「本音か建前か」

大阪市の橋下徹市長の発言の余波はまだ続いているようです。問題の発言は橋下氏の本音(?) が図らずも出てしまった結果なのでしょう。橋下氏は沖縄の米兵の事件に関しても、「建前論ばかりではだめだ」と言っていますが、果たして「建前論」ではだめなのでしょうか。

辞書によりますと、「建前」は「原則として立てている方針」、「本音」は「本心」とあります。そのように理解しますと、「建前」と「本音」は決して相反する関係ではないと思うのです。むしろ、「建前」をしっかりと持ちつつ、その建前を健全な社会構築のためにいかに状況に適応させていこうとするのかが「本音」につながってくるような気がするのですが。建前がなく本音だけということはあり得ないのです。家を造るときにも建前を経なければ家は建ちません。

パウロは「『すべてのことは許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」(コリント一10・23)と言っています。キリスト者は「すべてのことが許されている」と言って、言いたいことを言い、したいことをしていたら、各自の信仰の成長もないし、教会の交わりも成立しないと言っているのです。

本音を隠して建前を言えばいいということでは決してありませんが、社会に秩序を保つため、あるいは人間がお互いの関係性の中で共に生きるためには、「すべてのことは許されていること」を知りつつも、本音だけで語るのではないのです。教会の交わりはキリストにある交わりです。人間の本音だけで結ばれている交わりではありません。お互いの信仰理解や教会観、考え方が異なっていてもキリストによって結ばれているところに教会の交わりはあるのです。