教会からすぐ近くに豊橋公園があり、造パラ(子ども造形パラダイス)が今年も開催されました。市内の保幼・小・中・仲良し学級・養護学校から高校までの全生徒の作品が野外に展示されています。同じテーマ、同じ素材で造られているのに、どの作品も個性のかたまりで、どれ一つ同じものがありません。感心させるもの、笑いを誘うもの、また、本人から説明を聞いてやっと理解できるマイワールドな作品があったりして、その豊かさには驚かされます。生徒自身も、作品を造ることによって、一人一人に与えられている個性が引き出されていることを実感しており、私たちもまた、神様の恵みがこんなに豊かに与えられていることを知り、神様の祝福に一緒に出会う時となったように感じました。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。「見よ」と、促されて見る時に、そこには神様の祝福と恵みに満たされた神様の創造のみ業のパラダイス、神様との交わりによって見ることのできる世界が広がっています。
ルカ福音書10章2節に「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とのイエス様のみ言葉があります。
昨年9月には野村潔司祭が逝去、来年3月で私も同労者と共に定年を迎え、再来年はさらにお一人が定年を迎え、中部教区の現職司祭の減少が目に見えています。これまでのように、一つの教会に、宣教・伝道・牧会に一人の司祭・執事が遣わされていた時代から、今現在、教区再編を模索するまでの大変な転換期を迎えているように思います。そのような中、働き手を送ってくださるように願いなさいとのみ言葉を聞くとき、私たちは、教会の働き手が多くなれば何とかなる、働き手を増やせばこの困難な状況を打開することができる、自分たちの力で何とかできる、との思いに駆られ、困難な状況から脱出するために、こうした思いをもって神様の力を求めて祈りたくなってしまいます。けれども、イエス様はまず「収穫は多い」との言葉を告げます。私たちに求められているのは、働き手を私たち自身で作り出そうとすることではなく、まだ気づかないでいる神様の祝福が、この人にも、こんな時にも、こんな所でも豊かに与えられていることを見出していくことにあると思います。それは、言うまでもなく教役者だけの働きではありません。キリスト者一人一人がその刈り手に招かれています。
聖歌213番(実れる田の面)では、見渡す限り、神様の祝福が豊かに実っていることを伝えています。私たちは、収穫とは教勢とか、自分の身に良いことが起きること(良い収穫があった、得をした、など)として受け止めてしまい、どのようなものが神様の祝福の実りとして私たちに与えられているのか、なかなか気が付かないでいます。イエス様の「収穫は多い」とのみ言葉に目を向け、私が思う収穫の実りでなく、イエス様が示してくださる祝福の実りに気付き、共に感謝・賛美する刈り手への招きに歩み出しましょう。
(豊橋昇天教会牧師、豊田聖ペテロ聖パウロ教会管理)