切り株のように

数年前に太い枝の落下が相次ぎ、事故防止のため2本のモミの大木を伐採した。少々淋しくもあったが陽光がよく射し込むようになり、冬期に礼拝堂前の地面が凍り付くこともなくなった。司祭館の執務室から目線を上げると、その一つの切り株がいつも正面に見える。しばらくして、その切り株で興味深い現象が日々繰り返されていることに気がついた。年輪を数えたり、腰を下ろして休んでいる光景を目にすることが多いのだが、若い世代や子どもたちは切り株を舞台にしてポーズを取りながらスマホ撮影を楽しんでいる。春や秋には長時間座って読書をしたり、絵を描くといった姿もしばしば見かける。しかし何より興味深いのは、目の前に建つ礼拝堂に足を踏み入れる人は来訪者の半数にも満たないのに、切り株には洋の東西を問わず、また年齢、セクシュアリティ等を超えて、あらゆる人々が引き寄せられているということだ。切り株には何か人間の本能をくすぐる不思議な力が備わっているのではないか…とさえ感じる。

切り株で思い起こすのは、子どもの頃日曜学校で観た「それで木はうれしかった」というスライドである。その原作はシェル・シルヴァスタインの絵本『The Giving Tree』であることを後で知ったが、10年ほど前に村上春樹氏が翻訳したことで少し話題にもなった。その内容は、一本のりんごの木と一人の少年との関係が、少年の子ども時代から老年に至るまでの生涯にわたって描かれている。木は少年が成長していく節々で、求めに応じて自らの果実を、枝を、そして幹をすべて与え続け、最後には年老いた少年にゆっくり座って休むための切り株を提供して話は終わる。木が自らを与え続ける度に繰り返されるフレーズが「それで木はうれしかった(And the tree was happy)」である。この絵本は様々な観点から読まれる必要があるとは思うが、かつて日曜学校で初めてこのスライドを観た時、子ども心に強烈な印象を受けたことを覚えている。純粋に神さまとはこのりんごの木のような存在なのだと理解した。特に、人生のたそがれを迎えた老人が木に促されて切り株に腰掛ける最後の場面は、その余韻とともに脳裏に深く焼き付いている。そして、その時に感じた神さまのイメージは、私の中で今なお根本的には変わっていないように思う。

主イエスのおられる所には、いつも大勢の人々が集まって来たことを各福音書は伝えている。その人々を主イエスは愛をもって受け容れ、一人ひとりが神さまの豊かな祝福のうちに生かされていることを教え、そして言われた。

「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)その主イエスの人々に対する溢れる愛は、最終的にはご自身を献げるという形で、十字架の道へと繋がっていった。孤独と苦しみの極限状態の中でも、主イエスの人々に対する愛は変わることはなく、それどころか何度も主を裏切り、自己本位に生きようとする弱い人々(=私たち)のために祈ってくださった。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)

過去最長の10連休となったゴールデンウィークが終わった。この連休中も切り株の周りでは観光客が賑わい、多くの人々の人生の一コマが刻まれていった。やがて殆どの人の記憶からは忘れ去られていくのかも知れない。しかし、その一人ひとりの尊い人生の一コマを、いつもどっしりと、静かに無条件に受けとめている切り株の姿に、主イエスが重なって見えた。そんな切り株のような存在に、少しでも近づけたらと思う。
(引用の聖句は、聖書協会共同訳を用いました。)

司祭 テモテ 土井宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)