『他人事に関わるなんて』

教会・幼稚園に出入りしているキリスト教書店さんが、毎月プレゼントしてくださる雑誌『いのちのことば』を楽しみにして読んでいる。中でも連載の「わが父の家には住処おほし―北九州・絆の創造の現場から」(筆者は奥田知志氏)は、毎号示唆を受ける文章である。21年間ホームレス支援に取り組んできた奥田氏自らの、経験に基づいた話は、私にとって非常に説得力のあるものであると同時に、心に突き刺さってくるトゲでもある。
7月号も、私は奥田氏からきびしく叱咤されているような思いで、その文章を読んだ。ホームレス状態になった人にとって一番苦しいのは、《隣人不在の状態》。誰も彼の存在を気にも留めず、関わろうともせず「向こう側を」通り過ぎる。この隣人不在の状態は《路上だけの問題ではない》と奥田氏は言う。《2000年5月に起こった佐賀バスジャック事件で逮捕された当時17歳の少年の母がある大学教授に宛てた手紙》に、いじめが原因で中学3年生の頃から、荒れ始めた息子のことを数々の施設に相談しても、《動いてくださる先生は一人もいらっしゃらない》。朝日新聞に掲載されたこの母親の手紙について奥田氏は次のように書いている。《手紙を読んだ日の衝撃を忘れない。教会はあの日何をしていたのか、私はどこにいたのか。》
奥田氏によれば、私たちは「関わらない理由」を準備し、「助けないための理屈」として「自己責任論」を振りかざしているというのである。「自分の責任なのだから自分で解決しなさい。私たちは他人なのだから要らない口出しはしないよ」ということか。
見えないふりをして向こう側をさっさと通り過ぎていけば、煩わしい関わりを持たなくても済む。自分の時間、自分の自由、自分のお金を守ることが出来る。
本当にそれでいいのか! 奥田氏は《「赤の他人の事柄に口を出せ」とイエスは仰る》と書いている。十字架上で祭司長たちや律法学者たちから嘲弄された。《「他人のことに必死になって自分は後回し。イエスはアホや」と。》そして今日に生きる《私たちの信仰をイエスの十字架が問う。「賢く生きすぎていないか」。「キリスト者としてちゃんと嘲弄されているか」》。
今年も、8月がめぐって来た。私は昨年訪れた広島、そして沖縄をまざまざと思い出す。
かつて人間が犯した恐ろしい所業、そして今も続く沖縄に於ける「捨て石作戦」…。
いつの間にか沖縄に関する報道をほとんど目や耳にすることがなくなってしまった。米軍基地があることによって、命、生活を脅かされている沖縄の人たちのことに対する関心がまた薄れてきてしまっているのではないだろうか。脅かされているのは私たち沖縄県民以外の者の責任。日米安保体制を認め、沖縄県にのみ米軍基地を押しつけているのは他ならぬ私たち本土の人間ではないか。これは他人事ではない。軍事力による安全保障が必要と考えるならば、米軍基地は日本全土に平等に配置されなければならない。毎日轟音が鳴り響く生活、いつ頭上に米軍ヘリが落ちてこないかもわからない危険な状況も日本全土で共有すべきである。
あまり偉そうなことは言えない。私はこれまで、見て見ぬふりをして傍らを通り過ぎることが多かった。しかし、せめて心の痛みを感じ、その痛みを持ち続ける者でありたいと思っている。

司祭 イサク 伊 藤 幸 雄
(一宮聖光教会牧師・可児伝道所管理司祭)

「聖公会の多様性と一致の危機」

わたしたちの聖公会は多様性と(の)一致を特徴としています。いろいろな国々やそれに伴う文化、言語、習慣等を抱える聖公会がそれぞれの地域でそれぞれの地域にふさわしい信仰を表わしていくためには当然のことと言えるでしょう。規則で縛るのではなく、最低限の信仰的原則を守る限り、その多様性と一致は保たれるのだというのが聖公会の伝統だったように思います。

ところが、最近その多様性と一致のバランスが崩れかけています。殊に最近の、アメリカ聖公会における、同性愛を公言する一女性司祭の補佐主教への主教按手は全聖公会に大きな波紋を投げかけています。カンタベリー大主教はその按手式をしないようにアメリカ聖公会に警告を発していました。しかし、結果的にアメリカ聖公会は按手式を執行しました。

本来ですと、カンタベリー大主教といえども他管区の事柄に口をはさむことはできないのですが、この件については以前から全聖公会的な会議において、世界中の聖公会の教会で、ある程度の理解が得られるまではそのような按手はしないようにと話し合われていたのです。しかし、今回のような結果に至ってしまいました。カンタベリー大主教はアメリカ聖公会に対してのある種の制裁として、アメリカ聖公会は全聖公会の公式な会議等においてはメンバーとしてではなく顧問的な立場で出席すべきであると提唱しています。

アメリカ聖公会の多様性と、全聖公会の霊的指導者として一致を願うカンタベリー大主教との不一致です。多様性は認められなければなりませんが、全聖公会的な理解も一致のためにはまた必要なのであり、大変厳しい問題です。

『罪人バラバ、その後…』

皆さん、聖書の登場人物の中で、”その後”が気になる人物はいないでしょうか?私は、沢山います。例えば、主イエスの十字架により、自分自身の改心とは全く関係なく、突如として罪を赦され、生かされることとなった罪人バラバ。暴動を扇動し、強盗や殺人まで犯し、死刑を宣告されていた大罪人とも言える罪人バラバの人生は、主イエスの十字架によって、極めて現実的に180度転換し、死から生へと向かっていきます。
皆さん、目を閉じて、少し想像してみてください。
…ある日の明け方、突然始まった狂気に満ちた裁判。その中心にいるのは、威厳に包まれながらも、不思議なまでに何も語らず、ただひたすら群衆に罵声を浴びせ続けられているナザレのイエス。その様子を訳も分からず、ただ興味津々に牢獄から覗き込んでいた罪人バラバ。この時は、まだ、このナザレのイエスの裁判は罪人バラバにとって全くの他人事であり、これまで自分自身も経験し、また、何度も牢獄から垣間見てきた他の罪人の裁判と何ら変わりありません。
しかし、群衆の「バラバを釈放しろ」という叫びによって、ナザレのイエスの裁判は罪人バラバにとって一変します…、自分自身の命をも左右する裁判に。罪人バラバは固唾を呑んで、その裁判の行方を見守っていました。そして、群衆の「十字架につけろ」という主イエスへの罵声や叫びが頂点に達した時、罪人バラバは自分の釈放を確認したに違いありません。”これで俺は助かる!! “と。罪人バラバにとって、群衆の「十字架につけろ」という主イエスへの罵声や叫びこそが、自分自身の救いを告げ知らせるものでした。”ラッキー!棚からぼた餅”程度の救いの宣言が。
そして、釈放され、ナザレのイエスの十字架上での死を見届けた元罪人バラバは、数日後、何を感じ、何を思ったのでしょうか?
数日間、”棚からぼた餅”の命を生きた元罪人バラバは、こう疑問を感じたのではないでしょうか。”なぜ、自分が生かされたのか?”、”まさに自分の身代わりとなって十字架上で死んだ、あのナザレのイエスとは、一体、何者だったのか?”と。そして、こう望んだのではないでしょうか。”あの時、黙し続けていたナザレのイエスは、かつて何を語り、何を行ったのか”と。この疑問を抱いた瞬間から、”棚からぼた餅”の命を生きていた元罪人バラバの命は、”自分の、今ある命の根源を探る”命へと変わります。求道者バラバの誕生です。その命を生きる中で、群衆の「十字架につけろ」という主イエスへの罵声や叫びに自分の救いの確信を得た自分の誤りに気づき、こう悟ります。”私の真の救いとは、あの時、黙し続けていたナザレのイエスそのものである! 私は、彼の命そのものを受け継いだのだ!! ナザレのイエスこそ、主である”と。
彼は、このように信仰者バラバへと変えられた。私は、そう信じています。そして、同時に、信仰者バラバを羨ましく思います。主イエスの命を名実ともにダイレクトに受け継ぎ、それを確信し、希望と喜びと信仰の中を歩めた彼を。私の命と信仰の中に、そして、皆さんの命と信仰の中に、バラバのような回心と主イエスの命が脈々と受け継がれますように、いつもお祈りしています。

司祭 ヨセフ 下原 太介
(岐阜聖パウロ教会牧師・大垣聖ペテロ教会管理・福島教会管理)

「ハミルトン主教と日本アルプス」

中部教区は2012年に教区成立100周年を迎えます。教区ではH・J・ハミルトン主教が1912(大正元)年10月18日、カナダで中部教区の初代主教に按手された年を教区設立の年と定めています。2012年10月8日には記念礼拝を計画しています。カナダ聖公会首座主教にもおいでいただきたいと思っています。教区の皆様も今から是非予定にお入れください。

ハミルトン主教は1892(明治25)年に来日し、すでに名古屋で伝道を始めていたロビンソン司祭に合流しますが、その2年後の1894年7月、日本アルプスを世界に紹介したことで有名なウェストン司祭と共に北アルプスを北から南に縦断し、最終的に御嶽山までの登山を敢行しています。ウェストン司祭の『日本アルプス 登山と探検』によりますと、ハミルトン主教はカナディアンロッキーでの野営生活の経験が豊富であり、この登山では料理長兼写真師の役割を引き受けたと記されています。前掲書にはハミルトン主教が撮った写真がたくさん掲載されていますし、旅の途中の村では、パン屋にパンの作り方を伝授したことも記されています。白馬岳への登山では熱を出してしまい、宿舎に一人取り残されてしまいます。きっと残念な思いだったに違いありません。

わたしはその登山のことを20数年前に新聞で知り、写真を見る限りではとても厳格な感じを受けていたハミルトン主教の、登山で料理を作り、写真を撮っている若き姿を想像して、何となくホッとした思いがしました。その登山で訪れた直江津(高田も経由)、糸魚川、福島にはその後教会が建てられたことを考えますと、その登山も中部教区にとっては神様のご計画のうちにあったのでしょうか。

「沖縄の旅」

6月18日から開かれる管区の「沖縄の旅」に今年は参加させていただきたいと思っています。今から24年前、中部教区の教役者会で沖縄を訪問し、戦跡を巡り、沖縄戦の話を聞き、沖縄教区の教役者の方々とも交わりをさせていただきました。わたしにとりましては初めての沖縄訪問で、沖縄の過去と現実を認識させられた大変貴重な経験でした。

強く印象に残っていますのは、ある信徒の方のお話でした。沖縄戦末期、住民たちがガマに逃げ込んでいた時の話だったと記憶しています。その方のお母さんがある時、その方の弟か妹である赤ちゃんを連れてガマを出て行ったそうです。そして、帰って来た時にはお母さん一人だったそうです。赤ちゃんはどうなったのか。お母さんはその後その事については一切語らなかったそうです。

このような悲しい物語は沖縄戦では枚挙にいとまがないのです。沖縄戦に限らずすべての戦争においてそうなのです。一番弱いところにすべての犠牲が向かってしまう、そのような現実こそが戦争の偽らざる実態だと思います。

もう一つ印象深かった話は、ベトナム戦争時のことで、爆撃機が沖縄からベトナムに飛び立っていたのですが、基地で働く人々が良心的サボタージュとして兵士の着る防弾チョッキの修理を故意に遅らせたそうです。基地で働く人たちの戦争への精一杯の小さな抵抗です。わたしたちはそのような小さな抵抗にこそ思いを向けなければならないのではないかと強く感じました。

65年という年月が経っても未だに沖縄から基地がなくならない。改めてその現実を直視しますと愕然とします。普天間基地問題も迷走しています。今年はぜひ現地で沖縄について考えたいと思っています。

『交じり合う教会』

「交じり合う教会」というイメージが思い浮かんだのは2008年度の「マルコ教会ビジョン」を考えていた時で した。

ルカ福音書の14章15節から24節の「大宴会のたとえ」が目の前にありました。「ああ、そういうことなんだ」としばし茫然としました。

そのたとえは、イエスと食事を共にしていた客の一人が、イエスに「神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう」と言いましたので、イエスは神の国を大宴会にたとえて話されます。

家の主人は大勢の人を宴会に招きますが、招かれた人は世間的なことを言い訳にして断ります。怒った主人は僕に「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて 来なさい」と言います。さらに、まだ席があるというので主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。

ああそうか、神の国はまぜこぜなんだ。貧しい人、体や精神に障がいのある人は勿論のこと、通りや路地裏に居る人も連れて来るなら、いろんな人がいるだろう。無頼の人、野宿の人もいて、外国人もいるはずだ。

こんなふうに「交じり合って」いるのが神の国だとしたら、教会もまぜこぜに「交じり合って」いるのがいいに違いない。

そうして、教会ビジョンの項目の一つに「交じり合う教会」が加えられました。

以前からマルコ教会は「交じり合い」が進行していました。

毎週木・金曜日昼の「聖堂で聖歌を歌おう」には知的障がいのある若者たちや近所の人、信徒が交じり合って聖歌を歌っています。

毎週水曜日は野宿生活の人たちにシャワーサービスを提供します。昼ご飯をご近所のボランティアの方々、信徒が作り、みんなで交じり合ってホールで頂きます。餅つきやお花見会、忘年会等でも交じり合います。バザーは交じり合いの力が最大に発揮される場です。

毎週水曜日夜の聖研には、いろんな人が交じり合って喧々諤々です。鉄道マニアの青年、老弁護士、起業家の女性、シャワーサービスの常連、信徒でない人、他教派の人たち、教区の他教会の人たちが交じり合ってきました。

これらの「交じり合い」が呼び水になって、礼拝にも「交じり合い」が現れてきています。

信じる人も信じない人も交じり合って聖堂を「いっぱい」にできれば素晴らしいです。

「交じり合う教会」には核となる信徒が求められます。幸いなことに、マルコ教会には自分のビジョンを持って、主体的に働き、小さき者のところへ降りていける人たちがいます。

「交じり合う」ことは面倒なことです。戸惑いがあり、軋轢が起こります。排除の論理が働くこともあります。

けれでも、このような困難そのものの中にこそ「『神の国』をあらかじめ示す地上の姿」にふさわしい教会の新しい可能性と希望がある、それが「交じり合う教会」のイメージなのです。

執事 ヨハネ 大和田 康司
(名古屋聖マルコ教会牧師補)

「名前」

主教に按手されて2ヶ月が過ぎようとしていますが、自分が主教であることに改めて気づかされる時があります。それは、聖餐式の代祷の〈わたしたちの主教ペテロ〉というところです。自分の洗礼名が唱えられ、すこしドキッとさせられ、あ、自分のことなんだと気づかされるのです。
イエス様は「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」と言っておられますが、名前を呼ぶ、名前が呼ばれるということは言うまでもなくとても大切なことです。顔が分かっていても名前が分からなければ話しかけようがありません。
4年前、上田に赴任しましたが、上田には保育園があります。当初、子供たちの名前も分かりませんでしたので、子供たちは単なる子供たちでしかありませんでした。しかし、1ヶ月、2ヶ月が過ぎるにしたがって、名前も顔も分かってきますと、その子供たちがとてもかわいい、大切な存在に変わって来ます。どこの保育園や幼稚園の子供たちよりもかわいい存在になるのです。
名前が分かり、名前を呼ぶことによりそこに関係が築かれていきます。信頼関係も出来てきます。保育園には乳児もいます。当然、まだ話など出来ません。しかし、話が出来ないからといって保育士は話しかけないでしょうか。もちろん、そんなことはありません。逆です。乳児の言語の発達や人間関係の形成のために、いつもいつも抱っこして、顔を見て、名前を呼んで話しかけるのです。その繰り返しから、子供は保育士が自分のことを気にかけ、愛していてくれることを感じ、信頼をしていくのです。

主教 ペテロ 渋澤一郎

『イエスの言葉を思い出す』

主イエス・キリストのご復活をお喜び申し上げます。

冒頭に、 改めて聖パウロの言葉を想い起こし、 主のご復活の大切さを認識いたしたいと思います。 「キリストが復活しなかったのなら、 わたしたちの宣教は無駄であるし、 あなた方の信仰も無駄です。」 (一コリ15・14)

イエス様のご復活についての福音書の記事に共通していることは、 イエス様の墓に最初に行ったのは女性 (たち) であったということです。 イエス様の十字架の死によって使徒たちは失意と恐怖のどん底につき落とされてしまいました。 そして、 ただただ自分たちも捕まることを恐れてじっと身を潜めているだけでした。 それに対して、 イエス様に従っていた女性たちは週の初めの日の早朝、 イエス様のご遺体を清めようと墓に出かけて行きました。 その勇気ある行動力には驚かされます。 主イエスの復活の出来事はその女性たちの行為から始まっていくのです。 女性たちの行為は、 わたしたちがイエス様のご復活を理解するためにはわたしたちも自ら墓に出向くことの必要性を暗示しているようにも思えます。

今年の復活日の福音書日課はルカ福音書から取られていますが、 ルカの復活物語の特徴の一つはイエス様のお言葉、 聖書のみ言葉にあると言っていいでしょう。 墓に行った女性たちはイエス様のご遺体の代わりに天使たちに遭遇します。 恐れてひれ伏している彼女たちに天使たちは、 「あの方は、 ここにはおられない。 復活なさったのだ。 まだガリラヤにおられたころ、 お話しになったことを思い出しなさい。」 と言います。 つまり、 イエス様が苦しみを受けられ、 十字架につけられ、 3日目に復活すると言っていたことを思い出しなさいと言うのです。 「そこで、 婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」 とルカは記します。

この 「イエスの言葉を思い出した」 という表現の中にイエス様のご復活を理解する鍵があるように思えるのです。 イエス様の十字架によって、 イエス様のお言葉も行いもすべて無意味になってしまったと彼女たちは思ったことでしょう。 しかし、 天使たちの促しによって再び彼女たちの思いがイエス様のみ言葉に向けられます。 そして、 「3日目に復活することになっている」と言われたイエス様のみ言葉が彼女たちの心の中によみがえってきました。 その時、 主イエスのご復活が彼女たちの中に現実性を持ち始めたのです。 「思い出す」ということはただ単に思い出すということではなく、 イエス様のお言葉が彼女たちの心の中に生命を持った存在となって描き出されてきたということです。

そして、 イエス様のみ言葉が存在するところにはイエス様ご自身が存在するのです。 イエス様との出会いはみ言葉を通して実現するのです。 弟子たちがイエス様のご復活を信じることができたのも復活されたイエス様が彼らの傍らで聖書の説明をしてくれたことがきっかけになっています。 イエス様 (聖書) のみ言葉を思い出すこと、 心に根付かせること、 それこそがご復活の主イエスにお会いする最も確かな道であることをルカ福音書はわたしたちに証しているのです。 「実に、 信仰は…キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」 (ロマ10・17)

主教 ペテロ 渋澤 一郎

中部教区の皆様へ ~主教按手・就任式を終えて~

去る2月11日の主教按手式・就任式に際しましては皆様方のご臨席、 お祈り、 ご協力、 本当にありがとうございました。 主教按手式はわたしの個人的な出来事ではなく、 極めて教区的な事柄であると思いますので、 個人的にありがとうございますとお礼を申し上げることではないのかもしれませんが、 按手式のために様々な準備をしてくださいましたことにつきまして改めて教区主教として皆様に御礼申し上げたいと思います。 また、 これまで管理主教をお引き受けくださった大西修主教様に、 そして11年余りに渡ります森紀旦主教様のお働きにそれぞれ感謝申し上げます。 森主教様には健康に留意され、 これからもお元気にお過ごしいただきたいと願っています。

わたしが按手を受けるについて、 皆様から 「おめでとうございます」 と言っていただきましたが、 わたし個人が主教に按手されることなど極めて小さな取るに足らないことで、 決しておめでたいことではないのですが、 問題はこれからいかにその主教職を遂行していけるのかだと思っています。 マリアさんは受胎告知の時、 天使から 「おめでとう、 恵まれた方」 と言われました。 その 「おめでとう」 の意味は、 これからマリアさんがイエス様と共にイエス様の負われた苦難を共に担うという意味でもありました。 わたしも皆様からの 「おめでとうございます」 をそのように理解したいと思います。

主教按手式の試問で、 わたしは「神の助けによって」 「聖霊の力によって」 「キリストのみ名によって」 「神の愛に基づいて」 「神の恵みによって」、 この務めを行いますと答えました。 主教職は自分が自分の力で行うものではなく、 常に神様の御助けによって行われるものなのです。 同時に、 信徒と教役者の方々が共に担ってくださるものでもあります。 そのように考えますと少し肩の力が抜けます。 神様の助けによって、 中部教区のすべての皆様と共に宣教のみ業に邁進してまいりたいと思います。

イエス様はご自分の受難の前に、 ペテロがイエス様を裏切ることをご承知の上で、 「わたしはあなたのために、 信仰がなくならないように祈った。」 と言われました。 ペテロはいつもイエス様を誤解したり、 失敗をしてイエス様に叱られています。 (もっともそれは彼が弟子を代表してという意味でしょうが。) それでもイエス様はペテロ (弟子たち) を最後まで愛し抜かれました。 最後の最後までペテロのために祈られました。 わたしがペテロという教名をいただいたのは、 自分自身が人間的には欠けたところだらけですが、 それでもイエス様は愛していてくださることの素晴らしさをペテロの姿に見たからでした。

イエス様はいつもわたしたちのために祈っていてくださいます。 いつもわたしたちを愛していてくださいます。 そのイエス様を見つめながらこれからご一緒にイエス様に従ってまいりましょう。

主教 ペテロ 渋澤 一郎

『おめでとう、 恵まれた方』 

クリスマスおめでとうございます。 諸聖徒日に信徒の墓参式で豊橋市の飯村 (いむれ) 霊園に行くと、 苔むした古い大きな墓石に 「神婢」 (神のはしため) と書いたロシア正教のお墓に沢山出会います。 そうか、 ロシア正教ではこのような書き方をするのかなと思うだけでしたが、 クリスマスが近づくと、 まてよ、 これはイエス様の母となられたマリア (ヘブル語読みではミリアム) さんの言葉ではないかと気付かされました。 ルカによる福音書では名も知られないナザレ村のマリアに神の使いが言います。 『おめでとう、 恵まれた方』 と。 でもマリアはこの挨拶を理解出来ません。 これから婚約者ヨセフとのささやかな幸せが訪れようとしているのに、 この方は何を困難な事を私なんかにと、 恐れと不安に包まれます。 けれど 「あなたの親類のエリサベトも…」 と告げられると、 あのエリサベトさんは高齢で不妊の女と蔑まされていたのに、 あの方も神様の祝福を頂いているのですねと、 神様の恵みの力に圧倒されてしまいます。 そして幼子イエスの母になることは神様の御心として 「私は主のはしためです。 お言葉どおり、 この身になりますように」 とマリアは主のはしためとして生きる道、 そして主が共におられる道を歩み始めます。 先の事はどうなるか分りません。 けれどこれから歩もうとする道は、 どんな困難な事があっても神様が共にいて導いてくださり、 神様の御心にかなった道であることを祈るものでした。 自分のささやかな幸せを求める人から神様の御心を求め祈る人になっていったのがマリアの道ではないかと思います。

長野在任中、 ある時美術を学んでいる大学生が聖堂に来ました。 聖堂内にはいくつかの聖画が飾られており、 そのなかに聖母子の描かれたものがありました。 その学生が 『これは誰の作品ですか』 と質問するので、 絵の裏を見ても作者が書いてありません。 私も調べてみましょうと、 聖母子の本を調べ、 絵画の世界のマリア探しが始まりました。 けれど同じ絵の作者がどうしても分りませんでした。 後日再度訪れた学生さんには聖母子を探したけれど見つかりませんでした、 今度はあなたも探していただけませんかとお願いしたまま長野を離れました。 そんななか、 今までは墓地礼拝をしても、 他教派の墓石があるなと思っていただけでしたが、 今年信徒の方と墓参し、 ロシア正教会の墓碑には 「神婢」 と書かれていることに初めて気が付きました。 そうか、 絵の中にマリアさんを探していたけれど、 ここにも、 ここにも 「おめでとう、 恵まれた方」 と神様の招きに応えて 『わたしは主のはしためです。 お言葉どおりに』 と恵みに包まれ信仰の道を歩み、 生涯を奉げられたもう一人の 「マリアさん」 がいたことを知らされる思いでした。 クリスマスは 『おめでとう、 恵まれた方』 と、 私たち一人ひとりに目を留め、 神様の恵みの道に招かれる出来事です。

司祭 マルコ 箭野 眞理
(豊橋昇天教会牧師・豊田聖ペテロ聖パウロ教会管理)