人智では計り知ることは出来ず

 1890年は岐阜聖パウロ教会の設立年ですが、大垣聖ペテロ教会(以降、ペテロ教会)の基礎が築かれた年でもあります。この年、A・F・チャペル司祭らは、岐阜県各地で集会を行い、特に大垣には力を入れて講義所を設置し、後に九州教区で司祭となる本田清次伝道師が定住を開始しました。
 翌年、濃尾地震が起き、岐阜も大垣もその建物を焼失してしまいます。岐阜では仮小屋にて礼拝を再開するとともに、被災した視覚障害者の支援を開始しました。大垣では1年後の1892年に仮会堂を建て、大垣聖公会と名付けられました。
 仏教が強固な大垣での宣教には多くの困難があったようです。当時の状況について、横浜教区で従事された後に大垣に来られた田中則貞伝道師は『基督教週報』で次のように報告しています。「東本願寺派の盛りなる地とて基督教を顧るものは殆どなき有様にて、寄らず触らず敬して遠ざけると云ふ有様なれば、伝道は非常に困難なり」、「小生は房州に伝道せし時と比較すれば、殆ど無人島に居る心地せり」。
 こうした中での信徒の働きは注目に値します。「祈祷会は信者交る交る司会奨励いたし居り之は必ず10名以上の出席者有之候」「毎週2日の説教会も半ば信徒の働きといたし居り候」「毎月1回信徒の宅に於て祈祷書講義会など開き居り候」「教会へ出で渋り居る者も此集会へは喜んで出席しいたし候」。今から100年以上前の様子ですが、信徒による礼拝や集会が生き生きと行われていたことが窺えます。信徒主体の集いにこそ、ペテロ教会の礎があったと言っても過言ではありません。
 現在ペテロ教会は中部教区において人数的に最も小さい規模の教会共同体の一つです。しかしながら毎主日の礼拝を信徒が中心になって守り続けておられます。その営みは実に100年以上前から培われてきたものであるわけです。
 ペテロ教会の特筆すべき活動に「大垣市内キリスト教信徒会」があります。1971年に始まったこの会は、幅広い教派が参加しているもので、毎月各教派が持ち回りで集会を行なっています。ここでも注目すべきなのは、この会が「信徒会」の名前の通り信徒によって運営されているという点です。そしてペテロ教会の信徒はこの交わりを中心的に担ってこられました。
 ある信徒の方が、ペテロ教会の宣教開始75年目に際して次のように書いておられます。「この土地に教会を設けられて以来、厳然としてこの教会を維持し給うその大御心、御計画は人智では計り知ることは出来ず、一つの魂をもおろそかにしない神の恩寵を思うと、ただ熱い涙が袖をぬらすばかりである。」「私共はいかに年老いて目が曇っても、霊眼をぱっちりと開いていついつまでも、十字架よりしたたる血汐を見つめ、神が我ら人類に何をなし給うたかを常に考えたいものと思う。」
 ペテロ教会は、定住教役者のいない時代が長く、人数的に大きな教会となったこともありません。しかしながら信徒が主体的に教会を担っておられ、その熱い信仰が受け継がれています。そのようにして130年もの間、この地に信仰が継承されていることに、改めて神の計り知れない働きを感じるところです。


司祭 ヨハネ 相原太郎
(岐阜聖パウロ教会牧師)

大切なあなたの思い通りに~主の御心のままに~

 昨年4月に立教学院へ出向し、私自身、また家族、特に今年11歳になり多感な時期を迎えている息子の生活は一変しました。必死に新しい環境に適応しようとする息子の姿に、親として心を締め付けられる思いもありましたが、時を経て、次第に友達もでき、懸命に学校と塾での学びに取り組む息子に、親として胸を撫で下ろすことも増えつつあります。
 しかし、塾での年末年始冬期講習の年末期、息子は4日間のうち3日間を持病の片頭痛を発症させてしまい、半日あまりで早退するということが続きました。息子にとって塾は相当の精神的負担であることは否めなく、4日目は欠席することとしました。そして、同時に年始期の講習も全てキャンセルすることにしました。
 この一年間で、これまで息子自身の中にあった様々なもの、時間の流れそのもの、そして、全てが激変したことにより、大きな精神的負担を息子が抱え込んでいることに親である私は、心のどこかで気づいていました。気づいていたのです…。
 しかし、親として、息子の将来を考え、「今は、これはしておかなければならないこと。今は、それを乗り越えなければならない時」と自分自身にも、息子にも言い聞かせて過ごしてきました。全ては息子のために…と。
 全ては息子のために…。果たして、本当にそうだったのでしょうか?塾の冬期講習をリタイアした息子の体調を心配しつつも、私はある種の苛立ちを心の片隅で感じていました。息子の塾での学びが遅れることに、講習費用が無駄になってしまったことに、息子の学習意欲に疑問を抱いてしまっている自分自身に。
 この自分の中に生じた苛立ちと向き合ううちに、私は自分でも気づけていなかった自分自身の本心に気がつきました。私の本心とは、実は「全ては息子のために」ではなく、「息子の全てを自分自身の思い通りにしたい」だけだったのです。そして、「子どもは、親の思い通りになる」と勘違いしていたのです。だから、私は自分の思い通りに、塾での学びを全うできない息子に、そして、その事実に言い知れぬ苛立ちを感じていたのです。
 「子どもは親の思い通りになる」この勘違いは大切な子どもの真の姿を見えなくさせ、時に、子どもの未来に親自身が立ちはだかってしまうという悲劇を招きます。
 主イエスは12歳になった年の過越祭の神殿詣での際、母マリアと養父ヨセフと3日間もはぐれてしまいます。必死の思いで、愛する我が子を見つけた母は、息子に向かって、こう言います。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」(ルカ2:48)と。
 この言葉は当然、我が子イエスに対する母の深い愛に基づく言葉ではありますが、やはり、親の視点でしか語られておらず、その真意は「子どもは親に心配をかけてはいけない」というものであり、親の言うことを聞いて、素直に付いてこなかった我が子イエスへの両親の苛立ちを強く表現しています。
 この二人にとって、この時、イエスは徹底して〝我が子〟であり、決して〝主〟ではなかったのです。「子どもは親の思い通りになる」という勘違いと、自分自身の思い通りにならない我が子への苛立ちが、大切な〝我が子〟の真の姿は〝主〟であるという真理を見失わせてしまったのです。
 私たちは、自分自身の子どもに留まらず、家族や近しい誰かを思い通りにできる、思い通りにしよう、思い通りにしてもいいと勘違いし、その存在を所有してしまった瞬間、その大切な存在の本質を見失い、その存在そのものを失ってしまうのではないでしょうか。
 大切なのは、「自分自身の思い通りに」ではなく、「大切なあなたの思い通りに」(主の御心のままに)なのです。

司祭 ヨハネ 下原太介
(立教学院出向)

クリスマス・メッセージ ―奇跡を祈る「聖なる愚か者」―

 立教大学では、今年の9月からウクライナで大学生としての学びを継続することが困難になった学生5名を受け入れ、現在、彼女たちは元気に学びと生活を送っています。けれども、ゆっくり話を聴くと、ウクライナに残る家族たちを思う言葉が次第に溢れ出し、涙が止まらなくなる学生もいます。自分だけ安全な場所に逃れてしまって良いのだろうか、との自問もあります。つい先日もキーウに対してミサイルの波状攻撃があり、大きな被害が出ました。発電能力の40%が喪失し、極寒の真冬に人々が耐えられるかが懸念されています。彼女たちがどんな思いで、これらのニュースに接しているのかを考えるだけで、私たちの〈はらわた〉も、きりきりと痛むのです。
 主イエス・キリストがお生まれになった二千年前のベツレヘムでもまた、一人の暴君によって無数の尊い命が徹底して蹂躙されました。主の使いが夢を通してヨセフに告げました。「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」。ヨセフは夜のうちに幼子イエスとマリアを連れてエジプトへ逃げ、暴君が死ぬまでそこにいたと言います。暴君は博士たちにだまされたと知り、激怒します。そして、ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺したのです。
 それは、預言者エレミヤを通して言われていたことの現実化でもありました。
 「ラマで声が聞こえた。/激しく泣き、嘆く声が。/ラケルはその子らのゆえに泣き/慰められることを拒んだ。/子らがもういないのだから」
 ラマでの叫びとウクライナでの嘆きは間違いなく通底しています。
 ロシアによるウクライナ侵攻が始まった頃、2016年に81歳で天に召された米国長老教会長老で詩人のアン・ウィームズ(Ann Weems)さんが、2003年の灰の水曜日に書いた『もはや平和を祈らない』と題された詩が、多くの人々によって、あらためて共有されました。
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 戦争の縁に片足はもう入っている/もはや平和を祈らない/奇跡を祈るのだ
 石の心が/優しい心へと変わり/悪意が/慈しみの心へと変わり/配備されているすべての兵士が/危険な場所から救い出される奇跡に/全世界が/驚いて膝をつくことを
 すべて〈神が語られること〉が/骨をとって立ち上がり/不信仰の纏(まとい)を取り除かれ/力強い真理の中を再び歩み始めることを
 全世界がともに座して/パンと葡萄酒を/分かち合うことを
 希望などないと言う人もいる/けれども、わたしたちの信仰が躓いたとしても/決して諦めることない聖なる愚か者たちに/わたしはいつも拍手を送ってきた
 わたしたちは神に愛されているのだと/わたしたちは真に互いに愛し合うことができるのだと
 もはや平和を祈らない/奇跡を祈るのだ
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 主がお生まれになった時代も、平和など祈れない時でした。しかし、それでも人々は奇跡を祈ったのです。そして確かに主イエス・キリストという暗闇の中で眩しく輝く光が与えられたのでした。それこそが〈クリスマスの奇跡〉に他なりませんでした。
 私たちもまた、決して諦めずに奇跡を祈る「聖なる愚か者」であり続けたいのです。

いつくしみ深き

 戦乱や疫病によって荒廃した15世紀ロシアの村。一人の少年がいました。鐘造り職人の父を失った彼は、「鐘造りの秘訣を知っている」と人々に呼びかけ、新しい鐘の鋳造の指揮をとることになります。少年は皆に協力を求め、仲間と懸命に働きます。
 困難を乗り越え、ついに鐘は完成します。多くの人々が見守る中、鐘は鳴り響きます。完成を見届けた少年は倒れこみ、涙を流し続けました。実は彼は、鐘造りの秘訣など、父から何も教わっていなかったのでした。
 これは、私が20代のころ観た映画『アンドレイ・ルブリョフ』の中の一場面です。
 当時私が通っていた大学院のゼミに、ロシアからの留学生の女性がいました。皆で昼食をとっているとき、私はその映画の話をしました。
 その際、正教会の信徒であり、いつも穏やかな表情をしていた彼女が、急に真剣な顔をして私にたずねました。
「その少年は、なぜ鐘を造ることができたと思いますか」
 当時まだ信仰を持っていなかった私は、そのまなざしに動揺しながら、「わかりません、どうしてだか」とだけ答えました。彼女はそれ以上何も聞きませんでした。少し眉をひそめて、眩しいような表情をしただけでした。
 あれから20年経ち、病院チャプレンとして多くの患者さん達と出会い、看取り、別れてゆく経験を続けていく中で、彼女の問いかけの意味が、わかってきたように思います。
 あの少年も、私もまた、ただ主のご恩によってのみ、仕事にとりかかり、取り組み、終えることができる。その方なしには、私たちは何一つできず、誰一人支えられない。私たちはただその方に、手で持ち運ばれ、用いられる器。
 でもその方は、私たちをその場所に遣わされ、どんな苦しみのさなかにも、いつくしみをもって守られる。そして多くの人々と出会わせ、そのみ業をなしとげてくださる。
 留学生の彼女は、信じて生きることと働くことの、不思議と喜びを、私に伝えたかったのだと思います。
 病院の職員は、患者さんが亡くなり、お見送りの祈りをする際に、「いつくしみ深き」(聖歌第482番)を一緒に歌います。多くの人が知っているメロディですので、初めてのご家族でも、つぶやくように歌ってくださいます。
 病床で出会い、ご一緒に日々を過ごした人と別れるのはつらいことです。時には、この歌をもうこれ以上歌いたくないとさえ思います。
 でも、この不思議な歌をお見送りの部屋で歌うたびに、悲しみの底にいるご家族のそばに、そして立ち会う私自身のもとに、静かに、主のまなざしと優しさが満ちていくように思います。そして世を去ったその方と私たちは、いつか再び出会い、抱き合って喜び祝う時が与えられるのではないかと感じられるのです。
 なぜ少年は、鐘を造ることができたのか。なぜ私は、この命と死の現場に立ち会わせていただいているのか。それはわかりません。主よ、わからないから私は、あなたのいつくしみにゆだねます。
 私たちは、少年の造った鐘が鳴り響くのを、必ずいつか、愛するすべての人たちと一緒に、聴くことになるでしょう。「いつくしみ深き 友なるイエスは 変わらぬ愛もて 導きたもう」(同聖歌3節)。
 ウクライナに、ロシアに、日本に、そしてこの地上に、平和がありますように。

司祭 洗礼者ヨハネ 大和孝明
(新生礼拝堂牧師)

「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。」―ナザレでいただいた恵み―

 1919年、英国聖公会からエピファニー修女会のシスターが来日、1936年に日本聖公会ナザレ修女会は発会しました。その修院である三鷹のナザレ修道院に、20年程前、初めて伺った時から、玄関には母マリアとヨセフとの間に御手を開いて立たれる、少年イエス様の像。聖家族礼拝堂の扉を開けると、そこには修女の方々の祈る後姿がありました。
 ナザレ(修道院)でいただいてきた御恵みを言葉で言い表すことはとてもできませんが、一つあげるなら、それは日に7度、定刻に捧げられる礼拝(聖務時祷・オフィス)です。初めて修女様たちが聖堂の左右の席から交互に唱える詩編を聞いた時、聖なるものを感じ、声を出すのが憚られました。のぶ霊母様から「(むしろ大きな声で)よく聞こえるように唱えてください」と言われて、修女の方々と共に心を向けて唱えてきました。後になって、詩編の交唱が共同生活の中で整えられていくものとお聞きしました。そして、期節ごとに日々定められた聖歌の美しさ。(『ナザレ修女会の記憶』68頁)静謐の中から発せられるその歌は、今も私の深いところに響いてきます。
 復活日までの数週間は修道院で大変大切にされています。この期間に受け入れていただいたことは私にとって何と大きな恵みだったことでしょう。通常の時であっても、玄関を入って右手の事務所前のフロアが、話をして構わない場所だと教えていただきましたが、大斎節は大沈黙となります。自由に話せないと聞くと、何と窮屈な、と思われるかもしれません。しかし、ここに来る人は、窮屈と真逆の、自由と希望を見出すのだと思います。私は滞在させていただく度、「ここは祈りの家」だと感じ、まさに主がおられる、故郷ふるさとナザレのように思われました。
 修道院のエピファニー館は、静想日リトリートを守り、主の前に憩う場所として作られたそうです。エピファニー(顕現)とは、目に見えない神様の御旨が明らかに示されること。ナザレ修道院が、日々の働きに疲れ、苦しむ人を迎え入れ、休ませ、御恵みに目を開かせてくれる場所であったのは、一生涯を懸けて主の御足もとに座って御教えを聞き、従う足を止めなかった彼女たちの祈りによるのだと思わずにはいられません。
 唱えられていたアンジェラスの祈りにこうあります。「…どうかわたしたちの心に恵みを注ぎ、み子の苦しみと十字架をとおして復活の喜びに導いてくださいますように…」
 今年6月の閉院の時まで、修女の方々が、世界のため、教会のため、私たちのために祈り続けられた年月と、主のお苦しみを苦しまれ、復活の喜びに導かれていたお姿を思った時、ナザレに示された恵みとは、復活の希望だったではないか、と思い至りました。御恵みは決して絶えることがないと。私たちは受けた恵みを絶やさず繋いでいくように促されているのだと思います。
 ナザレ修道院で唱えた頌栄
「栄光は|| 父と子と聖霊に
 初めのように、今も||
 世々に限りなく」
 今、神様と共にいる。そしてこれからも。
 私は今、教会で同じ祈祷書の祈りを唱えます。この祈祷文がどうかナザレであったように生きた祈りとされますように。そしてナザレ修道院が、これまでそうであったようにこれからも、祈りの家であり続けることを祈り続けます。

司祭 マリア 大和玲子
(長野聖救主教会牧師)

聞く耳のある者は聞きなさい

 軽井沢ショー記念礼拝堂は旧中山道の碓氷峠の手前にあります。静かなところのように思えるかもしれませんが、実はいろんな音が聞こえてきます。夜明け前に鳥の鳴き声で目を覚ますことがあります。感謝の気持ちでまどろんでいると、誰かが訪ねて来て戸を叩く音がして驚いて飛び起きました。壁の板を突くコゲラのようです。深夜にはどこかの隙間から入った正体不明の動物が天井裏を走り回る音がします。雨風のときは木の枝がトタン屋根に落ちる音。いろんな生き物たちの音に、新参者のニンゲンは驚いたり戸惑ったりしています。司祭館に住み始めて半年たった頃、隣のリゾートマンションの建設が本格的になり、その1年後には反対側の土地で保養所の建築が始まりました。礼拝堂と司祭館を挟むように両方で工事が行われ、その音にも驚いたり困ったり。考えてみれば自分の耳に心地いい、感触のいい音というのは勝手なものかもしれません。フィールド・レコーディングに関する本の紹介で、町の雑踏や自然の音をありのまま記録しても、何をどのように録音するのかという録音者の視点、価値観が録音内容に反映されるとありました。私たちは気づかないうちに聞きたい音を選んで聞いているようです。町の中で聞こえるさまざまな音の中で自分に都合がいいように音を聞こうとしているようです。家の中で、車の中で、鳴始めるさまざまな電子音には危険を知らせるものもあります。さまざまな音の中で実は選んで聞いているのです。私たちがその音の意味に気がつかずに、聞き逃しているかもしれない音はどれほどあるのでしょうか。結婚式の中で新郎新婦に対して互いの思いを語り合い、共感できる存在が与えられたことは感謝ですと話します。大変な時もあるが、互いの思いを聞いていくこと、受け止めて行く努力が大切だと話します。コロナ禍のために、店先でマスクやビニールシートに隔てられ、互いの声が聞き取れない経験があります。聞きたい音や声と聞きたくないものとの間に、本当に聞かなければならないものがあるのではないでしょうか。主イエスは「種を蒔く人のたとえ」を語られます。そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と教えられます。さまざまな人々が耳にする福音の種としてのみ言葉は、受け取る人々によって届かないことが多い。けれど、み言葉をまかれた人々がどうであれ、主イエスは語り、教えられるのです。たとえ無駄な種となっても、思いっきり福音の種は撒かれるのです。雨が降らなくても、土が固くても、鳥に食べられても。
 今も「種を蒔く人」は聖霊を通してたくさんの種(祝福に満ちたみ言葉)を蒔くのです。それは大いなる無駄になるかも知れません。十字架の上の主イエスを見た人々も最初はそう思ったでしょう。しかし捨てられたように思っていた弟子たちは、その心にあふれるほどの種を与えられていたのです。絶望が希望となっていく、無駄に思えていた「十字架の言葉」という種は「滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙1 1章18節)

司祭 マタイ 箭野直路
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森チャプレン・軽井沢ショー記念礼拝堂協働)

きっと実はむすびますよ

 「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカによる福音書第13章8~9節)

 因果応報の考え方は、今の日本でもそうですけれども、当時のユダヤ教においてもよく親しまれていた考え方です。これに対して、イエス様は決して因果応報ではないと、実のならないいちじくの木のたとえをされたと思います。ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、3年の間、その実がなりはしないかと期待してこの木のところに通い詰めます。ところがついにこのいちじくの木は実をつけませんでした。怒ったこの主人は、このぶどう園を管理していた園丁に向かって言います、「こんな実を結ばないいちじくの木を植えたままにしておくのは土地の無駄だ。さっさと切り倒してしまえ」と。けれどもその時、このぶどう園の管理をゆだねられている園丁は、このいちじくの木をかばうようにして言うのです。実りを生まない私たちいちじくの木、しかしその私たちをかばい、「もう1年待ってください」とおっしゃってくださいます。
 どうでしょうか。わたしは、本当に、イエスのたとえ話は、いつも優しくて、愛の香りを漂わせる、本当に素晴らしい話であるなと思います。このいちじくの木、園丁によって命を救われたわけです。もう切り倒されてもしょうがない、どう考えても救いようがないというような木を、この園丁は命乞いをして守って、ちゃんと周りを掘って肥やしをやろうとします。1本たりとも切らせまいとする園丁の熱い思いがあふれています。もし、
それでもダメならと、この園丁は一応言いますけれども、ダメなはずがないのです。この園丁はイエスでしょうから、イエスがちゃんとしてくださるのだから、ダメになるはずがないのです。翌年、必ずや、たわわにいちじくが実って、あぁ、切らないで良かった、ということになるのでしょう。このように、因果応報の考え方に基づく 〈実を結ばない木は切り倒してしまえ〉という思いの先に、キリスト教の 〈もう、どうがんばっても実なんか結べませんと思っていたのに、神さまがちゃんと世話をして実を結ばせてくれる〉 という喜びの世界が待っているということに信頼してほしいのです。ここが、キリスト教の一番素敵なところです。そしてイエスを知るわたしたちは因果応報の考え方にとどまっていてはいけないということも示しています。自分ではもうダメだと思い、周りも切り倒せと言っていても、それでもなお、園丁が現れて、「いいや、あと1年待ってくれ。私が穴を掘って、ちゃんと肥やしをやるから。そうすれば必ず素晴らしい実を結ぶから」と言ってくださるし、成果をちゃんと出してくださるということです。こういう例えに励まされて、私たちは、どうにも実を結びそうにない自分に絶望することなく、必ず来る実りの日を待ち続けたいと思います。


司祭 ヨセフ 石田雅嗣
(名古屋聖マルコ教会牧師)

新潟聖パウロ教会 平日の集い

 新潟は雪と強風、曇りの日々が続いていますが、時々見える青い空は美しく、早く春が来るといいなと思います。新潟は新緑が美しく過ごしやすいからですが、その時期の爽やかな気持ちを覚えているから、この冬の大変な時期も我慢できる?と思うくらいです。
 2年前のイースターは新型コロナウイルスの影響により集まることができず、去年は祝会ができなくても共に集まり礼拝ができるだけでも、とても嬉しかったことを覚えています。今年のイースターはいかがでしょうか。
 最近、大きい変化の一つは今までの蓄える生活から減らす生活に変えたことです。施設や病院へ行けなくなり信徒訪問も自粛、オンラインの会議が多い中、家で過ごすことが多くなりました。今まで買い集めた本は本棚いっぱいでいつも整理ができず、溢れていました。読まない本を捨て、読んでいる本は手の届くところに、読みたい本は目立つところに整理しながら、食器も衣服も片づけています。自然に本を読み、勉強する時間も増えています。そして、手料理と運動でシンプルな生活を心がけています。食事会や飲み会、愛餐会やお茶会もなく、孤立感がある中、最近私の心の支えになっているグループをご紹介します。
 新潟聖パウロ教会は幸い毎週礼拝が続いており、最近は毎月第4水曜日に平日の集いが行われています。カトリックより転入した信徒の聖公会への受け入れ式(2021年2月)の為、準備会を行ったのですが、以前より洗礼堅信の準備会は教父母になる方々と一緒に集まり聖書を読み、祈り、交わることを大切にしてきたことから、去年は大斎節中に毎週集まりました。その後は月1回集まっていて今も続いています。
 まず、お祈りして聖書を読み、近況報告をします。マルコによる福音書を読み、今はヨハネによる福音書を読んでいます。聖書の背景を説明したり、「私はこの物語の中のどこにいるのか」と黙想したり、今ここでどのように読めて私とどんな関係があるのかを考えてみたり、普段礼拝を通して結ばれている私たちはそれぞれの経験を分かち合い、豊かな時となっています。
 お互いを覚えてお祈りをする時も、具体的なお祈りができ、その方々が覚えてお祈りすることも共有して一緒にお祈りし、私たちがひとりでないこと、いつも主イエス・キリストが私たちと共にいるように、お祈りの信仰の友がいつも近くにいることを実感できる「主が与えてくださる平安」をも味わっています。
 参加する多くの信徒さんたちは、私より人生の先輩で、
全員女性です。一人暮らし、家族の介護の後、死によるお別れを経験している方、年齢と共に少しずつ弱くなっている中で、聖書を読み、「私はだれか」、「どのように生きるか」、「どのように死ぬか」。今、ここで、何が大切なのかを分かち合いながら過ごしているのです。
 最近は新型コロナウイルスによりオンラインの集まりが増えているのですが、他の教会の方々はどのように聖書を読み、お祈りし、交わることができているのでしょうか。
 ご希望の方々はオンライン環境があれば、一緒に聖書を読み、お祈りができるのでいかがでしょうか。聖書を読み、お祈りしたい、一緒に安心して交わりたい方々をお待ちしています。

司祭 フィデス 金善姫
(新潟聖パウロ教会牧師・直江津聖上智教会管理牧師)

「輝いて欲しい」と祈りましょう

 こども園には運動会、展示会、発表会などの催しが多いです。そういう時になると、子どもたちは親に見てもらう(声掛けに丁寧で慎重に応えてもらう)ことで大きな喜びと成就感を味わいます。そしてその応えを通して子どもも成長していくのだと思います。私はそういう時に子どもたちから輝きを感じ取ります。
 昨年のこども園のクリスマス礼拝の練習の際に年長の子どもたちから聞いた言葉で驚いたことがあります。先生から「クリスマス礼拝のお歌は大きな声で歌いたい?」と子どもたちに聞いたら、子どもたちの口から「綺麗な声で、優しい気持ちで礼拝したい」という答えが出てきたことでした。聞いた瞬間鳥肌が立ち、子どもが言ったとは信じられないほど感動しました。子どもたちも礼拝は他の催しとは違って何かがあるということに気付いていた訳で、その時私は子どもたちから輝きを感じさせて頂きました。
 コロナの拡散以降3年間、私は韓国へ一度も帰れなくなっていました。たまに電話でもすると耳も遠くなった母親は恋しい息子の声で泣いたりします。母の声を聴くことは嬉しいけれど泣き声には、こうやって日本に来ている自分が恨めしくなってしまいます。
 そう言っても、コロナ拡散以前も、韓国の親のところには年1~2回ほどしか行っていませんでした。しかも、実家に行っても、親のそばで長く時間を一緒に過ごすことは出来ませんでしたが、受話器の向こうから母の涙を呑む様子が感じられたり、泣き声が漏れて小さく聞こえたりするといろいろなことを考えさせられるようになります。そして母は電話を切る頃になると、最後にはいつも忘れず「電話してくれて、声を聴かせてくれてありがとう」と言ってくれます。
 かつて、韓国の教会に居た時、私は主に一人暮らしのお年寄りの方をよく訪問していました。その中に、息子が司祭で海外に出ているため、なかなか母の所に戻れない宣教師のケースがありました。そのお婆さんは何も言わないのに、そのお家を訪れる近隣のいろいろな方々は海外に行っている息子の悪口を言っていました。まるで同じ司祭である私に聴かせるように繰り返して言っていたことが思い浮かびます。「自分の親の面倒もみれないくせに宣教?」のような皮肉だったのかもと思います。海外宣教師の活動ってとても意味深いものであるけれど、当時は私も、一人暮らしの自分の母親をほったらかしている息子は理解できませんでした。しかも息子への近隣の方々のいろいろな悪口を、残った一人の母親が全部飲み込むように黙っているとは何ごとかと思っていました。しかし、こうして今考えてみるとそれは私自身のことだった訳であります。
 韓国を離れてこの地に着いた20年前からの私の課題の一つであり、すぐ解決できる問題ではありませんが、私はまたこうして新しい年を迎えてしまいました。少なくとも昨年よりは、私が関わるすべてのところに、より丁寧で慎重に声をかけて応えたいと思います。「私の魂よ、輝いて欲しい」と自分に声をかけながら、祈りたいと思います。そして皆さんも、殊に自分の親を含めてお年を召したすべての方々にも、常に共に輝いて(喜び溢れて)欲しいと願っています。

司祭 イグナシオ 丁胤植
(三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会牧師)

命 が け で

 岡谷聖バルナバ教会の創立に深く貢献されたホリス・ハミルトン・コーリ司祭は、カナダ・ケベック州の出身で、来日前はカナダ北東部のラブラドール地方で働いておられました。この地域は、北極圏に近い気候の厳しい地域で、コーリ司祭は犬ぞりなども利用しながら、厳しい条件の中、広い地域を巡回していました。コーリ司祭は、手紙で主教に近況を報告しており、その内容が掲載されたケベック教区の古い教区報により、働きの具体的な状況を知ることができます。
 来日直前の1919年4月には、例年より半月ほど早く春が到来したため、そりでの移動ができず脱出の見込みが立たないこと、1月下旬に家を出てから家族とずっと離れていることなど、厳しい宣教師の生活がうかがえます。このような所から、新たな困難の伴う日本宣教のために一家で来日されたのでした。
 来日後、コーリ司祭一家はまず岐阜、続いて名古屋に住みますが、あまりの気候の変化に耐えられず、上の子が重い病に冒されました。一時は危篤状態にもなりましたが、幸い一命を取り留めたものの脳に重い障害が残りました。同じ時期に下の子も病気にかかっていましたが、上の子の看病に気を取られて気づくことができず、7歳の若さで亡くなります。コーリ司祭が高田や松本を経て岡谷に赴任されたのは、ひとつには上の子の転地療養という意味合いもありました。そのような犠牲を払いつつ、岡谷の教会を築いていかれたのでした。
 コーリ司祭の妻コンスタンスは、同僚のスペンサー司祭の妹にあたりますが、スペンサー家は海外宣教に身を献げるという家訓を持ち、姉フローレンスも宣教師として来日し、一家の3人が共に中部教区で働いていました。スペンサー司祭は、1941年の外国人宣教師一斉帰国の年まで日本に留まり、27年間働かれましたが、健康を害しており、帰国の翌年に55歳で逝去されました。
 岡谷の教会、そして中部教区は、このように文字通り命がけの宣教師の働きによって建てられたという歴史を改めて思い起こしたいと思います。そして、昨年来のコロナ禍にあってのわたしたちの営みを、将来の人々は歴史としてどう読むことになるだろうか、という疑問も抱くのです。
 前例のない事態の中、手探りで一生懸命やってきたつもりではいますが、これらの宣教師の方々の働きを思うとき、それが十分であったとはとても思えませんし、真剣さ・勤勉さに欠けていたところが多くあることも、恥ずかしながら認めざるを得ません。
 礼拝を休止せざるを得なかった時、東京からの旅行ができずネットを通じて礼拝司式や説教をしていた時、聖餐式を行いながらも分餐ができない時、率直に言ってそこにはある種の空しさがあり、孤独感をも感じました。教会の状況が徐々に元に戻りつつある今、改めて失っていたものの大きさを感じています。
 逆説的ですが、この1年半、教会はこの空しさや孤独感をお献げしてきたのかも知れないと思えるのです。そこに、今の時代における私たちの「命がけ」があるのかも知れません。この辛さを包み隠すことなく、皆で分かち合いたいと思います。


司祭 ダビデ 市原信太郎
(岡谷聖バルナバ教会管理牧師〈東京教区出向〉)