『伊勢湾台風50周年に想う』

1959年9月26日、 伊勢湾岸を襲った台風15号は、 死者・行方不明者5000人を超える被害を与えました。 伊勢湾台風と名づけられたこの台風による被害は、 阪神・淡路大震災が起こるまで、 戦後最悪と言われていました。 記録によれば、 最大風速60m、 名古屋港では5mを超える高波があり、 愛知県から三重県にかけて名古屋市の3倍の面積が水没するというすさまじい暴風雨でした。

被害が拡大したひとつの原因は木材によるものでした。 当時、 名古屋港周辺の貯木場には、 ラワン材など直径2m、 長さ10m、 重さ5トンを超える丸太が、 大量に浮かべられていました。 巨大な高波は堤防を決壊させ、 数十万トンに及ぶ丸太が、 一挙に住宅地に流出しました。 目撃した人は、 巨大な丸太がタテに転がっていたと証言しています。 高潮に乗った大量の丸太は、 住宅、 建物を破壊し、 人々を巻き込んでいきました。 名古屋市南区では、 丁度、 集団で避難していた子どもたちの群れを飲み込み、 多くの幼子たちが命を失いました。

台風が去り、 丸太の下には、 たくさんの遺体と共に、 無数の小さな靴が残されていました。 人々は、 その小さな靴を集め、 そこに花を飾り、 犠牲となった人々の冥福を祈りました。 誰ともなく、 その場を 「靴塚」 と呼び、 慰霊碑が建てられ、 台風の犠牲者を覚える小さな公園になりました。

被災者の救援活動のため、 名古屋のキリスト教会各派が集められ、 名古屋YMCAを拠点に 「伊勢湾台風基督教救援本部」 が設置されました。 救援活動は、 全国各地から多くのボランティアが集まり、 約4ヶ月間、 続けられました。

ある日、 被災した女性が、 子どもを背中にくくりつけて、 ヘドロを家の外にかき出している写真が新聞で報道されました。 それを見た人々が、 大人たちが復興作業に集中できるようにと、 子どもたちを預かる託児所を設置しました。

復興に目途がつき、 「救援本部」 が解散された後も、 託児所の継続を望む声が強く、 その働きはボランティアによって続けられました。 託児所には、 毎日、 120名もの乳幼児が預けられました。

辛うじて生き残った人々も、 家や財産を失い、 生きる希望を失いかけていました。 救援活動に携わった人々は、 人々に生きる希望を与えるための働きが必要と考え、 翌年、 この託児所の働きを母体に名古屋キリスト教社会館 (以下 『社会館』) を設立することになりました。 以来、 社会館は、 様々な運営上の困難を乗り越え、 多くの人々に支えられながら、 働きを続けてきました。 今では、 保育園、 障がい者の通園施設、 お年寄りのデイサービスなど様々な働きが広がり、 200名以上の職員を抱える社会福祉施設に成長しました。

社会館の創立記念日は、 9月26日です。 それは、 伊勢湾台風がこの地に上陸した日です。 被災した人々の悲しみや苦しみを忘れず、 人々に生きる希望を与えるための働きであることを、 いつも心に刻むためにこの日を記念日にしているのです。

今年、 伊勢湾台風から50回目の9月26日を迎えます。 大きな災害が生み出した小さな働きが、 人々の生きる希望として、 地域になくてはならない存在になりました。 人々の悲しみ、 苦しみに寄り添いながら働く神様の力が、 これからもこの社会館の働きを通して示されることを願っています。

司祭 テモテ 野村  潔