『「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」エフェソ5・21』 

6年前に旧軽井沢礼拝堂で挙式をおこなったお二人が訪ねてきてくれました。結婚式の前に、新郎の祖母が病気で伏せていて、ひ孫を見たいと言っていたけれど間に合わなくて婚約指輪を見せてあげることが精一杯だったと話していたこと。そして新婦が作る食事を彼はいつもおいしいと言ってくれると話すとても明るい二人でした。私自身も忘れがちな「お互いへの感謝の言葉」に気がつかされ印象に残っていました。

再会を喜んで写真を撮りながら、ちょっと意地悪な質問をしました。「今もご飯おいしいって言ってくれる?」彼女はニコニコしながら「ハイ、ちゃんと言ってくれます。(料理の出来は)十分じゃないけれど…がんばってます」と話してくれました。そばに立つ彼も笑顔でうなずいていました。

結婚式をおこなっていく中で、ときどきそんな印象的な二人に出会います。忙しい中で互いに仕事をやりくりし、たくさんの準備をしながら挙式の日に向かっていきます。結婚オリエンテーションの日、二人は朝早くから渋滞をやりすごし、美容や衣装、写真の打ち合わせを一日ずっとおこなってきて、夜になってやっと結婚オリエンテーションとリハーサルという場合もあります。

くたびれているにもかかわらず、二人の出会いやこれからの夢を語ってくれるとき、その真摯な態度に教えられます。神様と人々の前で結婚の誓いを立てることの大切さに向き合っている二人に、互いに感謝することや思いやることの大切さを司祭として語りながら、自分自身、そのことがおろそかになっているのではないかと教えられるのです。60代以上の新郎新婦の場合はさらに謙虚さを教えられます。謙虚さをもってキリストに仕えていくことに導かれます。

パウロは夫婦について語りながら、その奥にあるキリストと教会の関係を語ります。仕え合うことが大切なのだと教えます。キリストへの畏れが私たちの一つ一つの態度をとらせる根拠だというのです。互いの弱さや欠点をよく知っている夫婦だからこそ、誠実さをもって尽くしていくことに「キリストへの畏れ」が具体的になるのだと思います。互いの中に感謝の気持ちや謙虚さがなければさびしく空しいものになるでしょう。

結婚オリエンテーションのとき、「平凡でいいけれど、その当たり前のことを大切にしていきたい」と語る二人がいます。積極的ではないようにも聞こえますが、しかし生活していくということはそれほど劇的なものではありません。二人の甘く新鮮な時間は仕事や生活の雑務の中でいつしか遠くなっていきます。年をとって環境や体調が変わっていけば、考えることも多くなります。その一つ一つに誠実に向き合わなければなりません。

私たちも初めて信仰を持った頃の喜びや与えられた恵みに対して、いつの間にか高をくくるような安易な気持ちにならないように気をつけなければなりません。なによりもキリスト教の結婚を語っていく私自身がいつも、あらゆることについてキリストに対する畏れをもって、感謝し仕えていかなければと思います。

司祭 マタイ 箭野直路
(ホテル音羽ノ森・旧軽井沢礼拝堂チャプレン、軽井沢ショー記念礼拝堂協働牧師)

「一つの時代の終わり」 2013年9月

本年4月、かつて名古屋学生センター(当時)、及び名古屋聖マタイ教会で働かれた、カナダ聖公会宣教師であった、ブルース・マッチ司祭が逝去されました。一昨年には夫人と共に来日され、かつての学生センターの仲間たちとの旧交を温められたばかりでした。わたしも同席させていただきましたが、とてもお元気なご様子でしたので逝去されたと聞いて大変驚いた次第です。マッチ司祭は学生センターの活動を通して多くの青年たちに現代におけるキリスト教の在り方を示されました。

そして、7月27日、今度は同じくカナダ聖公会宣教師であった、セロ(シリル)・パウルス司祭が亡くなられました。パウルス司祭は、戦前、高田降臨教会で働かれ、戦後補佐主教になられた、P・S・C・パウルス司祭の長男として日本でお生まれになり(軽井沢とお聞きした記憶があります。)、戦後、宣教師として来日され、新潟聖パウロ教会、名古屋聖マタイ教会で働かれました。その後、聖公会神学院教授として、また、在日カナダ聖公会代表として、中部教区のみならず日本聖公会のために貢献をされました。

1970年にカナダ聖公会が中部教区並びに日本聖公会への支援を打ち切ると共に、お二人はカナダに帰国されましたが、その後もしばしば来日され、日本聖公会に対して、また、中部教区に対して、信仰的、神学的な示唆を与えてくださいました。わたしが高田降臨教会牧師時代、パウルスご夫妻が高田においでくださり、教会の方々と親しい語らいのひと時を持ったことが想い出されます。

かつて中部教区で働かれたお二人の宣教師の方々の逝去は一つの時代の終わりを象徴しているように思え、寂しい気がします。両師の魂の平安をお祈りいたします。

『「自分の十字架を背負うこと」の意味』

岡谷聖バルナバ教会では、毎年、聖バルナバ日に近い主日を、「バルナバ祭」として特別な説教者や講師をお招きしている。今年は、東北教区、郡山の越山健蔵司祭に説教をいただいた。越山先生は、お話の中で、一冊の本を紹介くださった。福島県キリスト教連絡会が編集された、『フクシマのあの日・あの時を語る~石ころの叫び~』と題されたものだ。福島県の様々な教派の牧師さんたち16名が、一昨年の3月11日の大震災、こと、福島第一原発の爆発と、その後の放射能災害に直面して、どのような行動をとり、また何を体験したのか、という鬼気迫る証言である。

しかし、それらの多くは、あの未曾有の事態の中で、牧師たちがいかに勇敢に立ち向かったかという記録ではなく、あの時、牧師も、まずは自分や自分の家族の身を案じた一人の弱い人間であった、という悲痛なまでに赤裸々な懺悔の告白というべきものだ。もし、私が、あの場に立たされていたら、と思うと、言葉を失うばかりである。

この本の中で、ある牧師さんが記されていることは、このようなことだ。震災直後の主日礼拝を休みとし、信徒に伝えたところ、「こういう時にこそ礼拝しないんですか」と叱責され、赤面したこと。白河に避難した後に、安否を問う教団本部からの電話に対して、まだ福島にいると嘘をついたこと。避難できない教会の信徒を置いていってしまい、事実、信徒から「先生は、教会と教会員を見捨てて、自分の家族だけで逃げた」となじられたこと。

この牧師さんは、教団本部に嘘をついた時のことをこう書かれている。「電話を切った後、私はしばらくぼんやりしていましたが、心の中にペテロがイエスさまを裏切って、三度も拒んだ聖書箇所が浮かんできました。ペテロの気持ちが非常によく分かりました。あらためて自分は弱い人間だな、たいしたことないなあ、情けないなあと思いました。そして同時に、こんな私をイエスさまは、愛してくださり、救ってくださり、伝道者の末席に座すことを許してくださっていることに感謝しました。」

この福島の牧師さんたちが経験されたことは、この牧師さんたちにしか分からない、そして、今も私たちには到底分かりえない痛み、苦しみなのであろう。しかし、私たちもまた、私たちそれぞれの日常の中で、思わぬ出来事に直面し、戸惑い、茫然と立ち尽くしてしまうことがある。それぞれの十字架を背負わなければならない時が、必ずある。他者には決して理解できないような、それぞれの重荷を、それを「自分の十字架」として背負い、呻き、もがきながらも、なお、その十字架を担わなければならない時がある。

私たちもまた、それぞれの日々の十字架を背負う者だ。時には、途中で力尽き、十字架を下してしまうかもしれない。しかし、それでも、イエスさまは、私たちに、「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語り続けておられる。いや、そのように語り続けてくださっている。途中で力尽きてしまって、十字架を下さざるを得なかった者たちの無念さも、主イエスはしっかりと受けとめてくださる。そして、もう一度その十字架を担おうとする者に、主の深い慰めが注がれているのである。

司祭 アシジのフランシス 西原廉太
(岡谷聖バルナバ教会管理牧師)

「可児聖三一教会の設立」

可児伝道所が7月20日、可児聖三一教会として認可され、礼拝堂の聖別式が行われました。当日は、可児ミッション後援会長である植松誠首座主教もおいでくださり、説教をしてくださいました。また、フィリピン聖公会北中央教区のジョエル・パチャオ主教と同教区の代表の方々も臨席され、大変厳粛にまたにぎやかに礼拝堂聖別式と聖餐式をお献げすることができ感謝でした。

思い返しますと、可児伝道所は2009年の教区会で設立が承認され発足しました。また同年3月には可児ミッションが開所され活動が始まっていました。中部教区が北中央教区と宣教協働の関係を結び、その後、岐阜県の可児市や美濃加茂市周辺には多くのフィリピン人の労働者が働いており、しかもその中の多くの人たちはフィリピン聖公会の人たちであることがだんだんわかって来、何とか礼拝や集まりができないかということから、伝道所、可児ミッションの活動へと繋がっていったのでした。

以来4年で教会設立に至ったことは神様のお導き以外の何物でもありません。今までの皆様のお祈りやご支援を感謝いたします。言うまでもなく、可児聖三一教会はフィリピンの人たちだけの教会ではありません。中部教区26番目の教会として、可児市を中心として宣教・牧会に従事する教会です。

可児はいろいろな意味で遠い存在であるという声も聞きます。しかし、主にある教会として可児聖三一教会が設立されたことをご一緒に喜んでいただきたいと思います。神様の宣教の働きはわたしたちの思いを超えて行われます。その働きに実際に接することがなくても、その働きに想いを向け、祈ることは大切な信仰的な行為です。これからも可児のためにお祈りください。

「本音か建前か」

大阪市の橋下徹市長の発言の余波はまだ続いているようです。問題の発言は橋下氏の本音(?) が図らずも出てしまった結果なのでしょう。橋下氏は沖縄の米兵の事件に関しても、「建前論ばかりではだめだ」と言っていますが、果たして「建前論」ではだめなのでしょうか。

辞書によりますと、「建前」は「原則として立てている方針」、「本音」は「本心」とあります。そのように理解しますと、「建前」と「本音」は決して相反する関係ではないと思うのです。むしろ、「建前」をしっかりと持ちつつ、その建前を健全な社会構築のためにいかに状況に適応させていこうとするのかが「本音」につながってくるような気がするのですが。建前がなく本音だけということはあり得ないのです。家を造るときにも建前を経なければ家は建ちません。

パウロは「『すべてのことは許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」(コリント一10・23)と言っています。キリスト者は「すべてのことが許されている」と言って、言いたいことを言い、したいことをしていたら、各自の信仰の成長もないし、教会の交わりも成立しないと言っているのです。

本音を隠して建前を言えばいいということでは決してありませんが、社会に秩序を保つため、あるいは人間がお互いの関係性の中で共に生きるためには、「すべてのことは許されていること」を知りつつも、本音だけで語るのではないのです。教会の交わりはキリストにある交わりです。人間の本音だけで結ばれている交わりではありません。お互いの信仰理解や教会観、考え方が異なっていてもキリストによって結ばれているところに教会の交わりはあるのです。

『歌い続ける物語』 

「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」(1コリ2・7)

神の御国は永遠に語り続けられるからこそ意味があるものだと思います。聖書はファンタジー的な要素をたくさん含んでいます。そのファンタジーは聖書を物語として聞かせるときに非常に大きな感動をもたらします。

第2回世界聖公会平和協議会があって沖縄に行ってきました。沖縄は美しい自然環境の中に大きな痛みを抱いている、とても切ないストーリーの物語の世界として比喩することが出来ます。今回の沖縄の旅の中でも、いつもと同じく語り部(平和ガイド)さんがお話の風呂敷を解いてくれました。沖縄の緑溢れる自然景観の裏にどのような苦しみがあったのか、どのような歴史が広げられて、どのような神様がどのような命を造られて彼らと共に生きていたのか等について…。

韓国の古典童話には虎がよく登場します。子どもがねだったり泣いたりすると、今も不思議ながら大部分の韓国の親は「虎が来てワアオするよ」と言い、子どもが泣くのを止めています。虎が出てくる韓国の物語は非常に多いですが、虎は単純に怖い存在だけではなく、山を守る仙人として自然と命を守る存在でもあります。

沖縄にもこれと似た存在があると聞きました。キジムナーという妖精です。沖縄には本土には無いガジュマルという木があります。キジムナーはその木に住んでいたそうです。ガジュマルは枝についているひげ根が下に伸びて派手な姿の太い枝になります。そして、その実は鳥やコウモリの餌になるので、その木自体が自然と命を守る象徴的な存在であることを感じさせられます。その木に住む妖精のキジムナーも、物語の中では悪戯っ児に現れる怖い存在でもあって、子どもの躾のため親たちによってその名前が使われています。キジムナーも単純に子どもにとっての恐怖の対象ではなくガジュマルと一緒に沖縄の命を守る神的存在だった訳であります。平和ガイドさんは、「戦争でガジュマルが燃えたとき、キジムナーも一緒に死んだと言われていた」と非常に寂しげに言いました。

沖縄を守って、山を守って、この地に住む人々を守る木の妖精が戦争によって人工的に作られた爆弾で燃やされ傷ついたとき、この地を守る妖精も一緒に死んだのかもしれないと、幼い心に傷を抱いているその子どもは、今は白髪の大人として、この地を訪ねてくる大勢の方々に心そのままを伝える平和ガイドになりました。

キリスト者として、わたしたちは聖書を読んでイエス様の愛を通して命の物語を語って、世の中に平和を妨げる艱難と逆境があっても(憲法改正問題等)、わたしたちの人生はそれを切り抜けて生きる価値があると伝え続けてきました。

沖縄のその子どもが今も希望を失わず平和を語り続けているように、たとえ弱い力しか持っていなくとも、小さな手を取り合うことによって、決して平和は消えないと歌い続ける勇気が欲しいと思います。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(長野聖救主教会牧師)

「沖縄から日本を見る」

去る4月16日から22日まで、“第2回世界聖公会平和協議会”が沖縄で開催され、参加してきました。「東アジアにおける平和と和解に向けて」の主題のもと、日、韓、米、英、加、豪、フィリピン、アイルランドから約80名の参加者がありました。講演、フィールド・トリップ、グループ討議を通して、東日本大震災のこと、原発問題のこと、憲法のこと、沖縄のこと、朝鮮半島の統一問題等々、学んだり話し合ったりしました。盛りだくさんの内容で少し消化しきれない部分もありましたが、沖縄という場で平和についていろいろ考えさせられました。
協議会声明が近いうちに公表されることと思いますが、是非お読みいただき、緊張状態にある東アジアの平和についてお一人お一人が考えていただければと思います。わたしは沖縄にはもう何度も行っていますが、基地を抱える沖縄の状況は一向に変わっていません。日本政府は4月28日、いわゆる「主権回復の日」の式典を開きましたが、どんな理由をつけても、61年前に沖縄が本土の「主権回復」の犠牲として日本から切り捨てられたことは紛れもない事実です。
そして、1972年に返還はされましたが、ご存知のように基地はそのまま残され、なおかつ、日米地位協定によって不平等は依然として続いたままです。そのような状況の中で「主権回復」はどういう意味を持つのでしょうか。沖縄に立つとその矛盾がよく見えてきます。皆様にも是非沖縄に行っていただいてその空気を肌で感じていただきたいと思います。沖縄から日本や世界を見るということは「小さな者」の視点から日本を見るということなのです。そしてそのような視点はイエス様の視点でもあるのです。

『わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。 』 

5月の子どもの日。はいはいしていた子どもがつかまり立ちをする。一生懸命歌をうたう。子どもがすくすくと育つのを見るのはいかにもうれしい光景です。また、自然の全てが生き生きと成長していく姿が見える野山の景色も美しく心洗われます。花が咲き、青々とした若葉が咲き競う木々。自然界が与えてくれる壮大な広がりは、青く澄んだ大空を含めて、私たちにゆったりとした豊かな気持ちと癒しの感覚を与えてくれます。そこでは様々な思いを抱き、様々な想像をめぐらすことができ、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩19)という聖書の言葉がしみじみと感じられます。一年の中で一番美しい季節が5月のこの時かもしれません。

しかし一方で自然は時に思いがけない災害を人にもたらします。今回の震災だけでなく、この冬の雪国の豪雪。思いがけない豪雨による水害など様々です。そして、そうした災害の後に「ノアの洪水」の後のように空いっぱいにかかった虹を見て救いを感じたり、再び廻って来た春を花々の開花に感じて生きる力をもらったり、そうした全てを含めて神様の恵みだと思います。

ところが、今回の震災で、そうしたこととは異質で、考えなければいけないと思われることはやはり原子力発電所の事故でしょう。先頃東京で行われた全国の代表者による原子力発電所の再開に関する会議で、多くの県の代表者が経済効率や電力不足を考えての発言をすることに違和感を覚えた福島の代表の方は早々に退席したそうです。その理由は、原発事故による避難の後、汚染地域に入った時に多くの牧畜農家の小屋にたくさんの家畜が死んだままになっていたり、放置された家畜やペットが野生化した姿を見た時、この世のものとは思われなかったという経験をして、「これはあってはならないことだ」と思ったからだということが新聞に書いてありました。人は神から離れて,その能力を伸ばし、社会的発展を遂げてきました。しかし、その一方でしてはならないことをしているかもしれません。私たちには、そうした全てのことを見通していく目が必要です。

「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。」

わたしの言葉というのは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)というものです。互いに愛し合うということは、身近な人々とのかかわりということは、もちろんのこと、今日の社会では、一人の人の日常生活が様々な面で広い範囲の人々と結びついていて多くの人が隣人になっています。そうなると社会全体の中で、便利で快適な生活を維持するために、別な所で悲惨な虐げられた生活をする人が出てきたり、住めない地域が出てきたりしても良いわけではありません。むしろ一時的には不便な生活を強いられることがあっても、すべての人が共に安心して暮らせる生活をすべきではないでしょうか。実際に社会全体が望ましい方向に進んでいけるようにするのは簡単ではありません。しかし、諦めてしまったら元も子もありません。

これからの社会をどのように作っていくのか、これからの社会はどうなっていくのか世界全体が問われていると思います。人間だけでなくすべての被造物が共に安心して暮らせる世界を実現していくことは人間の責任です。なぜならば、現在の状況を作りだしたのは人間であり、それを変えていくことができるのも人間だからです。

私たちには、目の前の穏やかな光景の向こうにある見えない所に広がっている大きな世界をも見通していく想像力の目が必要です。

司祭 ペテロ 田中 誠
(名古屋聖マタイ教会牧師)

「教区設立への思い」

先日、名古屋柳城短期大学の講演会があり、元プール学院教師の小池宣郎氏のお話を伺いました。内容は、かつて柳城にあった、CMSの女性教役者養成機関である“聖使女学院”のことでしたが、わたしが興味深かったのはそのお話の中に“中部地方部設立の動き”という項目があり、カナダ聖公会最初の宣教師として名古屋に来られたロビンソン司祭のレポートが掲載されていたことです。教区成立の背景の一端を垣間見ることができました。

当時の中部教区は南東京地方部に属していました。南東京地方部は英国人主教の管轄下にありましたので、当然、教会行政においては英国人に主導権があったようです。ロビンソン司祭はカナダ人主教の下でもっと直接的にカナダの教会が日本伝道に関わることができたら、日本の教会にとってもカナダの教会にとっても大きな助けになるだろう。カナダ人宣教師は長年にわたって日本で宣教に携わっているのだから自分たちの教区を持つことに十分成熟しているのだと記しています。

そのような思いはカナダ人宣教師すべての思いでもあったようです。長野のウォーラー司祭も「日本におけるカナダ人の伝道」の中で、自分たちの教区を持つことを強く願っておられます。ロビンソン司祭が来日してから四半世紀を迎えようとしていたカナダ聖公会にとって、中部教区の設立は悲願だったのでしょう。丁度そんな時、中央線が名古屋から長野に開通し、教区成立を更に後押ししたのでした。

小池先生のお話を聞きながら、宣教師たちの教区設立への強い思いを再確認し、そのような思い(祈り)は必ず神様に聞かれるということを改めて実感しました。わたしたちも宣教への強い思いを持たなければと思った次第です。

『「ここにはおられない」マルコ16・6』 

イースターおめでとうございます。

もし、イエス様の生涯が十字架での死で終わり、復活がなかったとしたら、自分自身を含め、今日の世界はどのような世界になっていたでしょう。今、皆様が読んでいる「ともしび」はもちろん存在しなかったでしょうし、少し想像しただけでも、世界の歴史そのものが変容しているであろうと思われます。新約聖書そのものも存在もしないでしょうから、イエスという男の名前さえ、ローマ帝国の一地方植民地でしかないユダヤでのイエスという一介の大工の生涯などは誰も知る由もないことでしょう。当然教会もなく、キリスト教信仰もなく、今ある皆様との交わりも有り得なかったでしょう。「イースターおめでとうございます。」と御挨拶したものの、何がおめでとうなのかを自覚し、改めて心から挨拶を交わすことが出来、大きな力が湧き上がって来るのを感じることが出来れば、これこそ、復活の力のように思うのです。

聖書が語る復活は「復活は可能か」とか「復活された主イエスは、肉体か霊体か」「復活の意味するものは何か」とかではありません。それよりイエス様の復活に接した人々の経験を中心に、この復活された主によって人々はどのように変わったか、造り変えられていったのかに関心を寄せ、信仰が理論ではなく、生活であることを示そうとしています。しかし、「復活」というものは、聞けばすぐ判る、教会に行けば、簡単に信じることが出来る、というものではありません。イエス様の直弟子達でさえもが疑い迷った出来事です。復活が事実かどうかを確かめることも不可能なことです。大切なことは、復活されたイエス様に出会った弟子達、臆病者が勇敢に、無学の凡人が卓越した伝道者へと造り変えられたということなのです。

常識や経験が否と判断する社会に私達は生活しております。単にイエス様の言葉であるという理由で行動に移すことはなかなか困難なことです。そればかりか、私達の経験や知識や真剣な努力さえもが徒労になるような社会です。戦争や災害、事故が一切を無にしてしまうことを知っています。しかしイエス様を復活させられた神は、万物を従わせる力によって、私達の悲しむべき状況や神に敵する現実を変えて下さる、労苦が徒労に終わることがないという約束をイエス様の復活によって保証されたのだと思います。

経験や努力に行き詰まったとき、呟きや嘆くだけでなく、しばし手を止めて、岸に立たれる主の言葉を聴き、網をおろす者とされますよう祈りたいと思うのです。

司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(新潟聖パウロ教会牧師)