新潟聖パウロ教会 平日の集い

 新潟は雪と強風、曇りの日々が続いていますが、時々見える青い空は美しく、早く春が来るといいなと思います。新潟は新緑が美しく過ごしやすいからですが、その時期の爽やかな気持ちを覚えているから、この冬の大変な時期も我慢できる?と思うくらいです。
 2年前のイースターは新型コロナウイルスの影響により集まることができず、去年は祝会ができなくても共に集まり礼拝ができるだけでも、とても嬉しかったことを覚えています。今年のイースターはいかがでしょうか。
 最近、大きい変化の一つは今までの蓄える生活から減らす生活に変えたことです。施設や病院へ行けなくなり信徒訪問も自粛、オンラインの会議が多い中、家で過ごすことが多くなりました。今まで買い集めた本は本棚いっぱいでいつも整理ができず、溢れていました。読まない本を捨て、読んでいる本は手の届くところに、読みたい本は目立つところに整理しながら、食器も衣服も片づけています。自然に本を読み、勉強する時間も増えています。そして、手料理と運動でシンプルな生活を心がけています。食事会や飲み会、愛餐会やお茶会もなく、孤立感がある中、最近私の心の支えになっているグループをご紹介します。
 新潟聖パウロ教会は幸い毎週礼拝が続いており、最近は毎月第4水曜日に平日の集いが行われています。カトリックより転入した信徒の聖公会への受け入れ式(2021年2月)の為、準備会を行ったのですが、以前より洗礼堅信の準備会は教父母になる方々と一緒に集まり聖書を読み、祈り、交わることを大切にしてきたことから、去年は大斎節中に毎週集まりました。その後は月1回集まっていて今も続いています。
 まず、お祈りして聖書を読み、近況報告をします。マルコによる福音書を読み、今はヨハネによる福音書を読んでいます。聖書の背景を説明したり、「私はこの物語の中のどこにいるのか」と黙想したり、今ここでどのように読めて私とどんな関係があるのかを考えてみたり、普段礼拝を通して結ばれている私たちはそれぞれの経験を分かち合い、豊かな時となっています。
 お互いを覚えてお祈りをする時も、具体的なお祈りができ、その方々が覚えてお祈りすることも共有して一緒にお祈りし、私たちがひとりでないこと、いつも主イエス・キリストが私たちと共にいるように、お祈りの信仰の友がいつも近くにいることを実感できる「主が与えてくださる平安」をも味わっています。
 参加する多くの信徒さんたちは、私より人生の先輩で、
全員女性です。一人暮らし、家族の介護の後、死によるお別れを経験している方、年齢と共に少しずつ弱くなっている中で、聖書を読み、「私はだれか」、「どのように生きるか」、「どのように死ぬか」。今、ここで、何が大切なのかを分かち合いながら過ごしているのです。
 最近は新型コロナウイルスによりオンラインの集まりが増えているのですが、他の教会の方々はどのように聖書を読み、お祈りし、交わることができているのでしょうか。
 ご希望の方々はオンライン環境があれば、一緒に聖書を読み、お祈りができるのでいかがでしょうか。聖書を読み、お祈りしたい、一緒に安心して交わりたい方々をお待ちしています。

司祭 フィデス 金善姫
(新潟聖パウロ教会牧師・直江津聖上智教会管理牧師)

「輝いて欲しい」と祈りましょう

 こども園には運動会、展示会、発表会などの催しが多いです。そういう時になると、子どもたちは親に見てもらう(声掛けに丁寧で慎重に応えてもらう)ことで大きな喜びと成就感を味わいます。そしてその応えを通して子どもも成長していくのだと思います。私はそういう時に子どもたちから輝きを感じ取ります。
 昨年のこども園のクリスマス礼拝の練習の際に年長の子どもたちから聞いた言葉で驚いたことがあります。先生から「クリスマス礼拝のお歌は大きな声で歌いたい?」と子どもたちに聞いたら、子どもたちの口から「綺麗な声で、優しい気持ちで礼拝したい」という答えが出てきたことでした。聞いた瞬間鳥肌が立ち、子どもが言ったとは信じられないほど感動しました。子どもたちも礼拝は他の催しとは違って何かがあるということに気付いていた訳で、その時私は子どもたちから輝きを感じさせて頂きました。
 コロナの拡散以降3年間、私は韓国へ一度も帰れなくなっていました。たまに電話でもすると耳も遠くなった母親は恋しい息子の声で泣いたりします。母の声を聴くことは嬉しいけれど泣き声には、こうやって日本に来ている自分が恨めしくなってしまいます。
 そう言っても、コロナ拡散以前も、韓国の親のところには年1~2回ほどしか行っていませんでした。しかも、実家に行っても、親のそばで長く時間を一緒に過ごすことは出来ませんでしたが、受話器の向こうから母の涙を呑む様子が感じられたり、泣き声が漏れて小さく聞こえたりするといろいろなことを考えさせられるようになります。そして母は電話を切る頃になると、最後にはいつも忘れず「電話してくれて、声を聴かせてくれてありがとう」と言ってくれます。
 かつて、韓国の教会に居た時、私は主に一人暮らしのお年寄りの方をよく訪問していました。その中に、息子が司祭で海外に出ているため、なかなか母の所に戻れない宣教師のケースがありました。そのお婆さんは何も言わないのに、そのお家を訪れる近隣のいろいろな方々は海外に行っている息子の悪口を言っていました。まるで同じ司祭である私に聴かせるように繰り返して言っていたことが思い浮かびます。「自分の親の面倒もみれないくせに宣教?」のような皮肉だったのかもと思います。海外宣教師の活動ってとても意味深いものであるけれど、当時は私も、一人暮らしの自分の母親をほったらかしている息子は理解できませんでした。しかも息子への近隣の方々のいろいろな悪口を、残った一人の母親が全部飲み込むように黙っているとは何ごとかと思っていました。しかし、こうして今考えてみるとそれは私自身のことだった訳であります。
 韓国を離れてこの地に着いた20年前からの私の課題の一つであり、すぐ解決できる問題ではありませんが、私はまたこうして新しい年を迎えてしまいました。少なくとも昨年よりは、私が関わるすべてのところに、より丁寧で慎重に声をかけて応えたいと思います。「私の魂よ、輝いて欲しい」と自分に声をかけながら、祈りたいと思います。そして皆さんも、殊に自分の親を含めてお年を召したすべての方々にも、常に共に輝いて(喜び溢れて)欲しいと願っています。

司祭 イグナシオ 丁胤植
(三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会牧師)

命 が け で

 岡谷聖バルナバ教会の創立に深く貢献されたホリス・ハミルトン・コーリ司祭は、カナダ・ケベック州の出身で、来日前はカナダ北東部のラブラドール地方で働いておられました。この地域は、北極圏に近い気候の厳しい地域で、コーリ司祭は犬ぞりなども利用しながら、厳しい条件の中、広い地域を巡回していました。コーリ司祭は、手紙で主教に近況を報告しており、その内容が掲載されたケベック教区の古い教区報により、働きの具体的な状況を知ることができます。
 来日直前の1919年4月には、例年より半月ほど早く春が到来したため、そりでの移動ができず脱出の見込みが立たないこと、1月下旬に家を出てから家族とずっと離れていることなど、厳しい宣教師の生活がうかがえます。このような所から、新たな困難の伴う日本宣教のために一家で来日されたのでした。
 来日後、コーリ司祭一家はまず岐阜、続いて名古屋に住みますが、あまりの気候の変化に耐えられず、上の子が重い病に冒されました。一時は危篤状態にもなりましたが、幸い一命を取り留めたものの脳に重い障害が残りました。同じ時期に下の子も病気にかかっていましたが、上の子の看病に気を取られて気づくことができず、7歳の若さで亡くなります。コーリ司祭が高田や松本を経て岡谷に赴任されたのは、ひとつには上の子の転地療養という意味合いもありました。そのような犠牲を払いつつ、岡谷の教会を築いていかれたのでした。
 コーリ司祭の妻コンスタンスは、同僚のスペンサー司祭の妹にあたりますが、スペンサー家は海外宣教に身を献げるという家訓を持ち、姉フローレンスも宣教師として来日し、一家の3人が共に中部教区で働いていました。スペンサー司祭は、1941年の外国人宣教師一斉帰国の年まで日本に留まり、27年間働かれましたが、健康を害しており、帰国の翌年に55歳で逝去されました。
 岡谷の教会、そして中部教区は、このように文字通り命がけの宣教師の働きによって建てられたという歴史を改めて思い起こしたいと思います。そして、昨年来のコロナ禍にあってのわたしたちの営みを、将来の人々は歴史としてどう読むことになるだろうか、という疑問も抱くのです。
 前例のない事態の中、手探りで一生懸命やってきたつもりではいますが、これらの宣教師の方々の働きを思うとき、それが十分であったとはとても思えませんし、真剣さ・勤勉さに欠けていたところが多くあることも、恥ずかしながら認めざるを得ません。
 礼拝を休止せざるを得なかった時、東京からの旅行ができずネットを通じて礼拝司式や説教をしていた時、聖餐式を行いながらも分餐ができない時、率直に言ってそこにはある種の空しさがあり、孤独感をも感じました。教会の状況が徐々に元に戻りつつある今、改めて失っていたものの大きさを感じています。
 逆説的ですが、この1年半、教会はこの空しさや孤独感をお献げしてきたのかも知れないと思えるのです。そこに、今の時代における私たちの「命がけ」があるのかも知れません。この辛さを包み隠すことなく、皆で分かち合いたいと思います。


司祭 ダビデ 市原信太郎
(岡谷聖バルナバ教会管理牧師〈東京教区出向〉)

性別の問い合わせは人権侵害です

 今年(2021年)4月18日、厚生労働省が履歴書の性別欄に男女の選択肢を設けないこと、またその記載を任意とする「様式例」を発表しました。
 これは性別などによる就職差別につながっていて、以前から問題視されていたことですが、やっと任意の記入であるというレベルにたどり着いたことの現れです。
 世界的には性別はもちろん、民族や年齢、容姿等での差別を防止するために、問い合わせること自体が人権侵害であり、違法行為であることが一般的な認識です。
 任意であると断れば性別欄を残しても問題がないというのは、今年3月に発表された「The Global Gender Gap Report 2021」でも、男女格差を測るジェンダーギャップ指数が、先進国中最低レベルの120位であった、いかにも日本らしい認識です。しかし、問い合わせをすること自体が人権侵害ですから、性別欄自体を無くすべきであったことはいうまでもありません。任意であると断りがあっても、性別欄自体が残っていては差別問題は解決しないことは明らかです。
 すでに従来の性別欄に「男・女」と書かれていて、いずれかに丸をする形の「JIS規格の様式例」は、2020年7月に削除されています。このように「男・女」の形での性別の問い合わせ自体が問題であるという認識は、少しずつですが拡がってきているのですが、問い合わせ自体が問題であるという認識を一般化させるためにも、今回の「様式例」で性別欄自体を無くすべきでした。残された「任意の性別欄」が引き続き、人権侵害を正当化するために使われないことを祈るばかりです。
 このように日本では、「差別しているという認識がなければ、差別ではない」というのが、一般的な認識なのかも知れません。しかし、そのような思いにわたしたちの人権意識の低さがよく現れています。
 以前から、聖公会の様々な申請書のフォームに、性別欄が設けられており、しかも「男・女」という性別二分法に基づいた問い合わせが圧倒的に多いことが、包括的な教会形成にそぐわないことを指摘して、選別欄について考えましょうと呼びかけてきました。しかし、統計報告でも男女別の記載などが無くなり、性別を問い合わせる必要自体が無くなっているにもかかわらず、いまだに礼拝出席簿は、男女別であったり、新しく来会された方への問い合わせフォームにまで性別欄があり、「男・女」いずれかにチェックをするような状態が一般的であることが、わたしたちの教会が「開かれた教会」でないことをよく表しています。
 何らかの行事の申請書のフォームで、性別を問い合わせるのは、宿泊を伴う場合の部屋割りや何らかの保険をかけるためのものでしょう。日本では、生命保険、疾病保険などの保険契約では、保険料や保障が女性と男性で異なっているのがいまだ現状ですが、レクリエーション保険などでは、性別の問い合わせは不要になっています。
 誰もが安心して居ることの出来る、開かれた、包括的な教会を目指す第一歩として、もうそろそろ性別の問い合わせをやめることを検討しては如何でしょうか?


司祭 アンブロージア 後藤香織

(名古屋聖マルコ教会・愛知聖ルカ教会 牧師)

祈り合う恵み

 長引くコロナ禍で自粛生活に疲れ果て、途方に暮れている方々も多いことでしょう。昨年来COVID-19という未知のウイルスに翻弄され、中部教区の各教会では国や自治体から発令される緊急事態宣言などを判断基準に、公開の礼拝や集会の休止と再開を繰り返しています。それが本当に正しい判断なのだろうかという思いと痛みを常に心に抱えつつも、それでも感染予防対策を徹底しながら、人数制限をしたり、聖歌はオルガンの音を聴くにとどめたり、オンライン配信を行うなど、何とか礼拝生活、信仰生活を保ってきました。残念ながらそのような不安定な状態が今後も年単位で続くことが予想され、意気消沈しそうになりますが、そこにも人知を超えた神さまのご意思と恵みがあることを信じて、希望を失わずに歩み続けたいと願っています。
 先日、同僚の司祭が聴覚に障がいのある方のために「礼拝のライブ配信に簡単な字幕だけでも入れることはできないものか…」と思い悩んでいる姿を見て、ハッとさせられました。社会同様、教会においてもインターネット環境の整備が必至となる中、その利便性と普及の必要性ばかりに気を取られ、様々な事情で対応困難な方々への配慮という最も大切にすべき姿勢が不十分であったことを痛感したからです。ライブ配信に参加したくても叶わずに諦めたり、礼拝が再開しても年齢や基礎疾患などを理由に自粛せざるを得ない方々が多くおられます。アフターコロナの宣教のためにもネット環境の充実は必要不可欠ですが、急激な変化に困惑している方々への丁寧な対応はより大切にしたいと改めて感じています。
 マルコによる福音書によると、主イエスはガリラヤでの宣教活動を終え、弟子たちを伴ってエルサレムへ向かわれましたが、日を重ねるうちに多くの群衆がその一行に加わりました。その旅の最終局、いよいよエルサレムを目前にしてエリコの町から力強く歩み出そうとされたとき、目の不自由なバルティマイの「わたしを憐れんでください」との心からの叫びに、人々の彼に対する厳しい叱責の中、主イエスはただ一人立ち止まり、癒しの業を行われたことが記されています(10章46節以下)。このように、主イエスは目的達成よりも一人の人間の存在を優先される方です。個の存在を大切にされ、とりわけ社会の中で小さく弱くされ、苦しみ嘆いている人々とともに歩もうとされました。
 最近色々な会議などに出席して思うのですが、未だ先行きが見通せないためにどうしてもネガティブな意見が支配的になりがちです。「フィジカル(ソーシャル)ディスタンス」の掛け声で人と人との距離が広がり、分断や格差が助長されているとの指摘もあります。しかし何もかもが不安なときだからこそ、私たちは互いに祈り合うという大きな恵みと力を神さまから与えられていることを忘れてはならないでしょう。しばらく直接会うことができていない一人ひとりの存在を想い合い、今まで以上に祈り合うことを通して、より深く豊かな共同体の形成へと促されます。そのために教会は、私たちは具体的に何ができるのかを問い続けていきたいと、自戒を込めて思うのです。

この十字架は重いけど…

福音書にはイエスに出会った多くの人々の事が記されています。その中で、イエスとの「ゆきずりの出会い」がキレネ人シモンに起こりました。イエスは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)と教えていました。キレネ人シモンはこの十字架を背負ってイエスに従った文字通り一番最初の人となってしまいました。しかし彼は自らすすんで負ったのでは決してなかったのです。
 シモンにとってイエスは何の関係もない人で、他の人と同様イエスという囚人を見物しに来ていただけにすぎないのに、丁度偶然にも自分の目の前でイエスがつまづき、倒れただけ。ローマ兵の怒声がこのシモンに向けられ、「おい、お前、この十字架を背負っていけ。」「おれは何と運の悪い男だろう。こともあろうに処刑される男の十字架を負わされるとは…」(想像)
 愛知県にも先日、三度目の「緊急事態宣言」が発出されました。私たちの日々の生活、人生は全てが順調に都合よく展開していくこともあれば、地球規模にまん延させたこの新型コロナウイルス感染症、そして感染力がより強く、重症化を引き起こす変異株はまさしく想像もしていなかった未曾有の事態を引き起こしています。年頭から宣言が解除されずに耐え続けている都市や人々もおられます。辛く苦しく、悔しく、我慢しなければならない毎日の生活です。苦しいことのその意味を考える余裕すら無いような不安と恐怖の内にあって、治療を受ける方々、治療も受けられずにいる方々、亡くなられた方々、悲しみと悔しい思いの家族や友人の方々、懸命に治療や介護にたずさわっている方々、感染の故に差別や偏見にさらされている方々、一刻も早く事態が終息し、克服への希望や喜びを見出すことができるよう祈る次第です。
 伝説によれば、後にシモンはイエスの70人の弟子のひとりに数えられ、自らすすんでイエスのために殉教したといわれています。彼にとってはいやいや負わされた十字架ではありますが、それ故にゴルゴタの丘のイエスの死の場面にふれ、そして復活のイエスとの出会いへと導かれ、知らずして負わされた十字架を今度は自らすすんで負う十字架へと、まさしく苦難を経て栄光への道を歩むことになりました。
 パウロも福音伝道の途上、迫害、投獄等の苦難に見舞われながらも、自分が願ったり望んだわけでもない事態、むしろ自分が望んだこととは全く正反対な事態に遭遇する度に、ますます神への感謝と讃美が彼に力をあたえていくことになりました。
 私たちはパウロが伝えたこの信仰を受け継いでいる者であるばかりか伝える者、証しする者とされました。パウロの抱いた確信が、私たちの確信でもあります。この難局の時こそ、克服と終息のため、世界中の全ての人々と国籍や信仰の違いを超えて、思いと力と祈りを合わせて参りましょう。
 私達ひとりひとりが神さまの恵みの内に生かされ、恵みの内に生きる者として強められますように、アーメン。


司祭 エリエゼル 中尾志朗

(一宮聖光教会 牧師)

2021年イースター・メッセージ

2021年4月4日
主教 アシジのフランシス 西原廉太

[以下動画の内容をテキストで掲載]

 主なる神さま、私たちがしばらくの間、主のご復活の意味について思いめぐらすことができますように強め導いてください。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン

 復活日、イースターは、古代の教会においてはクリスマスよりも重要な祝日でした。洗礼も、復活日の早朝もしくは前日深夜に行われる伝統がありました。洗礼とはその人が新たに主と出会うことによって、新たに生まれることを意味していましたので、洗礼が行われるのは復活日が最も相応しかったのであります。

 イエスさまが十字架につけられ息を引き取られた。死んでしまった。弟子たちにとってこれほどの衝撃はありませんでした。それは、究極の断絶であり、絶望でありました。弟子たちは、混乱の中、散り散りに逃げてしまいました。しかし、マグダラのマリア、サロメたち女性たちは、絶望の中にあっても、ずっとイエスさまのみもとに居続けたのであります。そして、女性たちは、イエスさまに香料を塗るために、イエスが葬られた墓に向かいます。十字架からおろされた時は、安息日が差し迫って香料を塗ることができないまま、大急ぎで埋葬されてしまったのです。油を塗ることは、女性たちにとってイエスさまのためにできる最後の奉仕、精一杯の業でありました。すると、驚くべきことに、墓の石は転がされ、墓は空であった。そこにはある若者がいて、こう告げます。

 「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」

 マルコによる福音書はここで終わります。マルコによる福音書は、4つある福音書の中でも最も古いものです。マタイによる福音書もルカによる福音書も、マルコをもとにしています。そのようなことから、マルコによる福音書は、「原福音」とも呼ばれています。この最古の福音には、実際に主がよみがえられてイエスとマリアや弟子たちが出会う記述はありません。この2000年の教会の歴史の中でも、「復活」そのものへの疑問がたびたび出されますがその根拠の一つが、原福音であるマルコには復活の記録がないことがあげられてきました。

 ここで、原始キリスト教会の最古の伝承について見てみたいと思います。それは、実はパウロの手紙であります、コリントの信徒への手紙一、15:3-5に隠されています。

最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの「罪」のために「死んだ」こと、「葬られた」こと、また、聖書に書いてあるとおり「三日目」に「復活した」こと、ケファに現れ、それから十二人に「現れた」ことです。

(聖書協会共同訳)

 「最も大切なこととして、パウロ自身も受けた」伝承です。それをパウロがコリントの人びとに伝えている記録です。これは「ケリュグマ」(「教え」という意味)と呼ばれるもので、イエスさまの復活についての教えです。このケリュグマが後に発展して、使徒信経やニケヤ信経になりました。このケリュグマが書かれたのは、紀元55年頃と言われていますので、その時点ですでに伝承されていたものですから、イエスの死後相当早い段階でこのケリュグマは形成され、伝承されていました。ギリシャ語原文を直訳しますと、これがはっきりとした韻文で書かれていることがわかります。

 このケリュグマは、「聖書に書いてあるとおり」で始まる2つの文章で構成されています。そして、「、」でそれぞれの文章は分かれます。それぞれの前半の「罪」と「三日目」が対応し、「死んだこと」と「復活したこと」が対応しています。この前半部は、神学的な表現であり、信仰告白の部分です。それに対して、後半で対応する「葬られたこと」「現われたこと」は、純粋に歴史的な出来事、事実起こったことの記録、伝承だと考えられるのです。すなわち、「葬られたこと」「現われたこと」を神学的に、信仰的に理解した結果が、前半部なのです。

 つまり、イエスさまは確かに「葬られた」。それは本日のマルコによる福音書も証言しているところです。そしてさらには、「現われた」と記録せざるを得ないような出来事が起こったのであろうと思うのであります。「現われた」というのは、歴史的な核を持つ歴史的事実なのだろうと言うことができます。確かにそうでなければ、キリスト教はこのように2000年も続き、また世界中に広まることはなかったのでしょう。間違いなく、イエスさまは、マリアたちに、弟子たちに何らかの形で「現われられた」のです。

 私は、以前、東京教区のある教会の主日礼拝をお手伝いしていたことがありました。その教会でNさんという女性の信徒さんと親しくさせていただいておりました。その後、Nさんはお病気のため86歳で主のもとに召されました。Nさんは熱心で、礼拝を欠かしたことがないような方でした。Nさんのお連れ合い、ご主人は40年前に亡くなられ、Nさんは独り身で、老人ホームで暮らされていました。

 私がその教会に伺いはじめてから2年ばかりが経った頃のことですが、Nさんは次第に認知症が進むようになり、教会にもお越しになれなくなりました。それから3年経った年の秋に、私は、Nさんが入っておられる老人ホームを訪問しました。Nさんは椅子にこしかけておられ、その姿は以前のままでしたが、私が声をかけても、表情はまったく動くことがなく、あの優しい笑顔はありませんでした。職員の方のお話によれば、Nさんはここ1年ほど、ほとんど声も出なくなってしまい、誰が訪ねてきても分からず、反応もなくなっているとのことでした。

 私は、Nさんの手をとって、お祈りをしました。すると、最初はまるで力のなかったNさんの手がぎゅっと私の手を握り返してこられたのです。

 そして、Nさんは、小さな声で、しかしはっきりとこう繰り返されたのです。

 「イエスさま、ケンジをお願いします。イエスさま、ケンジをお願いします。」

 そう繰り返されるのです。その時、Nさんはぼろぼろと涙を流されて、その涙がほほを伝っていきました。その場におられた職員の方々も非常に驚いておられました。

 それはほんの一瞬の出来事でした。私が、帰る時には、Nさんはもういつものように固い表情に戻り、一言も言葉を出されることはありませんでした。

 あの時、Nさんが声に出された「ケンジ」とはどなたなのかは謎のままでした。Nさんのご主人の名前ではありませんでしたし、職員の方も心当たりがないということでした。きっと、混濁されていたのだろうと思ったのです。

 Nさんのお葬式に参列した時に、Nさんを良く知る方から大切な話を伺うことができました。実は、Nさんには、一人息子さんがおられたのだけれども、Nさんが26歳の頃、その息子さんがまだ3歳の時に、原因不明の熱病にかかり天に召されてしまった、のだということ。そして、その息子さんのお名前は、「健二」君であったのでした。

 私は、今、きっとあの一瞬、Nさんは60年前に戻られていたのだと思うのです。60年前に、Nさんが本当に経験されたことをあの時に繰り返されたのだと思うのであります。60年前に、きっとNさんは、本当にイエスさまの手を握り締めながら、健二君のことを祈られていたに違いありません。2000年前のマリアや弟子たちが経験したように、イエスさまは、事実、Nさんの前に「現われられ」たのだと思うのであります。

 私たちも、私たちの前にイエスさまが事実現れられる時があるのでありましょう。その時が、いつなのかは分かりませんし、そしてまた、もうすでに現われておられるのかも知れません。エマオの途上でのクレオパたちのように、後から、それが主であったことに気づくのかも知れません。

 空の墓の前で、若者は、マリアたちにこう告げました。

 「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」 私たちにとって、主と出会う場所である「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか。みなさんにとって「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか。そんなことを、今日、この復活日に黙想できればと思います。

 一言お祈りします。

 主なる神さま。主イエス・キリストは弟子たちに現われられ、そして私たちにも現われてくださいます。どうか、私たち一人ひとりが、そのご復活の主と出会うガリラヤへと辿り着くことができますように、どうぞ強め、導いてください。

 この祈りを尊き主イエス・キリストのみ名を通してみ前におささげいたします。

 アーメン

また、来るね!

 教会の働きと共に保育園での働きがある。「おはよう!」「お父さん久し振りだね」「お母さんお迎えご苦労様」と子どもたちの登降園時の風景である。ご家族の方とこの他愛のない会話をするのが楽しみであり、時間を許す限り門に立つようにしている。そのなかで、降園時に少し遅れてお迎えに来るご家庭がある。大体10分くらいの時間ではあるが、その子は「園長先生とのお話タイム!」と言って、園庭のベンチに2人で座ってお喋りをするのがお決まりとなっている。何が好きなのか?というシリーズで、今日は動物、今日は食べ物、今日はテレビや漫画というように好きなものを挙げて、そこから話を広げていくのである。
 その子がある時、「何だかドキドキするよ」と言ったのである。それも、何日か続けて言うのである。そこで、「何でドキドキするの?」と聞いてみたら、「だって、お母さんがもうじき来るから」と答えてくれたのである。その時、あぁこう思うということはこの子は、どんなに遅くなってもお母さんは迎えに来てくれることを信じているんだな。一人でこうやって待っていても、迎えに来ることを信じているから笑って待っていられるのだろうな、って思うのである。携帯やスマートフォンを持っているのが当たり前のような世の中になった。待ち合わせとはいっても、時間も場所も何となく決めておけば会える時代となった。昔はそうはいかなかった。場所も時間も予め確かめ、それでも上手く待ち合わせが出来なかった場合には諦めるか、駅には備え付けの掲示板があった。掲示板の文章の内容も微笑ましいのが多かった。時間が経過すると消される旨も書いてあった。このように、待ち合わせ一つ取っても時代が大きく変わった。しかし、それは、待ち合わせのやり方が変わっただけで、会いたいという思いはいつの時代においても変わりはないだろう。
 教会の暦でも待つ季節がある。クリスマスはもちろんのこと、イースターもある意味イエス様が来られるのを待っている。そして、再びイエス様がこの世に来られるのを待ち続けている。私たちはどんな思いで待ち続けているだろうか。この子のように、ドキドキしながら待ち続けているだろうか、何となく待っていることはないかと省みる自分がいる。小学生のころ、家で留守番をしていたとき、親の帰りが遅いと何となく不安になり落ち着かなかった記憶がよみがえる。年齢を重ねると留守番で待つことがあっても、そのうちに帰ってくるから先に寝ていよう、朝にはいるだろうと思って、先に寝てしまったこともある。寝てしまうのは、不安から逃れるためでもあった。改めて、待つことの楽しさをこの子から教わった気がする。そして、会えることを信じるということも教わった。
 そして、この子は帰るときに、いつも「また、来るね」と言って手を振って、嬉しそうにお母さんと車へ乗り込む。明日の朝には、また保育園で会えることを信じて、「また、来てね」と言って手を振り返す。こちらも自然と笑顔である。イエス様に「また、来てね」という思いにいたる自分があり、ドキドキしながら待ち続ける自分でありたい。

司祭 フランシス 江夏一彰

(上田聖ミカエル及諸天使教会 牧師)

取り壊された礼拝堂

2019年の春、岐阜の教会で働き始めて事務所を整理していると、一つの茶封筒の中からジョン・マキム主教による岐阜聖公会の聖堂聖別の証(1908年10月18日付)と岐阜県知事によるB4版1枚の譲渡令書(1945年4月25日付)が出てきました。
 譲渡令書は、1945年5月5日までに、つまり10日以内に、教会の建物4棟を岐阜県に譲渡することを、防空法に基づいて命令する、というものでありました。これは貴重な文書ではないかと思案していたところ、大変偶然なことに、岐阜市主催で行われる平和資料展の企画を担当している市民団体「岐阜空襲を記録する会」から、空襲時の資料を探しているとの電話がありました。
 岐阜空襲は1945年7月9日午後11時過ぎのこと。米軍によって岐阜市中心部に1
万発以上の爆弾が投下され、およそ900人が犠牲になりました。毎年7月のこの時期、岐阜市では空襲に関する資料展を開催しています。そして同年の特別企画として、空襲時の神社、お寺、教会の状況について取り上げることになったとのことでした。
 譲渡令書の話をすると、すぐに教会に現物を見に来られ、早速資料展での複写の展示が決まり、また各方面にこの情報が流されました。令書の法的根拠となっている防空法に詳しい大学研究者からも連絡があり、この文書が全国的にも類を見ない貴重なものであることが分かりました。岐阜新聞の記者も取材に来られ、岐阜新聞の1面トップ及び社会面で大きく取り上げられました。
 この令書は、空襲による市街地での延焼を食い止めるべく防火帯を造ることを目的に、建物を取り壊すために立ち退きを命じるものでした。これにより、当時司牧しておられた小笠原重二司祭(後の教区主教)は岐阜県の美濃太田に疎開し、礼拝は、岐阜市内の信徒宅で行われることになりました。
 実際の岐阜空襲は防火帯で延焼を防ぐレベルではなく、岐阜市中心部の全域が焼け野原になりました。現在の岐阜聖パウロ教会の礼拝堂は、戦前からあった大垣聖ペテロ教会の礼拝堂を戦後になって移築したものです。
 人々の祈りと奉仕によって建てられ、マキム主教によって聖別されたかつての礼拝堂。多くの人々がみ言葉を聞き、教会附属の岐阜明道幼稚園の園児たちが元気に聖歌を歌い、同じく教会の事業であった岐阜聖公会訓盲院の生徒たちが祈った、その礼拝堂には、そこに集う一人ひとりの固有の物語と共に、大切な想いが刻み込まれていたはずです。しかし、1枚の令書はそのようにして建物に刻まれていた想いを、上から塗りつぶすように壊してしまいました。
 主イエスは、羊飼いが自分の羊の名を呼んで連れ出すように、私たち一人ひとりの名前を呼ばれ、それぞれの固有の物語を聞いてくださいます。このような主イエスの働きは、譲渡令書によってなされた上からの一方的な剥奪とはまったく反対の事柄です。
 ともすると私たちの宣教も空の上から人の動きを見るように語ることがあるかもしれません。しかしながら、私たちは、むしろ地に立って一人ひとりの物語を聞いていきたいと思うのです。

                             執事 ヨハネ 相原太郎
                          (岐阜聖パウロ教会 牧師補)

中部教区のみなさまへ

 去る10月24日の主教按手式・就任式に際しましては、みなさまのお祈り、ご協力を賜り、誠にありがとうございました。新型コロナウイルス感染症蔓延のため2度も延期されましたが、管区、教区のみなさまの大変なご準備により、無事に行うことができました。当日は、日本の主要教派の大司教、議長先生方にもご臨席賜り、また、世界各地からも多数、祝福のメッセージをいただきました。私たち中部教区が、日本聖公会のみならず、世界の聖公会(アングリカン・コミュニオン)や、教派を超えたエキュメニカルなつながりの中に生かされていることを、あらためて実感することができました。
 10年の長きに亘り教区をお導きくださった渋澤一郎主教さま、この7カ月、不安の中にある私たちの中部教区を管理くださいました入江修主教さまに、心からの感謝を申し上げます。また、私は、当面の間、立教大学等の働きも継続しますが、土井宏純司祭には主教補佐職をお願いするのをはじめ、中部教区教役者、信徒のみなさまのお支えをいただきながら、精一杯に主教職を担っていきたいと考えています。どうぞ、よろしくお願いいたします。
 さて、私ごとになりますが、私の末の息子は、岡谷の病院で生まれました。帝王切開でしたが、生まれた際に息をしておらず、重度の仮死状態でした。すぐにICUで治療が行われましたが、お医者さんから見せられたMRIの脳の写真は真っ白で、先生からは、一次的な治療はできず、二次的な治療しかできないことを告げられました。
 そのすぐ後の主日の福音書は、漁をしていたペテロたちが、イエスさまから弟子として招かれる場面でありました。その福音を黙想していた時に、ひとつの気づきが与えられたのです。「人をとる漁師が持つ網とは、どんな網なのだろうか」と。「人をとる漁師が持つ網」は、神さまの愛の糸で紡がれていて、その網からは、誰ひとり決してこぼれ落ちることのない網なんだと。たとえ私の息子が、これからさまざまな重荷を背負うことになったとしても、その愛の網の中で、しっかりと支えられて、決してこぼれ落ちることはないのだと。
 イエスさまは、そんな「網」を持つ漁師になれと、弟子たちに、そして私たちに命じられたのではないか。そして、ご復活なさったイエスさまが、
ペテロたちに漁をしてこいと言われたのは、弟子たちが、しっかりと、その「網」を持つ者となっているかどうか、確かめられたのではないか。事実、網は153匹もの大きな魚でいっぱいでした。しかし、それほど多くとれたのに、網は破れていなかったのです。主イエスは、弟子たちが確かに誰ひとりこぼれ落ちることのない愛の網を持つ者となったことを確かめられて、天へと昇られた。そんな気づきを与えられたのでした。
 私たちが、主に従い生きること、すなわち神を愛し、人を愛する者となる、ということは、このような意味で、「人をとる漁師となること」なのだと思います。「そこから誰一人としてこぼれ落ちることのない網を持つ者となれ」。それが主の教えです。この網を精一杯に張ることこそが、主イエス・キリストの弟子たることのしるしに他なりません。
 みなさんもまた、主から召された「人をとる漁師」です。神さまの愛と信頼の糸で紡がれた網を持つ漁師です。そこからは誰一人としてこぼれ落ちることがないように、しっかりと紡がれた網を持つ者です。みなさんお一人おひとりが持つ網と網が結ばれて、そしてついには「中部教区」という一つの豊かな神さまの愛の交わり、〈ネットワーク〉となることができますように、ご一緒に祈り、働いてまいりましょう。