『水がめをそこに置いて』

今年は例年にない暖かさで、桜が終わらぬうちに、桃の花も満開、濃いピンクの花が桃畑に色鮮やかです。
五月末には「レンガの聖堂チャリティーバザー」が、地域との交流と、信徒が力を合わせて一つになる場として行われます。でも、最近のフリーマーケットやデフレの影響でしょうか、バザー状況も変わってきて、中古衣料品など、商品として充分な評価をされなくなる傾向にあるようです。粗大ゴミの日など、色んなゴミ(?不用品)が運び出されてきます。充分お役目を果たした物、まだまだ使えるのにと思う物等が運び込まれてきます。不用品といえども使い古された物がリニューアルされてまた新たな道が与えられリサイクルしていきます。あるいは古い物であっても、アンティーク品として高く評価される物もあったりします。使う立場で物を見た時、不用品とレッテルを貼られるその中にも、なお生かされる物が有る事を見出しているのではないかと思います。
五月になり、主のご復活から四十日目は「昇天日」、そして五十日目「五旬祭」(ペンテコステ)の日は「大いなる主日」(マグナ・ドミニカ)として記念され、この日弟子達に聖霊降臨が起こり、聖霊の力をいただいた弟子達が宣教していく群れになっていきました。この日を「聖霊降臨日」として記念します。聖霊降臨日はご復活し、上げられた主イエス様が常に私達に聖霊を注ぎつづけ、働きつづけてくださることを記念する祝日です。
ヨハネによる福音書四章にはサマリアの女性との出会いが記されています。主イエスは、ガリラヤに行かれるためにシカルというサマリアの町に着き、疲れてヤコブの井戸に座っていました。聖書はそれは正午頃だと伝えます。主イエスとの出会いは、予期せぬ出会いで、唐突でした。まさかこんな時間に井戸に人がいるとは。普通の女性だったら、朝早くから水を汲み、一日の準備を済ませ、昼食をいただく頃、この女性は井戸に来ました。むしろこの時にしか来れなかった女性でした。五人の夫と結婚と別れを体験し、夫でもない者と同居と、身持ちの悪い女、ふしだらな女と、人にも言われ、ユダヤ人からの、サマリア人からの、女性からのさげすみに会い、人目を避けて、この時間にしか来れないと自分も感じていた女性でした。せっかく主と出会い、主イエスが与えようとする『生きた水』を理解できませんでした。彼女が求める水は、皆と顔を合わせ、さげすみの目に会わずにすむ『ここに汲みに来なくてすむ』水でした。
けれど主イエス様の言葉のうちに、自らをもさげすんでいる自分を、全て受け入れてくださった方がここに居てくださる事に気が付きました。今まで気ままに生きてきた代償に、さげすみを受け止めなければならない水がめをそこに置いたまま、過去のさげすみに縛られて生きる道でなく、主イエスの救いに生きる人となり、人々にメシアたる主イエスを伝えるため、町に出かける人に変えられていきました。
人間の貧しい力だけでは神様との生きた交わりを保つ事は出来ません。私達は聖霊によってキリストにつなぎとめられ、信仰の内に生かされています。聖霊の息吹をいただき、歩んでいきましょう。信仰の先輩達が、その働きの中に聖霊の恵みをいただき歩んだように。
司祭 マルコ 箭野 眞理
(長野聖救主教会牧師)