『成長の途上にある可児ミッション』 

可児より平和の挨拶をお送りします。
可児ミッションの活動は発足以来、急速に拡大しています。2008年に中部教区第79(定期)教区会において、可児ミッションの設立が決議され、常駐スタッフが配置されました。そして、2013年には可児聖三一教会が誕生しました。その間、可児ミッションは可児市周辺地域の外国籍住民への支援を大切にし、2012年には可児ミッション「キンダークラス」を開園し、さらに今年に入ってから岐阜市の岐阜聖パウロ教会内に「きぼう教室」、美濃加茂市に「美濃加茂プレスクール」をオープンしました。これらすべてのセンターは、日本で暮らしながらも、地域の幼稚園や学校に通うことが困難な、外国にルーツを持つ子どもたちのための教育活動を行っています。限られた予算の中で、これらのプログラムをどれだけ維持できるかは、未知数です。
教育プログラム以外では、生活全般に関して様々な問題をかかえる在住フィリピン人の相談活動を実施しています。可児、美濃加茂、さらに岐阜県内の様々な地域に住み、困難な状況にある外国籍住民が相談にやってきます。この相談活動がなければ、可児ミッションがすべきことは何かを見出すことはできません。こうした教会の働きを通して、中部教区は地域のフィリピン人から信頼と支持を得ています。スタッフたちが、可児ミッションは今どういう存在であるべきかを検討してきたことが、こうした実りを生みました。神はその民を通して働かれ、その使命を行う人々を選び出すのです。
今や岐阜県内を広くカバーする可児ミッションの活動には、不安をかかえつつも喜びがあります。私たちのすぐ近くで暮らす外国籍住民を支えることを、今、神から強く促されているという心境です。レビ記19章33~34節はこう語ります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」。それゆえ、神の祝福の下、私たちは、教会の愛の奉仕によって実現する神の憐れみと愛、善き行いを携えて、岐阜地域における外国人と日本人に対する教会のミッションをさらに広げていきたいと願っています。
神の導きが私たちと共にありますように、お祈りください。

執事 山下グレン
(可児聖三一教会勤務)

『主の平和』 

「平和」本当によく耳にし、また今まさに必要とされる言葉です。

新約聖書で、平和はイエス・キリストの姿であり、イエスは平和の盾であると語られてきました。

マタイによる福音書10章34~36節では、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」と述べられています。

わたしたちが聖書の信仰に従うなら、これが平和だと思えるのでしょうか? このような平和が、アメリカ、イギリス、フィリピンなどのキリスト教国によって支持されてきたので、世界中に戦争があるのでしょうか?

正しい理解のために、10章全体をみていく必要があります。まず、イエスの平和のメッセージは、その宣教活動に示されています。イエスはガリラヤの人々が、平和に過ごし、愛しあい、ゆるしあい、神の国を述べ伝えるようにと、癒しの宣教活動をされました。

10章1~33節に、このことを理解する鍵があります。

イエスは、その眼差しが「イスラエルの家の失われた羊」(6節)まで届くように、12人の弟子たちを派遣されました。イスラエルの家の失われた羊とは、当時の神殿の指導者たちを筆頭に、ユダヤの人々が神への信頼を失っていることを示しています。民衆の中の神の人、イエスを理解できずに、かたくなになっていたのです。ですから、イエスは弟子たちに、人々の中で敵に出会うであろうと警告するのです。

さらに、弟子たちの平和を携えた訪問をも、拒む人があるだろうと述べられ(12~14節)、迫害による苦難も示されます。それ故、イスラエルの民は分裂を余儀なくされるのです。

「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(32~33節)

この32~33節に続き、34~36節の家族の分裂が語られます。この言葉は、当時のユダヤ人に向けて語られているのです。

しかし、ユダヤ人でないからといって、分裂の対象でないとは言えません。わたしたちも対象なのです。なぜなら、キリストによって、異邦人すなわち、わたしたちもその福音を受けるものとして認められたからです。

わたしたちは、キリストを信じる神の民ですが、家族の間で、友人、親族、そして教会の中でさえ、分裂を経験するのです。分裂は不調和をもたらします。しかし、わたしたちが真理に目覚めれば、平和を取り戻すことができます。

ヨハネによる福音書14章6節で、主イエスは語られます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」イエスに従い、イエスを信じることが、世界に平和をもたらす道です。主イエスは、人々に平和、愛、癒し、奉仕、ゆるしをもたらすために、わたしたちを派遣されるのです。わたしたちが携えた平和を拒み、迫害する人もあるかも知れません。そうであっても、わたしたちは教会の業として、主イエス・キリストの宣教の業を、絶え間なく続けていくのです。

わたしたちの心に、思いに、力に、主イエス・キリストの平和がありますように。

執事 山下グレン
(可児伝道所)

『可児伝道所から』

可児伝道所は、日本聖公会の中でも、フィリピンから働きに来ている信徒を主な対象に開かれた唯一の教会です。フィリピン人会衆は皆、このような教会が自分たちの住む地域にできたことに心から感謝をしています。人口の85%以上がクリスチャンという国柄、フィリピン人にとっては、主日の礼拝を中心においた生活がごく当たり前だからです。コリントの信徒への手紙2の9章11節~12節にはこのように書かれています。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」。

昨年の毎主日の礼拝参加者はおおよそ20人~30人でしたが、最近は、15人~25人に減少しています。世界的な経済不況によって多くの人が解雇され、幸い転職できた人がいる一方で、職が見つからず帰国を余儀なくされた人が大勢いるからです。それぞれの生活はとても不安定で大変ですが、私たちは信仰のゆえにこのような状況に堪え、希望を持つことができています。

可児伝道所は、この地域の中でとても大切な存在になっています。フィリピンから働きに来ている信徒たちのための、仕事や生活に関する相談窓口としての役割を担っているばかりでなく、学習会や集会、会議など、いろいろな活動の場としても用いられているからです。マタイによる福音書25章35節~36節に「お前たちはわたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」とあります。

この地に居住しているとはいえ、可児伝道所に集うフィリピン人はまだまだ訪問者に近い存在です。しかし、このような者に対して、国籍を超えて心を寄せ、共に生きようとして下さる信仰の友が大勢いることは、私たちの心を本当に温かく、豊かにしてくれます。教会は、礼拝に出席するだけでなく、互いに助け合い、喜びを分かち合うコミュニティーそのものだと実感しています。

嬉しいことに、5月30日には一宮聖光教会の伊藤司祭と信徒の方々、8月22日には愛知聖ルカ教会の信徒の方々がそれぞれ可児伝道所に来て下さり、共に聖餐に与り、聖餐式後には暖かい交わりのときが与えられました。また、8月29日には、可児伝道所の信徒と共に一宮聖光教会に行き、新たな交わりのときを持つことができました。このような輪がますます広がり、神の国を作り出す器として、共に歩んで行けたらと願っております。

執事 山下 グレン
(可児伝道所勤務)