教区間協働!? 再編!? (1)

日本聖公会は昨秋開催された第65(定期)総会において、教区制改革に関する画期的な決議をしました。具体的には日本聖公会にある11教区を3区域(東日本、中日本、西日本)に分けて宣教協働区とし、協働委員会を設置して区内の運営、宣教・牧会などについて協働を推進し、教区再編についても検討を始めるというものです。中部教区は、横浜・京都・大阪各教区と共に中日本宣教協働区に属します。また、教区主教を置かずに(選出せずに)、同じ宣教協働区内の主教の一人が管理主教となり、原則として5年以内に他教区との合併等の再編を目指す「伝道教区」への道をも新たに開きました。

そのような中、北関東教区では次期教区主教選挙を行わず、伝道教区になることを同教区会で決議し、先日3月6日に開催された第66(臨時)総会において、本年4月1日より北関東教区が伝道教区になることが正式に承認されました。また、10年以上にわたり合併を視野に入れた協働関係を構築してきた大阪教区と京都教区は、今秋の両教区会において合併の議案が提出されることになっています。

このように日本聖公会は大きな変革期を迎えていますが、そもそも教区区域再編の問題は日本聖公会組織成立時より繰り返し議論され、特に1970年代および2000年代には総会決議により専門の委員会が立てられて積極的な調査、研究が行われました。しかし、これまで「総論賛成・各論反対」の域を超えることは容易ではなく、ようやくここに至って日本聖公会全体の現実的、実践的な課題として受けとめる必要に迫られています。

ともしびの紙面を通して、状況を共有しながら教区制改革について共に考え、意見交換できる機会になることを願っています。

主教補佐
司祭 テモテ 土井宏純

中部教区報『ともしび550号』(2021年3・4月号)より

切り株のように

数年前に太い枝の落下が相次ぎ、事故防止のため2本のモミの大木を伐採した。少々淋しくもあったが陽光がよく射し込むようになり、冬期に礼拝堂前の地面が凍り付くこともなくなった。司祭館の執務室から目線を上げると、その一つの切り株がいつも正面に見える。しばらくして、その切り株で興味深い現象が日々繰り返されていることに気がついた。年輪を数えたり、腰を下ろして休んでいる光景を目にすることが多いのだが、若い世代や子どもたちは切り株を舞台にしてポーズを取りながらスマホ撮影を楽しんでいる。春や秋には長時間座って読書をしたり、絵を描くといった姿もしばしば見かける。しかし何より興味深いのは、目の前に建つ礼拝堂に足を踏み入れる人は来訪者の半数にも満たないのに、切り株には洋の東西を問わず、また年齢、セクシュアリティ等を超えて、あらゆる人々が引き寄せられているということだ。切り株には何か人間の本能をくすぐる不思議な力が備わっているのではないか…とさえ感じる。

切り株で思い起こすのは、子どもの頃日曜学校で観た「それで木はうれしかった」というスライドである。その原作はシェル・シルヴァスタインの絵本『The Giving Tree』であることを後で知ったが、10年ほど前に村上春樹氏が翻訳したことで少し話題にもなった。その内容は、一本のりんごの木と一人の少年との関係が、少年の子ども時代から老年に至るまでの生涯にわたって描かれている。木は少年が成長していく節々で、求めに応じて自らの果実を、枝を、そして幹をすべて与え続け、最後には年老いた少年にゆっくり座って休むための切り株を提供して話は終わる。木が自らを与え続ける度に繰り返されるフレーズが「それで木はうれしかった(And the tree was happy)」である。この絵本は様々な観点から読まれる必要があるとは思うが、かつて日曜学校で初めてこのスライドを観た時、子ども心に強烈な印象を受けたことを覚えている。純粋に神さまとはこのりんごの木のような存在なのだと理解した。特に、人生のたそがれを迎えた老人が木に促されて切り株に腰掛ける最後の場面は、その余韻とともに脳裏に深く焼き付いている。そして、その時に感じた神さまのイメージは、私の中で今なお根本的には変わっていないように思う。

主イエスのおられる所には、いつも大勢の人々が集まって来たことを各福音書は伝えている。その人々を主イエスは愛をもって受け容れ、一人ひとりが神さまの豊かな祝福のうちに生かされていることを教え、そして言われた。

「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)その主イエスの人々に対する溢れる愛は、最終的にはご自身を献げるという形で、十字架の道へと繋がっていった。孤独と苦しみの極限状態の中でも、主イエスの人々に対する愛は変わることはなく、それどころか何度も主を裏切り、自己本位に生きようとする弱い人々(=私たち)のために祈ってくださった。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)

過去最長の10連休となったゴールデンウィークが終わった。この連休中も切り株の周りでは観光客が賑わい、多くの人々の人生の一コマが刻まれていった。やがて殆どの人の記憶からは忘れ去られていくのかも知れない。しかし、その一人ひとりの尊い人生の一コマを、いつもどっしりと、静かに無条件に受けとめている切り株の姿に、主イエスが重なって見えた。そんな切り株のような存在に、少しでも近づけたらと思う。
(引用の聖句は、聖書協会共同訳を用いました。)

司祭 テモテ 土井宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)

フランシス江夏一彰師、司祭に叙任

「支持します」。会衆の力強い声が聖堂内に響き渡り、心が震えました。2017年12月16日、フランシス江夏一彰執事の司祭按手式が渋澤一郎主教の司式により長野聖救主教会において温かくも厳粛に執り行われ、中部教区内外より100名を超える参列者が集い、新司祭誕生の喜びを分かち合いました。江夏新司祭の勤務教会である軽井沢ショー記念礼拝堂とゆかりの深い聖路加国際大学聖ルカ礼拝堂聖歌隊メンバーによるアンセムと、中村勝・千恵子ご夫妻によるビオラとオルガンの演奏が按手式に花を添えました。説教者の中尾志朗司祭は「司祭職は自分の思いだけでは担えない。多くの人々、特に家族の理解と支えに感謝の気持ちを忘れないでほしい。また、今まで以上に苦労や誘惑も多くなると思うが、すべてを一人で抱え込もうとせず他の聖職に相談してほしい。」とユーモアを交えながら励ましの言葉を語られました。

私は推薦司祭として参列しましたが、改めて強く気付かされたことがあります。それは、聖職按手式で主教の問いかけに対して「支持します」と応答するとき、なぜいつも胸が熱くなるのかということです。10年以上にわたり軽井沢で共に歩んできた江夏執事の司祭按手式であったこともあり、特に強く感じたのかも知れません。私たちは何を根拠に聖職に按手される人を支持すると言えるのでしょうか。その人の持つ優れた才能でしょうか。豊かな学識でしょうか。あるいは温かな人柄でしょうか。それらのものはあるに越したことはありません。しかし、それらのものを根拠に支持するのであれば、当然支持しないという応答もあり得るでしょう。そうではなく、私たちが聖職按手式で「支持します」と確信を持って応答できるのは、それらのものを超えて神さまの御心が実現されることを信じるからに他なりません。神さまが今按手される人を用いてご自身を顕そうとされている、その恵みの場に立ち会っている私たちには「支持します」と言う以外の応答は考えられないのです。そこには圧倒的な神さまのご意志と導きがあります。

江夏新司祭は特任聖職(教区・教会から給与を受けないで職務を行う聖職)を志し、2012年9月に執事按手、以来平日は医療者として東奔西走し、日曜(多くの土曜も)は教会や地域において執事の務めを果たしてきました。その有能で誠実な人となりは改めて紹介するまでもないでしょう。何より江夏司祭がその豊かな賜物を用いて、神さまのご栄光をますますこの世界に現すことができますように、そして恵みに溢れた聖職按手に導かれる人が神さまの御心によって増し加えられますように祈り求めて参りたいと思います。

土井宏純(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師、稲荷山諸聖徒教会管理牧師)

特 権 意 識

 早いもので軽井沢に派遣されて15年目を迎えました。
ご承知のように軽井沢の教会は避暑地軽井沢発祥の地にも定められ、かつては夏期に集中した来訪者も、現在では年間を通して絶えることがない状態になっています。特にここ数年で急激に増加したのが、観光地では「インバウンド」と呼ばれる訪日外国人旅行者の人々で、季節差はありますが来訪者の半数以上が主にアジア地域からの旅行者と言っても過言ではありません。そこで生じるのが、生活習慣や文化の違いに起因する様々なトラブルで、礼拝堂で飲食をしたり、大声で騒ぐなど…頭を悩まされることも多々あるのが実情です。当初は、郷に入れば郷に従えとばかりに厳しく注意したものですが、最近では看板を整備するなど、どうしたら理解してもらえるかに重点を置きながら対処できるようになりました。
しかし、これまでの経験から誤解を恐れずに言えば、最も厄介な来訪者は残念ながらクリスチャンの人々と言えます。勿論一部のクリスチャンではあるのですが、進入禁止の看板を見ても堂々と進入し駐車します。結婚式中であっても、無理やり礼拝堂に入ろうとします。私や信徒の方が「申し訳ありませんが、ご遠慮ください」と伝えると、決まって「私クリスチャンなんですけど…」、「教会の結婚式は誰でも参列できるはずですが…」といった言葉が返ってきます。事前の問い合わせも無く、こちらの事情を尋ねることもせず、自分本位の正当性を主張する姿には唖然とさせられます。こんなこともありました。礼拝堂で数人の旅行者が黙想しているところに10人位の団体が入ってきて、突然大声でゴスペルを歌い始めたのです。声を掛けると、「主を賛美させていただいています」と、悪気もなくにこやかに答える態度にはさすがに閉口してしまいました。礼拝堂入口には「静かにご入堂ください」とはっきり書いてあるのですが。
なぜクリスチャンであることに妙な特権意識を抱くのかと嫌悪感さえ覚えるのですが、同時にその様な姿勢は自分自身の内にもあるのではないかと不安な気持ちにもさせられます。なぜなら、特別な権利があると思い込むと、人は冷静に状況判断ができなくなり、目の前の困惑している人、傷付いている人が見えなくなってしまうと強く感じるからです。聖書を読んでいると、特権意識から発するファリサイ派の人々や弟子たちの言動に対して、厳しく戒められる主イエスにしばしば出会います。主イエスのご生涯は、家畜小屋での誕生から十字架の死に至るまで、特権意識とは正反対の生き方でした。パウロはこのように語ります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2・6~8)
今年も間もなくイースターを迎えます。世界では、特権意識を背景にした声がますます大きくなっていますが、私たちは惑わされることなく主イエスの御声に聴き従い、共に励まし合いながら喜びの日を迎えたいものです。
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師、稲荷山諸聖徒教会管理牧師)

『礼拝堂の掃除』

この夏、困った珍事件が起きました。例年にない猛暑が続いた日の朝、礼拝堂を開けに行くと、祭壇の周り一面に木屑が散乱しているのです。古い建物ですから、尖塔の下などは風の強かった翌朝にはホコリや吹き込んだ枯れ葉が落ちていることも少なくないのですが、こんな惨状は初めてでした。嫌な予感が頭をよぎり、お世話になっている大工さんに診てもらうと、案の定原因はアリ(シロアリではなく腹部の赤い大型のアリ)の大量発生によるものでした。早速殺虫剤などを用いて駆除作業に取り掛かると、天井板の隙間から次々と落下…、元気なアリは床に落ちても礼拝堂のあちこちへと逃げ回り、掃除機を手に汗だくになりながら、おそらく数千匹のアリと格闘する羽目になりました。お陰で現在は沈静化した模様で、結果として礼拝堂の隅々まで綺麗になり、来訪者からは「掃除が行き届いて気持ちがいい」とお褒めの言葉までいただきました。

当教会に赴任した年の忘れられない出来事があります。礼拝堂入口の机の上に常設してある来訪者ノートに、ある日このような書き込みがありました。「テレビで観るより古く、がっかりです。整理整頓して下さい。」本当にショックで、嫌がらせかと怒りの気持ちさえ禁じ得ませんでした。なぜなら毎日欠かさず掃除をしていましたし、同日の続く書き込みには「当時そのままの姿に感動しました。今のまま長く維持していただけるように祈っております。」「こんなチャペルで子供達を挙式させたいと思います。」と気遣いとも思える温かいメッセージが並んでいたからです。

しかし、2年前に協働関係にあるホテル音羽ノ森の社員旅行(宗教施設を巡る旅)に同行した折、ある気付きを与えられました。最初に名古屋聖マタイ教会を表敬訪問した後、伊勢神宮に立ち寄り、目的地である京都では金閣寺や清水寺など代表的な寺院を訪問しました。2月の真冬であったにも拘らず、どの寺社も観光客で賑わっていましたが、(有料とは言え)何よりどの施設も内部だけではなく境内地も整然と手が入れられ、何とも言えない清々しく凛とした空気に包まれていました。その時以来、もしかしたらあの書き込みをした人は、そのような空気を求めていたのかもしれないと思うようになり、完璧にという訳にはいきませんが、出来る限り心を込めて掃除をするようになりました。

仏教では、僧侶の修行の基本中の基本はお経や座禅よりも、まず掃除であると聞きます。それは一見おろそかにされがちな掃除が、実は心を磨き豊かな人格を養うために、絶対不可欠な要素であるとの考えからだそうです。そしてそれはキリスト教をはじめ、すべての宗教にも相通ずるものがあるように感じるのです。

私たちの教会は、今年礼拝堂聖別120周年を迎え、9月6日には記念礼拝を長野伝道区合同礼拝として行うことになっています。聖霊の宮とも言われる教会に集ってくださる方々が、少しでも爽やかに気持ちよく祈りと賛美をささげられるように、喜びをもって準備していきたいと思います。

司祭 テモテ 土井宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師、新生礼拝堂管理牧師)

『加齢の恵み』

私は1月が誕生月なので、新年早々50歳を迎えようとしている。周りからは「ついに大台だね」とか「中年真っ盛り」などとからかわれているが、意外にも加齢を楽しんでいる自分がいることに気付かされる。30歳や40歳に達したときは「もうそんな歳になってしまったか」とネガティブな感情にとらわれたものだが、今回は不思議と素直にその事実を受け入れている。ここ数年来、老眼鏡が必要になったり、気持ちに体力が追い付いてこなくなったという身体的衰えも一因と言えるが、それ以上に精神面の変化が大きいように感じている。

私は昔から「お前は八方美人だ」と批判されることが多い。以前はその都度反論していたが、最近では自分も納得するようになった。私の意識の根底には「誰からも嫌われたくない」「良い評判を得たい」といった他人の目を必要以上に気にする心理があるように思う。そのような自分と決別したいと願ってはいるのだが、おそらく自分という存在に根本的に自信が持てないのだろう。ところが、特に40代後半頃から経験してきた仕事や子育ての困難さの中で、あるいは教会内外や被災された方々との様々な出会いを通して、自分の無力さや弱さと共に、自分の中にある驕り、高ぶり、偽善というものをイヤというほど痛感し、本来の小心な自分、大した人間ではないという自分の存在を徐々にではあるが受容できるようになった。極端な言い方をすれば「虚栄心からの解放」と言えるかもしれない。勿論完全に解放されたわけではないが、肩の力が抜けて気持ちが楽になり、以前のように人の目や評価をあまり気にしなくなったように思う。

このような精神面の変化を日頃からお世話になっている方に話したところ、「それは歳をとったということだよ。悪い歳のとり方じゃないと思うけどね…」という言葉が返ってきた。お酒の席ではあったが、何かホッとするのと同時に、歳を重ねるというのは積極的な意味があるのだと改めて気付かされた。考えてみれば、聖書においても長寿は基本的に神様の祝福のしるしと理解されている。むやみに加齢を美化するつもりはないが、それでも歳を重ねることは決して悲観することではなく、むしろ恵みであり人間として成熟することと言える。

そこで思うのだが、私たちの多くは社会でも教会でも、これまで「(少子)高齢化」という言葉を危機意識の中で、マイナスイメージとしてばかり使用してはこなかっただろうか。もしかしたらそれは根本的に間違った認識で、見方を変えれば高齢化は歓迎すべき現象なのかもしれない。

人生の先輩方には「まだ50歳の青二才が」と言われそうだが、教会の衰退が叫ばれる昨今、それを打開する最大のヒントは、高齢化する状況を危機としてではなく、この時代に神様から与えられた恵みとして喜んで受けとめていくことの中に隠されているのではないかと、確信めいたものを感じ始めている。

「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザ46・4)

司祭 テモテ 土井宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)

『36年目の再会』

私には今に続く小学校から高校までの友人がいません。いつも「元気と明るさだけが取柄」と言われていますので、信じられないという人も多いかも知れません。小学校の高学年の頃から「牧師の子ども」であることに強い嫌悪感を抱きはじめ、表面的には明るく振舞ってはいましたが、内心は自暴自棄の状態が長く続きました。詳細は割愛しますが、何より当時の我が家では主日礼拝を優先するのが当り前でしたので、日曜日は好きなクラブ活動(サッカー)を試合であっても休まなければならないこともありました。それでも何故か牧師である父親のことは尊敬していて、直接不満を言ったという記憶はありません。中学生になるとサッカー部に入ることさえ叶わず、私は意識的にそれまでの仲間たちから離れていきました。学校の先生にも些細なことで反発しました。今思い返すと、かなり屈折した思春期を過ごしたと言えますが、そのような不安定な心の状態は徐々に解消されていったとは言え、地元の高校を卒業するまで続いたように思います。現実逃避していたと言われればそれまでですが、やはり私にとってこの時代のことは、できれば忘れたい、あまり触れたくない、隠したいというのが本音でした。

ところがこの夏、突然一本の電話が掛かってきました。「〇〇小学校出身のFだけど、覚えてるか?」。名前を聞いて、私はすぐに小学校時代のサッカー部の仲間だと分かりました。彼は小学校卒業と同時に東京へ引っ越したため、それ以来実に36年振りに聞く声でした。興奮した気持ちを抑えながら話を聞くと、以前から東京にいる小学校の仲間で同窓会(飲み会)を定期的に開いているとのことで、どうやらそこで「土井らしき人物が牧師姿でテレビに出ていた」という話題で盛り上がったらしいのです。それで幹事をしているFが事実確認をすることになったという次第で、更に「来週の水曜日に家族連れで軽井沢へ行くから会えるか?」との質問。その時の気持ちを上手く表現することはできませんが、とにかく経験したことのない心躍るような嬉しい気持ちに満たされ、「早く会いたい」という一心でその日を待ちました。不思議なもので、実際再会してみるとすぐに36年のブランクは埋まり、小学校時代の話に花が咲きました。その中で、当時の自分の思いも少し話しましたが、「へ~、そうだったんだ。あまり覚えてないけどね」とあっさりかわされ、「それより今度から土井も出てこいよ。みんな懐かしがってるし…」という彼の言葉に、それまでずっと心のどこかに重くのし掛かっていた大きな重りが瞬時に取り払われたような思いになりました。文字通り気が楽になったのです。

そのような経験を通して直感的に感じたことは、おそらくかつて主イエスに出会った人々も似たような思いになったのではないか。勿論もっと比べものにならない程の大きな喜びに満たされたのではないかということです。なぜなら聖書に描かれるそれらの人々の多くは、社会的にも宗教的にも軽視され、疎外され、神様の祝福を受ける価値のない者として差別され、自らの人生に積極的な意味を見出すこともできずに日々打ちひしがれていたと思うからです。そのような彼らにとって、いわば自分の負の人生をそのまま受けとめ、共感し、共に歩んでくれる主イエスの存在は、どれほどの慰めと喜びと勇気を与えたことでしょう。その後の彼らの人生観は一変したに違いありません。

私の生涯において予想も期待もしていなかった36年目の再会は、多くのことを学ばせてくれました。そしてこれからの人生が、恵みのうちに大きく広がっていくことを予感しています。次回の同窓会は12月に渋谷で行うとのこと。今から楽しみです。

司祭 テモテ 土井 宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)

『観光客の祈り』

「こんなに活気のある教会になっているとは驚いた。 以前来た時はこのまま朽ち果てていくのかと残念に感じたものだ」 と、 25年ぶりにショー記念礼拝堂に来られたという方から言われました。 私は 「いや~、 夏の間だけですよ」 と遠慮がちに答えながらも、 内心はとても嬉しく思いました。
今春から同礼拝堂の定住牧師として過ごしていますが、 避暑地軽井沢の発祥地とは言えここまで観光客が多いとは正直想像していませんでした。 おそらく全国に約300ある日本聖公会の教会の中でも群を抜いているでしょう。 特にゴールデンウィークと夏期 (7月下旬~9月中旬) は、 連日数百人の観光客が見学に訪れます (というよりは押し寄せてきます)。 国籍も様々で、 日本語や英語以外の言語もあちこちで飛び交うこともあり、 その情景は聖霊降臨の出来事を彷彿とさせる感があります。 「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、 ほかの国々の言葉で話しだした」 (使徒言行録2:4)。 このように書くと 「何と羨ましい!」 と思われる方も多いでしょうが、 実際は心無い観光客の言動に困惑させられることも度々です。 あまりの非礼な行為に怒鳴りつけてしまうこともあります (神様ゴメンナサイ)。 しかし、 殆どの良識的な観光客は静かに礼拝堂に入り、 黙想し祈りをささげます。 その自然な姿にこちらの方が感動を覚えることも少なくありません。
先日もこんなことがありました。 迷彩服を着た一人の男性がキョロキョロしながら礼拝堂の前を行き来しています。 見るからに怪しげな様子に、 私は庭を掃除している振りをしながら注意を払っていると、 礼拝堂に誰も居なくなったことを確認した彼は中に入ると迷うことなく一番前まで進み、 椅子にも座らず祭壇の前に跪きました。 そして突然外まで聞こえるような大声で何かを唱え始めたのです。 未だにそれが何語であったのか分かりませんが、 とにかくその祈りと思われる言葉は15分ほど続きました。 勿論その間は、 私も含め誰もその光景に圧倒されて礼拝堂に入ることは出来ませんでした。 しかし、 その後礼拝堂から出てきた彼は目に涙を浮かべながら去っていったのです。 言葉の問題もあり、 司祭として声一つ掛けられなかったことを後悔していますが、 おそらく異国の地で何か苦しいことに直面しているのでしょう。 あるいは母国で何か辛い出来事が起こったのかもしれません。 ただ確信をもって言えることは、 神様は彼のその切実な祈りを間違いなく受け止められたということです。 彼だけではありません。 本当に多くの人々が毎日この礼拝堂で神様と向かい合い、 慰めを受け、 勇気を得て帰っていきます。 礼拝堂に備えられている来訪者ノートがそのことをよく物語っています。
礼拝堂を出て3分も歩けば、 そこは華やかで賑やかな旧軽銀座と呼ばれるショッピング街。 今日も休暇を楽しむ人々で溢れています。 しかし、 一人一人はそれぞれに悩みと苦しみを抱えているのも事実です。 私たちクリスチャンだけでなく、 多くの人々にとって、 自分の思いのすべてを素直に神様に表現できる場として今後もこの礼拝堂が用いられていくことを願って止みません。

司祭 テモテ 土井 宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)

『軽井沢ミッション』

本当に多くの方々から質問されました。「軽井沢?それもホテルへ何しに行くの?」今年の春のことです。おそらく現在も、私がホテルにチャプレンとして派遣されたことを不思議に感じておられる方も多いのではないでしょうか。それは、今まで司祭が学校や病院に遣わされることはあっても、一企業にということはなかったからです。アパートに住み、毎朝ホテルに出勤するという慣れない生活に、当初は戸惑うこともありましたが、半年を経て率直に思うことは「実に貴重な経験をさせてもらっている」ということです。字数に限りがあるため、この辺りのことはぜひ別の形で報告させて頂ければと願っています。
とにかく、まず何よりもお伝えしたいことは、軽井沢という地は《聖公会》という言葉が浸透している全国でも稀有な(聖公会から言えば貴重な)町であるということです。今年はちょうど町制が施行されて80周年を迎えましたが、発刊された記念誌を開くと、すぐに「ショー記念礼拝堂」のカラー写真が大々的に掲載されています。《聖公会》という言葉も幾度も登場しています。8月に開催された「ショー祭」では、村岡司祭のご配慮により町長に挨拶する機会が与えられましたが、そのとき町長から言われた言葉が「聖公会の先生が軽井沢においで下さり、本当に嬉しく思っています」でした。更に驚いたことは、頂戴した町長の名刺の背景にショー記念礼拝堂の写真が印刷されていたことです。このことは私にとって、軽井沢における新たな宣教の可能性を直感させられた出来事でした。また長野新幹線が開通してからは、定住する人口も毎年増加傾向にあります。そのような中、最近つくづく思うことは、聖公会にとってこれ程恵まれた条件が与えられているにもかかわらず、もし軽井沢における宣教を積極的に考えないのであれば、それは教会の怠慢に他ならないということです。
近年、教会の危機的状況が叫ばれています。私たちは数字を見るたびに意気消沈し、自信喪失の状態に陥ってはいないでしょうか。正直私もそうでした。しかし、軽井沢での新たな経験と気づきを通して、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」というパウロの言葉が今までにない力強い響きをもって迫ってくるのです。勿論教会における礼拝と交わり、そして牧会は何よりも大切にされなければなりません。しかし、そのことだけに私たちの注意と関心が向けられるのであれば、今の厳しい教会の状況を打開、改善していくことは困難であるように思います。
軽井沢に来て改めて感じることは、教会の働きは社会の至るところに広がっているということです。そして《軽井沢の父》と称えられるショー師をはじめ、かつての宣教師たちの伝道に対する熱意と、確固とした信仰、そして常に社会に目を向けている開かれた姿勢から私たちはもっと真摯に学ぶ必要を感じるのです。私は現在、ホテルスタッフの一員として年間400組を超える結婚式の責任を持っていますが、この軽井沢の地においてイエス・キリストの働きを担う者(クリスチャン)として、今後も宣教の可能性を祈りの内に模索していきたいと思っています。
司祭 テモテ 土井 宏純
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森チャプレン)