祈り合う恵み

 長引くコロナ禍で自粛生活に疲れ果て、途方に暮れている方々も多いことでしょう。昨年来COVID-19という未知のウイルスに翻弄され、中部教区の各教会では国や自治体から発令される緊急事態宣言などを判断基準に、公開の礼拝や集会の休止と再開を繰り返しています。それが本当に正しい判断なのだろうかという思いと痛みを常に心に抱えつつも、それでも感染予防対策を徹底しながら、人数制限をしたり、聖歌はオルガンの音を聴くにとどめたり、オンライン配信を行うなど、何とか礼拝生活、信仰生活を保ってきました。残念ながらそのような不安定な状態が今後も年単位で続くことが予想され、意気消沈しそうになりますが、そこにも人知を超えた神さまのご意思と恵みがあることを信じて、希望を失わずに歩み続けたいと願っています。
 先日、同僚の司祭が聴覚に障がいのある方のために「礼拝のライブ配信に簡単な字幕だけでも入れることはできないものか…」と思い悩んでいる姿を見て、ハッとさせられました。社会同様、教会においてもインターネット環境の整備が必至となる中、その利便性と普及の必要性ばかりに気を取られ、様々な事情で対応困難な方々への配慮という最も大切にすべき姿勢が不十分であったことを痛感したからです。ライブ配信に参加したくても叶わずに諦めたり、礼拝が再開しても年齢や基礎疾患などを理由に自粛せざるを得ない方々が多くおられます。アフターコロナの宣教のためにもネット環境の充実は必要不可欠ですが、急激な変化に困惑している方々への丁寧な対応はより大切にしたいと改めて感じています。
 マルコによる福音書によると、主イエスはガリラヤでの宣教活動を終え、弟子たちを伴ってエルサレムへ向かわれましたが、日を重ねるうちに多くの群衆がその一行に加わりました。その旅の最終局、いよいよエルサレムを目前にしてエリコの町から力強く歩み出そうとされたとき、目の不自由なバルティマイの「わたしを憐れんでください」との心からの叫びに、人々の彼に対する厳しい叱責の中、主イエスはただ一人立ち止まり、癒しの業を行われたことが記されています(10章46節以下)。このように、主イエスは目的達成よりも一人の人間の存在を優先される方です。個の存在を大切にされ、とりわけ社会の中で小さく弱くされ、苦しみ嘆いている人々とともに歩もうとされました。
 最近色々な会議などに出席して思うのですが、未だ先行きが見通せないためにどうしてもネガティブな意見が支配的になりがちです。「フィジカル(ソーシャル)ディスタンス」の掛け声で人と人との距離が広がり、分断や格差が助長されているとの指摘もあります。しかし何もかもが不安なときだからこそ、私たちは互いに祈り合うという大きな恵みと力を神さまから与えられていることを忘れてはならないでしょう。しばらく直接会うことができていない一人ひとりの存在を想い合い、今まで以上に祈り合うことを通して、より深く豊かな共同体の形成へと促されます。そのために教会は、私たちは具体的に何ができるのかを問い続けていきたいと、自戒を込めて思うのです。