先日、三条の「聖母こども園」お誕生礼拝の折に、お話を致しました。 「〝誕生日〟というのは、みんなが生まれた日です。みんなが生まれたのは神さまからさずかったからです。(中略)みんなが生まれたのは神さまから頂いたものだという理由が二つあります。一つ目はみんなが生まれたときはとにかくうれしくなるということです。とにかくちっちゃくて、(中略)。このうれしくなるというのが、神さまからのプレゼント・贈り物として頂いたという理由です。おかあさん、おとうさんは心からよろこびうれしくなって自然と神さまにありがとうとお礼を言うんですね。 ところで、みんなは欲しいものがあったり、どこかに行きたくなっておかあさん、おとうさんにおねだりして、買ってもらったり、連れて行ってもらったりしたらうれしいですね。これはおかあさん、おとうさんがみんなのことを愛し、かわいがっているからみんなのよろこぶ顔を見たいからそうしてくださるんです。でもね、みんなが生まれるということは、お金で買えません。欲しいと思っても手に入らないこともあります。この欲しいと思ってもお金で買えないことが、みんなが生まれたのは神さまから頂いた、さずかったことなんだという二つ目の理由なんですよ。(後略)」 ところで今の私たち大人の世界では、子供を欲しかったり欲しくなかったりする場合、お金で何とかなる時代です。高度に医療が発達して、人間のいのちの始まりのところで、 本来さずかりものであるはずのいのちに医療が介入して(お金をかけて)人間(親)が子供を産むか産まないかを決めることが出来るのです。「出生前診断」を受けると、胎児の様子がわかり、「産むか産まないか」の判断材料が与えられます。ある統計によると、「出生前診断」を受けて、遺伝子異常、つまり障害のある子の生まれる可能性があると診断された人の94%が中絶したという報告があります。 私たちのいのちは、神さまによって造られたものです。しかも「神の像・みかたち」に似せて創造されたものです。神さまによって与えられたいのちに失敗作はありません。すべて等しく〝神の業が現れるため〟(ヨハ9・3)に創造されたのです。人間のいのちに「生きるに値するいのち」「生きるに値しないいのち」はありません。この生きるに値する、値しないいのち=「優生思想」的考え方で引き起こされた事件が相模原の事件でしたが、この事件は他人ごとではありません。「出生前診断」の問題と相模原の事件は通底するものがあるからです。私たちも、優生思想に侵されているのではないでしょうか。 今こそ、〝人間のいのちはさずかりもの〟という聖書の真理を12月のクリスマスみどりご誕生の折に深く黙想したいものだと思います。 (新潟聖パウロ教会牧師、三条聖母マリア教会管理牧師、長岡聖ルカ教会管理牧師)
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死刑執行に断固抗議します
2016年11月11日
内閣総理大臣 安倍 晋三 様
法務大臣 金田 勝年 様
死刑執行に断固抗議します
本日、福岡拘置所において田尻賢一さんに対して死刑が執行されました。極めて遺憾であり、死刑執行に断固として抗議します。
死刑制度の存置が犯罪抑止力にならないことは統計上からも明白であります。また、足利事件、志布志事件、東電OL殺人事件、そして記憶に新しい袴田事件など冤罪事件が続発しており、今もなお冤罪を訴え続けている死刑囚がおります。ひとたび死刑が執行されれば、取り返しがつきません。
国際的に、死刑制度は廃止される傾向にあり、世界で死刑を廃止または停止している国は140か国に上ります。OECD(経済協力開発機構)加盟国(34か国)の中で死刑制度を存置している国は、日本・韓国・アメリカの3か国のみですが、韓国とアメリカの19州は死刑を廃止または停止しており、死刑を国家として統一して執行しているのは日本だけです。
金田法相は8月の就任会見で、「人の命を絶つ極めて重大な刑罰。慎重な態度で臨む必要がある」と述べていたにもかかわらず、就任からわずか3か月後の執行は、政権交代前の慎重な議論の積み重ねを顧みないものだと言えます。
わたしたちは現在、死刑の判決後キリスト教の信仰を受け入れ、受洗した死刑囚と共に信仰生活を送っております。また、これまでに、自分の犯した罪に真摯に向き合い、「生きて罪を償いたい」と贖罪の日々を送っていた5名の同宗の友を、死刑の執行によって奪われました。わたしたちの、死刑制度廃止を求める願いには切なるものがあります。
わたしたちは、神より与えられたすべての人の生命と尊厳、そして人権を守るキリスト教信仰にたって、一日も早い死刑制度の廃止を訴えます。金田法務大臣には、是非とも多くの死刑制度廃止を訴えるわたしたち国民の声に耳を傾け、内閣及び国会の場において、死刑制度廃止に向け努力されますように、また、その法改正がなされるまで、決して死刑の執行をしないよう強く要請いたします。
以上
宗教法人日本聖公会中部教区 宣教局社会宣教部
日本聖公会の新しい歩み
9月下旬、主教会が開催され、「堅信前の陪餐」を実施するための「主教会牧会書簡」と「『堅信前の陪餐』に関わる一般原則」(ガイドライン)について話し合い、ほぼ内容を確定しました。この「ともしび」が発行される頃には、各教会に送られていることと思います。
「堅信前の陪餐」は2017年1月1日から実施されます。ただし、洗礼を受けていれば(受ければ)、即、その日から無条件で陪餐できるのかと言いましたらそうではありません。イエス・キリストの体と血である大事な聖餐をいただくわけですから、必要な準備を経てからになります。
◎「洗礼・堅信・陪餐」の準備を終えて洗礼を受けた人の場合、堅信がなくても陪餐できるのか。その場合、堅信はどうするのか。◎嬰児や幼児、小児の受洗者の場合の陪餐についてはどうなのか。◎子どもの陪餐の準備や手続き、陪餐方法はどうするのか。◎他教派から転入した人の場合はどうなるのか。◎洗礼を受けただけで長く教会から離れていた人の陪餐はどうなるのか。そんなことが主な内容になっています。
各教会で信徒と教役者がこの「主教会牧会書簡」と「『堅信前の陪餐』に関わる一般原則」を十分に学んで実施へと向かって行くことになります。教役者協議会でも内容を十分に理解しなければなりません。「堅信前の陪餐」が実施されることにより日本聖公会が聖餐を中心にした宣教の共同体としてより豊かにされることを願います。
〝教会の5要素・宣教の5指標〟
このたび管区事務所より「教会の5要素・宣教の5指標」のカードが送られてきました。皆様も既にお持ちのことと思います。まだの方はどうぞお持ちになり、祈祷書等に挟むなどして、たびたび取り出して見ていただきたいと思います。
「教会の5要素」は去る2012年に開かれた日本聖公会宣教協議会で確認された、それ以降10年間の日本聖公会の宣教の指針となるものです。わたしたち日本聖公会の各教区・教会はこれらの要素を踏まえながら、それぞれの宣教方策を考え、実行しているところです。また、「宣教の5指標」は1998年のランべス会議に基づき全世界の聖公会が宣教の目標に特定しているものです。
教会が少し元気を失いつつある現在、もう一度宣教の原点に戻り、これらの要素・指標を確認しつつ、教区・各教会の宣教を推進してまいりましょう。皆さん一人一人がこの「要素・指標」をいつも意識しながら―祈りながら―信仰生活を送ることにより、具体的な方向が必ず与えられると信じます。
先のリオ・オリンピックでは男子400mリレーで日本は銀メダルを取りました。4人のリレーメンバーには世界トップクラスのランナーは誰もいませんでした。にもかかわらずバトンパスの見事な連携でアメリカをも凌ぎ銀メダルに輝いたのです。
わたしたちはスーパースターである必要はありません。自分たちの身の丈に合った「み言葉(ケリュグマ)・奉仕(ディアコニア) ・証し(マルトゥリア)・礼拝(レイトゥルギア)・交わり(コイノニア)」を実践すればいいのです。信仰生活のちょっとした工夫や視点を変えることによってより良い宣教方策が見えてくるのではないでしょうか。10月の研修会ではいろいろな意見を出し合いましょう。
祈祷書の改正について
6月の日本聖公会総会において祈祷書改正委員会の設置が決議され、いよいよ祈祷書の改正が始まります。現行祈祷書が改正されたのが1991年6月ですから25年が経過したことになります。ついこの間改正されたと思っていましたら、もう四半世紀が過ぎたことになります。
祈祷書はわたしたちの信仰生活の導き手であり、わたしたちの信仰生活に直結するものです。それだけ大切なものです。聖公会の教会はその初めから祈祷書による信仰生活を守ってきました。祈祷書にはわたしたちの生涯における信仰生活に必要な事柄がほとんど含まれています。洗礼、堅信、聖餐式、朝夕の礼拝、昼の祈り、就寝前の祈り、聖婚式、誕生感謝の祈り、葬送式、嘆願、個人懺悔、聖職按手式、礼拝堂聖別式、牧師任命式、諸祈祷…等々です。
祈祷書による祈り(成文祈祷)は時として自由祈祷を妨げるという批判もありますが、様々な人々が様々な思いを持ちつつも、心を一つにして祈りを捧げることができるのはやはり祈祷書があるからなのです。祈祷書が改正されることによりわたしたちの信仰生活がより豊かにされ、今の時代にふさわしい在り方で神様を賛美し、イエス・キリストを証していくことができるよう願うものです。
ところで、祈祷書改正に関して皆様にお伝えしたいことがあります。それは、現在、東京教区に出向中の市原信太郎司祭がこの度、祈祷書改正の実務担当者(専従者)に就任されたことです。東京教区の牧会にも関わりつつ祈祷書改正の実務に専念されることになります。市原司祭の知識と経験を大いに生かして祈祷書改正の働きに携わっていただきたいと思います。わたしたちも祈りをもって市原司祭の働きを支えていきましょう。
毎日新聞に軽井沢ショー祭開催の記事掲載
8月2日付けの毎日新聞(地方版)に、軽井沢ショー祭が開催された記事が掲載されました。
「ショー(司祭)が家族と軽井沢を夏の生活の場としてから130年。先人の清廉でシンプルな思いが継承できますように」と土井宏純司祭が挨拶されたことも紙面にかかれています。
洗礼による陪餐
6月、日本聖公会総会が開かれ、祈祷書の一部改正が可決されました。これにより、堅信前の陪餐が可能になります。施行は2017年1月1日の予定です。施行までに主教会教書や具体的なガイドラインが準備されます。
この決議により、堅信を受けなくても洗礼による陪餐が可能になります。これは、堅信は必要なく洗礼を受ければ陪餐できるという単純なことではありません。今回の決議は救いにおける洗礼の重要性(十全性)を再確認するものでもあります。わたしたちは洗礼によってキリストと共に死に、キリストの新しい命に生き、キリスと一体とされます。ですから、キリストの命に生きる者がキリストの聖餐をいただくことは極めて当然のことなのです。その点をしっかり認識しなければなりません。
では堅信は必要ないのでしょうか。全くそうではありません。洗礼を受けキリストの聖餐にあずかった者は堅信の恵みにもあずかり、聖霊によって強められ、キリスト者としてこの世界に派遣されて行くのです。堅信は陪餐の前提ではありませんが、わたしたちがキリスト者としてこの世界で福音宣教の務を担っていくために必要な恵みの式なのです。ですから、可能な限り洗礼と堅信と陪餐が同時に行われることが望ましいのです。
また、堅信前の陪餐のためには準備も必要になります。イエス様の体と血をいただくのですから相当の準備と自覚を持って聖餐にあずからなくてはなりません。必ずしも「洗礼即陪餐」ということではないのです。子供の場合には初陪餐の年齢の目安も必要になります。また、洗礼は受けたが堅信はまだの成人の信徒も十分な準備ののち陪餐ということになるでしょう。そのような課題への対応を明確にしつつ施行へと進んで行くことになります。