『主の平和』 

「平和」本当によく耳にし、また今まさに必要とされる言葉です。

新約聖書で、平和はイエス・キリストの姿であり、イエスは平和の盾であると語られてきました。

マタイによる福音書10章34~36節では、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」と述べられています。

わたしたちが聖書の信仰に従うなら、これが平和だと思えるのでしょうか? このような平和が、アメリカ、イギリス、フィリピンなどのキリスト教国によって支持されてきたので、世界中に戦争があるのでしょうか?

正しい理解のために、10章全体をみていく必要があります。まず、イエスの平和のメッセージは、その宣教活動に示されています。イエスはガリラヤの人々が、平和に過ごし、愛しあい、ゆるしあい、神の国を述べ伝えるようにと、癒しの宣教活動をされました。

10章1~33節に、このことを理解する鍵があります。

イエスは、その眼差しが「イスラエルの家の失われた羊」(6節)まで届くように、12人の弟子たちを派遣されました。イスラエルの家の失われた羊とは、当時の神殿の指導者たちを筆頭に、ユダヤの人々が神への信頼を失っていることを示しています。民衆の中の神の人、イエスを理解できずに、かたくなになっていたのです。ですから、イエスは弟子たちに、人々の中で敵に出会うであろうと警告するのです。

さらに、弟子たちの平和を携えた訪問をも、拒む人があるだろうと述べられ(12~14節)、迫害による苦難も示されます。それ故、イスラエルの民は分裂を余儀なくされるのです。

「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(32~33節)

この32~33節に続き、34~36節の家族の分裂が語られます。この言葉は、当時のユダヤ人に向けて語られているのです。

しかし、ユダヤ人でないからといって、分裂の対象でないとは言えません。わたしたちも対象なのです。なぜなら、キリストによって、異邦人すなわち、わたしたちもその福音を受けるものとして認められたからです。

わたしたちは、キリストを信じる神の民ですが、家族の間で、友人、親族、そして教会の中でさえ、分裂を経験するのです。分裂は不調和をもたらします。しかし、わたしたちが真理に目覚めれば、平和を取り戻すことができます。

ヨハネによる福音書14章6節で、主イエスは語られます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」イエスに従い、イエスを信じることが、世界に平和をもたらす道です。主イエスは、人々に平和、愛、癒し、奉仕、ゆるしをもたらすために、わたしたちを派遣されるのです。わたしたちが携えた平和を拒み、迫害する人もあるかも知れません。そうであっても、わたしたちは教会の業として、主イエス・キリストの宣教の業を、絶え間なく続けていくのです。

わたしたちの心に、思いに、力に、主イエス・キリストの平和がありますように。

執事 山下グレン
(可児伝道所)

「東日本大震災とアンパンマン」

東日本大震災のあと、漫画のアンパンマンのテーマ曲が被災地の人々に元気を与えています。「なんのためにうまれて なにをしていきるのかこたえられないなんて いやだ」というテーマ曲は漫画の主題歌としては少し難しいのではとも感じましたが、親しみやすいメロディーと考えさせる詩とがマッチして子どもにも大人にも元気を与えてくれているのだと思います。

そんなことを考えていましたら、先日、N司祭から「(アンパンマンの作者の)やなせたかしは聖公会ですよ」と教えられました。びっくりしましたが、アンパンマンには何かキリスト教的なメッセージが含まれているような気もしていましたので、胸につかえていたものが取れたような気がしました。

先日の新聞に東日本大震災関連でやなせたかしさんの話が載っていました。アンパンマンはもともと大人向けの物語として書かれ、その後子ども向けの絵本になったそうです。当初、子どもには難解すぎると言われたり、アンパンマンが自分の顔を人に食べさせるのは残酷だという抗議もあったようです。しかし、子どもたちはそういう大人の心配をよそにアンパンマンのファンになっていったのでした。

アンパンマンはイエス様を模しているとも言われます。確かに、自分の体の一部を食べさせるということは、イエス様の「わたしの体を食べ、わたしの血を飲む」(ヨハネ6・56)というお言葉に通じるものがあります。自分の顔を食べさせてしまったアンパンマンはふらふらになるのですが、『ジャムおじさん』が新しい顔を作ってくれて復活します。ジャムおじさんはさしずめ神様といったところでしょうか。アンパンマンがこれからも被災者の皆さんに力を与えてくれますように。

『神さまの必要』

47歳のときにそれまでのサラリーマン生活に終止符を打ち、牧師への道を歩み始めました。3年間、ウイリアムス神学館で学びましたが、勉強したからといって急に信仰深くなれるわけではありません。神学生としての3年間の生活の中で与えられたことは、自分の頑張りには限界があるという気付きです。もっとも限界まで頑張ったかどうかは疑問ですが。傍目には同じように頑張っているように見えたとしても、その頑張りが、神さまにゆだねた頑張りなのか神不在の頑張りなのかで、大きく違います。自分中心、自分を過信しての頑張りは疲れます。次第に息切れしてきて、もうだめだと倒れかけたときに、神さまからの静かな声に気付かされます。あれから14年…。

牧師は神さまから特別な恵みをいただいている、と思っています。それは何かというと、苦しみを伴った恵みであり、イエスさまの御苦しみに思いを馳せさせる恵みです。イエスさまは福音を告げ知らせるために、天の父によって地上の世界に遣わされました。イエスさまの福音とは、神はすべての人を愛しておられる、ということでした。たとえ律法(に付随する)戒律が守れなくても、「義人」でなくても、すべての人を神は必要としておられる、愛する対象として。御子イエスさまのまなざし、イエスさまのより多くの関心は「罪人」「病人」に向けられました。苦しみ悩む人びとに、その人間性の回復を告げられました。天の父の御心を地上に於いて具体的に表された御子イエスさまの言動は、当時の宗教的政治的指導者であるファリサイ派の人びと、律法学者、最高法院の議員たちにとっては許し難い、反社会的行為と受け取られました。

「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(マルコ3・6)

実にイエスさまの地上の生涯は、ご自分に向けられた激しい憎しみとの戦いでもありました。誤った律法主義、人間が功績を積むことによって「義人」とされるという考え方は、「罪人」を生み出します。それは「赦し」とは正反対の「裁き」です。赦しは人を生かし、裁きは人を殺します。イエスさまは繰り返し人を裁くなと語り、ひたすら「罪人」を赦されました。「赦し」の行き着くところが十字架であり、愛の勝利である復活でありました。

もう一つ牧師の特別な恵みに「説教」があります。何年経験を積んでも説教を作るのはやはり大変です。苦しみ悩み求め続けて日曜日の早朝、ようやくできあがることがしばしばです。しかも努力と結果は結び付きません。でもこの説教を作るプロセスをとおして大きな恵みを与えられています。聖書熟読によって福音と向き合わされ、イエスさまへの憧れはますます強くなってきました。信仰の道は終わりがありません。命召されるまで迷って行ったり来たりのわたしでしょう。さて、神さまからの静かな声は
「大丈夫だよ、わたしはおまえを愛している。頑張っていようがいまいが、ありのままのおまえをわたしはとてもいとおしく思っている。だから力を抜いて、わたしのほうを向きなさい。わたしの愛を受け入れなさい。わたしにとって今のままのおまえが必要なのだ。」

司祭 イサク 伊藤 幸雄
(高田降臨教会/直江津聖上智教会牧師)

『痛みと喜び』 

3月下旬、「いっしょに歩こう!プロジェクト」のわかめ収穫ボランティアに参加するワークキャンプの引率者として、生徒4名と共に東北を訪れました。ところが、初日に宿舎で入浴中転倒して、歩くこともできなくなったため救急搬送され、骨折と診断されてそのまま入院することになりました。手術が必要ということでしたので、帰京しての治療を希望し、翌日様々な交渉の結果、何とか新幹線に車いすで乗り、東京に戻ってくることができました。

数日後、折損部を固定する手術を受け、その後さらに3週間ほどの入院生活を経て松葉杖での歩行が可能となり、ようやく退院しました。まだ全快というにはほど遠い状況ですが、とりあえず日常生活がおくれる程度には回復しました。

入院はもちろん骨折も初めてでしたので、いろいろと思うことは多くありましたが、特に入院生活と聖週・復活節が重なったことはわたしにとって大きな意味があり、主の受難を自らの身体を通して黙想「させられた」(半ば強制的に!)ことは恵みであったと思っています。

普通ならば、「なぜ風呂場で転んだだけでこんな大事になるのか」(医師もこんな大けがになったことを不思議がっていましたが、「運が悪かった」というのが結論のようです)と落ち込んだりしそうなものですが、幸か不幸か骨折の痛みはそんなことで悩む心の余裕を与えませんでした。骨折してから手術で患部を固定するまでは、とにかく何をしても激痛が走り、夜も一時間おきに起きるような状態で身体的にも肉体的にも疲弊しました。また、手術の準備として足の牽引をするようになってからは、寝返りはおろかベッドから降りることもできなくなり、排泄も看護師さんのお世話にならなければならなかったのは恥ずかしかったし、精神的にも辛くみじめな気持ちでした。始終襲ってくる痛みに加え、徹頭徹尾無力な自分の姿と向き合わされた一週間でした。

ヨーク大主教ジョン・センタムは、今年の聖金曜日に寄せて次のように言っておられます。「聖金曜日は、深みと向き合う日です。イエスは十字架の苦しみの中で叫びます。『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?』その最期の時に、イエスは人間の苦しみの深さを極限まで知り、孤独の焼け付くような喪失感を知ったのです。…しかしイースターの物語の終わりは死ではなく、命であり、そのあらゆる豊かさに満ちあふれる命なのです。」

ベッドの上でわたしが味わった痛みや無力感は、わずかにではあっても確かに主イエスの十字架の端につながっていたのだと思います。「痛い」ということを骨の髄まで思い知らされた時でしたが、しかしその十字架の向こうには、復活の喜びがたたえられていることも確かに知ることができました。病院から車いすに乗って外出し、イースターの聖餐式に出席して教え子の洗礼式に立ち会うことのできた喜び!今年は本当に忘れられない大斎・復活節となりました。

司祭 ダビデ 市原信太郎
(立教池袋中学校・高等学校チャプレン)

「新生病院…祈りの80年」

中部教区は今年教区成立100周年を迎えましたが、小布施の新生病院は今年の秋に創立80周年を迎えます。長野のウォーラー司祭をはじめとするカナダ聖公会宣教師たちの、日本の結核を何とかしたいという強い願いと祈りが実現し、小布施に新生療養所が開所したのは1932(昭和7)年9月のことでした。
当時の最先端の医療技術と設備を備えた療養所として、全国から多くの結核患者を迎え入れました。院長であるスタート先生やスタッフの献身的な働きは今日に至るまで語り継がれています。スタート先生の在任期間は戦前戦後合わせて10数年と、決して長くはありませんでしたが、「愛と祈り」の医師として多くの人々に大きな影響力を与えたのでした。
しかし、新生病院を支えてきたのはもちろんスタート先生だけではありません。戦中の病院存亡の危機には病院・教区の関係者たちが必死の思いで療養所を守りました。また、戦後しばらくして結核が終焉を迎えるようになってからは徐々に一般病院に移行していきましたが、カナダミッションからの援助停止、医師不足等、難題がたくさんありました。しかし、その都度、関係者が祈りつつ知恵を出し合い難局を乗り越えて来ました。
このように新生病院80年の歴史は祈りの歴史と言えます。病院に関わる人たちの『新生病院を何とかしなければ』、『新生病院を少しでも良い病院に』という強い思いや願いは『祈り』そのものです。そのような祈りがあるところには必ず神様の導きがあるのです。数々の困難を乗り越えて来た新生病院の歴史はそのことを証ししています。これからも新生病院はその『祈り』に支えられて90年、100年へと向かって行くのです。

「『狭山事件』から50年」

先日、管区主催の『新任人権研修』があり、管区の人権担当主教としてわたしも参加してきました。この3月に神学校での学びを終え、4月から教会に出て行かれる新任教役者の人権に関する研修です。
今年は「狭山事件」を中心に研修が行われました。2泊3日の研修でしたが、2日目は狭山に行き、事件の犯人とされている石川一雄さんと、お連れ合いの早智子さんのお話をお聞きし、合わせて事件現場を実際に歩いて事件の概要、経過などの研修をしました。
狭山事件は事件発生から来年で50年を迎えます。石川さんは1963年5月に逮捕され、一審では死刑判決、二審で無期懲役刑を受け服役しましたが、1994年に仮出獄し、現在は第三次再審請求を申し立てているところです。わたしも何度か狭山事件の研修会には参加しましたが、研修をすればするほど石川さんが冤罪であることの確信は強くなります。刑事事件や裁判に詳しくない人でも、今までに明らかにされている証拠や証言、事件現場やその周辺における状況を見れば、石川さんを犯人と断定することには全く無理があることが良く分かります。
にもかかわらず、なかなか再審開始には至りません。最近、やっと検察は裁判所の求めに応じて、まだ明らかにされていない証拠を開示し始めました。しかし、肝心な証拠はまだまだ開示されてはいないのです。開示されれば石川さんの無罪が一目瞭然になってしまうからです。『50年も経つのだから』という心情的なことではなく、隠されている証拠がすべて提示された上で客観的な裁判が求められているのです。「すべて刑事事件においては、被告人は公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。」(憲法37条)

『消えない傷 ~永遠の愛の証~』

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。事実、その復活の予告通り、主イエスは復活なさいました。

受難から三日目の早朝、主イエスは自らの体を包んでいた亜麻布を脱ぎ去り、立ち上がった。墓を塞ぐ石の隙間から微かに吹き込む夜明けの涼風に導かれ、墓の出入り口へと歩みを進めながら、頭の覆いを脱ぎ捨てる。その静かな足取りのまま、美しく平安に満ちた主イエスの御顔が朝の陽光を浴び、罪を贖われた世界が復活の主イエスの御姿を初めて目の当たりにする。

復活日の朝、私はいつもそのような光景を想像し、静寂の中で感謝の祈りを捧げます。そして、こう思います。『その復活の御姿は、この世のものとは思えないほど美しく、威光に満ちていたに違いない』と。

四福音書にはいずれも、復活の主イエスを目の当たりにしても、それとは気付かない人々の姿が描かれています。それは、主イエスの復活を信じることのできていなかった人々の不信仰の故であると理解できます。しかし、私は『受難の主イエス』と『復活の主イエス』のあまりに違う姿も、その故であるように思います。茨の冠でできた額の無数の傷も、鞭打たれ、深く裂けた頬や体の傷も、拷問で生じた幾つもの青あざも癒え、苦しみと悲しみで血走っていた目も瑞々しく澄んでいる。十字架の道行で浴びせられた穢れたものや罵声による汚れも全て消えている。天的な姿を身に纏った、復活の主イエスがそこにはいたのです。

天的な姿を身に纏った美しい復活の主イエスと、この世の全ての罪と苦しみを背負った受難の主イエスとの姿のあまりの違いが、マルコによる福音書第16章12節にも「イエスが別の姿で御自身を現された」と明記されています。やはり、復活の主イエスは全てが癒され、完璧な姿であったのでしょう。

しかし、そのように考える時、一つの疑問が生じます。『では、両手の平の釘の傷と脇腹の槍の傷は、なぜ消えなかったのか?』と。疑いを抱く弟子のトマスを納得させるためにだけ残ったのでしょうか。

復活の主イエスに消えずに残った傷と消えた傷には、ある違いがあることに気付きます。それは十字架の上で受けた傷か否かという違いです。十字架の上で受けた傷だけが復活の主イエスの美しい体には、はっきりと残っている。十字架の上での傷、それは、つまり、罪の贖いに直結する傷であり、私たちの救いの証そのものです。

時が流れ、歴史が移り行き、人の心も信仰も日々、変化する。もしかしたら、人を愛し、人に愛された、その愛の歴史さえも、容易に消え失せてしまうような危うさがこの世界にはあります。しかし、受難を経て、私たちの想像を遥かに超えた変化である復活を成し遂げられた主イエスの、その御体には依然として受難の傷が、苦しみの経験として、そして、私たちを愛した、愛している証として残り続けている。昇天され、今も私たちを見守る、主イエスのその体に。

司祭 ヨセフ 下原 太介
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師)

「ある世界祈祷日でのこと」

先日、名古屋市内の世界祈祷日礼拝が名古屋聖マタイ教会で開かれました。各教派から200名以上の参加者があり盛会でした。メッセージは田中誠司祭がされたのですが、そのメッセージの途中でふと、過去の世界祈祷日のことを思い起こしました。
ある世界祈祷日でのことでした。ある教派の教会で行われ、教会の方々と出席しました。その日は少し頭痛がして風邪気味でした。夜は常置委員会が予定されており、車で名古屋まで行かなければなりませんでしたので、早く良くなってほしいと願っていました。礼拝が進みメッセージになり、その教派の先生がお話をされました。少し長めで、内容的には当日の礼拝式文(冊子)に書かれているような内容で、頭痛で少しボーっとしていたこともあり、いけない、いけないとは思いつつ、話には引き込まれないで眠りに引き込まれてしまいました。
ふと気がつくと7~8分は経っていたでしょうか。完全に熟睡していました。幸いまだメッセージは続いていましたので、体勢を整えて何事もなかったかのように拝聴したのですが、ふとその時、ある変化に気がつきました。いつの間にか頭痛が消えていたのです。軽い頭痛でしたので、時間的には丁度回復するころだったのか、あるいは、熟睡が効いたのか、頭はすっきりしていました。それにしても不思議な出来事でした。医学的には何らかの説明がつくのでしょうが、わたしは素直に神様がこのメッセージを通してわたしを癒してくださったのだと感謝しました。それからは自分の説教で聞き手が眠っていても全然気にはならなくなりました。そんなことを思い出していたのですが、田中司祭のメッセージは最後までちゃんと聞かせていただきました。

『わたしのもとに来なさい』 

今年の冬は、ことのほか寒さが厳しい冬となりました。2月初めには名古屋でも積雪があり、雪深い飯山、上越、長岡では連日の大雪で除雪が追い付かない日々となり、昨年の震災とはまた別な意味で自然の力を思い知らされました。

そんな厳しい冬のさなか2月22日に今年の大斎は始まりました。復活日までの40日間、それぞれの思いを持って過ごされることでしょう。人は誰しも周囲の環境を抜きにして生きることはできません。厳しい自然環境に、あるいは仕事や家庭、様々な人間関係に向き合って過ごす毎日です。いくら努力しても、頑張ってもなかなか明るい日差しが見えてこない、というのが今日の日本に暮らす多くの人たちの実感なのではないでしょうか。

しかし、そうした中でも私たちは何かしら自らを力づけるものを見つけ出し明日への一歩を踏み出そうとします。それは、時には雪の間にのぞく晴れ間の青空であったり、幼児の元気な姿であったり、食事の時の季節ならではの魚や野菜であったりの、ちょっとしたことです。そして私たち信仰者にとって何より大事なのは、日々の中の祈りの時間です。夜寝る前に一日を振り返り感謝をし、暗い夜の間、主のみ翼の陰に休ませていただき、心身の新たな力の養いとし新たな朝を気持ちよく迎えられることをお願いする。朝起きた時には、新たな一日を主の見守りのうちに過ごし、よき日となることをお願いする。精神的にあるいは肉体的に自分の限界を感じるような日々の内では、自分の力では何ともできないことを祈りによって神様にお任せすることができます。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マコ8・34)この言葉は、必ずしも意識的に自分の特別な十字架を探すことではないと思われます。多くの人にとっては、日々の生活の中における様々な苦難を意味するといえましょう。それは自分とは切り離すことができないものでもあります。しかし、そうした苦難の日々と向き合いながら祈りを支えに過ごすことが「わたしに従う」ということではないでしょうか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタ11・28)主は、共に重荷を背負ってくださる、主は、耐えられないほどの苦難はお与えにならない、という言葉もあります。震災の被災地において、雪に閉ざされた多くの地において、あるいは逆に都会の中の人間関係の中において、また病気の人と共に過ごす家族において、それぞれの方が、それぞれの日々と向き合っています。そうした一人一人の方を覚えて祈り、また自分のために祈りましょう。

今年は雪国では雪解けの早春にイースターを迎えることになります。春の来ない冬はありません。雪が消えた大地からわずかにのぞく新たな芽、そうした光景に先の希望を置いて大斎節の日々を大切に過ごしていきたいと思います。

司祭 ペテロ 田中 誠
(名古屋聖マタイ教会牧師)

「野外礼拝で思ったこと」

何年か前、長野の管理牧師の時、長野市中条日高という所で野外礼拝をしたことがありました。中条は旧中条村(それ以前は栄村)といい、教会からは車で3~40分くらいの、犀川に添った山間の地区で、日高にはウォーラー司祭の時代からの信者さんのお宅があります。

礼拝をした場所は、日高から犀川の方に傾斜地を下って行った林の中で、すぐ先はもう川でした。その日の朝にその信者さんが下草を刈ってくださり、そこにビニールシートを敷いて礼拝をしました。礼拝後、昼食を食べながらいろいろな話に花が咲いたのですが、その話の中でふと教区草創期の方々に思いを馳せることがありました。礼拝をした場所のすぐ脇が、わたしたちが下って来た狭い道なのですが、その信者さんによりますと、かつてその道は幹線道路で、長野から松本方面にはこの道を通り、少し先にあった船着き場から船で対岸に渡って行ったのだそうです。礼拝した所から20メートル位先は草が生い茂り、道はそこで行き止まりになっていました。

わたしは、その時、この脇の道をウォーラー先生や曽我捨次郎先生、覚前政吉先生などが伝道のために歩かれたに違いないと思いました。ひょっとしたらその先生方が行き止まりの向こうの茂みから現れるような錯覚に一瞬陥りそうになりました。教区草創期の聖職・信徒の方々は今では考えられない苦労をして伝道し、また、礼拝に出席されたのでした。現在では中条から教会までは車で40分もあれば行けますが、当時は徒歩で一日かかったことでしょう。そのことを思えば、時代が違うとはいえ、わたしが車で名古屋から長野や新潟の教会を巡回することなど実に楽なことだと思ったのでした。