教師であった、ブルース・マッチ司祭が逝去されました。一昨年には夫人と共に来日され、かつての学生センターの仲間たちとの旧交を温められたばかりでした。わたしも同席させていただきましたが、とてもお元気なご様子でしたので逝去されたと聞いて大変驚いた次第です。マッチ司祭は学生センターの活動を通して多くの青年たちに現代におけるキリスト教の在り方を示されました。

そして、7月27日、今度は同じくカナダ聖公会宣教師であった、セロ(シリル)・パウルス司祭が亡くなられました。パウルス司祭は、戦前、高田降臨教会で働かれ、戦後補佐主教になられた、P・S・C・パウルス司祭の長男として日本でお生まれになり(軽井沢とお聞きした記憶があります。)、戦後、宣教師として来日され、新潟聖パウロ教会、名古屋聖マタイ教会で働かれました。その後、聖公会神学院教授として、また、在日カナダ聖公会代表として、中部教区のみならず日本聖公会のために貢献をされました。

1970年にカナダ聖公会が中部教区並びに日本聖公会への支援を打ち切ると共に、お二人はカナダに帰国されましたが、その後もしばしば来日され、日本聖公会に対して、また、中部教区に対して、信仰的、神学的な示唆を与えてくださいました。わたしが高田降臨教会牧師時代、パウルスご夫妻が高田においでくださり、教会の方々と親しい語らいのひと時を持ったことが想い出されます。

かつて中部教区で働かれたお二人の宣教師の方々の逝去は一つの時代の終わりを象徴しているように思え、寂しい気がします。両師の魂の平安をお祈りいたします。

「可児聖三一教会の設立」

可児伝道所が7月20日、可児聖三一教会として認可され、礼拝堂の聖別式が行われました。当日は、可児ミッション後援会長である植松誠首座主教もおいでくださり、説教をしてくださいました。また、フィリピン聖公会北中央教区のジョエル・パチャオ主教と同教区の代表の方々も臨席され、大変厳粛にまたにぎやかに礼拝堂聖別式と聖餐式をお献げすることができ感謝でした。

思い返しますと、可児伝道所は2009年の教区会で設立が承認され発足しました。また同年3月には可児ミッションが開所され活動が始まっていました。中部教区が北中央教区と宣教協働の関係を結び、その後、岐阜県の可児市や美濃加茂市周辺には多くのフィリピン人の労働者が働いており、しかもその中の多くの人たちはフィリピン聖公会の人たちであることがだんだんわかって来、何とか礼拝や集まりができないかということから、伝道所、可児ミッションの活動へと繋がっていったのでした。

以来4年で教会設立に至ったことは神様のお導き以外の何物でもありません。今までの皆様のお祈りやご支援を感謝いたします。言うまでもなく、可児聖三一教会はフィリピンの人たちだけの教会ではありません。中部教区26番目の教会として、可児市を中心として宣教・牧会に従事する教会です。

可児はいろいろな意味で遠い存在であるという声も聞きます。しかし、主にある教会として可児聖三一教会が設立されたことをご一緒に喜んでいただきたいと思います。神様の宣教の働きはわたしたちの思いを超えて行われます。その働きに実際に接することがなくても、その働きに想いを向け、祈ることは大切な信仰的な行為です。これからも可児のためにお祈りください。

「本音か建前か」

大阪市の橋下徹市長の発言の余波はまだ続いているようです。問題の発言は橋下氏の本音(?) が図らずも出てしまった結果なのでしょう。橋下氏は沖縄の米兵の事件に関しても、「建前論ばかりではだめだ」と言っていますが、果たして「建前論」ではだめなのでしょうか。

辞書によりますと、「建前」は「原則として立てている方針」、「本音」は「本心」とあります。そのように理解しますと、「建前」と「本音」は決して相反する関係ではないと思うのです。むしろ、「建前」をしっかりと持ちつつ、その建前を健全な社会構築のためにいかに状況に適応させていこうとするのかが「本音」につながってくるような気がするのですが。建前がなく本音だけということはあり得ないのです。家を造るときにも建前を経なければ家は建ちません。

パウロは「『すべてのことは許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」(コリント一10・23)と言っています。キリスト者は「すべてのことが許されている」と言って、言いたいことを言い、したいことをしていたら、各自の信仰の成長もないし、教会の交わりも成立しないと言っているのです。

本音を隠して建前を言えばいいということでは決してありませんが、社会に秩序を保つため、あるいは人間がお互いの関係性の中で共に生きるためには、「すべてのことは許されていること」を知りつつも、本音だけで語るのではないのです。教会の交わりはキリストにある交わりです。人間の本音だけで結ばれている交わりではありません。お互いの信仰理解や教会観、考え方が異なっていてもキリストによって結ばれているところに教会の交わりはあるのです。

「沖縄から日本を見る」

去る4月16日から22日まで、“第2回世界聖公会平和協議会”が沖縄で開催され、参加してきました。「東アジアにおける平和と和解に向けて」の主題のもと、日、韓、米、英、加、豪、フィリピン、アイルランドから約80名の参加者がありました。講演、フィールド・トリップ、グループ討議を通して、東日本大震災のこと、原発問題のこと、憲法のこと、沖縄のこと、朝鮮半島の統一問題等々、学んだり話し合ったりしました。盛りだくさんの内容で少し消化しきれない部分もありましたが、沖縄という場で平和についていろいろ考えさせられました。
協議会声明が近いうちに公表されることと思いますが、是非お読みいただき、緊張状態にある東アジアの平和についてお一人お一人が考えていただければと思います。わたしは沖縄にはもう何度も行っていますが、基地を抱える沖縄の状況は一向に変わっていません。日本政府は4月28日、いわゆる「主権回復の日」の式典を開きましたが、どんな理由をつけても、61年前に沖縄が本土の「主権回復」の犠牲として日本から切り捨てられたことは紛れもない事実です。
そして、1972年に返還はされましたが、ご存知のように基地はそのまま残され、なおかつ、日米地位協定によって不平等は依然として続いたままです。そのような状況の中で「主権回復」はどういう意味を持つのでしょうか。沖縄に立つとその矛盾がよく見えてきます。皆様にも是非沖縄に行っていただいてその空気を肌で感じていただきたいと思います。沖縄から日本や世界を見るということは「小さな者」の視点から日本を見るということなのです。そしてそのような視点はイエス様の視点でもあるのです。

「教区設立への思い」

先日、名古屋柳城短期大学の講演会があり、元プール学院教師の小池宣郎氏のお話を伺いました。内容は、かつて柳城にあった、CMSの女性教役者養成機関である“聖使女学院”のことでしたが、わたしが興味深かったのはそのお話の中に“中部地方部設立の動き”という項目があり、カナダ聖公会最初の宣教師として名古屋に来られたロビンソン司祭のレポートが掲載されていたことです。教区成立の背景の一端を垣間見ることができました。

当時の中部教区は南東京地方部に属していました。南東京地方部は英国人主教の管轄下にありましたので、当然、教会行政においては英国人に主導権があったようです。ロビンソン司祭はカナダ人主教の下でもっと直接的にカナダの教会が日本伝道に関わることができたら、日本の教会にとってもカナダの教会にとっても大きな助けになるだろう。カナダ人宣教師は長年にわたって日本で宣教に携わっているのだから自分たちの教区を持つことに十分成熟しているのだと記しています。

そのような思いはカナダ人宣教師すべての思いでもあったようです。長野のウォーラー司祭も「日本におけるカナダ人の伝道」の中で、自分たちの教区を持つことを強く願っておられます。ロビンソン司祭が来日してから四半世紀を迎えようとしていたカナダ聖公会にとって、中部教区の設立は悲願だったのでしょう。丁度そんな時、中央線が名古屋から長野に開通し、教区成立を更に後押ししたのでした。

小池先生のお話を聞きながら、宣教師たちの教区設立への強い思いを再確認し、そのような思い(祈り)は必ず神様に聞かれるということを改めて実感しました。わたしたちも宣教への強い思いを持たなければと思った次第です。

「北中央教区を訪問して」

2月下旬、宣教協働関係にあるフィリピン聖公会北中央教区を訪問して来ました。昨年の教区成立100周年にはパチャオ主教はじめ2名の方々が中部教区を訪問してくださいましたのでその返礼の意味もあり、また、北中央教区が今年創立25年目を迎えたことへのお祝いの意味もありました。

北中央教区はマニラのある中央教区から1989年に独立して教区になりました。発足当時、教会数は小さなミッション・ステーションも含めて65あり、信徒数は約24000人でした。ところが、発足直後の1990年には主教座聖堂があるバギオを中心として大地震が発生し、教区は大きな被害を受けました。大聖堂は結局、使用不可能になり改築しなければならなくなりました。更に追い打ちをかけるように、1991年にはピナツボ火山が噴火し、教区の南西に位置する教会が被害を受けたのでした。

そのような大災害を乗り越えてパチャオ主教を中心に教区の再建・自立・自給が進められてきました。その結果、2011年末には教会数116(ミッション・ステーションも含みますが)、信徒数約32000人に成長したのです。自給教会は決して多くはありませんが宣教意欲は大きいものがあります。

フィリピンはキリスト教国ですので日本と単純に比較することは出来ませんが、常に前進しようとする姿勢には大いに刺激を受けました。日本聖公会は2012年から2022年までの10年間を「宣教・牧会の10年」と位置づけています。秋には中部教区でもそのための研修会が開催されます。宣教・牧会を担うのは誰か他の人ではなくわたしたち一人一人です。そのことをもう一度思い返し、更なる宣教・牧会活動へと前進して行きましょう。

「カナダからの手紙」

昨年10月、教区成立100周年でフレッド・ヒルツ大主教に同行されたポール・フィーリー大執事からその後お手紙をいただき、今回の訪問についての思いを教区の皆様にも伝えてほしいとのことですので短く、意訳でその内容をお伝えします。

今回の訪問は自分の生涯において大変感動的であり、こんなにも真実な愛に満ちた恵み深いもてなしを受けたことはない。大主教と私は日本の教会の様々な面を見ることができた―大聖堂での力強い100周年礼拝、津波の被害地での幼稚園児の顔、各教会及び病院の様子、自動車での移動、美しい自然、日本の伝統的・近代的なもの等々。
たくさんおみやげをいただいたが―それは自分にとって宝物である―、それ以上に日本のキリストにある兄弟姉妹が行いと祈りによって生活の中で福音を証ししていることが自分の心の中に忘れることのない思い出となっている。カナダに戻ってから日本での「物語」を語り始めている。先日の聖餐式の説教で、震災の時園児を救うために命を落とした幼稚園教諭の中曽順子さん(磯山聖ヨハネ教会信徒)のことを語った。会衆は身じろぎ一つしないで説教に聞き入り、涙を流していた。
この訪問が自分の人生とキリスト者としての旅においてどれだけ意義深いものであったかは言葉では言い表せない。自らの信仰を語ってくれた人々の喜びの顔は希望と愛の模範を私に与えてくれた。カナダ人は日本に福音を伝えた宣教師であったが、今回は皆さんが私たちに神の愛を教えてくれた宣教師であった。ヘンリー・ナウエンは「イエスを愛しなさい。そして、イエスが愛したように愛しなさい」と書いているが、皆さんがこの言葉通りのことをしてくれた。“非常に多くの愛とおもてなしをありがとうございました”(日本語)。