「聖徒の交わり」

先日、長野伝道区合同礼拝が軽井沢でありました。それに先立ち、長野聖救主教会が中心となって、ウォーラー司祭夫人リディアさんと息子さんのジャスティンさんの墓参の祈りが軽井沢外国人墓地で行われました。リディア夫人はウォーラー司祭と共に1890 (明治23) 年に来日し、以来、1938(昭和13)年肺炎のため73歳で逝去されるまでウォーラー司祭と共に教会のためにご奉仕されました。

ウォーラー司祭は夫人の死去に際して、「愛する妻が、突然肺炎のために、召を受けましたことは、私にとつて云ひ難き悲痛であります。」と言い、しかし、「彼女は、今や愛する者らの住む国の一人に加へられましたが、私共が神の祭壇の前に跪き、愛し奉る主が…私共の為に献げ給ふた恵みの犠牲なる聖餐を戴いて、聖徒の交りを実行する時、彼等は常に私と一致するのです。」と言っておられます。ウォーラー司祭は聖餐によって愛する夫人や息子さんたちと常に聖徒の交わりにあることを確信しておられたのです。

ウォーラー司祭は1945年、カナダで逝去されますが、ハミルトン主教はその追悼記事の中で、「彼は目に見える、そして、目に見えない『聖徒の交わり』を固く信じていた。」と書いておられます。この記事からもウォーラー司祭が聖徒の交わりに生きる人であったことが良く分かります。

外国人墓地の片隅には、中部教区最初のカナダ人宣教師であったJ・C・ロビンソン司祭関係のお墓(多分お孫さんたちか?)もあるのですが、実は、ロビンソン司祭の玄孫にあたる方が合同礼拝に参加されました。上田市丸子に在住とのこと。土井司祭から聞いてはいたのですが、不思議な交わりを感ぜずにはおられませんでした。

〈「 」内は長野聖救主教会刊「ウォーラー司祭~その生涯と家庭」より〉

「教区成立100年を迎えるに当たって」

9月号から毎号継続して、「中部教区成立100周年記念事業実行委員会」の報告が掲載されることになっています。改めて申し上げるまでもなく、来年、中部教区は教区成立100周年を迎えます。中部教区へのカナダ聖公会最初の宣教は1888(明治21)年に開始されましたが、それから24年後の1912(大正元)年にハミルトン司祭が中部教区(地方部)最初の主教として聖別され、中部教区が成立しました。

実行委員会では来年の100周年に向けて準備を進めています。”ともしび”を通して皆様に逐一進行状況をお伝えし、また、ご協力をお願いいたしますが、どうか、教区の皆様全員が教区100周年をお覚えいただきたいと切に願っております。

と言いますのも、わたしは中部教区が成立100周年を記念するということはわたしたちの責任でもあると考えているからです。それは100年経ったからお祝いしましょうということではなく、宣教開始から教区成立を経て今日まで与えられてきたカナダ聖公会からの有形無形にわたる多くの恵みに感謝し、そのお返しをしなければならないと考えるからです。(もちろん、カナダ聖公会が1970年、中部教区への援助を打ち切ってからは、わたしたちがこの教区を支えて来ていることも踏まえてですが。) そのお返しとはカナダ聖公会に何かを返すということではなく、カナダ聖公会から継承した信仰を次の100年、200年に向かって引き渡していくことなのです。それがわたしたちに課された責任なのです。来るべき100周年を神様からのチャンスと捉え、わたしたち自身の信仰の在り方、教区の宣教の在り方をしっかり見直していきたいと願うのです。

「夏の暑さと原発事故」

かつて、植松従爾主教は、「名古屋の暑さよ主を祝い、世々歌いあがめまつれ」と教区報に書いておられます。しかし、名古屋のような暑さでは「夏の暑さよ主を祝い」と言う前に冷房のスイッチに手が行ってしまうのですが、今年の夏は本当に夏の暑さの中で主をほめたたえなければならなくなりました。福島第一原発事故や原発の安全点検のために多くの原発が止まってしまい、必要な電力供給ができないため節電を強いられているからです。

改めて、わたしたちの生活が原発に依存していたことに気付かされました。それにしても、わたし自身原発に対していかに無知であったのか、”原発は事故があったら恐ろしい”程度の認識しかなかったことを恥じなければなりません。事故から5ヶ月が経とうとしているのにいまだに先が見えません。

残念ながら今回の事故で、一度原発事故が起こったらどうなるのかということが明白になりました。人間の命や生活の、ほとんどすべてにわたって影響が及ぶのです。しかも長期間にわたって。日本には現在54基の原発があります。すべてが海岸沿いにあります。再び大きな地震や津波が来たらどうなるのか。中部電力浜岡原発は津波防止のために高さ18メートルの防波堤を何キロにもわたって作るという計画を立てているそうです。18メートルの防波堤が何キロにもわたっている姿をどう想像したらいいのでしょうか。

わたしたちの生活はこれでいいのか。本当に見直す時が来ているのではないか。快適さを求めるあまり生命や生活を代償にしてしまってはいないか。短絡的に原発廃止とは言いませんが、しかし、基本的にわたしたちの生活は”脱原発”に向かわざるを得ないのではないでしょうか。

「テレビ『JIN~仁~』を観て」

少し前の日曜日の夜、「仁(じん)」というテレビ番組を観ました。「南方仁(みなかたじん)」という若い医師がタイムスリップして現代から幕末時代に行くという物語です。たまたま観ていたのですが、ある場面で主役の「仁」先生が、「神は乗り越えられる試練しか与えない。」と言うところがありました。あれ、聖書にそんな言葉がなかったかなと思いましたら、コリント一の10章に、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、…」という個所がありました。坂本龍馬も登場しますが、龍馬が暗殺され、落胆している主人公に、「わしゃ、先生と共にいつまでもおるぜよ。」と龍馬が語りかける場面もありました。イエス様が弟子たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われたお言葉と何となく似ているように思いました。

作者は聖書を読んでいるのだろうか、それともクリスチャンなのかなと思い、それから最終回までの数回を観てしまいました。全くのフィクションですが、ひょっとしたらこんなことがありうるのかなと思わせるような面白さがありました。原作は漫画なのですが、原作者がこんなことを言っています。「漫画はフィクションですからウソをつくんですけど、ウソをつく上で、本当のことで調べられることはできるだけ調べてからウソをつきたいですね。よりリアリティを出してウソを本当のように描いて読者を驚かせたいんです。」面白い背景にはそういう努力があるのだと知らされました。

同時に、わたしたちは福音を本当にリアリティをもって語っているのか、また、福音の持つリアリティの中で信仰生活をしているのか考えさせられました。

「新たな創造に向かって」

東日本大震災から3カ月が過ぎましたが、まだまだ大きな爪痕が残ったままです。原発問題はあとからあとから隠された事実が明るみに出てきており、一体全体どのような終結に向かうのか全く不透明です。そんな中、管区の震災被災者支援プロジェクトが本格化して来ました。名称が「『いっしょに歩こう!プロジェクト』~日本聖公会東日本大震災被災者支援」と決まりました。このプロジェクトは単なる震災復興支援計画ではなく、支援も含め、日本聖公会としての宣教の新しい創造を目指す活動となるはずです。

思い返してみますと、1891年の濃尾大地震のあと様々な新しい働きが開始されました。被災した人々のため、名古屋にはロビンソン司祭によって幼老院が造られました。また、柳城短大・幼稚園も濃尾地震がきっかけとなって始められたと言ってもいいでしょう。岐阜では岐阜訓盲院(現在の岐阜アソシアと県立岐阜盲学校の前身)も地震のあとに始められたものです。石井十次が日本で最初の孤児院を作ったのも濃尾震災のあとでした。このように大きな災害が起こったあと、そこから新しい働きが必ず生まれてくるのです。災害は災害で終わるのではなく、そこから再創造が始まることを覚えたいと思います。

去る5月25日、退職聖職の林宏三郎司祭が心筋梗塞のため逝去されました。林司祭は直江津聖上智教会を定年退職の後も上田、小布施の教会を助けてくださり、最後まで司祭としての生涯を全うされました。わたしは林司祭の後任として高田降臨教会に赴任したこともあり、いろいろと教えていただきました。先輩聖職が神様に召されていくということは寂しいことです。林司祭の魂の平安をお祈りいたします。

「ウォーラー司祭と東北教区」

去る4月7日、東日本大震災の救援物資を運んで仙台を訪れた時、東北教区のレクイエムに参加させていただく機会がありました。教役者の名前が読み上げられましたが、その中に中部教区にゆかりの深い司祭の名前がありました。J・G・ウォーラー司祭です。ウォーラー司祭が東北教区の福島で働いておられたことはうっすらと記憶していたのですが、東北教区のレクイエムで名前が覚えられていることを改めて知り、嬉しく思いました。来日したウォーラー司祭の最初の任地は福島だったのです。東北教区最初の聖公会宣教師でもありました。
そのウォーラー司祭が長野に来ることになったのは当時の地方部制の変更によるものでした。それまではイギリス聖公会SPGが東北地方の宣教を行っていましたが、アメリカ聖公会がそれを行うようになったのです。カナダ聖公会のウォーラー司祭はSPG系ですので、それを機に福島を去り長野に宣教の場を移しました。福島での伝道は2年足らずでした。長野でのウォーラー司祭の働きは改めてわたしが述べるまでもありません。神様のなさることは大変不思議です。
歴史に”もし”はないと言われますが、もし、ウォーラー司祭がそのまま福島で働いておられたら東北教区はどうなっていたのか、中部教区は、特に長野はどうなっていたのか。わたしは今回仙台を訪問させていただき、東北教区と中部教区との関係というものを改めて考えさせられたような気がしました。一見何のつながりもない教区同士に見えますが、このようにつながっているのです。今回の震災でわたしたちが東北教区を支援するということは、そのようなつながりの延長線上にあるとも言えるのではないでしょうか。

「ひと月のあいだに」

「ともしび」前号の原稿を書いてからひと月が経ちました。その短い間にわたしたちが想像すらしなかった大惨事が起こりました。東日本大震災です。一万人以上の尊い命が奪われました。未だに二万人近くの方々の生死が不明です(4月4日現在)。多くの方々が悲しみの中に置かれています。こういう出来事をどのように理解すべきなのか。ある人は「天罰」という表現をしましたが、もちろんそうではありません。神様は「その独り子をお与えになったほどに、世を愛」しておられます。「み子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことを願っておられます。この世界は神様が創造されたとわたしたちは信じますが、自然の営みはわたしたち人間の想像をはるかに超えているということも知らなければならないでしょう。この世界にはまだまだわたしたちが知り得ないことが沢山あるのです。ですから自然に対する備えもしなければならないのです。
悲しみの中にも復興が始まっています。人間の優しさや思いやりや回復力が復興を支えています。その姿こそ神に似せて造られた人間の姿と言えるでしょう。わたしたちもできるだけの支援をしていきたいと思います。パウロは、「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」(二コリ8・12)と言っています。わたしたちの持てるもので進んで支援をしていきましょう。
前号の最後に高澤登司祭のためにお祈りくださいとお願いしました。高澤司祭は3月27日逝去されました。わたしの名親でもありました。少しユニークな司祭ではありましたが、いなくなってしまいますと寂しい思いです。魂の平安をお祈りください。

「人事異動の大変さ」

4月1日付けで人事異動が行われました。4名の司祭が異動し、1人の聖職候補生が新しい任務につきました。それぞれ聖霊の導きのもと、新しい働きに邁進されますよう心より願っています。異動は教役者にとりましても教会にとりましても大変さが伴います。それまでの慣れ親しんだ関係や環境から全く新しいそれへと入って行かなければならないわけですから、それなりの体力と気力が求められます。異動を8回経験した者の実感でもあります。

しかし、実は、その大変さは教会が成長するためのステップでもあることをご理解いただきたいと思っています。見方によっては何もかも一からのスタートと言えないこともありません。また、教役者、信徒双方にとって新たに関係を作っていくということは時間の浪費のようにも思えることもあるでしょう。礼拝のやり方や教会の運営方法がどこへ行っても同じようにできれば、時間はかからないかもしれません。しかし、異動に伴う新たな教会形成は決して時間の浪費ではありません。教会にとって必要な時間なのです。その教会が更なる高みへと成長していくためのステップなのです。そこで消費される体力と気力は、必ず教会の成長へとつながっていくものなのです。むしろ、その大変さを省略してしまうことのほうが恐ろしい結果を招くのです。

信徒と教役者がお互いに理解し合い、信頼し合う関係作りは、おのずと教会が力強く宣教へと向かって行くための原動力となっていきます。ですから異動に伴う大変さを大変さと思わず、むしろ必要なこととして積極的に受け止めていただければ幸いに思います。

高澤登司祭が2月下旬から新生病院に入院中です。皆様のお祈りの内にお覚えください。

「中部教区百年への準備の年…2011年」

教区の皆様は既にご承知のことと思いますが、中部教区は2012年に教区成立100周年を迎えます。1912年(大正元年)10月18日に、中部教区初代主教であるH・J・ハミルトン主教が中部地方部の主教に按手されてから100年になります。

来年の10月8日には記念礼拝を計画し、前日には記念行事も予定されています。「教区成立100周年記念事業実行委員会」(長・土井宏純司祭)も既に立ちあげられ、活動が始まっています。まだ教区全体としての盛り上がりには欠けるところがありますが、これから順次気運を盛り上げていきたいと思っております。カナダ聖公会からは首座主教のヒルツ大主教にもおいでいただくことになっています。

100周年を行う意味は何でしょうか。100周年などというお祭りは意味がないと思われる方もおられることでしょう。わたしも、単なるお祭りに終わるのなら全く意味のないことだと思います。しかし、わたしはこの100年は中部教区の次の100年につなげていく大事な年だと認識しています。今あるわたしたちの信仰と教会は、いわばカナダ聖公会からいただいたものです。次の100年には、いただいたものを引き渡していくのではなく、わたしたち自身の信仰を引き渡していかなければなりません。そのためには一人ひとりが信仰と宣教の担い手として、各自の信仰を更に豊かで生き生きとしたものにしていく必要があります。そういう意味でこの100周年を逃してはならないのです。今後様々な形で皆様には100年の情報をお届けし、お願いもさせていただくと思いますが、お一人おひとりが教区100年の担い手としてそれらを受けとめていただきたいと願っています。

『ヨセフの決断…「正しさ」から「み言葉」へ』

主イエス様のご降誕おめでとうございます。

クリスマスには世界中の多くの人たちが「メリー・クリスマス」と挨拶を交わします。しかし、聖書を見ますと、イエス様の誕生はヨセフとマリアにとっては決しておめでたい、うれしいことではありませんでした。二人にとってイエス様の誕生はまさに青天のへきれきだったのです。

ヨセフはマリアと婚約していました。しかし、結婚する前にマリアが聖霊によって身ごもります。生まれてくるであろう子が自分の子ではないことはヨセフが一番よく分かっていました。マリアが他の男性と関係を持ったことは明らかでした。彼は「正しい人であったので」マリアとの婚約を解消しようとします。この場合「正しい人であったので」婚約を解消しようと思ったということには少し矛盾があります。なぜならば、ここで言う「正しい」とは彼が律法に忠実であるという意味だからであり、律法的な正しさから言えばマリアは姦淫の罪で石打ちの刑にならなければならないからです。ですから、彼が正しい人であることを貫こうとしますと、彼女の罪を白日のもとにさらけ出さなければならないのです。

しかし、ヨセフはマリアがそうなることには耐えられません。ですから、彼女のことを表ざたにしないで婚約を解消しようとします。それは彼の優しさでもありました。しかし、律法的にはそれは「正しい」ことではありません。ここに彼の「正しさ」は行き詰まり、挫折します。結局、律法の正しさは人間を生かさないということなのです。

しかし、彼が律法の正しさから挫折したことで神様の計画が実現に向かいます。人間の正しさは時として神様の計画を妨げることもあるのです。それまでヨセフはマリアへの疑いや、自分が律法に忠実になりきれなかったことで苦悩の中にいました。しかし、天使の言葉を聞き、夢から覚めると決然としてマリアを妻にするのでした。ヨセフは自分の正しさよりも神様のみ言葉に従うことを選んだのです。その決断がなければクリスマスはあり得ませんでした。神のみ言葉が彼の正しさを越えたのです。神様はいつもわたしたち人間の正しさを包み込み、ご自分のみ心の成就へと変えてくださるのです。しかも、律法の正しさによってではイエス様を神の子として信じることが難しいということも降誕物語はわたしたちに教えてくれます。ヨセフは天使が伝えた神のみ言葉に従ってマリアを受け入れ、イエス様を受け入れました。

神様は時として人間に厳しさを強いることがあります。クリスマスの出来事は特にそうです。若いカップルには耐えられないほどの試練でした。しかし、ヨセフもマリアもみ言葉を受け入れることによってその試練を乗り越え、他の誰もが与えられなかった大きな恵みが与えられました。わたしたちは聖書のみ言葉を自分の都合に合わせて聴こうとしたり、自分の都合に合わせて解釈しようとしたりしがちです。しかし、わたしたちはみ言葉に”聴く”者です。み言葉をわたしたちに合わせるのではありません。わたしたちがみ言葉に聴き従う時、神様の大きな恵みと祝福にあずかることができることをクリスマスの物語はわたしたちに明確に語っています。

主教 ペテロ 渋澤 一郎